女王
阿久津と南部の言問は、無粋な輩に邪魔をされました。これは南部を仕留める絶対の自信が有っての作戦だったのでしょうが、阿久津が訪問したことで謎の護衛部隊との戦闘になります。
別邸の縁側に、朝霧が漂っていた。庭の石灯籠は、苔の緑と霧の白に半ば隠れ、まるで古の霊が息づいているかのようだった。南部敏行の握る茶碗から、かすかな湯気が立ち上る。だが、その目は、目の前の男、阿久津博を鋭く捉えていた。
「貴方は、怒りを忘れたわけではない。だが、それを動かす力は、すでに別の誰かに握られているのでは?」
阿久津の言葉は静かだが、まるで刃のように鋭く南部を試していた。
南部の眉がピクリと動いた。
「別の誰か? 貴様、何を知っている?」
阿久津は答える代わりに、庭の石灯籠に目をやった。霧の中で、かすかに揺れる影があった。いや、影ではない。黒い装備に身を包んだ人影だ。
「気づいていましたか、南部さん。貴方の別邸は、すでに包囲されています。」
阿久津の声は穏やかだったが、その言葉は冷たく、霧を切り裂くようだった。
山中の斜面では、監視者たちが無音で動いていた。
黒い装備に身を包んだ隊員たちは、別邸の灯りを遠くに見据え、霧に紛れて散開した。
リーダーの男が、通信機から流れる声を聞く。冷たく、しかしどこか優雅な女性の声だった。
「繰り返す。目標は南部敏行、または阿久津を害そうとする者。確度70%。無力化後、阿久津博の安全を確保せよ。抵抗があれば、躊躇するな。」 若い隊員が囁いた。
「女王の声…いつも思うが、まるで複数の人間が重なって話しているようだ。」
リーダーは小さく頷き、双眼鏡を下ろした。
「それが彼女たちの力だ。一人ではない。合議体だ。だが、俺たちには関係ない。任務を遂行する。」 霧が濃く立ち込める庭で、どこかで鳥が鳴いた。鋭く、戦いの前触れのようだった。
縁側では、南部と阿久津の対話が続いていた。
「貴方が統制していると信じている愚連隊やヤクザは、とっくに別の指示系統に従っている。」
阿久津の言葉は、まるで霧のように静かに広がった。
南部の目が一瞬剥き出しになり、茶碗を縁側に叩きつけた。
「馬鹿な! バラバラだった愚連隊を、金と東北の魂で一つにまとめたのはこの儂だ!」
阿久津は動じず、静かに続けた。
「残念ながら、彼らの多くはルーツを中朝に持つ。血は水よりも濃い、ということです。」
「それが何だ! 目的のためなら、猛獣を飼いならすのも必要だろう!」
南部の声は怒りに震えていたが、どこか虚勢を張っているようにも聞こえた。
「その猛獣は、貴方に見切りをつけたか、不必要と判断したようです。」
阿久津の目は、霧の向こうの影を捉えていた。その時、山側からかすかな笛のような音が響いた。短く、鋭い音。
戦場を知る者なら、それが隠密行動の合図だと気づくはずだった。 南部の顔から血の気が引いた。
「何だ、その音は? 貴様、どこまで知っている?」
阿久津は静かに立ち上がり、縁側から庭を見下ろした。
「中朝の勢力が、貴方の手駒に直接の指揮系統を築いた。貴方には、口封じの刺客が送られていると予測していました。」
「まさか?」
南部の声は、初めて弱々しく響いた。
「この会談は、南部さん、貴方を守るための囮です。」
阿久津の言葉に、南部の目が揺れた。庭先に、霧の中から黒服の集団が現れた。
無音で、まるで影が実体化したかのように。だが、阿久津は彼らに片手を上げ、落ち着いた声で告げた。
「安心してください。私と一緒にいる限り、貴方の安全は確保されています。」
南部の肩がわずかに落ち、老人の顔に悔しさが滲んだ。
「あいつら、俺の恩を忘れたのか?」
「全員がそうとは限りません。指揮系統の一部が、別の勢力—金一族に忠誠を誓う者たち—に握られただけです。まだ、間に合います。」
阿久津の声には、ほのかな優しさが混じっていた。
「だが、俺たちの悲願は…」
南部の声は、霧のようにかすれていた。
「南部さん。」
阿久津は、老人の目を真っ直ぐに見つめた。
「中朝という狂犬を利用するのは、目的のためなら賢い選択です。だが、その猟犬はすでに別の狩人に従っている。その怖さは、貴方も知っているはずです。満州からの引き揚げで、お母様が味わった辛苦を。」
南部の目が一瞬遠くを見た。
「母の…」
「私の祖母も、同じだった。現地の者たちに裏切られ、子供たちを連れて祖国に戻るため、どれほどの苦難を耐えたか。」
阿久津の声は静かだったが、その言葉は縁側に重く響いた。霧の中、笛の音が遠ざかり、静寂が戻った。庭先にいた黒服の数名が、礼をして霧に消えた。
「見事な手際だ。」
南部の声に、かすかな感嘆が混じった。
「ええ、プロですから。」
阿久津は微笑み、二人の間に、年齢を超えた奇妙な連帯感が生まれていた。
「これで俺は、どの勢力からも敵と見なされるのか?」
南部の口元に、苦い笑みが浮かんだ。だが、その目は再び「東北の巨人」の鋭さを取り戻していた。
「返り忠という言葉がありますね。」
阿久津は、まるで戦友に向けるような笑みを浮かべた。
「聞こうじゃないか。どうせ、貴様の描いた絵図だろう?」
南部もまた、悪戯な笑みを返し、縁側の座に戻った。
監視者は護衛も兼ねていたと言うことで、部隊の練度と女王の権威が伺われる一幕でした。南部と阿久津の間にも、奇妙な連帯感が生まれたようで、この二人が国家を手玉に取ることは有るのでしょうか?




