【短編版】元最強探索者、ダンジョン攻略をやめて遭難者の救助をする
こちらの作品の連載を始めました。
「元日本最強の探索者、今はダンジョン救助員です」という物語です。
https://ncode.syosetu.com/n8731mn/1から読めますので、ぜひ読んでみて下さい。
午後四時十二分。
奥多摩第一ダンジョン救助管理所に、その日三件目の救難信号が入った。
「第六階層、青晶湖東岸。要救助者は二名です」
管制員の声に、黒瀬慎吾は机に置いたカップ麺から顔を上げた。
「父親四十七歳、娘十五歳。父親が右脚を負傷して動けないとのこと。娘さんからの通信は途中で途絶えました」
「青晶湖か」
黒瀬は冷めた缶コーヒーを置き、壁の時計を見た。
午後四時を過ぎている。
一般探索者の退場時刻は午後六時。普段なら、低層にいる観光客が地上へ戻り始める時間だった。
だが、今日は事情が違う。
管理所の壁には、二つの赤いランプが点灯していた。
一件目は第四階層で発生した集団食中毒。
救助員六名と医療班が搬送へ向かった。
二件目は第九階層の崩落事故。
残っていた救助員五名も、全員そちらへ出ている。
管理所に残っている現場要員は、黒瀬一人だった。
「魔力霧の状況は?」
「二十分前から濃度が上がっています。地下水路の増水予報も出ました。
山梨第二ダンジョンから応援が向かっていますが、到着には一時間以上かかります」
「一時間以上か。ちょっと待てないな」
黒瀬は椅子から立ち上がり、大きく伸びをした。
「じゃあ、行ってくるよ」
「待ってください」
管制員が慌てて振り返った。
「単独救助は禁止です」
「うん。知ってる」
「でしたら、応援を待ってください。青晶湖東岸は、増水が始まったら退路がなくなります」
「だから、今行かないとね」
黒瀬はいつもの調子で笑った。
管制員の表情は硬いままだ。
「黒瀬さんまで動けなくなったら、救助対象が増えるだけです」
「それは困るなあ」
「真面目に言っています」
「俺も真面目だよ」
黒瀬は壁際のロッカーを開けた。
「一時間待ったら、その二人は水の中かもしれない。だったら、動ける人が行った方がいい」
止血剤、固定具、保温シート、牽引ロープ、魔力灯、誘導杭を小型リュックへ詰める。
非常食の棚からチョコレートを三本取った。
「遠足に行くんじゃないんですよ」
「疲れたときは甘いものが一番だからね」
大きめのロッカーの奥には、黒い長剣が立てかけられていた。
二十年前。
日本にダンジョン探索者という職業が生まれたばかりの頃、黒瀬は探索者になった。
国内初の第四十階層到達。
災害級魔物の単独討伐。
世界探索者ランキング三位。
一時期は、日本最強の探索者と呼ばれていた。
だが、黒瀬は長剣を取らなかった。
腰に差したのは、刃渡り二十センチほどの救助用ナイフだけだ。
「戦わないんですか」
管制員が尋ねた。
「今日は探索じゃないからね」
黒瀬はロッカーを閉めた。
「迎えに行くだけだよ」
◇
奥多摩第一ダンジョンが出現して、二十三年になる。
かつては、未知の魔物があふれ出す危険地帯として恐れられていた。
今では低層の多くが整備され、年間百万人以上が訪れる観光地になっている。
第一階層には土産物店があり、第三階層ではおとなしい角兎に餌を与えられる。
第六階層の青晶湖は、特に人気が高い。
天井と湖底を覆う青い結晶が光を放ち、地下にいるとは思えない幻想的な景色を作り出す。
ダンジョンへ入らなくても、人は生きていける。
それでも人は、地上では見られない景色を求めて中へ入る。
家族と同じ景色を見たい。
日常から少しだけ離れたい。
昨日までの自分より、遠くまで歩いてみたい。
黒瀬には、その気持ちがよく分かった。
危険な場所へ、わざわざ入っていく。
知らない人には、馬鹿な行為に見えるかもしれない。
それでも、行った者にしか見られない景色がある。
その景色を見て、生き方が少し変わることもある。
だから黒瀬は、遭難者に「来なければよかった」とは言わない。
