力添え
青い空と緑の草原が広がるのどかな場所が急に殺伐と感じた。
吹く風が冷たい。
肌寒いと思ったら細かな雪が舞っていた。
空は青く草木は鮮やかだから季節は初夏を思わせたが薄手の服では肌寒い。
亜寒帯機気候の短い夏はこんな感じなのだろうか。
私はポケットの上から石を握り締め恐る恐る聞いた。
「あなたが人間を殺したの……?」
「違います。さっき言ったはずです。初めて会ったのが僕ではなくて好戦的な幻魔なら今頃あなたは物言わぬ躯となっていたかもしれないと。村を滅ぼして人間を殺めたのは同じ幻魔でも僕じゃない」
苛立ちを滲ませた口調は、話についてこられない私に苛立っているのか、村を滅ぼしたという幻魔を思い起こしているのか。
感情の混じった声音は成長途上の若者のように感じる。
会話をするだけで幻魔は人間と同じ知能ある生物だと分かった。
少なくとも、本能のまま生きる野性の獣とはまったく違う。
「それは……勘違いしてごめんなさい」
罪の濡れ衣を着せられたら誰だって怒る。
人間にも善良なひとがいれば、犯罪に手を染めるひともいる。
だからこの虎は前者であると信じる。
「私は幻魔のことを知りません。だから人間に害をなす存在かどうかも判断できません。けれど今のあなたを見て、すべての幻魔がそうではないと思いました。少なくともあなたは善い幻魔です」
上手く表現できないのがもどかしい。
幻魔の細い瞳がさらに細められた。
「善悪など当人によって変わるものです。今はきまぐれであなたに構っているだけで、いつその喉元に喰らい付くか分かりませんよ」
虎に似た身体が大きく感じた。
大丈夫、威嚇しているだけ。
その気なら私はとうの昔にそれそこ物言わぬ躯になっている。
そうは思ってもやはり怖くて心臓が早鐘を打つ。
私は汗で湿った手のひらを握り締め、自らに言い聞かせるように言葉を重ねた。
「たとえきまぐれでもこうして私の話に耳を傾けてくれている。側にいても近づきすぎないようにしてくれている。人間に気を使ってくれるあなたが人間を意味無く傷つけたりしないでしょう……?」
虎との距離は二メートルほど。
ばねのある姿からからすればひとっとびだろうけど、目が覚めてから近づきも遠ざかりもしない。
二メートルが私に案じてくれている距離だと信じたい。
しばらくの沈黙のあとやれやれといった様子で虎が呟いた。
「あなたは本当に変わった人間ですね」
言った当人の口調も充分人間じみていた。
威圧感が消えて少し笑うことが出来た。
「ただ必死なだけです」
「しかし、人を殺すことがそのまま悪につながるのなら、あなたはとても平和なところで生きてきたんですね」
この世界は平和ではないと言われている気がした。
目覚めてすぐ常識が覆される世界だけど、緑の薫りと少し冷たい風は十年生きた排気ガスとアスファルトの世界より心地良いことは確かだった。
☆ ☆ ☆
私は小さくくしゃみをした。
日が差していたはずなのに薄暗く細雪が舞っている。
本当に変な天気だ。
日差しは暖かいが影が差したと思ったら突然肌寒くなる。
初夏の陽気と冬の初めが交互に訪れている感覚。
体感温度の変動が激しいので早く落ち着ける場所を探さないと体調を崩しそうだ。
周囲に広がるのはうっそうと茂る森。
樹齢幾年も経た木々が林立する様は壮観でテレビや本で見たものとはまったく迫力が違う。
短めの髪が風で揺れると、右前方の空間が霧がかったように霞んで見えた。
こぶし大に揺らめく霧は意思があるように私の周囲を旋回し、木々の間に抜けていった。
私が後を追いかけると待っていたように止まり、追いつくとまた音も無く先に進む。
空間を歪ませるモノは虎が遣わしてくれたもの。
そして向かう先は滅びた村だ。
「アナーディリ村?」
「もう村と呼べる状態ではないですけどね」
口調は冷たいというよりありのままを口にしたようで、虎は試すように私を向いた。
「生き残りがいるか分かりませんよ。いたとしてもすでにその地を離れているかもしれない。そして、村を襲った幻魔こそがまだいるかもしれない。それでも行きますか」
「――でもあなたが知っている人里はその村しかないんですよね?」
虎は瞬きひとつで肯定する。
――それなら。
私は顔をあげた。
「可能性を疑って恐れてばかりでは動けません。――行きます。もちろん己の身を守るのが最優先ですが」
「危険と知りながら向かい、同時に保身を考えますか。しかし、村の詳しい場所は分かるのですか? シャンボールの森は深い。計画無く抜けるのは難しいと思いますよ」
「その、シャンボール? の森を迂回すれば……」
「あなたの細い足では数日かかりそうですね」
早くも暗雲が立ち込めている。
