お嬢様は、仔馬のお話をなさっているだけでございます
「ベルント様。リリって仔のこと、ずっと隠していて、ごめんなさい」
お嬢様は仔馬の話をしている。リリというのは、お嬢様が内緒で飼っている栗毛の仔馬の名前だ。
向かいに座るベルント様の顔から、すうっと血の気が引いていった。ベルント様が思い浮かべているのは、仔馬ではない。リリは、ベルント様が町の馬具屋の女主人を二人きりのときだけ呼ぶ名前でもあるのだ。栗色の髪をした二十三歳の未亡人である。
お嬢様は仔馬の仔のつもりで言っている。けれど耳で聞けば、仔も子も同じ音だ。
わたしはリンデンベルク伯爵家でお嬢様付きの侍女をしている、グレーテという。応接間にいる四人のうち、お嬢様が何の話をしているのかを知っているのはわたしだけで、ベルント様が何の話だと思っているのかを知っているのも、わたしだけだった。
わたしは侍女なので、口を挟める立場にない。言えるのは「お茶をお替えいたします」くらいのものだ。
この先は、わたしが黙ってお茶を注ぎ続けた午後の話になる。分かりにくいといけないので、先に前提を二つ説明させてほしい。
一つ目は、お嬢様の隠しごとだ。
エルナお嬢様は十六歳で、伯爵家の一人娘である。三日後には、男爵家の次男であるベルント様を婿に迎える婚姻契約が結ばれる。半年前の婚約のとき、伯爵家は婿入りの支度金として金貨二百枚をベルント様に渡していた。
そのお嬢様が二か月前、町の市で栗毛の仔馬に一目惚れをして、小遣いを全部はたいて買ってしまった。
伯爵家の厩舎に入れれば、勝手に馬を買ったことがすぐ旦那様に知れてしまう。おまけにベルント様は以前、お茶の席で「馬は金食い虫ですからね」と笑ったことがあり、お嬢様はそれをずっと気にしていた。
困ったお嬢様が思い出したのは、もっと前にベルント様が口にした一言だった。
「馬具を買うなら、町のイルゼの店がいいですよ。腕が確かだ」
イルゼの馬具店は、裏に小さな預かり厩舎を持っている。お嬢様は仔馬をそこに預けて、毎週木曜日の昼にわたしを連れて会いに通うようになった。
仔馬の名前が決まったのは、買って五日目のことだ。
町からの帰りの馬車で、ベルント様が向かいの席でうたた寝をしていた。揺れに合わせて首がかくりと落ち、口の中で小さく誰かを呼んだ。
「……リリ」
お嬢様は目を丸くして、それからとても嬉しそうに、わたしの耳もとでささやいた。
「聞いた、グレーテ? 夢に見るほどお好きな名前なのね。あの仔の名前は、リリにするわ」
わたしはその日、何も思わなかった。かわいい名前だと思っただけだ。
二つ目は、わたしだけが知っているベルント様の隠しごとだ。
二週間前の木曜日、お嬢様が仔馬の櫛を馬具店に忘れてきた。夕方にわたしが一人で取りに戻ると、店の表はもう閉まっていたので厩舎のある裏口へ回った。
裏口の戸の陰に、ベルント様が立っていた。腕の中には女主人のイルゼさんがいて、ベルント様は彼女の栗色の髪に顔をうずめるようにしながら、こう呼んだのだ。
「リリ。僕のリリ」
イルゼさんは笑って、「その呼び方、あなただけよ」と答えた。もとはエリーザベトという名前が縮まったのがイルゼで、ごく親しい人だけがリリと呼ぶのだと、わたしはあとになって知った。イルゼさんの首もとには、町の店では見かけないような金の首飾りが光っている。
わたしは櫛を取らずに帰った。
お嬢様の仔馬は、ベルント様が恋人を呼ぶ名前で呼ばれている。知らないのはお嬢様だけではない。ベルント様は、裏の厩舎にいる栗毛の仔馬がお嬢様のものだとは知らない。イルゼさんのほうは、ベルント様を独り身の騎士見習いだと思っている。「見習いが明けたら、一緒になれるのね」と彼女が言うのを、わたしは裏口で聞いた。