失敗したことより、まず生きていたことを喜ぶ。
反省するのは、そのあとでいい。
「救助管理所、こちら黒瀬。第五階層を通過」
『了解しました。魔力霧が急速に濃くなっています』
「こっちでも見えてるよ。真っ白だ」
『視界はどの程度ですか』
「三メートルくらいかな。美人がいても見逃すね」
『黒瀬さん』
「はいはい。真面目にやります」
黒瀬は端末の地図を閉じた。
魔力霧の中では、電子地図の位置情報が少しずつずれる。
初めてここへ入った人間は、端末の矢印が正しいと思い込んでしまう。
黒瀬は壁面の苔に触れた。
水の匂いを嗅ぎ、足元の傾斜を確かめる。
遠くを見ようとはしない。
次に踏む場所だけを見る。
右の壁に赤い苔。
その先に折れた石柱。
水滴の音が二つ重なる場所で左へ曲がる。
二十年間、黒瀬はダンジョンを歩いてきた。
最初の十年は、誰よりも深く進むために。
今は、誰かを連れて帰るために。
「第六階層へ入った。青晶湖の水位は?」
『平常時より十四センチ上昇しています。上昇速度も速まっています』
「帰りは南側の管理路を使うよ」
『そこは一般閉鎖区域です』
「うん。でも、水が来るのは正規ルートより遅い」
『通行状態は確認されていません』
「十七年前に通ったときは、ちゃんとつながってたよ」
『十七年前の情報を当てにしないでください』
「大丈夫。駄目だったら戻るから」
青晶湖へ出ると、霧の向こうに青い光がにじんでいた。
湖面の下に沈んだ無数の結晶が、星空のように瞬いている。
黒瀬は足を止めた。
「やっぱり、きれいだなあ」
『黒瀬さん?』
「いや。こっちの話」
こんな状況でなければ、しばらく座って眺めていたかった。
遭難した二人も、この景色を見に来たのだろう。
「救助隊でーす! 聞こえたら返事をしてください!」
黒瀬の明るい声が湖岸へ響いた。
返事はない。
濡れた地面に、二人分の足跡が残っている。
大きな靴跡と、小さな靴跡。
途中から、大きな方の足跡が乱れていた。
「救助隊でーす!」
「……こっちです!」
霧の奥から、少女の声が返ってきた。
「おっ、いたいた!」
黒瀬は声の方向へ進んだ。
大きな岩の陰に、父娘がいた。
父親は倒木にもたれ、右膝を押さえている。ズボンが裂け、血が黒くにじんでいた。
娘は、自分の上着を父親の脚へ巻きつけていた。
黒瀬の姿を見た瞬間、少女の顔がくしゃりと歪んだ。
「よかった」
黒瀬は二人の前へしゃがみ込んだ。
「二人とも、よく頑張ったね」
少女の目から涙がこぼれた。
「お父さんを助けてください」
「もちろん。そのために来たんだ」
黒瀬は父親の傷を確認した。
細い結晶片が、膝の外側へ刺さっている。
骨折はしていない。
結晶を抜かなければ、大量出血の危険も低かった。
「これ、抜かなかったのは君?」
黒瀬が尋ねると、少女はうなずいた。
「抜いたら血が出ると思って」
「大正解。すごいじゃないか」
「でも、通報が途中で切れて……」
「場所は分かった。十分だよ」
黒瀬はリュックからチョコレートを一本取り出し、少女へ渡した。
「食べられる?」
「今ですか?」
「今だから。君も疲れてる」
少女は戸惑いながら包装を開けた。
黒瀬は父親の脚へ固定具を巻き始めた。
「痛かったら言ってください」
「すみません」
「謝らなくて大丈夫」
「私が、娘の言うことを聞いていれば」
「その話は地上に帰ってから、ゆっくりしましょう」
黒瀬は父親の顔を見て笑った。
「ここは寒いから、長話には向かない」
少女が胸元から小さな透明容器を取り出した。
中には、青白い花びらが一枚入っている。
「星晶花?」
「はい」
七年に一度だけ、青晶湖東岸に咲く花だった。
「お母さんが好きだったんです」
少女が言った。
「三年前に亡くなったんですけど、昔から、三人で見に行こうって話してて」
父親が目を伏せた。
「妻が生きている間は、仕事を理由に来られませんでした。
来月、娘は妻の実家へ移ります。だから、今日が最後かもしれないと思って」
「なるほど」
