Chap.1 - EP4(10)『霊蝕門 ―巨級霊蟲―』
ずるり。
強引に広げられた霊蝕門から、その巨体は這い出してきた。
既に穴は崩れて閉じつつあった。つまりジャンヌ達の目的は達したと言えるのだが、そんな事など無為にしてしまう脅威が、姿を見せようとしている。
まず見えたのは、生物の頭骨に似た、明らかに頭部らしきもの。
瞳はなく、耳もない。あるのは骨のような外観と、剥き出しにされた人間の歯の如き、巨大な口のみ。
体も、まるで干からびた木乃伊のように、皮というか腐りかけた色の有機物らしきものが骨に貼り付き浮き上がっている。しかし人型の巨大な木乃伊かと言われたら、それとは全く違う。そもそも人の形をしていないのだ。
両腕はいびつなほどに巨大で、前腕部分が盾のようなものと融合している異様な形状。むしろこの両腕が足かと思えるほどの巨大さだ。
斯様に魁夷な両腕だったが、肉のこそげ落ちた剥き出しの肋や背骨に似た胴体は人に似ていた。ただし問題は、下半身だった。
一言で言えば巨大な蛇――いや、太さや体表のぬめり具合い、それに鱗のないところを見れば、蛇というよりナマコやナメクジに近いかもしれない。
つまり、骸骨の化け物の上半身に、ナメクジの下半身をした巨人。
大きさは、聖女兵器と同じくらいだろうか。
ゆうに二〇メートルは超えている。
あまりの異形、異様さに、全員が言葉を失っていた。
見た事のない化け物。初めて見る怪物。
話に聞く〝魔女兵器〟をどことなく想起させるが、それとも明らかに違うおぞましさがあった。
「な……何ですか……あれ……」
こういう事柄に詳しいであろうホランドですら、あれが何なのかすぐには分からなかった。
「あれは〝人化霊蟲〟だ」
具象化されて漂うラグイルが答える。
「人化霊蟲……?」
「こっちの世界では別の呼び方だっけか。確か――〝巨級霊蟲〟……だったかな」
「マムート……。まさか……! あれがあの――!」
ホランドが驚愕と共に言葉を詰まらせると、ジャンヌがどういう事だと尋ねた。
「聖典の創世神話に書かれた怪物です。原初の戦いであらわれたという、邪霊の尖兵。偉大なる最初の神霊によって滅ぼされたという、悪魔の御使い。そんな……馬鹿な……」
「あれがヤバいってのは見た目で分かるけど……そんなになの?」
首を左右に振り、ホランドが頭を抱えて声を絞り出す。
「おそらく教会の誰も、あんな怪物、見た人間はいないでしょう。あれは、神話の世界の化け物なんです。実在するとは教えられていますが、神話の時代にのみ出現しただけで、誰も本物を見た事がないと聞いています。勿論、私だって知りません。教会では、最初の神霊によって滅ぼされたとされていましたが、まさかそんな……まだ実在していたなんて……」
「滅ぼされたってのは、てめえら人間がそう思っただけだろ。つか、エオスポロスのババアがやったのは、こっちに紛れ込んだ分を始末しただけだろーが。あっちの世界じゃ、こんなのウロウロしてるぜ」
「何て事……」
ホランドが絶句する。
ナメクジの化け物の大型霊蟲など、赤子以下の大きさに思えるほどの巨大さ。
しかも下半身が異形の形態であるため、おそらく頭の先から尻尾 (?)の長さの合計は、聖女兵器を超えるだろう。
しかし巨大であるからといって、どれほどの脅威なのかは分からない。何がどう危険なのかをジャンヌがラグイルに尋ねると、オレンジ色の神霊はその場でトンボ返りを打ちながら答える。
「物理的な破壊力は――外見見りゃ分かるな。あのデケぇ腕を使えば、そこらの建物なんざ紙屑同然だ。問題は、あれこそが霊蟲の完成形だっつー事だな。まあ正確にはちょっと違うんだが、霊蟲が成長した姿ってのは間違いねえ。つまりあれを止めなきゃ、この世界はいいように変えられちまうって事でもある。それが霊蟲の役割だからな」
「いいように変える役目って……何それ」
「そもそも霊蟲ってのはだ、邪霊の眷属が住みやすいように空間を造り変える役割を担ってんだよ。奴らはどれも、こっちの世界でいう〝腐ってる〟ものが好みっつーか、それが栄養になるみてえってのは知ってるか? だからこっちの世界の、生きてるあらゆるものを腐らせるのさ。それがあいつらにとっての心地良い居場所って事になるからな。――て事はだ、分かるか? あの巨級霊蟲は、それの超上位種だ。つまり周囲を腐らせる力も、低級邪霊である霊蟲とは比べものになんねえって事だ。このままあいつを放置すれば、行き着く先はそこらじゅう全部が腐った世界だぜ。不衛生なんて可愛いもんじゃねえぞ」
腐敗にまみれた世界――。
比喩的な意味ではなく、世界を腐らせるのが霊蟲の役目で、その最大級のものが、巨級霊蟲という怪物であるという。
その時不意に、巨級霊蟲が上半身を仰け反らせ、周囲一帯に響き渡る雄叫びをあげた。
音量もさりながらその咆哮があまりに不快すぎる音のため、全員が耳を塞いで苦悶に顔を歪める。