侍女が伯爵家の婿を浮気者だと訴えて証拠が足りなければ、追い出されるのはわたしのほうだ。それに、仔馬の話をするときのお嬢様があまりに幸せそうだった。
わたしは二週間迷って、今夜こそ旦那様にお話ししようと決めていた。
その日の昼に、公証人が来た。
公証人のオットマー様は五十八歳の痩せた方で、今日は婚姻契約に付ける財産目録を作るために呼ばれている。
旦那様は領地の用事で夕方まで出かけることになっていて、玄関でオットマー様にこう言い残していった。
「娘と婿の申し述べは、すべて記録しておいてくれ。帰ったら私が目を通して、両家で署名する」
「承知いたしました。目録の品は目録の欄に、申し述べは申し述べの欄に、一言残らず記録いたします。それが仕事でございますので」
オットマー様はそう答えて、応接間の机に帳面を広げた。
目録づくりは、はじめのうちは何事もなく進んだ。お嬢様が母君から受け継いだ宝石、伯爵家が持たせる土地、ベルント様の持ち物。わたしは横でお茶を注いでいた。
最後にオットマー様が顔を上げた。
「目録に載せるべきもので、漏れているものはございませんか」
お嬢様が膝の上で手をきゅっと握った。
「あります」
わたしの持っていたポットが、かちりと鳴った。
お嬢様は今日、仔馬のことを打ち明けると決めていたのだ。結婚の前に隠しごとは全部なくしておきたいのだと、朝に髪を結いながら言っていた。注文してあった仔馬の首輪も、今日の午後に屋敷へ届けてもらう手はずになっている。打ち明けたあとで、ベルント様に見せるのだという。
首輪を届けに来るのが誰なのかを、わたしは考えないようにしていた。まさか、ベルント様と公証人の前で切り出すとは。
お嬢様はベルント様のほうへ向き直って、まっすぐに言った。
「ベルント様。リリって仔のこと、ずっと隠していて、ごめんなさい」
ここで、冒頭に戻る。
ベルント様は紙のように白い顔で笑ってみせた。
「……リリ、というのは」
とぼけようとした声が、かすれていた。
リリという呼び名は、ベルント様とイルゼさんの二人だけのものだ。イルゼという名前を聞いても、普通の人はリリにたどり着かない。お嬢様がその名前を口にしたということは、ベルント様にしてみれば、二人きりの裏口の会話まで聞かれていたということになる。
本当は、馬車の中の寝言を聞いただけなのに。
「わたくし、木曜日になると、イルゼさんのお店へ通っていたの」
笑顔が、口の端のところで止まった。
お嬢様は仔馬に会いに行っていた、と言っている。ベルント様の耳には、自分の後をつけていた、と聞こえたはずだ。イルゼさんに会いに行くのも、木曜日の夕方なのだから。
「木曜日は」とベルント様は言った。「木曜日は、その、仕事の相談で。馬具の相談です。騎士の仲間に頼まれて、鞍の具合を見てもらいに行っていた。それだけのことで」
誰も、ベルント様が木曜日に何をしていたかなんて訊いていない。
オットマー様がペンを取った。
「ベルント殿は木曜日に馬具店へ通っていた、と。――記載いたします」
「いや、待ってくれ、記載するほどのことでは」
「申し述べはすべて記録するよう、伯爵様から言いつかっておりますので」
わたしは前へ出た。
「お茶をお替えいたします」
誰も飲んでいなかったけれど、わたしは新しいカップに一杯目のお茶を注いだ。話の流れを変えたかったのだ。変わらなかった。
お嬢様はベルント様の慌てぶりに気づいていないようだった。それどころか、打ち明けられたことにほっとして、頬をうっすら染めている。
「栗色の、とてもきれいな仔なの。ベルント様にも、ずっと見ていただきたかった」
違います、ベルント様。栗色なのは毛並みです。髪ではありません。
――と言えたら、どんなによかったか。
