消失願望
――この世界から消えたい。
気づけば頭も心もこの世からの消失願望でいっぱいだった――
僕はきっとこの世界に生きていてはいけない。
他人の考えが分からず、常にそれを分かろうと努力する自分に嫌気がさすから。
眠れないからといって毎晩少ないお金で酒を買ってしまうから。
いつまで経っても賭事が止められないから。
新しい仕事についても、仕事先の人間関係に悩み、疲れ、とても仕事なんてできないと自分に言い訳をして、いつも仕事を辞めてしまうから。
寂しいからといってどんな女性でも抱いてしまえるし、そんな自分に僕は酔っているから。
嫌な事があるとすぐにヒステリックになるから。
いつまで経っても抗うつ剤も睡眠薬も減らせないから。
酒と一緒に睡眠薬は飲んだらいけないという事も分かっているのに飲んで深い眠りを求めてしまうから。
自分を痛めつけたくて、死にきれないくせに死に憧れてすぐに手首を切るから。
誰かれ構わず自分の不幸話を聞かせるから。
自分に、何度も何度も嘘をついては偽物の涙を流し、明日から頑張ろうと眠っても、結局何も変わらないいつもの朝しかやって来ないから。
僕はこの世界に生きていてはいけない。
そんな漠然とした概念がいつしか僕の心を常に蝕むようになり、殆ど脅迫的とも言える現実逃避の念が頭の中を支配し、零が横にずらりと並ぶ借金の明細書が棚の上からひらりと落ちてきたある日。
僕の心の中をこの世界からの消失願望が支配した。
間違いなくこの世界は僕の生きるべき世界では無い。
かといってここ以外に僕が生きるべき世界があるというわけでも無いのだけれど。
そう、僕の様な殆ど人間とも呼べない人間には生きるべき世界なんてどこにも無いのだろう。
世界というのは僕という一つの物体を頑なに受け入れてくれずに拒み続ける全ての総称だった事に僕はようやく気付いた。
心の中は悲しみとも絶望ともつかない、例えるなら台風の日の空の色の様なそんな感情がぐるぐると渦巻いていた。この世界から消えるために僕は町の中で一番大きな橋へ歩き始める。
橋の柵を乗り越え、冷たく速い川の中に身を投げて、そのまま息もできずに流されていく自分を想像すると、何故かとても興奮した。
橋までの道のりは自宅のマンションから五分ととても近く、向かう間にも車と何台かすれ違っただけで、黙々と足を動かしている内に綺麗に塗装された白い大きな橋に到着した。
橋の真ん中まで歩いていき柵に手をかけ遥か下を見る。
目下の川は橋からとても遠く、流れは早くここから飛び降りたらまず生きていられないだろうな、と僕は恐怖し同時に万が一にも失敗はないという安心感に笑った。
靴を綺麗に揃えて死ぬのは何だか嫌だったのでまず靴を川に投げ込んだ。
綺麗に死んでも汚くみすぼらしく死んでもきっと世界は僕の事を見てすらいない筈だから。
心の中で十程数えた後聞こえてきた靴が落ちる小さな水音に、ああ、やっぱりここから川まではとても遠いんだなと思った。
柵を乗り越え、両足がギリギリ入るくらいの小さく突き出ている鉄筋の上に立つ。
さぁ、お別れだ。
全てとのお別れだ。
この醜い世界に生きる事も、この醜い世界の醜いものを見る事も、この醜い世界で世界と葛藤を繰り広げ己の醜い心がさらに醜くなる事も―
この柵を乗り越え足を踏み出すだけで終わるのだ。
それでは、さようなら――
「にゃあ」
震えた。
自分がこの橋から飛び降りようとしたまさにその瞬間に聞こえた鳴き声に体の奥深くから震えが来て鳥肌が立った。
「んにゃあ」
首だけ振り返り見てみるとそこには怪我をしているのか右足から血を流している黒猫が柵の上に座って僕を見ていた。