「霧が出始めたとき、娘は戻ろうと言ったんです。それなのに、私は、あと少しだからと」
「花は見られました?」
父親が意外そうに黒瀬を見る。
「……はい」
「きれいでした?」
今度は少女がうなずいた。
「すごく」
「それはよかった」
黒瀬は固定具を締め終えた。
「じゃあ、次は三人で地上の景色を見よう」
父親の顔が歪んだ。
「責めないんですか」
「もう十分、自分で責めてるでしょう?」
黒瀬は父親の腕を自分の肩へ回した。
「今はその力を、歩く方に使いましょう」
「一人で来たんですか?」
少女が尋ねた。
「今日はみんな忙しくてね」
「私たちのせいで……」
「違うよ」
黒瀬はすぐに答えた。
「助けを呼んでくれたから、俺が来られた。ありがとう」
少女は驚いたように黒瀬を見た。
「さあ、出発しよう」
黒瀬は父親の身体を支えた。
「ゆっくりでいい。止まってもいい。でも、地上まで一緒に帰ろう」
◇
帰路へ入って五分後。
青晶湖の底から、地鳴りのような音が響いた。
湖面に細かな波が立ち、青い光が砕ける。
『黒瀬さん! 東岸水路が決壊しました!』
通信機から管制員の声が飛んできた。
『水位が急上昇しています。予測より二十分早いです!』
「そうか。急いだ方がよさそうだね」
背後から、大量の水が流れ込む音が近づいてくる。
父親の足が止まった。
「黒瀬さん。私を置いていってください」
「うん?」
「この速度では間に合わない。娘だけを連れていってください」
「それはできないなあ」
「私の判断が間違っていたんです。娘まで巻き込むわけには」
「娘さんを一人で帰す方が、つらいと思いますよ」
「でも、このままでは全員が」
「大丈夫」
黒瀬は霧の中で右手の岩壁を探った。
細い亀裂がある。
十七年前、探索中に偶然発見した横穴だった。
当時は南側の管理路まで抜けていた。
「別の道がある」
「地図にはありません」
「地図にない道って、ちょっとわくわくするでしょう?」
少女が不安そうに首を振った。
「しません」
「そうか。今はそうだよね」
黒瀬は笑って、横穴をのぞき込んだ。
「紗季ちゃん、先に入って。奥に小さな誘導灯が見えるまで、まっすぐ進む」
「お父さんは?」
「俺がちゃんと連れていくよ」
少女が横穴へ入った。
黒瀬は父親の身体に牽引ロープを巻き、自分が後ろから押す。
負傷した脚が岩へ触れ、父親がうめいた。
「痛いですよね」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃなくていいですよ。痛いときは痛いって言ってください」
冷たい水が足元へ届いた。
たちまち脛の高さまで上がる。
「もう無理です!」
父親が岩壁をつかんだ。
「俺のせいで、娘まで死んでしまう!」
「お父さん!」
横穴の先から少女が叫んだ。
「私が花を見たいって言ったから!」
二人の声が、狭い岩場の中でぶつかり合った。
黒瀬は父親の肩を軽く叩いた。
「お父さん」
父親が顔を上げる。
「娘さん、まだ話したいことがいっぱいあるみたいですよ」
「……はい」
「だったら、ここで終わるのはもったいない」
水は膝まで上がっていた。
「謝るのも、怒るのも、泣くのも、地上の方がいい。温かい飲み物もありますからね」
黒瀬はロープを握り直した。
「あと少し。よく頑張ってますよ」
父親が歯を食いしばり、再び前へ進み始めた。
そのとき、湖側から獣の咆哮が響いた。
白い霧の奥に、赤い目が浮かぶ。
三頭の青晶狼だった。
増水に追われ、高所へ逃げてきたらしい。
「黒瀬さん!」
「うん。来たねえ」
黒瀬の口調は変わらなかった。
「二人とも、そのまま前へ進んで」
「でも、あなたは」
「あとから行くよ」
黒瀬は父親のロープを少女へ渡した。
「紗季ちゃん、お父さんを引いてくれる?」
「無理です!」
「大丈夫。もう半分は横穴に入ってる。君ならできるよ」
「黒瀬さんはどうするんですか」
「ちょっと道を閉めてくる」
青晶狼が水を蹴った。
黒瀬は救助用ナイフを抜く。