けれどあの子供を捜し出すためこの世界に関する情報と、何よりまずは落ち着ける場所が必要だ。
出来ることなら虎に道案内を頼みたいが、幻魔に連れられた私を見て同じ幻魔という種に滅ぼされた村の生き残りが私を受け入れてくれるかどうか難しい。
それに虎は私を助ける義理がない。
今こうして会話しているのも虎のきまぐれなのだから、どうにかこの世界の人間のもとにたどり着かないといけない。
考える努力もせず流されるまま他人の力を頼りにしていては十年前と何も変わらない。
「私、方向感覚は良いほうなので木に跡を残しながらでも進みます。大丈夫、なんとかなります」
決意して拳を握り締めた私に虎は目を細めた。
人間で言えば半眼にして呆れた風情だ。
なんだか見下されてる感じがする。
「無計画で無鉄砲ですね」
「う」
「着の身着のままで本当になんとかなると思いますか?」
「うう」
「仮に森を抜けて、滅んだ村で生き残りがいたとしても、今日を生きる人間にあなたの面倒を見る余裕などないと思いますよ」
理知的な瞳を納得させる言葉が見つからない。
しかし引き下がるわけには行かない。
何か方法はないか思考を巡らせていると、虎は縞模様の尻尾をゆらりと揺らした。
「しかし、少しあなたという人間に興味が沸きました。少しだけ力を貸しましょう」
虎の額に嵌った翠色の石が微かに光を帯びたと思ったら、清々しい風が通り抜けた。
緑の薫りがして今度は後ろから涼しげな風が吹く。
まるで風が意思を持って吹いているようだ。
そんなことはないとかぶりを振って目を見開いた。
虎の顔のそばの空間が歪んでいた。
歪んでいるという表現が正しいのか分からない。こぶし大の空間が曇りガラスのようにぼやけて見えた。
私の視線を追って虎は驚いたように耳をそばだてた。
「精霊が見えるのですか?」
「見えるというほどのものじゃないですけど……これ、精霊ですか?」
あちらの世界でごく自然に在った様々な色の光球。
見えているのは私だけで、だからこそ私は異端なのだと教えられた淡い光の玉。
赤や黄色に漂う光球を精霊だとあの子供が言っていた。
そして、今目の前で歪んで見える空間。
いや、不透明な物体というべきか。
虎が濃緑の縞模様が入った尻尾を振ると不透明体が虎の後方に移動してじゃれるように動いた。
「精霊を感じられる人間はかなり珍しいはず。ますます面白い」
珍しい骨董品を見る目で見られている気がする。
「アナーディリ村の跡地まで精霊に案内させます。これで道に迷うことはないはずです」
思ってもみない力添えだ。
吹けば消えてしまいそうな不透明体だけど、そうではないのは虎の堂々とした態度で分かる。
目を凝らして曇りガラスのような存在を感じる。
それは私に向かって音も無く舞った。
この精霊がいれば大丈夫だ。
けれど……。
「力を貸していただいても、私は何もお返しできません」
他力本願はやめようと誓ったばかりなのだ。
舌の根も乾かぬうちに翻したくなる意思の弱さが情けない。
すると、虎が馬鹿にしたように言った。
「別に返礼が欲しいわけじゃありません。僕の気の変わらぬうちに頼れるものは頼っておきなさい」
「けど……」
「あなたは頭はからっぽですか? 地理に疎く非力な人間の娘が一人でどうやって村まで行くのですか」
ですよね……。
項垂れた私の周囲を精霊が舞う。
「これもあなたが気に入ったようです」
曇りガラス風の不透明体だけど。
虎が私を見据える。
「頼れるものは頼り、使えるものは使う。時には踏み台にしてでも先に進む。そのくらい図太くなければ生き残れませんよ。むしろどうやって今まで生きてきたのか……」
ため息混じりの言葉に笑った。
非情というか、現実的というか。
流されるままではなく自ら進む。
そのため助力を得ることに後ろめたい気持ちを持つ必要はないのだ。
「あの、ありがとうございます」
「あなたがこの先どのように行動するのか少し興味をもっただけです。だから簡単に野垂れ死んだりしないように」
青緑の双眸が外見どおり凶暴な肉食獣を思わせる鋭い光を放った。
私は少し怯みながらも口角を上げて言い返した。
「お返しができなくてもあなたにお礼が言える日まで生き延びてみせます」
「再び会えるかなど分かりません。けれどその言葉を覚えておきましょう」
額に宝石を抱く美しい獣はゆっくりと笑んだ。
不透明体が森に向かって飛んでいく。お辞儀をした私は虎に背を向けようとしてもう一度向き直った。
「あとひとつ聞きたいんですが……」
少し言いよどんだが思い切って聞いた。
どうせ日が沈んだら分かることだ。
「月は何色ですか?」
虎は質問の意味を図りかねるように首を傾げたが素直に答えてくれた。
「あなたと瞳と同じ血のような赤色ですよ」