ベルント様は喉もとに手をやって、襟を緩めた。
「エルナ。君は、どこまで知っているんだ」
「どこまで、というと?」
「いや……」
「それにね、お金のかかる仔なの。食べる量が、思っていたよりずっと多くて」
お嬢様は飼い葉の話をしている。育ち盛りの仔馬は燕麦をよく食べ、お嬢様の小遣いはとうに尽きた。先月からは、亡き奥様の姉君にあたる伯母様に、旦那様には内緒で援助していただいているほどだ。
けれどベルント様の耳には、お金のかかる女だ、と聞こえる。
そして、ベルント様には心当たりがあった。
「……支度金から、少しだけ使った」
応接間が静かになった。
「ほんの少しだ。あとで必ず埋めるつもりだった」
「金額をお伺いしてもよろしいですか」とオットマー様が言った。
「……五十枚」
「支度金のうち金貨五十枚を、目的外に使った、と。間違いございませんか」
「目的外というか、その」
「――記載いたします」
わたしは二杯目のお茶を注いだ。
お嬢様はベルント様が何を白状したのか、まるで分かっていなかった。
支度金という言葉を聞いて、お嬢様はベルント様も何か買い物をしたのだと思ったらしい。お互いに隠しごとを打ち明け合っているのだと信じて、ますます嬉しそうになった。
「それからね、内緒で、首に飾りを買ってあげたことも」
お嬢様が言っているのは、仔馬の首輪のことだ。銀の鈴がついていて、革に名前を彫ってもらうよう、イルゼさんの店に注文してある。
お嬢様は誰が誰に買ったのかを言わなかった。だからベルント様の耳には、あなたが女に首飾りを買ってやったことも知っている、と聞こえたのだ。
「それは礼だ!」
ベルント様の声が裏返った。
「いつもお世話になっている礼として、首飾りを一つ贈った。それだけだ。高いものじゃない。いや、少しは高いが、それは町の相場が」
女に贈った首飾りの言い訳だ。
「いつも世話になっている礼として、首飾りを一つ贈った、と」オットマー様のペンは止まらない。「――記載いたします」
わたしは目をつぶりたくなった。
ところが、お嬢様の目はうるんでいた。ベルント様も自分と同じように、お世話になっている誰かにお礼の品を贈った。お嬢様には、そう聞こえたのだ。
「ベルント様も、お世話になっている誰かに贈り物をなさったのね。わたくしと同じ」
「……え?」
「わたくしもね、いつもお世話になっているの。会いに行くと、柵の向こうから駆けてきてくれて。だから、どうしてもお礼がしたかったの」
木曜日に厩舎へ顔を出すと、リリは柵の向こうから一目散に駆けてくる。お嬢様が話しているのは、それだけのことだ。
ベルント様の喉が、ごくりと鳴った。
店の裏口にベルント様が立つと、イルゼさんが奥から駆けてくる。お嬢様はそこまで見ていた、とベルント様は受け取ったのだ。
それでもベルント様の顔には、一瞬だけ希望のようなものが浮かんだ。全部見られていたのに、お嬢様は怒っていない、と思ったのだ。怒っていないのは本当で、理由が違うだけなのだけれど。
「エルナ。君のお父上は、このことを」
「父には、まだ」
お嬢様は困ったように笑った。
「叱られるもの。だから、今日は先にベルント様に聞いてほしかったの。目録に、きちんと書いていただいて、隠しごとは全部なくしてから、結婚したいから」
隠しごとは全部なくしてから。
ベルント様はその言葉を、自分に向けられた最後の機会だと受け取った。今のうちに全部言えば、お嬢様は許してくれる。お父上に知られる前に。
「……五十枚では、なかった」
わたしは三杯目のお茶を注いだ。
「百二十枚だ」
「先ほどの五十枚を、百二十枚に訂正する、と」オットマー様はペンの先をインク壺に浸した。「――記載いたします」
