花とワンピース
大きく息を吸って、少しずつ吐き出す。
単純な深呼吸を何度か繰り返して肺の中の空気を新鮮なものに入れかえた。
肩までの長さの髪がふわりとなびき、緑の香りを含んだ風が先ほどまでいた雑多な臭いを吹き消す。
伏せていた瞳をゆっくりと持ち上げれば、目に入るのはあるがままの自然の景色。
背を預けた大木を中心に柔らかな草花が邪魔にならない程度に顔を出し、木漏れ日が優しく顔を照らす。
眩しくて目を細めると、優しい梢と遠くに水の流れる音が聞こえた。
そして……。
「調子はどう? 樹里」
心配そうな声で名を呼ばれ、一人ではなかったのだと思い出した。
「気分もだいぶ良くなったし大丈夫よ」
側に寄って来る気配がしたので目元を和わらげ答えたが、体調を悪くした当人であるとの自覚が強い友人の綾乃は私の隣に座ってそっと顔色を窺った。
頬に血の気が戻り、触れた手のひらも体温を取り戻したことが確認できてやっと安心したようだ。
「ほんとごめんね。つき合わせちゃって」
何度も聞いた言葉にゆっくりと首を振る。
「私が自分で付いてきたんだから綾乃が気にすることはないよ」
「でも樹里って身体が弱いのに最近はさらに調子が悪そうだったでしょ?なのにあんなところ連れて行って……」
綾乃のハの字に下がった眉に内心苦笑して、一日を振り返る。
休日綾乃に呼び出された場所は、最近オープンしたショッピングセンターだった。
最寄の駅からバスが出ているか、オープンしたばかりとあって車内は箱詰めだった。
綾乃の言ったとおり、私は病弱とまでいかなくても丈夫とは到底いえない身体で、幼いころは度々目眩や吐き気を訴え、外出することもろくに適わず、度々寝込んでいた。
当時の私の健康状態は日常生活に支障をきたす程度に悪かったため、小学校に入学したばかりの頃、高層ビルが立ち並ぶ都会から逃げるように現在住んでいる自然豊かな田舎町に越してきた。
山に囲まれたのどかな田舎の空気が良かったのか、少しずつ体調は改善し寝込むことも少なくなった。
そして十年。
丈夫とはいえなくてもごく普通に生活していたはずが、最近になってまた身体が不調を訴え始めた。
特にアスファルトや排気ガスなど都市部につきものの匂いが駄目なようで、人工物に囲まれたショッピングセンターは相性が悪かった。
今日も、綾乃との約束の時間までまだ余裕があったが、迷うことなく待ち合わせの場所を目指した。
他の人からすればのんびりと景色を楽しむ程度の速度、けれど私からすれば精一杯足を動かし、やがて視界に入った綺麗に手入された色とりどりの花々に顔を綻ばせた。
ショッピングモールの屋外で営業しているガーデンショップだ。
白く可憐なマーガレットに咲いた形が金魚に見えるその名のとおりキンギョソウ、赤い小さな花弁が幾重にも重なったゼラニウムに鮮やかな黄色のマリーゴールド。
初夏に見ごろのかわいらしい花々が風に揺れる中、私はひとつのプランターの前にしゃがみこんだ。
一番好きなハーブ。細い茎に重なり合うように小さな薄紫の花を咲かせたラベンダーだ。
アロマテラピーに凝っている私は色んな精油を集め香りを楽しんでいる。
それは、ハンカチに一滴垂らして、それを使用するふとした瞬間だったり、数種の精油を数滴垂らして混ぜたお風呂だったり、お湯を入れたマグカップにほんの一滴垂らしそっと顔を近づけたときだったり。
中でも気に入っているのがアロマポットだ。キャンドル式にアロマ芳香器で、上皿に僅かな水とほんの数滴の精油を落として、下部のキャンドルに火をともす。
ゆらゆら揺れる小さな炎とふわりとたちあがる優しい芳香が最近の体調不良を穏やかに癒してくれた。
中でもラベンダーはリラックス効果が高いと謳われるとおり、さすがに眠る前に火を使うアロマポットで使用できないけど、枕元に数滴精油を落としたハンカチを側に置くと自然と心地よい睡眠を促してくれた。
アロマ効果というのか、今回もしゃがみこんでゆっくりと外の風を感じながら、色とりどりの可愛らしい花々を愛でて、爽やかな甘い香りを嗅いでいるうちに気分の悪さは少しずつ改善されていった。
「ごめん、遅くなった!」
聞きなれた声に振り向くと綾乃が手を振る姿が見えた。
店内に置かれたこれまた可愛らしい小花の散った時計を見ると約束の時間がとうに過ぎていた。
綾乃の上気した頬を見ると走ってきたのだろう。私は小さく笑う。
――思い切り走れるなんて羨ましい
「構わないよ。顔真っ赤にしてそんなに急がなくても良かったのに」
むしろ、もっと遅れても良かった。
私の心の言葉に気づくはずもなく、綾乃は手を合わせる。
「私から誘っておいて遅刻とか駄目だよ。今度から気をつける」
今度から、か……。
綾乃の言葉になぜかうなずけなかった。
変わらずしゃがみこんだ私の隣に同じように腰を下ろして綾乃は頬杖を付く。
「本当に樹里って花が好きだね。待ち合わせ場所をガーブンショップにするなんて」
「花以外にも好きなものがあるよ。家の側を流れる川とか足を浸けるだけで気持ち良いし、お日様にあたるとぽかぽかと暖かくて眠くなるし、お月様も――」
「それはものじゃなくて自然だね」
一刀両断された。
「ファッションとかアクセサリーは?」
「ないかな」
一刀両断した。
綾乃は大きなため息をついたが、私の腕をつかんで立ち上がった。つられて私も腰を上げる。
「興味なくても今日はつきあってもらうよ」
僅かな癒しの時間が終わりを告げた。
……長時間しゃがんだためか、足がしびれているので少し待ってもらっていいですか?
