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約束を破って申し訳ないが、やっぱり俺は彼女が━━━することをやめさせたい。

作者: 神経水弱



『私、決めたよ。━━━することに……したよ』



 新幹線の車中は盆休みで家族連れが多く、その子どもたちの賑やかな声で溢れている。


 もしあの中に混じれるような気分でいられたなら。


 もし帰省先に胸が躍る出来事が待っているなら。


 発車前に立ち寄ったトイレの鏡に映った血の気の引いた死人のような顔をせずに済んだのだろう。


 死人、実際に俺がそうなるのは遠い未来の話かもしれない。だが彼女は違う。


 幼い頃から大病を患い、入退院を繰り返している彼女、夜見原よみはら寿々(すず)は一週間後、確実にこの世にはいない。つまり死人になる。


 余命宣告はされたが、来年の春までは猶予があるらしいのに。


 八日前の時点では、来年までは少なくとも寿々の命が約束されたと身勝手に安心し、その時間まで彼女の側で過ごそうと息巻いていた。


 居心地の良い職場を捨て、上司に辞表を提出しようともしていた。そんなことを考えていた八日前の夜、寿々は電話で突拍子もないことを打ち明けてきたんだ。







「私、決めたよ。━━━することに……したよ」







「は?」


 寿々が選択した━━━という言葉を初めて彼女の口から聞いた時、俺は頭の中が真っ白になった。


 完治はできずとも、延命する手段はいくらでもあるはずなのに、寿々は━━━を選んだのだから。


 たぶんこの瞬間からだと思う。


 俺は寿々の死を象徴するその言葉を自発的に脳内で黒く塗りつぶし始めた。


 寿々がこの世からいなくなる。そしてその選択を彼女自身がした。そんな現実を拒み、認めたくなかったから。


「それ、本気なのか?」


「本気だよ。お父さんにも、お母さんにも説明して、納得してもらった。だからあとは秋斗あきとだけ」


「そんな、いくらなんでも唐突すぎるだろ」


「ごめん」


「今もそんなに辛いのか?」


「ううん。今はね、なんとか落ちついてる。ゴールデンウィークよりも元気だしね」


「じゃあ、なにをそんなに生き急いでんだよ。怖くて逃げたくなったとしても━━━なんて、俺は認めない」


「違うよ、秋斗。私は別に何も生き急いだわけでも、怖くて逃げたくて━━━を選択したわけでもない。これからのことを想像したの」


「これから?」


「そう。私がこの世からいなくなった後のみんなのこれから。それを考えれば、━━━が最適解だって気づいたの」


「言ってる意味がわからない。第一、俺は」


「秋斗、お願い!!これしかないの!!!」


 真っ直ぐで、強くて、堂々とした語気に俺はその時、本音を打ち明けられなくなってしまった。


 彼女の真意は理解できていない。


 だから流されたと言った方が適切か。


 そうでなければその後の八日間、俺は後悔に飲み込まれる自分をなだめることはできなかっただろう。


「わかってほしい。じゃないと後悔しか残らないから」


「……」


「秋斗」


「あぁ。わかった」


「……ありがとう。わかってくれたなら…よかった」


 電話の向こうで寿々は、小さく息を吐いたあと、淡々と続けた。


「それでね秋斗、━━━は日本では無理なんだ。だから、スイスに行くことにしたの。日取りももう決まってる」


「いつ?」


「八月十四日には日本を出て、二日後には」


「本気で言ってるのか?急すぎる。もう八日しかないじゃないか!全く。とにかく明日にでもすぐそっちに帰るから」


「だめっ!!」


「なんで?」


「だめなの」


「一緒に居たくないのか?」


「居たいよ」


 荒い吐息が止むと共に電話越しに寿々の啜り泣く声が聞こえてきた。


「わかってる。わかってる……けどね、最期まで特別扱いなんてされたくない。いつも通りでいたいの」


「そんなこと言ってる場合か?とにかく俺は」


「待って秋斗」


 震えた声と涙を押し殺すためか電話越しに寿々が深く息を吸い込んだのがわかった。


 次は何を言う気なのか。


 もう正直俺は、地に足がつかない心境だというのに。