二十年前からダンジョンへ潜ってきた黒瀬にとって、青晶狼は強敵ではない。
三頭すべてを倒すこともできる。
だが、血の匂いを流せば、さらに魔物が集まる。
今必要なのは、勝つことではない。
全員で帰ることだ。
黒瀬は岩壁を見上げた。
入口の上に、巨大な青晶柱が張り出している。
「ごめんね。ちょっと通れなくするよ」
誰にともなく言い、結晶の根元へナイフを突き立てる。
一度。
二度。
三度。
青晶狼が飛びかかってきた。
黒瀬は半歩だけ身体をずらし、狼の鼻先をナイフの柄で叩いた。
狼が水の中へ落ちる。
その間に最後の一撃を入れた。
青晶柱が大きく傾いた。
「よし」
黒瀬は横穴へ飛び込んだ。
直後、巨大な結晶が崩れ落ち、入口を塞いだ。
狼の爪が黒瀬の背中をかすめる。
救助服が裂け、熱い痛みが走った。
「黒瀬さん!」
少女の声が聞こえた。
「大丈夫、大丈夫!」
黒瀬は暗い横穴を進み、父親の背中を押した。
「みんな、よく頑張ってるよ!」
背後では、水と魔物が結晶の壁へぶつかっている。
だが、その音は次第に遠ざかっていった。
やがて先頭を行く少女が声を上げた。
「光が見えます!」
「うん。それが出口だ」
「本当に?」
「本当、本当」
少女が泣きながら笑った。
父親も、力の抜けたような息を吐いた。
黒瀬は二人の背中を押した。
「もう少しだ。地上まで帰ろう」
◇
三人がダンジョンの入口へ戻ったのは、午後六時二分だった。
待機していた救急隊員が父親を担架へ乗せる。
少女は父親の手を握ったまま離れなかった。
「黒瀬さん!」
管制員が走ってくる。
「背中から血が出ています!」
「本当?」
「自分で分からないんですか!」
「ちょっと痛いとは思ってた」
「すぐに医療班へ行ってください!」
「分かった、分かった」
黒瀬は困ったように笑った。
父親が担架の上から頭を下げる。
「黒瀬さん。本当に、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「え?」
「最後まで歩いてくれて、ありがとうございました」
黒瀬は少女を見る。
「紗季ちゃんも、よく頑張ったね。止血も通報も完璧だった」
少女は小さな容器を胸元で握りしめた。
「黒瀬さんは、どうして救助員になったんですか」
周囲にいた職員たちが、一瞬だけ静かになった。
かつて日本最強と呼ばれた探索者が、なぜ攻略の第一線を離れたのか。
何人もの記者が尋ね、黒瀬が詳しく語らなかった質問だった。
黒瀬はダンジョンの入口を振り返った。
暗い穴の奥に、青い光がかすかに揺れている。
「昔は、一番奥まで行ける人が、一番すごいと思ってたんだ」
「違うんですか?」
「奥へ行くのもすごいよ」
黒瀬は笑った。
「でも、帰ってくるのも、同じくらいすごい」
少女は黙って黒瀬を見上げていた。
「だから、帰るのを手伝う仕事もいいかなって思ったんだ」
救急車へ乗せられる前、父親が娘へ何かを言った。
娘は泣きながら父親の胸を叩き、そのあとで手を握った。
何を話したのか、黒瀬には聞こえなかった。
聞く必要もない。
二人とも生きている。
これから何度でも、話の続きをすることができる。
黒瀬は管理所へ戻った。
机の上には、飲みかけの缶コーヒーが残っている。
「まだ飲むんですか?」
管制員があきれた顔で言った。
「もったいないからね」
「先に治療です」
「一口だけ」
「駄目です」
黒瀬が残念そうにカップ麺を見た、そのとき。
壁に新しい赤いランプが点灯した。
管理所内に救難警報が響く。
黒瀬は缶コーヒーから目を離し、壁の表示を見た。
「今度はどこ?」
管制員が端末を確認する。
「第三階層です。単独の一般探索者が戻る途中に足を負傷したようです」
「第三階層か。近いね」
黒瀬は破れた救助服の上から、新しい上着を羽織った。
「黒瀬さんは治療です!」
「応援が戻るまで、場所だけ確認してくるよ」
「駄目です!」
「大丈夫」
黒瀬はいつものように笑った。
「助けを呼べたなら、あとは迎えに行くだけだから」