そして、熱気溢れるショッピングモール店内。
オープンセールの熱気が伝染した友人は、人混みに埋もれた私の手を引いて気の向くまま何件ものショップを覗き、服やアクセサリーを物色、気に入った物がなければ次のショップへを繰り返した。
私も可愛らしい小物が並んだ雑貨は少し惹かれたけど、目に付いたソープに手を伸ばすと人工香料の臭いにすぐ商品を戻した。
見ると、フルーティフローラルの香りと書かれている。花なのか果物なのかはっきりしてほしい。
「この服、樹里に似合う」
綾乃が姿見の前に私を立たせると背後に立ち、身体の前にワンピースを広げた。
襟付きのパステルカラーのワンピースだ。綾乃の言葉どおり悪くはないのだろう。
私はファッションに疎いので分からないけど。
けれど、身体に当てた服より目に映ったのは姿見に映った少し血色の悪い顔、癖のある肩までの日本人特有の黒い髪と瞳。
不健康そうな私の姿だ。
後ろから覗き込むようにしてにんまり笑う綾乃をぼんやり意識しながら、瞳に映る見慣れた姿を瞬きもせずにただ見つめた。
結局ワンピースは買わなかった。
ようやく友人が良い買い物をしたと晴れ晴れしい表情を浮かべた時、私は持ち直した体調が再び底辺まで沈みかけていた。
そして再び超満員のバスに揺らされての帰宅。バス停に降り立ったというよりは綾乃の肩を借りてどうにか地面に足を着けられたという感じだった。
「樹里?」
「何でもない。ちょっとぼーとしてただけ」
名前を呼ばれ慌てて笑みを作るが心配そうな声が返ってきた。
「やっぱりまだ調子悪いんじゃ……」
「逆よ。風が気持ち良いなって思ってただけ。お日様もぽかぽかして温かいし」
綾乃がじっと私の顔を覗き込んだが、しばらくすると安堵したように笑った。
「確かに顔色も良くなったみたいね。頬に赤みも差したし」
「ごめんね、心配かけて。おまけにこんな所まで送ってもらって……」
「私が無理につき合わせたんだからこんなこと何ともないよ。けど、自然セラピーっていうのかな。本当にあるみたいだね。やっぱり西側は空気が綺麗で気持ち良い」
現地集合をしていたようにお互いの家はショッピングセンターを挟んで東西に分かれている。
私の住んでいる西地域は十年前と変わらず自然豊かな田舎町だが、綾乃の住んでいる東地域は開発が続いて広い道路や新しい住宅が建てられているらしい。
今後、私が暮らしている西側が、木々や草花がアスファルトに、花や水の香りを含んだ爽やかな風が排気ガスに汚れないよう祈るばかりだ。
深呼吸を終えた綾乃は思い出したように上を向いた。
「けど、この木って枯れてるの? 葉が一枚もないんだけど」
私が背を預けている木は初夏だというのに、新緑の葉も芳しい香りのする花もない。
裸の木はまるで春を待ち耐え忍ぶ冬のそれのようだ。
私はかぶりを振った。
「分からない。私も一度も葉も花も見たことないよ。けど、昔はこの広場には神社が建ってたんだって。お母さんが子供のことはもう今の状態だったらしいけど」
「そうなんだ。確かに、結構な広さがあるもんね。なら、この木は御神木だったりして」
太い幹は樹齢百年はゆうに超えていそうで、葉はなくても腐って寿命を迎えたようには全く感じられない。社がなくなってもこの土地を見守っているのだろうか。
そう思うとありがたい気持ちが沸いてくるから不思議だ。
その後、ようやく腰を上げた友人に感謝しながら手を振って見送った後、私もふらつくことなく立ち上がった。
ゆっくりと数歩歩き、今いた場所を見回して、口に小さな笑みを浮かべて家路に着く。
強く根を張る巨木と、取り囲むように咲く草花、暖かな日差し、土の香り、遠くの川のせせらぎ。
――――それら美しい景色に彩りを添える色とりどりの小さな淡い光
☆ ☆ ☆
昔ながらの田園風景に良く溶け込んだ木造住宅が私の家だ。
門を入ってすぐのところにナツツバキが濃い緑の葉を茂らせ、玄関まで通じる大人五歩分の石畳に沿うようにキンロバイが可愛らしい黄色と白の花を咲かせていた。
奥まったところには野菜が植えられ、後一月もすると真っ赤なトマトが食べられそうだ。
生き生きと育つ緑の周辺に、木々の生命を写し取ったかのごとく淡く光る光が見える。目を細めて空を仰ぐと太陽に良く似た色も。
――うそつき
子供のころよく聞かされた嘲笑が脳裏に蘇る。
私には見える淡く小さな光。物心ついたときには見えていた当たり前の存在。