「たぶん、たぶん最後のわがまま。私が、私が最後に日本で過ごす一日、一緒にいてくれませんか?」


 至極当然のことに、拍子抜けした気持ちが声色に出ていたかもしれない。


「あのな、寿々。俺は寿々と最期の瞬間まで側にいるって決めたんだ。寿々がどこへ行こうと」


「だめだよ。秋斗は日本まで」


「は?!どうして?それくらい望んでもいいだろう?」


「秋斗にもうこれ以上情け無い姿を私は見せたくない」


「こんな時までつまらないこと言うなよ」


「わかってよ!とにかくこれが最後のわがままなの。━━━のことも、最後の日まで私を見ないことも納得してくれるって約束してほしい。そのかわり、秋斗と過ごす最後の一日は絶対元気な私でいるから!」


「わがままにもすぎるだろ」


「秋斗……お願い、お願いします」


 まるで死に際の願いとでも言うのか、そんな無茶苦茶なわがままを突きつけられても、それ以上反論することはできなかった。


 挙げ句の果てにお願いしますとか改まって。そんなことで納得できるわけなんてないのに。


「わかったよ」


 全く、ずるいよ。


 




 そして八日経った今、明日旅立ってしまう寿々を引き止めるには充分と言っていいくらいに遅い帰路についている。


 帰省に胸を躍らせる子どもたちの笑い声なんて遠くに聞こえるほど、俺は寿々のことで頭がいっぱいだ。


 あの電話以降、寿々とは連絡が途絶えた。


 電話には出ないし、メッセージアプリも既読スルーをかまされている具合で、よく今朝まで帰郷を我慢できたもんだ。


 いや、我慢ではないか。


『秋斗っ……お願い!!約束して!!』


 なぜだかはわからないけど、この約束を破れば、寿々がすぐにでもこの世からいなくなってしまう。そんな気がしたからだ。


 そんな根拠のない動機に脅かされた自分が馬鹿らしいと思ったりもしてしまう。


 そんなことを思えば、寿々の約束を反故にしてでも、すぐに駆けつけるべきだったんだと八日前から続く後悔がさらに膨れ上がっていく。


 そんな後悔を抱えて、俺は新幹線と在来線を乗り継ぎ、ようやく実家の最寄り駅に降り立つ。


 寿々とは連絡がつかないから、おばさんに一本連絡を入れ、陽炎が立つアスファルトの道を走ることにした。


 歩いている暇なんてない。


 一刻も早く、寿々に会いたい。


 そして彼女の手を掴んで離したくない。俺の前から居なくならないように。


 最高気温三十八度と予想された焼けつくような中でさえも、俺はただ走った。

 

 実家に着くと両親に顔を見せずに玄関に荷物を置いて、汗でびっしょりになったシャツを脱ぎ捨て、カバンの一番手前に入っていた新しいシャツを取り出し着て、また玄関を飛び出す。


 実家の玄関からおよそ三十歩で右隣にある寿々の家の門前につく。


 見慣れた家。変わらない景色。門の脇の花壇に咲く花々の甘い香りは、毎年種類が変わっても、いつもと同じ夏の匂いがした。


 それなのに胸の奥に小さな違和感が刺さる。


 名残惜しさと愛おしさが混ざったような、そんな痛み、切なさを伴った違和感。



 『寿々と今日で永久的にお別れ』



 そんな言葉が脳裏をよぎる。


 なんて馬鹿なこと考えてるのだろう。この愚かで浅ましい思考が夏の熱と膨らんでいく後悔によるものであることを願いながらインターホンを押した。


「秋斗くん!いらっしゃいー、今開けるね」


 スピーカー越しに聞こえた明るい声が、膨れ上がっていた後悔を一瞬だけ小さくしてくれたような気がした。


 扉が開くと、その声色通りのいつもの優しい笑顔を浮かべたおばさんが迎えてくれた。


「秋斗くん、ありがとうね。さぁ、上がって上がって」


 靴を脱ぎながら、自然と頭を下げると上がり框に赤と黒のキャリーバッグがひとつずつ並んでいるのが視界に入った。


「狭くてごめんね」


「いえ。あの、これは寿々とおばさんの荷物ですか?」


「あぁ、いや違うのよ。私とパパの荷物なの。寿々は自分で用意するって言ってね」


 説明してくれるおばさんに向けた意識が薄れていく。


 視界に入るそのキャリーバッグが寿々の終わりを象徴しているような気がしてならないからだ。

 

