二対の双眸
思わず漏れ出た声は相手に聞こえたらしい。
その人物は迷いのない足取りで私に向かって歩いてきた。
やがてその姿がはっきり目に映ると、私は言葉をなくした。
薄い布を幾重も重ねた衣を纏い、真夏の太陽のような金色の長い髪を耳の後ろで括って背に流している。形の良い眉と透き通った髪と同じ金色の瞳。
神話の世界から抜け出したような美貌の男だった。
「精霊を従えた人間がいるというので足を運んだが思わぬ名を聞いたものだ」
声も背筋が震えるほど低く豊かだった。
耳元で睦言を聞かされたら芯から溶けてしまいそうだ。
私は言葉もなく瞬きも忘れた。
サヤではない。
あの青年も見目は良かったが、目の前の魂が抜かれそうな美貌は持ち合わせていなかった。
だが顔のつくりはよく似ている。
放心した私を見て男は一歩近づいた。
土を踏む軽い音が聞こえる。
「精霊を従える人間などそうおらぬ。ましてあれを知っているとは。それにその瞳……」
お前は何者だ、と艶めく声が私に問うた。
自分が何者かなど私が知りたい。
それに、精霊は虎が預けてくれたものだ。
そういえば精霊はどこに行ったのだろう。
消えた直後男が現れたので無関係とは思えないけれど。
「私は……」
言葉が詰まる。
何を言えばいいのか分からない。
静謐ながら圧倒的な雰囲気に呑まれる。
――銀色の髪の子供も成長したら目の前の青年のような凄烈な美貌を誇るようになるのかな
そうだろうと思いながらも陳腐な想像力では未来の姿を思い描けなかった。
思考が現実逃避したことで少し落ち着き、半開きの口をなんとか動かした。
「私は人間です。あなたは……サヤさんを知っているのですか?」
「あれは愚弟だ」
おとうと。
確かに目鼻立ちは似ているので血縁関係があると言われると納得だが、どことなく釈然としない気持ちが膨らむ。
それは、男がサヤを語る時の表情が兄弟を話題にしているとは思えないほど無表情だったから。
笑うことを忘れたかのごとく表情に変化の見られない男は私に詰め寄った。
至近距離で美しすぎる顔を見せられて頬が赤くなるのは仕方がないことだと勘弁して欲しい。
恥ずかしさと近づくことにより増した威圧感に目を逸らした私に、男は抑揚の乏しい声で問いかける。
「あれはどこにいる」
「はぐれてしまい私こそ捜している最中です」
「どこではぐれた」
異世界ですと言って信じてくれるはずはない。
答えに窮し緩く首を振った。
男は思案するように目を細める。
そして思い出す。
彼はこの世界で初めて会った人間。
なら、目的地の村を知っているのではないか。
あるいは生き残りの村人かもしれない。
「あなたはアナーディリ村の人ですか?」
私の問いに男は目を瞬かせ、やがてうっうらと笑った。
思わず目が釘つげになる微笑だったが得体の知れない恐ろしさをを感じた。
「娘一人で森にいるのだからお前こそ村の人間かと思ったが、どうやら違うようだな」
それは……。
「どういう――」
「そこを動くな!」
私の言葉を遮ったのは剥き出しの刃のような鋭い声だった。
突然響いた強い声音を思った以上に近い場所から受け、目の前の男に神経を集中していた私は大きく身体を震わせた。
声のした方を向くと一人の茶色い髪の青年が弓を引き絞り私たちを睨み付けていた。
鋭い矢尻が私たちを――強いていうなら金髪の男に向けられていた。
ぎりぎりまで引き絞った弓は指を離せば瞬きの間に男を射るだろうに、彼はひるんだ様子もなくゆったりと言った。
「生き残りか」
男が目を細め、視線の先の闖入者は唸るように言った。
「金の髪と瞳……お前が村を襲ったやつか」
男は答えず青年の瞳に苛烈な光が宿る。
事態に取り残された私は目を丸くして立ちすくむしかなかった。
先ほど男に感じた言い知れぬ恐ろしさと青年の憎しみに満ちた瞳。
いつから青年が居たのか分からないが、限界まで引き絞った弓はぶれることなく男を定める。
緊迫に満ちた場の空気が破られたのは男の言葉だった。
「殺し損ねたか」
青年の瞳に炎とも呼べる殺意が宿り、矢をつがえた指が離された。
私は声なき悲鳴をあげた。
目も留まらぬ速さで飛ぶ矢は男の胸に吸い込まれ、美貌の顔に苦痛が浮かび地に伏す――想像したコンマ数秒の未来は覆された。
男の前に突然茶色い物体が現れ、低い音を立てて矢が突き刺さった。
それは木の根だった。
地中に生えるはずの根が土を破り天に向かい、男の背丈ほどまで伸びて彼の盾となり矢を受けた。
唖然とする私と弓を放った青年に対し、美貌の男は表情を変えず淡々と言い切った。
「人間ごときが私を傷つけられるとでも思ったか。幻魔が人間を殺めることはあってもその逆はありえぬ」
傲岸不遜な態度に嫌味はなく、ごく当たり前のことを述べているように見える。
そして、男の言葉に脳裏に浮かんだのは、目覚めてすぐ出会った虎。
夢幻のように美しい魔性。
造り物めいた美しさ。
「悪魔め……」
「確かに生き残りのお前からみたら村を滅ぼした私は悪だろうな」
ただ事実を述べているかのような淡々とした口調に青年が眉尻をつりあげた。