お嬢様は百二十枚が何の数なのかを訊かなかった。燕麦の値段も知らない人なので、たぶん、多いのか少ないのかも分かっていない。
支度金二百枚のうち、百二十枚。半分よりずっと多い。
お嬢様はそこで、いちばん言いたかったことを言った。
「それでね、リリって名前。ベルント様お好きでしょう。だから付けたのよ」
ベルント様の手から、カップが落ちた。
床の絨毯は厚いので割れはしなかったけれど、冷めたお茶が広がっていった。わたしは膝をついて拭きながら、ベルント様が口を開けたまま固まっているのを見ていた。
名前を付けた、とお嬢様は言っている。ベルント様の耳には、あとを付けた、と聞こえた。木曜日の話で生まれた疑いが、ここで確信に変わった。
「どうして、俺の――」
ベルント様の一人称が、崩れた。
「いつから、付けていた」
お嬢様は名前を付けた日を指折り数えた。
「二か月前よ」
「だって、夢の中でまで呼んでいらしたもの。馬車で」
二か月前から、木曜日のたびに。ベルント様の顔が、そう言っていた。寝言を言った覚えなどないので、馬車の話はお嬢様がわざとはぐらかしているのだと思ったようだった。顔を両手で覆って、しばらく動かなかった。
わたしは床のカップを拾って、四杯目のお茶を注いだ。
やがてベルント様は顔を上げた。目が赤くなっている。
「エルナ、頼む。目録には書かないでくれ。君が全部知っているなら、俺は……私は、もう何も隠さない。だから、お父上には」
お嬢様はきょとんとした。
「でも、書いていただかないと。わたくしたちの家族になるのだもの」
「……家族?」
「そうよ。これからは、三人で暮らすのでしょう?」
お嬢様が言っているのは、ベルント様と自分と仔馬の三人だ。
ベルント様の顔に浮かんだのは、困惑と、信じられないものを見るような安堵だった。
「……いいのか? 三人で?」
「ええ。もちろん」
違う。全然違う。
「ベルント殿は三人で暮らすことに同意した、と」オットマー様が言った。「――記載いたします」
扉が叩かれたのは、そのときだった。
執事が顔を出して、町の馬具屋の女主人が、お嬢様の注文の品を届けに来たと告げた。お嬢様はぱっと立ち上がった。
「ちょうどよかったわ。お通しして」
わたしは心の中で神様に祈った。
入ってきたイルゼさんは小さな木箱を抱えていた。商売人らしくまず膝を折ってお嬢様に挨拶をし、それから部屋の中を見回して、ソファのベルント様を見つけた。
「あら、ベルントさん」
イルゼさんの顔が、ぱっと明るくなった。
ベルント様は立ち上がった。逃げるのかと思ったら、違った。イルゼさんの前まで歩いていって、深く頭を下げたのだ。
「イルゼ。……すまない。私は騎士見習いではない。アイヒホルン男爵家の次男で、エルナ嬢の婚約者だ」
笑みが、イルゼさんの顔から消えた。
「ベルント殿は騎士見習いではなく、エルナ嬢の婚約者である、と」オットマー様が言った。「――記載いたします」
木箱を抱えたまま、イルゼさんは動かなかった。ここは伯爵家の応接間で相手は男爵家の若様だ。町の馬具屋が大声を上げてよい場所ではない。
「……さようでございましたか」
イルゼさんがやっと口にできたのは、それだけだった。
ところがベルント様は顔を上げると、晴れ晴れとした声で続けた。
「だが、もう隠しごとはない。エルナは全部知っているんだ。知った上で、これからは三人で暮らそうと言ってくれた」
イルゼさんが、ゆっくりとお嬢様のほうを見た。
お嬢様はにこにこと頷いた。
「ええ。結婚したら、リリはうちの厩舎で暮らすの。毎朝ブラシをかけて、飼い葉もちゃんと食べさせて。リリなら、きっとすぐに慣れてくれるわ」
仔馬の新しい暮らしを楽しみにしているだけだ。