 俺の心情を勘繰ったのか、おばさんはまるで俺をなだめるようにわかりやすくわざと明るく振る舞うのだ。


「寿々ね、秋斗くんからさっき駅に着いたって連絡来たとき、泣いて喜んでたのよ。あ、今朝もね、昨日から秋斗くんに会うのが楽しみで一睡もできなかったぁって言ってね。やっぱりあの子は本当に秋斗くんのことが好きなんだなぁって」


「はは、寿々は相変わらずですね」


 寿々の様子を聞かされながら、おばさんに案内されて、二階の寿々の部屋の前へと立つ。


 待ち望んだ瞬間なのに、一刻も早くドアノブを捻り扉を開けたいのに。


 また違和感。



 『寿々と今日で永久的にお別れ』



 なんでまたこの言葉がよぎるんだ。


 俺はこれを良しとしているのか?


 いや、そんなはずはない。俺は今日、これを否定し、考え改めさせるためにここにいるのだから。


 深呼吸をひとつ、手をドアノブにかけようとしたその瞬間、勢いよく扉が開いた。


「秋斗っ!」


 デニムジャケットに黒いミニスカート姿の寿々はその艶やかな茶髪のナチュラルボブを軽やかに揺らしながら飛び込んできた。


「寿々…」


「ふふっ、びっくりした?」


 圧迫していた後悔が一瞬で吹き飛んでしまうほどに、元気な姿だった。

 服装のせいか、四年前の遊園地デートが脳裏をかすめる。


 あのときも寿々は無邪気で、自由で、まるで病なんて感じさせないくらいに元気だった。


 だからこそ、そんな彼女の姿が嬉しくて、痛い。


「秋斗、帰ってきてくれてありがとう……私、すごくすごく嬉しい」


「あら、大人っぽく立ち振る舞うんじゃなかったの?」


「だってぇ」

 

 俺の胸から軽く顔を上げた寿々は少し頬を赤らめ、口を尖らせる。そんな寿々をくすくすと笑うおばさん。


「さっきまで、『今まで秋斗にみっともないところばかり見せちゃったから、今日くらいは大人びた私を見せつけてやるんだ』って張り切ってたもんねー」


「もう!なんで全部言うの!」


 今日くらい


 その言葉に、息が詰まる。


 本当に今日でお別れなのか?


 いや、そんなことありえない。受け入れられない。


 やっぱり━━━なんて間違っている。


 だって寿々はこんなにも元気で笑って俺を抱きしめている。明日以降の未来だって感じさせてくれているじゃないか。


 そうだ。


 八日前に寿々と交わした約束を反故にしたって構わない。だから俺はやるんだ。


 ━━━を諦めさせる。



「あきとぉー、ぼーっとしてないで早く入ってよ」


「え?あぁ、わかった」


 気がつけば、おばさんの姿はもうなかった。

 階段を下る足音が小さくなっていく中、寿々に腕をぐいっと掴まれ、部屋の中へと引きずり込まれた。


 八畳ほどの寿々の部屋はいつも通りの見慣れた生活感のある部屋だった。まるで彼女自身の寿命が尽きるまでここで相変わらず過ごす予定であるかのように。


 ただひとつ、変わったことあるとすれば、部屋の隅にぽつんと置かれた見慣れない小さなリュックだけが目に入った。

 海外へ行くにしては小さすぎる。まるで電車にでも乗って日帰り旅行へ行くかのような、そんな大きさ。


 まさか本当に明日以降も寿々はこの部屋で過ごすつもりなんじゃないのか?


