Chap.1 - EP1(2)『聖女兵器 ―マリーゴールドの乙女―』
何――と思う間もなく、柑橘類系の香りが彼の鼻腔に飛び込んでくる。
初夏のように爽やかで瑞々しい芳香と共に、太陽の欠片を切り取った色のドレスが、目の前を横切った。
「何だぁ、今度は?」
戸惑う暴漢の声。
ホランドの視界に翻ったのは、鮮やかなオレンジのスカート。
ミルクティー色のブラウンヘアーを軽やかに踊らせた、貴族の婦女子らしい乙女。
「酒場の女の子を殴るは司祭様に暴言を吐くは、どっちがくだらないのよ。今ここで一番迷惑をかけてんのは、間違いなくあんた達だわ」
「どこのガキだ……! 横からしゃしゃり出てきやがって」
ミルクティー色を捕まえようと、男の一人が前に出て手を伸ばす。
華奢な少女は、男の半分以下がいいところの体格差。思わず反射的に、「危ない」とホランドが叫びそうになる。
しかし次の瞬間、何をどうやったのか――。
男の視界はぐるりと反転し、脳天から大地に叩きつけられていた。
「――!」
呆気に取られる群衆。ホランドも傭兵崩れも、唖然となった。
「さあ、迷惑かけたみんなに謝んなさいな」
ゴミを片付けたように、両手をパンパンと払う少女。
後ろで結んだ長い髪が、彼女の動きと共に快活に動く。
「このクソアマ、貴族だからって容赦しねえぞ」
今度は男女の傭兵二人が、少女へと殺到した。
さすがに今度はただでは済まない。そう思ったのも束の間。
少女はドレスのままで軽やかに跳び上がると、己の手を空中で翻らせた。
駒鳥よりも俊敏な、まるで軽技のような動き。
少女よりも大柄なだけに、それに比例して鈍重である傭兵達に捕まえられるはずもなく、気付いた時には少女の姿を見失った後。
その時ホランドの目に、何かの線が走ったように見えた。
――光の糸?
同時に、二人の男女が盛大に倒れ込む。
傍目には素早い動きの少女に翻弄され、屈強であるにも関わらず、戦士二人が転んだようにしか見えなかっただろう。
しかも倒れ方が顔からだったせいで、男女二人ともに痛々しそうな鼻血を流す不様さ。
間抜けな姿に、群衆からどっと笑い声がおきた。
「図体ばかりで口先だけじゃないの。戦場帰りなんて言ってたけど、ようは弱い者いじめしか出来ない情けない人間の事かしら?」
何が起こったのか――今度はホランドではなく、暴漢三人が狼狽えている。
クッ、クソッ――。
実に無個性な捨て台詞と共に、頭から倒れた一人を引き摺るようにして、三人が逃げていく。
いつの間にか増えている人だかりから、やんやと喝采が起こった。
「いいぞ、ねえちゃん」「よくやった」そんな声に照れもしなければ悪びれもせずに手を振る少女。
しかも喝采を浴びる中、「あ、そうだ。暴れて壊した扉とかの弁償代、払わせとくんだった」と余裕の声さえあげていた。
展開の早さに声をなくし、ただただ棒立ちになって少女を見つめるホランド。
その目に、不可解なものが飛び込んでくる。
さっき見えた糸のようなもの。それが陽光を反射して、一瞬だけ視認出来たのだ。しかもその糸は、彼女の手の平から出ているように見えた。
――あれは。
目にしたそれを疑うように、ホランドは己の両の瞼をきつくこすった。
――見間違い? いや、でも……。
その様子に気付いた少女が、花を渡る蝶のような軽快さで、ホランドへ近付いていった。
「大丈夫ですか? 司祭様」
少女を近くで見たホランドの胸が、自分でも分かるくらいに大きな鼓動をたてる。
「え、ええ……」
自分の声が上擦っているのが、滑稽なくらいに分かった。
――まさか。そんな感情。
男女でよくある感情の一つ。それを意識しながら、ホランドはそうではないと必死で否定した。
この気持ちは、恋じゃない――と。
そんな彼の心を分かっているのかいないのか、彼女はどこまでも透明な笑顔で、彼に微笑みかける。
人を魅了するような、どこか魔術的な色合いをした狼眼の瞳に、白磁器のきめ細やかさを持った肌。
背丈は小柄の部類だろう。