私には普通のことがほかの人にはそうでなかった。
目を瞑って軽く頭を振る。
昔の話だ。今はそんなこと言われない。
とにかくいつまでも玄関先に突っ立っていてもいけない。
玄関の鍵があいてたのですでにもう一人の住人は帰宅しているのだろう。鼻腔をくすぐる匂いがした。
「おかえりなさい――」
聞きなれた声が耳に届いたと思ったら、癖のある髪を軽く結い上げた中年の女性が姿を現した。料理をしていたのだろう、襖で半分隠れているがエプロン姿だ。
「どうしたの? また東の地区に引っ張り出された?」
私は苦笑いで肯定の意を表す。
「あそこも昔はのどかな田園風景が広がってたのに今となってはねえ……。どんどんビルが建築されて、立派な商業施設がオープンして、道路も広くなって……。昔の面影なんてまったくないわ」
利便性からいえば良い所なのだろう。ニュースで地価も上昇していると言っていたし。
しかし、今日体験した健康不安を考えたら利便性も地価も関係ない。
町の活性化といえば聞こえはいいが、山を削り木を切り倒し裸になった土地をコンクリートで塗り固める。
土地開発が悪とはいえないが、昔を知る人たちはみな思い出の中でしか残らない風景を懐かしみ残念がる。
私はため息をついて靴を脱いだ。
「西地区はのどかなままでいて欲しいね」
人は少ない良くも悪くも田舎町だけど。
「当たり前よ。だからこそ園芸にも精が出るのよ。庭の木も素敵でしょう? 畑にはトマトしか植えてないと思ってないでしょうね? キュウリやピーマン、ナスにオクラも植えてるから、今年は夏ばてしないようしっかり食べて栄養つけなさい」
「オクラは……」
「味覚というのは変わるものなの。去年食べられなかったからといって今年も無理とは限らないわ。樹里はただでさえ虚弱なんだから頑張ってでも栄養のあるものは摂らないと」
……この夏はオクラを食べることが決定したようだ。
虚弱という言葉に反論できないのも悲しい。ことさら最近は。
ため息をついた私に。女性はにんまり笑った。
「それで、帰ってきた挨拶は?」
「……ただいま、お母さん」
言うタイミングがなかったと察して欲しい。ほぼ確信犯だろうが。
「今晩御飯作ってるから、着替えて手洗いうがいをしてらっしゃい」
「何か手伝おうか?」
「そんな疲れた顔で言わないの」
私によく似た癖のある髪が肩の上で揺れた。
とりあえず言われたとおり手洗いうがいをして室内着に着替えてさっぱりしたころに「晩御飯出来たから降りておいで」と階下から母の声が聞こえた。
返事をして居間に行くと食事が運ばれていたので、台所に行って湯を沸かし、その間に急須に茶葉を入れてお茶の準備をした。
口に入れるものにこだわる母親は広告で安売りするようなティーバックのお茶には見向きもせずに、有名な産地の無農薬玄米茶を買う。ちなみに冬はほうじ茶になる。
お盆に母が二人分の茶碗と汁椀を持ってきてくれて食事となる。
お箸を手に取り「いただきます」と見事な唱和。
物心付いたときから厳しく躾けられたためもはや癖だ。
ついでに食事中にテレビを付けないのも同じだ。
私は食べ始めた母に先ほど入れた急須のお茶を注いだ。
趣味園芸の母親は自宅で作れるものは自家菜園、作れないものはスーパーだが無農薬指定と徹底している。もちろん肉や魚も国産で出来るだけ産地も近場を選ぶ。
ジャンクフードなど食べたことがないと友人に告げたときは唖然とされた。
「それで今日はどこに連れて行かれたの?」
どこに行ったのではなくどこに連れて行かれたのとはまた……その通りだけど。
かいつまんで話をすると呆れた表情をされた。
「乗り物に弱いことも人混みに酔うことも知ってるでしょうに」
「少しは大丈夫だと思ったの」
「オープンセールの真っ只中で少しとはね……」
甘く見たのは事実なので反論できない。しかし、前後不覚に陥るほど体調が悪くなるとは思わなかった。
少し前まで平気だったのに、最近になって急に公害じみた症状を訴えるようになった。
東地区の開発が原因とも考えたが、整備され始めたのは数年前でその時は軽い喘息はあったが、幼いころからの持病なので除外する。
それより気になったのは……。
「十年前に戻ってきてるわね」
母親の告げた一言に心臓が大きく脈打った。
白い影。音もなく舞い落ちる花びら。
十年前。私の記憶の始まり。