 そんな淡い希望が、胸の奥でかすかに膨らんでいくと、気づけば口を突いて出ていた。


「驚いたな。部屋が全く変わってない。まるで明日からもこの部屋で過ごすみたいだ」


「むぅー。それって、部屋が汚いって意味?」


「あ、いや、そういうわけじゃないが。ほら、あの小さなリュック!あれだって、どうみても海外に行くようなものじゃないだろ?だから、本当に行くのかな…って」


「行くよ。行くし、荷物があのリュックにおさまる分だけだからね。私が最期まで肩身に置いておくのはあのリュックにおさまる分だけで充分だから」


「最期か…」


 今ほど、せっかちな自分の性分を恨んだことはない。


「あ、そうだ!あの中に入ってるの、ほとんど秋斗からもらったやつなんだよ!」


 くすっと笑みを溢す寿々だが、その覚悟は、俺が思っているよりも定まっているらしい。


 そしてどうやらこのまま俺が何もリアクションを起こさなければ、寿々は明日本当に俺の前からいなくなることも理解した。


 喉の奥が熱くなる。今度は不安と恐怖が胸の奥でざらつく。

 

 とにかく寿々の口から、━━━を否定する言葉が聞きたい。言ってほしい。


 そんな藁にもすがるような気持ちで、俺はせっかちにも声を出していた。


「本当は行きたくないとか、そうは思わないのか?」


「まさか。自分で決めたことだもん」


「嫌なら嫌だって言ってもいいんだぞ?」


「嫌じゃない。何度も何度も熟慮したからこの選択肢に至ったの。てか、これ以上言うと怒るよ?」


「そうだよな……ごめん」


 怒るなんて言いながらも、冗談めいた風に微笑を浮かべる寿々のその優しさ、強さに、俺はどうしようもなく怖くなった。


 一人娘が明日━━━をしに行くっていうのに、おばさんがいつも通りだったのも、寿々の覚悟と決意に納得したからだろうか。


 それはつまり俺が、今更何を言っても変わらないということかもしれない。


 そうだとしても納得なんてできるわけがない。頭では理解しても、心が拒絶しているんだから。


「なぁ、寿々。やっぱり━━━は」


「秋斗」


 何を言おうしたかまるで察したかのように、言葉を遮り、手を取った寿々は俺をベッドへと腰掛けさせ、ぎゅっと抱きしめてきた。


 力強く、寂しさや不安からできた胸の奥に開いた穴を塞ぐかのように。


「秋斗……私のこの選択に賛同するって約束してくれたよね?」


「寿々…あぁ……やっぱりこないだの━━━を納得するって約束だけは守れない!寿々…俺は」


「だめ!言わないで」


「寿々、俺はただ、寿々とこうやってずっと一緒にいたいんだ。時間がたとえ何時間、何日、何年しか残っていなくても。二人で足掻ける限り足掻きたいし、何より可能な限り俺は寿々の側から離れたくない」


 年甲斐もなく、わがままで、幼稚な叫びだと思う。だけどそれが本音の全てだった。


 そんな俺の本音に寿々は何も言わず、ただ、より強く俺を抱きしめてきた。


 細い腕に込められた力がまるで頑な彼女の覚悟と決意を尊重するかのようで痛い。


 なぜ。


 なぜわかってくれない。


 俺には寿々、君しかいないというのに。


 それでも寿々の中から━━━が消えないのならば、どんな醜態を晒してもいい。どんな身勝手をぶつけてもいい。


 俺を抱きしめるこの腕をどうにかして繋ぎ止めたい。


 そんな想いに浮かされ、また素直に、わがままに胸の内を曝け出すことにした。


「寿々、俺は寿々がなんと言おうとこれからもずっと側にいるつもりだ。一緒に足掻きたいんだ。足掻いて足掻いて、俺は寿々との明日がほしい。だから寿々、━━━なんて」


「秋斗…」


「━━━なんて辞めよう。今ならまだ引き返せる。これからはずっと側にいる。もう仕事もやめて、毎日寿々といる。だから二人で方法を探そう。━━━よりも良い方法を」


「秋斗、お願いわかって?約束をちゃんと守って」


「俺には寿々しかいないんだよ!!!」


 つい我慢できず、本心を荒げた声にして寿々にぶつけてしまった。


 その反動からか、目頭が少しずつ熱くなり、内側からいろんなものが込み上げてくる。


 八日前に彼女の気持ちを押し切ってでも説得しに帰るべきだったという後悔、無力な自分に対する怒り、本当に━━━なんて選択肢を捨ててほしいという切実な願い、なんとかしなければという焦り、これらの本音を押し殺したがために生じた苦しみ。


