無味乾燥な声音
起き上がるまでさらに二日を要した。
三日間眠り続けて内二日は命も危なかったというのだから仕方ない。
さらに、辿り着いた異世界で精霊の力を借りたとはいえ、人間にあるまじき膂力を酷使したのだ。
身体が悲鳴をあげるのも不思議ではない。
そういえば精霊はどうなったのだろう。
窓に目を向けると木の葉が風に揺れているが曇りガラスのような影は見えない。
私は窓辺に腰掛け茜色に染まりつつある外の景色を見ながら暖炉の世話をしている少女に話しかける。
「木がたくさんあるから森の中みたいだけど、この建物って湖から近いの?」
村からとは聞けなかった。
幼い少女が当たり前のように森の奥深くに住んでいるのも不思議な話だが、虎は私の向かう村は壊滅したと言った。
嘘をつく理由が考えられないし、危うい言葉を遺した美貌の男の件もあるので、事実という線が強く聞くことはできない。
そんな私の思いを知ってか知らずか、少女は暖炉の上で温めている鍋から目を外し明るい声で言った。
「すごく近いってわけじゃないけど遠いってほどでもないよ。ウル湖が森の中ほどにあって、この小屋は村と湖のちょうど中間あたりかな。森の中でもウル湖の近くが特に薬草や果実を摂ったり狩りをするのに適していて、この小屋が休憩所となってるんだ。湖も村もここから歩いて一時間くらいかな」
あの湖はウル湖というのか。
名前がついているのなら村人にとって身近な存在なのだろう。
今は毒の湖なので心中はいかばかりか。
とはいえ、出会った村人らしき人間は介抱してくれた兄妹だけ。
後の人はどこにいるのか……どういう状況なのかとても聞けない。
けれど、口元に指を当てながらすらすらと答える少女には何の気負いも感じられない。
さらに目を輝かせて私を見た。
「薬草を整理してたらお兄ちゃんがお姉ちゃんを負ぶって帰るんだもん。すごくびっくりしたよ」
もちろん記憶にはない。
けれど、ウル湖で倒れたはずが気が付いたらこの部屋で眠っていたのだから、その場に居合わせた青年に運ばれたとしか考えられない。
……私、本当によく無事にすんだなあ。
殺気を帯びた射られそうな視線を思い出す。
毒の水で倒れる前日に別の意味で命の危機を感じたけれど、村人に保護されたという現状は変わらない。
そして、この小屋も村から一時間とはいえ徒歩圏内だということ。
なら、村に辿り着いたといえなくもないので、精霊は役目を終えて主の虎の元に戻ったのだろうか。
お礼を言いたかったけど仕方ない。
また会うことがあれば沢山ありがとうと言おう。
「湖の水を飲んだと聞いて本当に驚いたんだから」
少女は当時を思い出しているのか表情に翳りが出る。
三日間眠り続けてうち二日は命が危なかったというのだ。
たとえ見知らぬ相手でも危篤の人物が側にいたら怖くもなるだろう。
幼い少女の揺れる茶色い瞳を通じて、よく知る大人の女性の姿が透けて見える。
――お母さんもそうだったのかな。
十年前、私が私を認識した日。
病室で多くのコードにつながれた最初と、白い花が咲き乱れる木の下での最後。
二つの姿が浮かび、重なる。
どちらも泣いていた。
知らない言葉で必死に語りかける声。
ごめんなさいと振り絞る悲痛な声。
違う。謝らなければいけないのは――。
「お姉ちゃん?」
不安げな声が聞こえて我に返った。
勝手に自分の世界に入って子供に心配をかけるなんて。
「大丈夫。それより、怖い思いをさせたよね。ごめんね」
「怖くはないよ。ただびっくりしただけ。けど、目が覚めて良かった」
少女は瞬いたあと首を振って笑った。
陽だまりのような眩しいくらいの笑顔。
「けど、小屋にはこの部屋しかないからお兄ちゃんはピリピリしてる。お姉ちゃんが悪い人なはずないのに」
やっぱり。
私は兄妹と同じ場所で寝起きをしているのが不思議だった。
いくら病人とはいえ、村の仇とともにいた身元不明の怪しい人物と幼い妹を同じ部屋にあてがうのはおかしいと思った。
青年にとっては渋々だったのだろう。
今も私を見る目が和らぐことはない。
むしろ、視界に入るのを拒んでいるようにも感じる。
そんな兄の苦渋の思いを知ってか知らずか、少女はよく私の世話をしてくれた。
今も――。
「身体拭くの手伝うね」
暖炉の火で温めた湯で布を絞り、私が着ているワンピース型寝巻きを脱がそうとする。
私は小屋で目覚めてからしばらく起き上がることが出来なかったので着替えすらできなかった。
それでも、寝汗はしっかりかいたので正直申し出はありがたかった。
しかし、気持ちはありがたいけど、恥ずかしい。