一瞬、イルゼさんの顔がこわばった。婚約者の口から「三人で」と聞かされた直後に、自分の呼び名でそう言われたのだ。厩舎で暮らす。毎朝ブラシをかけられ、飼い葉を食べさせられる。すぐに慣れる。伯爵家のお嬢様は夫の恋人を、馬として飼うつもりなのか。
イルゼさんの目が、お嬢様の顔とベルント様の顔と、自分の抱えている木箱とを順に行き来した。
木箱の中身は、お嬢様に頼まれた仔馬の首輪だ。革には、預かり帳と同じ名前が彫ってある。
イルゼさんの目が、木箱の上で止まった。
分かったのだ、とわたしは思った。お嬢様が話しているのは、イルゼさんの店に預けてある栗毛の仔馬のことで、ベルント様はそれを何ひとつ分かっていない。この部屋で話の両側が見えている人間が、わたしのほかにもう一人増えた。
イルゼさんは何も言わなかった。代わりに、木箱をお嬢様の前に置いた。
「ご注文の首輪でございます。お名前も、彫ってございます」
お嬢様が蓋を開けると、銀の鈴が、ちりん、と鳴った。
ベルント様の肩が跳ねた。
革の首輪には、丁寧な字で「リリ」の二文字。
ベルント様は首輪を見て、それからイルゼさんの首もとを見た。お嬢様はついさっき、リリは厩舎で暮らすと言った。そこへ、名前入りの鈴つきの首輪だ。
ベルント様の顔色が、白から灰色になった。
違います、ベルント様。仔馬の首輪です。
「お茶をお替えいたします」
わたしは五杯目のお茶を注いだ。
イルゼさんはベルント様のほうへ向き直った。笑顔だったけれど、店で見たどの笑顔よりも冷たかった。
「ベルント様。鞍が二つと手綱が一組、お代がまだでございましたね。騎士見習いのお給金で、とうかがっておりましたけれど」
様、と呼んだ。もう「ベルントさん」ではなかった。
「は、払う。伯爵家に入れば、すぐに払う」
「伯爵家に入れば、馬具の代金を払う、と」オットマー様は顔も上げなかった。「――記載いたします」
わたしは六杯目のお茶を注いだ。
イルゼさんはそれ以上ツケの話を続けなかった。代わりに、商売人の顔に戻ってお嬢様に向き直った。
「それで、お嬢様。首輪のお代のほうを、今日いただいて帰ってもよろしいでしょうか」
お嬢様が、わたしのほうを見た。
財布を預かっているのは、わたしだ。小遣いはとうに燕麦に消え、伯母様からいただいた分も先週の蹄鉄で尽きた。小さく首を振るしかなかった。
執事が、扉の脇から助け舟を出した。
「旦那様が、間もなくお戻りになります。お嬢様のお買い物でしたら、旦那様がお支払いになります」
「では、待たせていただきます」
イルゼさんはにっこり笑って部屋の隅に下がった。品物を納めて、代金を受け取らずに帰る商売人はいない。
わたしは、今夜旦那様にお話しするはずだったことを思い出していた。話す必要は、もうなさそうだった。
旦那様が帰ってきたのは、それから間もなくのことだ。
応接間に入ってきた旦那様は湯気の立たないカップと、絨毯の染みを見て、眉を上げた。
「ずいぶん長い目録だったようだな」
「はい、伯爵様」オットマー様が帳面を閉じて、立ち上がった。「本日の申し述べを、読み上げさせていただきます。両家にご署名いただくものですので」
ベルント様が腰を浮かせたが、誰も止めなかった。イルゼさんは首輪の代金を待って、部屋の隅に立ったままだ。
オットマー様はまず本題から読み上げた。
「リンデンベルク伯爵家ご息女エルナ様と、アイヒホルン男爵家ご次男ベルント殿の、婚姻契約に付す財産目録。伯爵家より、ご息女に西の荘園と、母君の宝石一式。ベルント殿には、婿入りの支度金として金貨二百枚を、すでにお渡し済み」
目録を最後まで読み終えると、オットマー様は帳面をめくった。
「続いて、目録作成の席での申し述べを読み上げます。
一つ。ベルント殿は、木曜日に馬具店へ通っていた。