「なっ――何、これっ?!」
窓ガラスを爪で引っ掻いた音に近い、破壊的騒音。
それを大きくしたようなものと言えばいいか。
背筋も肌も、あまりの気持ち悪さに震えが起きるほど。
しかも雄叫びが止むと、その音のせいか周囲の建物がぼろぼろと崩れている。木々も葉を枯らし、空気は淀みを孕んでいるかのよう。
「術でも何でもねえから名前はないが、あの声は周りを腐らせる力をもった厄介なもんだぞ。ようは聖女兵器の聖女霊歌みたいなもんだ。早速、この街ごと全部を腐らせるつもりみてえだぜ」
どうやらラグイルは神霊であるからか、この不快な叫びを聞いても平気らしい。
しかし平気なのは屍喰人たちも同じようで、ジャンヌらが苦しんでいるのをこれ幸いとばかりに広場に集まろうとしていた。それどころか、今の声で屍喰人もそうだが霊蟲も活性化したのか、動きが激しくなりつつある始末だ。
霊蝕門の災害を止めに来たら、それ以上の厄災が出現したなど、冗談にしてはタチが悪すぎるし、悪夢ならこれ以上なく悪趣味だった。
けれどもこれは冗談でも悪夢でもなく、紛れもない現実なのだ。
ラグイルがジャンヌに近寄って囁く。
「オレを出せ。それしか手はねえぞ」
恨めしいような複雑な感情の目で、ジャンヌは己の神霊を睨んだ。
ラグイルを出す――即ち、聖女兵器を出せという事。
あんな怪物、それしかないのは分かっている。
しかしここでジャンヌが聖女兵器を出せば、勢いづいた屍喰人や霊蟲らから、ホランド達を誰が守るというのか? 大型霊蟲の残りとて、まだいるかもしれないのだ。あんなものがもし襲ってきたら――護衛の騎士たった一人でそれを防ぎ切れるとは思えない。ホランドとて教会の司祭だから多少は強い神霊力を持っているが、元から彼の力は戦闘向きでないし、出力もそこまでではない。
つまり仲間を見捨てて聖女兵器を出すか、それとも聖女兵器を出さずに街を見捨てるか――。
究極の二者択一。
なのに――いやだからこそか――迷っている時間はなかった。
「いいのか、このままあのクソデカナメクジを放っておいて。邪霊を祓うのも聖女の役目だ。そうじゃねえのかよ?」
「分かってる! 分かってる――でも――!」
「後はこいつらの運に賭けろ。ダメだった時は尊い犠牲だった――なんつって悲しんどきゃいいじゃねえか。今すべき事を決断するのもおめえの役目なんだぜ」
「あんたは――!」
これが本当に神聖な神の御使いである神霊の口にする言葉なのか。
あまりに酷薄な発言に、己の分かち難い分身だと分かっていても、ジャンヌは思わず叩き落とそうと手が出かかってしまう。
だが同時に、ラグイルの言葉が最も正しい事も分かっていた。
それを理解しているからこそ、苦しんでいるのだ。悩んでいるのだ。
どうすべきか。何を捨て、何を生かすべきなのかを。
「おい!」
「ああっ! もう!」
見捨てる――?
もしもホランドやギルダに何かあったらどうする――?
ホランドに――。
「ジャンヌ、私達の事は構いません! 聖女兵器を出してください!」
そのホランドが言った。
「で、でも――」
「大丈夫です。私だってテルス教の司祭ですから、神霊力だってあります。ギルダさんの事も私と騎士のお二人に任せて」
顔は青ざめ、今にも恐怖で崩折れそうなのに、精一杯の笑顔をホランドは見せる。
彼は彼で、戦おうとしている。この怪物達に。己の恐怖と弱さに。
分かっている――決断すべきだって。でも――。
そこへ、活性化した屍喰人の群れがわらわらとこちらへ向かってきた。
しかもそれと同時に、巨級霊蟲が地上に向かって巨大な腕を振るう。
「きゃああ!」
拳が大地を砕く。その衝撃で、四人が共に吹き飛ばされた。
破壊の余波で周囲が瓦礫と土煙だらけになるも、視界が塞がれるほではなかった。
しかし――。
ジャンヌの目に映る、肉塊。
護衛の騎士が、人の形を完全に失い、血肉の染みとなっていた。
それがついさっきまで会話もしていた騎士の成れの果てだと分かったのは、剣や鎧だったモノが、僅かにその名残りを見せていたから。
――うっ。
あまりの惨い死に方に、思わず吐き気を覚えるジャンヌ。
しかしそれよりも――。
即座に周囲を見渡すと、吹き飛んで倒れてはいるものの、無事な姿のホランドとギルダを見つけた。胸を撫で下ろすが、むしろ危機はもうすぐ隣まで来ていた。
ホランドの二、三メートルの距離に――つまり、今まさに襲おうとする恰好の――屍喰人たち。
――ダメっ!
ジャンヌは叫ぼうとするも、引き攣って声が出ない。
だが次の瞬間――
ホランドに、ギルダに――
屍喰人が触れようとする間際――
二桁を超える群れの屍喰人が、群れごとその場に跪いたのだ。
――?!
いや、跪いたのではない。
見えぬ力で、無理矢理捩じ伏せられたと言うべきか。
「大丈夫かっ」
声。
馬蹄の響きと共にあらわれたのは――。