 それらが混ざって涙として次々と頬を伝い、俺の腹に顔を埋める寿々の頭上に滴り落ちていく。止めようにも止まらない。


 寿々はゆっくりと顔を上げる。


 見ないでほしい。


 こんなにも涙で顔を濡らして、醜態を晒しているのに、寿々、君のその覚悟と決意は揺るがないのだろう。


 それなら泣いている俺の姿なんて、ただ哀れなだけじゃないか。


 けれどそんな俺に寿々が見せた表情は困った表情でも、悲しみに満ちた表情でもなかった。


 穏やかで、やさしくて、まるで覚悟と決意そのものが彼女の中に根づいたからこそ現れた微笑だった。


 なんで。


「なんで、なんでそんな顔してられんだよ」


 震えた声の俺に寿々は、小さく目を細めた柔らかい笑顔と優しい声で答えた。


「今も幸せだからだよ。ずーっとずーっと、秋斗と繋がれて、私は幸せだったよ」


 そう言うと寿々はその表情のままで、手を伸ばし、ゆっくりと俺の頭を撫で下ろしては、また撫でる。


 まるで、泣き止まない子どもをあやすみたいに優しく何度も撫でてくれている。


 全く情け無いないな、俺は。


 泣いて、縋って、慰められて。

 守りたいのは、俺のほうなのに。


 感傷の中で息を詰まらせていると、寿々は優しく口を開いた。


「だから、もう満足なんだってば」


「満足って。何勝手に満足してやがんだよ」


 俺は鼻をすすりながら、それでもなんとか言い返したかった。


「俺はまだ満足してない。これからもっと、もっと寿々を幸せにするんだ。だからこれからなんだよ」


 その言葉に、寿々は手を俺の頭から離し、ゆっくりと首を横に振る。


「秋斗はやっぱりわかってないなぁ」


「わかってないのは寿々だ」


 聞き分けのない子どものように噛みつく俺に、寿々は相変わらずの微笑を浮かべる。

 その笑顔には怒りも呆れもなく、ただ相変わらず優しさだけが滲んでいた。


「秋斗はずーっと私のことを想ってくれた。考えてくれた。それはね、側にいてくれることよりもずーっと幸せなことなんだよ?わかる?」


「わからない。わかりたくもない。もし俺がわかったなんて言えば、寿々はいなくなるのだろう?言っとくが、俺は━━━なんて嫌だ。そんな最期、俺は、俺は」


 不甲斐ない言葉を吐くどうしようもない俺の頬を寿々の温かい手のひらが優しく包み込んだ。


「私は死なない。ちょっと旅に出るだけだよ」


「旅?」


「そう。いつ帰れるかわからない旅。でもきっと必ず帰ってくる。その旅でね、私はこの病気から解放されて元気に、自由になるの。そして私はちゃんと秋斗の元に帰ってくるの。だから、ね。待っていてほしいな」



 元気に、自由になって。



 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に灯がともった。

 

 たぶん理解に近い。

 いや、認めたくはないけど、寿々の言葉が少しだけ心に染みて、不本意にも腑に落ちてしまった。


 そんな俺の心中を勘繰ったかのように寿々は柔らかく微笑み、言葉を紡いだ。


「ねぇ、秋斗。秋斗はどんな私が好き?」


「それは…」


 寿々の問いに、俺の脳裏に素直に浮かんだのは四年前、今日と同じ服装をした寿々が今みたいに元気だった時に行った遊園地デートの光景。


 十九歳にもなるのに、まるで小学生の子どものようにはしゃいで、無邪気に元気に、そして自由駆け回っていた光景。


 なぜ、その光景を浮かばせた?