二つ。支度金のうち金貨五十枚を、目的外に使った。
三つ。いつも世話になっている礼として、首飾りを一つ贈った。
四つ。先の五十枚を、百二十枚に訂正する。
五つ。ベルント殿は、三人で暮らすことに同意した。
六つ。ベルント殿は騎士見習いではなく、エルナ嬢の婚約者である。
七つ。伯爵家に入れば、馬具の代金を払う。
以上でございます」
応接間が静まり返った。
部屋の隅で、イルゼさんの手が首もとに行った。金の首飾りが、指の下で小さく鳴った。三つ目の行に読み上げられた首飾りだ。
ベルント様が立ち上がった。
「誤解だ。伯爵様、すべて誤解なのです。私はただ、エルナ嬢に問い詰められて、混乱して」
「では」
オットマー様は帳面をベルント様のほうへ向けた。
「どの行を、お消しになりますか」
ベルント様は帳面を見下ろした。
一行目を消せば、木曜日に馬具店へ行っていなかったことになるが、イルゼさんがそこに立っている。二行目と四行目を消せば、支度金の行方を説明しなければならない。三行目を消せば、イルゼさんが着けている首飾りは誰が買ったのか、という話になる。五行目を消せば、三人とは誰と誰と誰なのかを言わなければならず、七行目を消せば、イルゼさんへのツケだけが宙に浮く。
ベルント様は一行も選べなかった。
旦那様は長いため息をついた。
「婚約は、なかったことにする。支度金は二百枚とも返してもらう。使った分は、男爵家に請求する」
それから旦那様は、部屋の隅に目をやった。
「馬具屋。七つ目にある馬具の代金というのは、そなたの店のものか」
イルゼさんは膝を折って、頭を下げた。
「さようでございます、伯爵様。鞍が二つと手綱が一組、まだお代をいただいておりません。……独り身の騎士見習いの方だと、伺っておりましたので」
「では、男爵家へ請求しなさい。記録の写しを付けてやる。娘の注文の品の代金は、執事から受け取っていくといい」
「ありがとう存じます」
深く頭を下げると、イルゼさんはベルント様のほうを一度も見ずに部屋を出ていった。恋が終わっても、店は損をしない。たいした人だと、わたしは思った。
ベルント様が執事に送り出されたあと、旦那様はようやく娘の顔を見た。
「それで、エルナ。お前の申し述べは何だったんだ」
お嬢様が答えるより先に、オットマー様が帳面をめくった。
「お嬢様のお話は、すべて目録の漏れ一件に関するものでございました。目録の欄に記載してございます」
オットマー様は帳面を指でたどった。
「栗毛の仔馬が一頭。名はリリ。それだけでございます」
「仔馬?」
旦那様が眉を寄せた。お嬢様は首輪を抱いたまま小さくなった。
「ごめんなさい、お父様。市で、どうしても欲しくなって。イルゼさんのお店に預けているの」
旦那様はしばらく黙っていた。それから、娘の頭に手を置いた。
「……目録に入れておきなさい。うちの厩舎に移せばいい」
お嬢様の顔が、ぱっと明るくなった。
旦那様が出ていくと、お嬢様はわたしのほうを振り向いた。
「ねえ、グレーテ。ベルント様、リリのこと、怒っていらっしゃらなかったわね。馬がお嫌いなのだと思っていたのに」
お嬢様は最初から最後まで、仔馬の話しかしていない。ベルント様が何を白状したのかも、婚約がなぜなくなったのかも、たぶん今夜旦那様から聞かされるまで分からないままだ。
オットマー様が帳面を閉じかけて、わたしを見た。
「侍女殿。何か、申し述べはございますか」
わたしは七杯目のお茶を注ぎかけて、ポットを置いた。そして、今日はじめて、お茶の世話以外のことを口にした。
「お嬢様は、仔馬のお話をなさっているだけでございます」
「――記載いたします」
お嬢様の腕の中で、銀の鈴が、ちりん、と鳴った。




