クズ、死人を思い出す。
部屋の隅を、ローレンツはちらりと見た。
「いい加減項垂れるのをやめろ、空気がまずくなる」
『この独居房、もともと空気が悪いと思うんですけどぉ』
「屁理屈を言うな」
『屁理屈じゃなくてぇ』
どよんとする女神に、ローレンツは、『啓示書』をめくる手を止めた。水色の髪を床に垂らして、三角座りをする女神。いつもふよふよと漂われるのも邪魔だと思うが、こうして飛ばないでどんよりとしているのも、それはそれで邪魔である。
「お前の精神が、そんなに脆いとは思わなかったよ」
『うぅ、だってぇ、ローレンツさんに、私の体を暴かれたんですよぉ?』
そのうち、女神はえぐえぐとしゃくりあげ始めた。ローレンツは、ふんと鼻を鳴らした。
「骨と、付着している肉を調べただけじゃないか。何を泣く必要がある?」
『狂人、私が言うのもなんだけど狂人んん』
ぽかぽかと女神がローレンツのことを殴ってくるが、彼女に実体はないので、思う存分殴らせてやる。
『ローレンツさんは、ご自分の遺体が暴かれたらどう思いますか!?』
「そいつに殺意を抱くな。末代まで祟ってやる」
『ほら、ほらぁ!』
「だが、考古学はこうして発展してきた。俺の骨が何らかの役に立つのなら、墓だろうが何だろうが暴かせてやる」
『へ、変な方向に覚悟が決まってるんだよなぁ、この人。自分は、えひっ、骨も残らず焼け死んだくせに』
今度は、ローレンツが三角座りをする番だった。
エイヘンの村で、女神クロノの遺体を見つけたことで、ローレンツの中では自信が芽生えた。すなわち、『啓示書』は、この解き方で正解である。
「もともとは、エイヘンが『啓示書』を所有していたんだ。儀式に及んでいても不思議じゃない」
『あのクソ村人ども、私が身寄りのないぼっちと見るや否や、囲んで殺そうとしてきたんですよぉ。正直、アルブレヒトが虐殺してくれて、溜飲が下がりましたぁ』
「良かったな、アルブレヒトに憑いた方が良いんじゃないか?」
『私はぁ、ローレンツさんが良いんですよぅ』
すり、と女神がローレンツの体に、自分の頬を擦りつける。
『ローレンツさんが、エイヘンにいてくれたら、私は殺されずに済んだかもしれません』
「それなら、その時間まで時を戻せばよかったじゃないか。俺を赤ん坊の頃に戻せば」
『……その権限は、私に無いんですぅ』
「急に非力ぶるな」
触れないのは承知で、女神の頬を押し退ける。
「とにかく、これで『啓示書』の解読が進む。あと三日あれば、全てを解き明かせるはずだ」
『本当に、解き明かして良いんですか?』
「? 当然だろう」
『本当に?』
女神の瞳には、謎の光が浮かんでいた。
ローレンツが、その瞳に縫いとめられている時。
がたん、と独居房の入り口が開き。
「たす、け、ろ……」
全身が血まみれで、どこを怪我しているのかわからない男が、前のめりで倒れてきた。
男は、倒れた時点で絶命していた。
「誰だ、この男は……」
『えぇ……』
肩をガックリ落とした女神が教えてくれたところには、この男は、前にローレンツを足蹴にした上級将校らしい。
ローレンツは、髪をかき上げた。半眼になる。
「とてつもなく面倒くさい臭いがする。どうしてこの男が死んでいるんだ?」
『それは私にもわかりません。でも、ローレンツさん。早く医者を呼んだ方が良いのでは? このままでは、ローレンツさんが殺人犯にされてしまうかも』
「それは大いにあり得るな。この男は、俺に一度暴力を振るっている。俺には動機がある」
『そうですねぇ、どうしましょっかぁ』
によによと笑う女神に、ローレンツは、じっくりと死体を見下ろし。
「よし、埋めよう」
そうはいっても、成人男性一人分は、ひ弱なローレンツには、抱えるのも難しい。
「埋めるというのは比喩だ。しばらく隠しておこう」
ぱちんと指を鳴らすと、男の死体は、ぱっと消えた。以前、夜中に出てきた女神を消した技である。
女神ほどとなると、自力で飛ばした空間から出てくるが、普通の人間、ましてや死体では、自力でここに戻ってくることは不可能。
「“顕現”というのはとても便利だな」
『私の空間に死体遺棄しないでくれますか?』
どうやら、その空間というのは、女神のテリトリーらしい。『不法投棄されたんですけど』と、不満のようなものを垂れ流している。
ローレンツは、一仕事終えて(指を鳴らしただけ)額に浮いた汗を手の甲で拭った。
「俺の住処に死体を投げ込んだ人間が悪い。それに、今際の際に口が悪くなるのは少々いただけない。もっと誇り高く死ねば良いのに」
『ローレンツさんの遺言、“アルブレヒトのクソッタレ”だった気がするんですけど』
「それは、別の世界の俺じゃないか?」
『……』
呆れのようなものを滲ませて、女神はローレンツを見た。
その呆れ顔が、ほどなくして、輝かんばかりの笑顔になったのは、それから数時間後である。
「嘘だろう」
配られたのは手配書。そこには、見知った顔が二つ。一人目は、あの上級将校。
どうやら奴は少尉だったらしい。まあそこは良い。問題は、どうして異空間送りにした死体が、兵舎脇の修練場で見つかったのか。
そして。
「思い出した」
ローレンツの脳内に流れてくる記憶。そうだ、これは、逆なのだ。
「前の世界で。ノイス・フランメ・アインホルンは、あの男に殺されていた。それが、この世界では」
彼は、少尉を殺した殺人犯として、手配されてしまったのだ。