 いや、難しいことじゃないか。答えはシンプルだ。


 それに気づけば、不思議と落ち着きが戻っていくのがわかった。


 俺は冷静に寿々を見つめて、手を取り、問いに答えることにした。


「四年前の、遊園地デート。あの日の寿々だ。なぁ、あの日のこと、忘れてないだろ?」


「あぁね。もちろんだよ。忘れるわけないじゃん」


「元気に、自由に、走って笑って。俺はまるで保護者みたいな気分だった」


「あれ、馬鹿にしてる?」


「いや。そんな寿々が俺は一番好きだってことだよ」


「今日だって同じでしょ?」


「そうだな」


 寿々は少しだけ首を傾げ、俺をじっと見つめる。


「ねぇ秋斗。私が死んでも秋斗の記憶の中ではずっと私は生きてくんだと思うの。だからこそ秋斗の中で生きていくのなら、泣いて弱って、最期まで誰かにすがる私じゃなくて、自由に、元気な私でいたいって思ったんだよね」


 寿々の言葉と握った手の中から伝わってくるその温かさが、恐怖や焦りによって凍っていた俺の心の氷を溶かしていく。


「それが━━━を選んだ決め手か?」


 俺の問いに、寿々は満面の笑みを溢して頷く。


 迷いのない寿々の気持ちとそんな清々しい笑顔まで見せられては、さすがにもう辞めろなんて言う気はない。


「最初からそう言えよ」


「秋斗、せっかちだから。あの日、電話した時にちゃんと説明しようとしたのに怒ったり、急に元気なくなって変に素直なるから、これはちゃんと会って説明しなきゃなって思って言えなかったんだよ」


「あのなぁ。唐突にあんなこと言われたら誰だって混乱するに決まってるだろ?挙げ句の果てに、あの後メッセージも電話も応答なしだったしな」


「秋斗は理解してくれるのに時間がかかるからねぇ」


 まぁ否定はしないな


「間違ってないでしょ?」


「間違えてはいない。だけどおかげでこの八日間生きた心地がしなかったけどな」


「そりゃあ、わるうござんしたね」


 寿々は舌をちょこんと出して、いたずらっぽく笑った。その彼女らしい仕草に、俺もつられて、ようやく笑えた。


「とにかく、今ようやく納得したよ。けどそれは言葉にしてくれたから、だけどな?」


「それでも、秋斗なりに八日間しっかり考えてくれたんでしょ?だから納得してもらえたんだよ」


「そうかな。まぁ旅に出るって言われたら、確かに想像つくよ。元気にはしゃいで、小さい子どものように走り回ってる寿々が」


「それ、馬鹿にしてるー?」


「してないよ。むしろ長所だと思う。元気で無邪気で。それから気を遣ってばかりのように思わせて、実はすごいわがままで、そうだなぁ、単的に言えばやっぱり子どもっぽくて…」


「ストップストーップ!!もう!やっぱりばかにするじゃん。そういうとこ、直さないとダメだと思うなぁ」


 ぷくっと頬を膨らませる寿々はやはり子どもっぽい。


 でもそれが本来の寿々であるならば俺も意地悪はよして、本当に伝えたいことを伝えてあげようと思う。


「ごめんごめん。訂正するよ。そう怒るなよ」


 拗ねてそっぽをむき始めた寿々の頬に手を当て、俺は真っ直ぐにみつめる。


「寿々は最期まで他人のことを思って、考えて、自分自身を貫き通すことができる。素晴らしくて誇らしい俺の自慢の最愛の人だ。それが覆ることはずっと…俺が生きている限りずっとない」