朝も手伝うと言われたけど恥ずかしいやら申し訳ないやらで顔を拭くにとどまった。
それだけでもさっぱりとして充分気持ちよかった。
「顔を拭くだけでいいから、私がするよ」
やんわりと断ったけど、少女はお構いなしに寝巻きに手をかける。
「ダメだよ。今までは起き上がることすら辛そうだったから仕方なかったけど、清潔にしておかないと治るものも治らないよ」
正論だ。
それに、汗で湿った寝巻きをずっと着ているのも気持ちのいいものではない。
けれど少女の手を煩わせるのは気がひける。
どうしようか悩んでいると追い討ちがかかった。
「早くしないとお兄ちゃんが帰ってくるよ」
即決だ。
「分かった。けど、私が自分で拭くから」
半ば強引に温かい布を受け取り、被るタイプの寝巻きを思い切って脱ぎ手足や上半身を拭った。
――気持ちいい。
身体を清めるってこういうことだろうか。 本当は足や脇の下など言葉で表しづらいところも拭きたかったけどさすがにやめておいた。
そして背中を拭こうと後ろ手にまわすと布と取られた。振り返る間もなく丁寧に拭いてくれた。
「背中は自分では難しいでしょ。わたしがするよ」
兄に頼まれて仕方なくではなく、自ら率先して好きで世話をしてくれているのだと感じられる明るい口調。
「お姉ちゃんって肌すべすべだ」
「ちょっとっ……」
ぺたぺたと触られて恥ずかしいやらむず痒いやら。
鏡を見なくても分かる。今の私は眉を八の字にして困りきった顔だ。
拭き清めたとはいえ何日もお風呂に入ってないし、寝たきりだったので不健康に痩せてしまったはずだ。
けれど文句を言う言葉は出ない。背中を撫でる少女の手は荒れていた。
文明の機器がない前時代の小さな小屋で家事全般を負ってくれているのだ。
この十歳程度の子供が。
「村で一番美人だった二軒隣のお姉ちゃんよりも綺麗な肌だね」
なんだか姉妹のようにじゃれあってしまったが、次の言葉で凍りついた。
「村が滅ぼされたとき、みんな一緒に死んじゃったけど」
怒りも憎しみも悲しみさえ感じさせない、当たり前の事実を告げるような言葉。
「……」
何を言えばいいのだろう。お悔やみの言葉? 慰め?
少女の発言と無味乾燥な声音に緑の虎や美貌の男、私の運命を変えた少年とも違う得体の知れぬ恐ろしさを抱いた。
どことなくひんやりとした空気が漂うと、少女が立つ気配がした。
「洗濯物取り込んでくるね」
気配が遠ざかり扉を開閉する音がする。
そっと後ろを振り向くと再び湯に通された布が側に置かれていた。隣には新しい寝巻き。
……なんだったんだろう。
私はひとつ息をついた。
さほど時間を置かず洗濯物を両手に抱えて戻ってきた少女は変わらず先ほどの会話など忘れたかのように明るく朗らかで、私はお喋りな彼女の言葉に曖昧に返事をするしかなかった。
そして、空が月の赤さを主張し始めたころ青年は戻ってきた。
朝は私たちとともに軽く食べた後すぐ出かけ、帰ってくるのは日が暮れてまもなくのこと。
そのため、一日のうち姿を見ることはほんの二、三時間だ。
なぜかいつも汚れた格好で帰宅する青年に、妹の少女は嬉しげに抱きつく。
彼は汚れるからと嗜めるが、笑顔で迎える妹に結局は兄も僅かに顔を綻ばせ不器用ながらも優しい手つきで頭を叩く。
初対面が限りなく最悪といってよかった青年の行動に最初は瞠目したが、やっぱり兄妹なのだなと思うようになった。
けれど私に対する態度は始終変わらず冷淡。というより、やはりあえて存在を見てみない振りをしているように感じる。
しかし、その夜、青年が私を見た。
初めて薬湯以外の食べ物が提供された後。
薄い塩味のスープだけど、これ以上ないほど美味しく感じられた。
数える程度の小指の爪ほどの木の実の素朴な味を噛み締める。
今まで口にした薬湯は、あくまで体力と身体の機能の回復を目的とし、栄養を重視したその名の通り薬だ。
飽食の日本とは比べ物にならないほど質素だけど、食事と呼べるはじめての食べ物を口にしながら不覚にも涙が出そうになった。
生きることは食べること。
それは薬の飲用ではなく食物を味わい食すること。
――毎日薬湯作りに精を出してくれた少女にはとても言えないけど。
感慨深くスープを口にして一息ついた時視線に気づいた。
凝視されたわけではないが偶然視界に入っただけでもない、窺うような視線。
けれど、小屋に保護されてから意図的とも思えるほど私を見ようとしなかった青年が私を捉えた。
私は思わず居住まいを正すと、青年の薄い唇が開いた。
「明日、話をする」