男性の中では平均になるホランドより、頭一つかそれよりもう少し下になる。けれども晴天のような眩い空気が、背丈以上の何かを彼女に纏わせていた。
だがそれ以上に印象的だったのは、彼女から発せられる香り。
オレンジ色のドレスから放たれているものなのか、やはり柑橘類の爽やかな香りが漂ってくる。香草のような鮮烈さの中に混じる、ほんのりとした甘さ。
「マリーゴールド……?」
夏に咲く、オレンジや黄色の鮮やかな花。
放たれる香りとドレスの色は、まさにマリーゴールドの花を思わせた。
「何?」
「あ、いや、その――」
思わず口に出してしまった事よりも、遠慮なく顔を近付ける活発さというか大胆さに、異性への免疫が少ないホランドは目を逸らしてどぎまぎしてしまう。そのせいで、さっき目にした〝あれ〟が何だったのかを聞きそびれてしまった事に、後になって気付く事になる。
「神霊に仕える聖職者って、みんなそうなの?」
「え?」
「貴方、見たところまだ司祭に成りたてって感じだよね? 教会の司祭様にしてはすっごい若いから。なのに、あんな連中に歯向かっていくなんて、勇気あるんだなって」
「そ、そんな……。貴女こそ、さっきのあれは見事でした。何か、武芸みたいなものを嗜んでいるのですか?」
「武芸? そんな風に見える?」
ホランドの発言の何が面白かったのか、ころころと笑うマリーゴールドの少女。
その手に思わず注視してしまうが、角度的に手の平は、ホランドからは見えない。
「とにかくさ、そこの女の子を助けて、乱暴者に意見までして、ほんと格好良かったよ」
元々人との距離を近く取る性格なのか、ホランドの二〇年の人生でかつてないほどに、美少女の笑顔が間近にあった。
「いや、彼女を助けたのは偶然というか偶々というか……」
そういえばと思い、吹き飛ばされて伸びている方の少女に目を向けると、ようやっと気がついたように体を起こそうとしている。
「心配しないで司祭様。あの子の事はあたしが見ておくから」
片手を突き出すマリーゴールドの少女。
柔らかな手の平を握り返した瞬間、さっき以上に強い芳香がホランドの鼻腔を刺激した。
初夏を思わせる、ほのかな甘さの花の香り。
女性からは、男性にはないいい匂いがするとは、ホランドも聞いたことがある。この香りがそうなのか、それとも彼女が香水のようなものを身に着けており、それによるものなのか。
彼には分からなかった。
それとは別に、香りに惑わされた訳ではなかったが、握手を交わした際にもやはり手の平は見えなかった。
「あたし、ジャンヌ」
「え、あ――私はホランドと言います。ホランド・ジャンセン」
ジャンセン――その名を知っていたのだろうか。
ジャンヌと名乗ったマリーゴールドは、僅かに目を細めた。
「ふうん――いいとこの生まれなんだ」
「知っていましたか、ジャンセンの家の名前」
「まあ……ね」
「貴族出身なんて言っても、ジャンセンはよくある家ですよ。それに私はジャンセンと言っても、中流の生まれです。ダンメルクやここゼーランにも上級貴族のジャンセン家はいますが、私はそんな立派な家柄のジャンセンではないので」
「それでも白い血の貴族だから、司祭様にもなったって事でしょ? あ、ごめんなさい。詮索みたいに聞いちゃって」
「いえ――」
「それじゃあ後は、あたしが片付けておくから。司祭様は用事があるんでしょう」
「え? 何で」
「ジャンセン家の人なんてここらじゃいないし、そもそも貴方みたいな若くて身なりのいい司祭様なんて、見ない顔だもの。何かこの街に用があって他所から来たんじゃないかなって、そう思っただけ」
甘やかな香りに、荒くれ傭兵をいなす度胸と運動神経。
花のような健やかさもあれば、こちらを見透かすような言葉まで言ってくる。
神秘的――そんな言葉がホランドの頭の中で浮かんでいた。
既に黒髪の少女を助け起こす方に意識も体も向かっている彼女を、ただ呆けたように見つめていると、後ろから彼を呼ぶ声がした。
「貴方――」
済まなそうに身を縮めている男を見て、ホランドは呆れた声をあげる。