 俺の口から出た本心は、彼女の我慢を崩壊させたようだ。


 これまた無邪気に素直に、声を出して泣いている彼女の泣き声を、俺は力強く抱きしめて包み隠した。


 こういうとき、彼氏は黙って彼女に寄り添うべきかもしれないが、情け無いことに俺も涙が止まらなかった。


 下唇を噛み締め、鼻水を垂らし、無様に泣いた。


「子どもっぽいのは、秋斗もじゃん」


「う、うるさい」


 勝ち逃げで終わりたかったのに、肝心なところでヘマをした俺を、同じように涙や鼻水でぐちゃぐちゃにした顔の寿々に笑われた。


「秋斗はねぇ、立派で、私のことを一番に考えてくれるけど、実はわがままでせっかちで、感情的になりやすいんだよなぁ。あと、時々意地悪で私よりも子どもっぽいんだよね」


「悪口が多くないか?」


「人の話を最後まで聞かなくて、なかなか頑固なところもあるよねぇ」


「それは否定はしないな」


「それでもね、そんな秋斗が私はこの先もずーっとずーーーっと大好き。これが覆ることも永遠にないよ」


「結局俺と同じじゃないか」


「そう。だからね」


 目をつぶった寿々の顔が目の前にまで接近すれば、彼女の温もりのこもった唇が俺の唇に押し当てられる。


 この温もりを俺はこの先、一生忘れることはないだろう。


 愛おしく感じる暇もなく、寿々はさっと顔を引くと、花が咲いたような笑顔を向けてきた。


「だから…私が帰るの、待っていてね。約束だからね!」


「あぁ、約束」


「本当?今度こそは約束破らないでね?」


「破らない。命をかけてもいい」


「簡単にかけないで」


「簡単にはかけていない。それくらいの心意気ってことだよ。あー、でもせっかちだから、早く帰ってきてくれないと浮気しちゃうかも」


「ふーん。ま、私と似たような素敵な女性となら一緒に待ってくれてもいいよ?」


「あぁ、ならそうする」


「よし」


「いや、冗談だよ。てかいつもみたく否定しろよ。らしくない」


「いいの。病気で動けなかった十年分くらいは旅してたいしさ。その間、秋斗がひとりぼっちになってるの想像したら可哀想だもん」


「全く、最後まで馬鹿にされてんのか心配されてんのか」


「後者だよ。当たり前でしょ?ちゃんと秋斗の幸せも考えてるのよ、私。どう?素敵な彼女でしょ?」


「あぁ、そうだな。寿々はそういう彼女だ」


「素敵な、ね?」


「そう素敵な。だから好きになった」


 くすくすと笑い合う俺たちは、明日からしばらくのお別れだというのに、不思議なことに、その時からいつもと変わらなかった。






 結局その後は二人で思い出に浸り、彼女が眠りにつくまで寄り添い合い、時にはお互いの愛を確かめ合った。


 彼女が眠くなり、半開きになった重い瞼をこすりながら布団に入ったのは二十二時半だった。


「秋斗…手…握って」


 俺は右手で寿々の小さく華奢な手を握り、左手で温かい彼女の頬を撫でる。


 ゆっくりと目を瞑りながら、彼女は穏やかな表情で口を開く。


「秋斗…私がいなくてもちゃんと幸せになるんだよ。約束だからね」


 最後の最後までか。


「あぁ。今度は絶対約束を守る。だから寿々は心配せずに旅を……楽しんでこい」


 下唇を噛み締め、涙を流すまいと感情を堪える俺は見えてないだろう。

 目を閉じている寿々はゆっくりと頷く。


「秋斗…行ってきます」


 なるべくいつもと同じように声を出そうにも、詰まってしまいそうで少し沈黙をおく必要があった。


 なんとか涙を引っ込めて、ようやく口に出せた。


「いってらっしゃい」


 そう声をかける頃には、笑顔で無邪気に子どもっぽい寝顔で小さく寝息をかいていた。


 最後の最後までいつも通りか。


 でもそれで良い。


 これからの寿々は、病から解放され、元気で自由で、今日と変わらない大好きな彼女のままなのだから。






 寿々の家を後にしてから眠れなくて、結局翌朝まで起きていた。


 少しだけ東の空が紺碧の清々しい色に輝く頃、寿々はおじさんとおばさんに挟まれ無邪気に笑顔で旅立っていくのを実家の自室のカーテンの隙間から見送った。