「御託はいい! 人の皮を被った獣が!」
青年は目にも留まらぬ速さで次の矢を放つったが再び木の根に阻まれる。
木の根がうごめき、木の葉さえ男を守ろうとするがのごとく二人の間に割って舞い散る。
男は感情を感じさせない平坦な声で言い放つ。
「貴様には無理だ」
当然とまでに言い放たれた言葉に青年の顔が険しさを増す。
「殺してやる……」
怨嗟に満ちた声。
視線に力があれば相対した男はすぐに息絶えただろう。
しかし、まばゆいばかりの金髪の男は殺意に満ちた視線をそよ風のように受け流し、表情ひとつ変わらない。
それどころか、わずかに伏せられた金の瞳が青年をとらえた時、私は心の臓が凍りつくかと思った。
青年の殺気が霞んでしまうほどの威圧感。
男は眉ひとつ動かさず青年に通告する。
「殺したいほど憎い相手に近づくことも傷ひとつつけることもできず死んでいく無力感を味わうといい」
言うや否や舞い散るだけだった木の葉が意思を持ったかのように青年に襲い掛かる。
彼は咄嗟に顔の前で両手を交差させるが、まるで木の葉が刃となっているかのように、触れた箇所の衣服が破れ、血がにじむ。
腕や腹、足などいたるところから血を流した青年は、それでも瞳の力は衰えず男を見据える。
「こんなもの……村のみんなの苦しみに比べたら……」
「ではその苦しみを味わうがよい」
矢を受けたものとは別の木の根が男の周囲に生え、ゆるやかに揺れ動くそれはとがった先端を青年に向けた。
青年の表情は変わらず怒りに満ちている。
だが、茶色の瞳に微かな揺らぎを感じた。
このままでは――。
気づいたときには声をあげていた。
「やめて!」
叫び声に木の葉は地に落ち、木の根は動きを止めた。
男は無言のまま振り返り、青年は初めて私の存在に気づいたかのように目を見開いた。
しかし、一瞬呆けたかに見えた茶色の瞳が再度苛烈な光を宿して私を見る。
「……お前もこいつの仲間か」
突然向けられた殺意に全身が震えた。
私を見る青年の手には弓が握られている。矢の示す先は……。
私?
男に向けられていた激しい視線が私を捉える。
「違う……」
私は掠れた声で呟いた。
一歩後ずさる。
「ならなぜ幻魔といる? 奴の仲間だからじゃないのか」
私はゆるく頭を振る。
後ずさった分距離が離れても視線の強烈さは変わらない。
「ならお前はなんだ。男の格好をしているが女だろう? 今は若い娘がひとりで出歩くなど自殺行為に等しいのにこんな森の奥で何をしている。それに――」
青年が私をまっすぐ見る。
「その目はなんだ。村の皆が流した血のような――」
「満ちた月のような――」
側で艶のある声が聞こえた。
美貌の男が向きはそのまま視線だけ私を見ていた。
「みすぼらしい姿格好だが、その瞳の色は人間ごときには不相応だ」
なんだかすごく失礼なことをさらっと口にされた。
しかし、蕩けそうなほどの美声に言い返す気力など沸くはずもなく、せわしなく瞬きをするにとどまった。
「お前はなんだ」
「お前は何者だ」
「「お前は――」」
感情の伺えない金色の双眸と苛烈な茶色の双眸。
二人の男の視線に耐えかね、私は顔を伏せた。
怖い。
目が合うとただ混乱して震えるだけの心の内まで見透かされそう。
まるで瞬きの間に移り変わるかのような現状。
目を閉じても神聖とさえ感じる異様な森の空気。
その中で注がれる二対の視線。
弓を引き絞る音。矢尻は私に向けられている。
もし矢が放たれたらまた地中から木の根が飛伸びて今度は私を助けてくれる?
頭を振る。
そんな都合の良いことは考えられない。
この森の空気が異質だと思う時点で森全体が敵のように感じるのに。
目覚めたときそよいだ草原の風を感じたい。
また飛ぶように地を翔けたい。
私は服の裾を強く握り締め一歩後ずさった。
肩に届く程度の髪が風に揺れる。
後方から吹いた柔らかな風は追い風のように腰砕けになりそうな身体を支え、やがて強さを増して吹き荒れた。
張りつめた弓のように緊張した場が一変した。
決して私が操ったわけではない風。
けれど私の意を汲んだかのように背を押す。
私は面をあげた。
弓を下ろし目を見張る青年と眉根を寄せた美貌の男がいた。
風に晒される砂のように地中から伸びた木の根が音もなく崩れ落ち、支えを失った矢が地面に落ちる。
「何者かなんて私が一番知りたい。だから――」
私という存在に疑問を投げかけた子供。
幻のように綺麗で、でも現実に存在する紫の瞳の少年。
月光をはじいた銀の髪。細い肩に小さな手のひら。振りほどかれた手の感触を覚えている。
私が何者で、なぜ出会い、異世界に一人連れて来られたのか、捜し出して納得のいくまで問い詰める。
そのために――。
私は唇を湿らして言った。
「絶対生き延びる――」
二人の青年にではなく自分に言い聞かせた。
神聖な森の雰囲気が消えうせ、踏み込んだときに感じた濃い緑の薫りがする中、私は二人に背を向けその場から逃げた。
背中から制止する声が響くがもちろん無視した。