彼の道案内に遣わされた、教会の下男だった。
「その、大丈夫ですか、司祭様」
「……私は何ともないですが、一体今まで何処に」
「いや、怖くなって隠れてまして……。すいやせん」
頭を低くして謝る男を見て、思わず大きな溜め息が漏れてしまう。とはいえ、彼も無事で良かったと思ったのも束の間。
さっき目にしたジャンヌという少女の〝あれ〟を確かめたくて、再度そちらへ目を向けると――。
「あ、さっきの娘さんならもういませんね」
下男の言葉を聞くまでもなく、オレンジ色のドレスはもう視界の何処からも消えていた。
――あれは……。
見間違いだったのか、そうでなかったのか。
そこではじめて、ホランドは己の胸の鼓動が治まっている事に気付いたのだった。
今日は生涯で二番目に最悪の日だ――などと思っていた気持ちは、あのマリーゴールドの香りと共に、どこかへ飛ばされてしまったようにも思えた……。
その後――。
下男の案内で、ホランドは夕方の少し前には目的の教会へと辿り着く事となる。
ここに来るまでの間に見聞した街の風景に、ホランドは午前中に出くわした騒動など綺麗に忘れる事が出来ていた。それほどまでに、ここオゼンセの街で見かける人々の表情や雰囲気には、どことなく重いものがあったからだ。
治安は決して悪くない。近隣諸国ではきな臭い話も聞く昨今だが、それに比べるとむしろ安定しているようにすら思える。
また、馬やロバも目にするものの糞便はそこまで散らかっておらず、路上にも清潔感があった。それだけ街の生活基盤がしっかりとしている証拠だろう。それは衛生面だけではなかった。
広場で開かれていた蚤の市で人の姿を多く見かけた事からも、それが窺える。
だが、人は多くともそこで扱われている品々は、どうにも人の数と合っているようには見えない。しかも値段が他国と比べて倍はあるように見受けられた。
人は多いが活気はない。
買い手も売り手も表情に余裕はなかった。
貧困国――とまではいかないまでも、国全体の生活水準がぎりぎりの状態。
隣国からの影響と、長い間この国に聖女が出現していない事が、強い影を落としているのだろう。
それを反映してか、街の規模に比べて教会の数が多いように思われた。
人々の願いが、形となっている証かもしれない。
聖女こそが、国に平和と繁栄を齎す――。
象徴的な意味ではなく、事実としてそれはあった。
逆に言えば、聖女が不在のままなのにここまで平和でいられた事、それ自体が奇跡だとも言えた。それだけこの国の王が、優れた人間という事でもあるのだろう。
それでも聖女と、かの神秘なる女性がその身に孕む〝神霊〟を、人々は求めるもの。
だからこそホランドは、中央の教会からこのゼーラン王国に派遣されてきたのだ。
テルス教・聖女認定機関の聖女調査官として。
オゼンセ川沿いの道路に建つ教会に、ようやっと辿り着くホランド。
赤煉瓦に覆われ、いくつもの尖塔が臨む荘厳なそこが、目的のイェンセン教会。
門には迎えの修道士が、待ちかねたように立っていた。
「お待たせしました」
謝辞を述べつつ門を潜ろうとした、まさにその瞬間――。
ふわり。
柑橘類に似た香りが、今朝の記憶を思い出させる。
――これは。
修道士達の後ろから、オレンジ色があらわれた。
「中央教会のホランド・ジャンセン司祭ですね」
修道士の一人が、挨拶を口にする。
けれどもそんな言葉も他の修道士のどの姿も、ホランドの目と耳には入ってこなかった。
「未来の聖女様――いえ、聖女候補の方々も、このとおりお待ちになられております」
太陽の欠片を切り取った色のドレス。
ミルクティー色の髪に、狼眼の瞳。
「こんにちは、ホランド司祭」
笑顔と一緒にあの香りが、今朝の新鮮な記憶を呼び覚まさせる。
「君は……」
「聖女候補の、ジャンヌ・ジャンセンです」
同じジャンセンの家名。
再び鼓動が、早くなった気がした。
今日は生涯で二番目に最悪の日――。
何故だかその言葉が、もう一度ホランドの脳裏に浮かんでいた。