俺は全部見ていたぞ、と。
まるでそう主張しているかのような黒猫の視線に絶えきれず、向こうの方から車が一台近付いてきている事もあって僕は柵を橋の方に乗り越えた。
柵の上から僕を真っ直ぐに見上げる黒猫。
右足から血がでているにも関わらず、痛がるような素振りも見せず、ただ凛とその黒猫はそこに在った。
その力強い瞳と、堂々とした風貌を見た僕は拳を固く握りしめ、まるで自らの汚点全てを彼に晒してしまったような気持ちになり―
裸足のまま駆けだした。
裸足のまま夜の街を駆けていく。
自分が今、何処に向かっているのかも、何をしようとしているのかも分からなかった。
ただとても自分とかけ離れている存在、遥か遠く及ばない威風堂々とした存在を、うす汚い自分とは対照的に真っ直ぐ過ぎるその在り方を余りにも近くに感じてしまい、心が耐えきれなかったのだ。
――ふと、幼い頃の記憶が蘇る。
そういえば僕は小学生の時に将来の夢はカメラマンだと答えた。
ずっと幼い時に母親に連れられて見にいった一面のひまわり畑を見て感動したのを覚えている。
そしてこんな風景をいつまでも見れたらいいのにと子供心に思った事がきっかけだった。
ただそんな夢は時間の流れと共にどんどん薄れていってしまったし、いつの間にかたくさんの事を抱えて張り裂けそうな精神状態の僕はそのうち病院かバイト先にしか出歩かなくなっていた。
いつでも逃げ出していた。
嫌な事から、傷つく事から、全てから。
逃げて逃げて逃げていつも救いを求めていた。
嫌な事から逃げ出す事に微塵も罪悪感を感じない心が嫌いで自分の全てが大嫌いで――
『逃げてもいいじゃない、負けても泣いてもいいじゃない、貴方が何をしたって明日は必ずやってくるんだから。今が辛いなら今は逃げなさい、ただいつかきっと正面から立ち向かいなさい』
ふと母が十年前病気で亡くなる前日に僕に言った言葉を思い出した。
もう橋から随分と走り、息が上がってきた所で日頃から殆ど外に出ない自分の体がもう限界だと叫び始め、僕は街灯の少ない暗い路地の道端に倒れ込んだ。
汗だくの体が秋の夜風に晒されて酷く気持ちが良い。
――仰向けになり僕は絶句した。
空が言葉では言い表せれない程に美しかったからだ。
肩で息をして見上げる空の星は何故か僕の大嫌いな醜い世界の中に存在するにも関わらず輝いていて、満ちていて、滑稽な程綺麗だった。
世界にはこんなにも綺麗な物があったのか……。
――いや僕は何度も見ていた筈だ、幼い頃見たあのひまわり畑のように。
そうだ僕が幼い頃求めていたのはきっと景色だったんじゃない、この感覚―美しい風景を見た時に感じるこの心が一杯になるような感覚だったんだ。
そして僕はそれを何度も体験している。
雨が降った時のあの乾いた樹の匂い―
果てしなく広大な希望を予感させ降りゆく桜―
身を刺すような冷たい風が吹いた時にふと感じる冬の匂い―
セックスを終えて煙草を吸う時のあの虚無感―
他人に愛され包まれた時に感ずる一瞬だけの幸福な感情―
それら全て、いやそれら以外の物達も今まで僕が生きてきた中で心を満たしてくれていた筈だ。
――ああ、もしかすると僕は
この醜い世界の事が好きなのかもしれない
.
***
「ただいま」
そう言って玄関を開ける。
小さいが一戸建てのまだ新築したばかりの僕の家。
ばたばたと足音を立てて走ってくる子供の声が聞こえる。
「パパお帰りなさい!」
「ただいま」
――玄関の棚には一つの写真が飾ってある。
満点の星空を背に橋の冊の上で威風堂々としている黒猫の写真が。
――僕は今日も生きている。
その胸に消失願望は欠片も存在していない。
.