 寿々は四年前の遊園地デートと同じ服装、同じような子どもじみた笑顔だった。


 いつも通り。いつも通りなのだ。これからは。


 寿々の喜ばしい門出なのに、悲しみは止めどなく湧き上がる。押し止めようにも、寿々の姿を焼き付けようとすれば、愛おしさからくる涙は止めどなく溢れた。


 そんな俺にとって生涯、忘れることのない日から十年経ったというのに、未だに寿々がいなくなったという実感はない。


 彼女の名前が刻まれた墓の前に立っても、目の前の墓石の下には確かに寿々の遺骨が納められているとわかっていてもだ。


 どうしても寿々がこの世からいなくなったとは思えない。


 そうだ。いなくなってはいない。


 そうだな。例えば今日みたいな風や雲一つない陽が心地よい春の日とか。


 突然背後から、『ただいま!』とか言って唐突に現れたりしそう。あ、いや『ばーーっ』とかかな。




「ばーーーっ!」





 全くいいタイミングだな。


 あまりにもタイミングが良すぎて、驚きよりも笑みが溢れてしまうのだが。


 そんな父の気も知らず、足に飛びついきた少女はしてやったりと意地悪に笑う。


「えへへ、びっくりした?」


「あぁ、びっくりした。まぁ今朝の方がびっくりしたけど」


「もぅー、パパつまんない」


 頬を膨らませる小学一年生になる彼女の名前はすず


「ところで鈴、ママは?車から降りた時から一緒に居たんじゃないのか?」


「ママはお花買いに行ったー」


「あー。お花か。そう言えば、忘れてたな」


「ママ怒ってたよー。パパはせっかちだから、肝心なこと忘れすぎてママは困っちゃうって」


 何も言えないけど、ここは父親としてのメンツを守ろうにもいつも通り苦笑で誤魔化すしかなかった。


 そんな時だった。


 どこともなく勢いよく風が吹きつけてきた。


 それでも温かく、優しい、元気で自由な風。



『秋斗!』



 十年間待ち侘びたその声は耳に入ってきたというよりは脳内に直接響いた具合だ。


 ただ、その声はまるですぐ側から呼びかけられるくらいの声量だった。


 なんとかその声の正体を探るように辺りを見回すが、その声量が聞こえる範囲には鈴しかいない。


 そうだとするならば、これほど嬉しいことはない。


「寿々…」


「なぁに?パパ」


「え?あ、いや、なんでもない」


 やっとか。ちゃんと宣言通り十年。


 それでもちゃんと帰ってきてくれたのか。


 全く。いつも通りだな寿々は。


「ねぇー、パパ!なんでもないことないでしょー!気になる」


 寿々、俺も約束を守ったぞ。


 十年間、君を想い続け、君の帰りを待っていた。


 あとちゃんと幸せになった。寿々に似た素敵な女性と運良く出会い、娘も。


 驚いただろ?俺の娘は君と同じ名前だ。


 驚かせたかったのも、まぁ少しはあるけれど、君に似て、思いやりのある子に育ってほしいって願いを込めたんだ。


 つまり、まぁリスペクトだな。悪くないだろ?

 

「パパーっ!聞いてる?てか、なんで一人で笑ってるの?すず、なんにも面白いこと言ってないよ」


「え?あぁ、ちょっと思い出したことがあってな」


 そうだ、寿々。俺は、寿々が帰ってきたら、どうしても伝えたいことがあったんだ。


 十年間、ずっと伝えたかったことだ。


「なぁすず」


「ん?」


「すず。いつも元気でいてくれて、ありがとうな。そんなすずが大好きだよ。これからもずっと」


「うん!鈴もパパ好きー!」


 俺に抱きつく鈴。


 その俺たちの周囲をひゅーっと鈴が転がるような音を立てながら吹くその風は、十年前と変わらず、温かく、優しく、元気で自由だった。

まだまだ未熟者で勉強中ですので、おかしい点や不明な点、また誤植、誤字、脱字があればぜひ教えてください!

あ、友達のように気軽に教えてくださいね!


もし仮に、上記に当てはまらず、純粋に良かったと思っていただいた場合はお星様★★★★★をお願いします。

めっちゃ喜びます(๑˃̵ᴗ˂̵)



 

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