クズ、菓子を振る舞われる。
「くくく、新しい花を植える? とんだ理想主義者だな。だが、嫌いじゃない……うまく扱えそうだからなぁ! はーはっは!」
『うわ、クズぅ……』
女神のドン引きした声が聞こえても、ローレンツは高笑いをやめなかった。ユリアン・シーデ・フックスとの邂逅から二日。甘ったれた理想論を掲げて、爽やかに帰っていった白髪の若造は、さぞ御し易いだろうと、ローレンツは上機嫌である。
『ていうか、なんでまた独居房にいるんですか? 引きこもりですか?』
「ここが一番安全だからな」
女神の失礼な言葉は聞き流すとして。ローレンツは、『啓示書』をめくった。アルブレヒトは、ローレンツ専用の部屋を用意するとかなんとか言っていたが、そんなのは願い下げだ。
ローレンツは、目をギラギラさせながら、解読作業を進めていく。
「“そのむかし、めがみはつくられた”……暗くてじめっとして、時折虫が這うここが、俺の集中力を上げてくれるんだ……“けいじしょ”……どうして啓示書のことが、啓示書自体に出てくる? 辞書に辞書が載るならまだしも、植物図鑑に植物図鑑が載っているようなものだぞ、これは……なるほど、そうか、ここは……」
『とことん日陰者なんですね、ローレンツさんは……あ』
「どうした?」
ローレンツの問いに、女神は少し視線を泳がせた。
『あー、えーと、お客さんです』
短く刈った髪は清潔感と雄々しさを表していて、吐き気がするほどに瞳がまっすぐだ。
襟や胸元には、若くして得た勲章が、燦然と輝いている。これが略綬になる日は、そう遠くはないだろう。
馬鹿正直に勲章をぶら下げている男の名前は、ノイス・フランメ・アインホルン。階級は中尉。由緒正しきアインホルンのお貴族様である。
そんな誇り高い男が、こんな埃臭い独居房に、何の用があるのだろうか。ノイスは、嫌味な視線一つなく、辺りを見回して言った。
「ここが、君の居室か。道理で、あそこの廊下で行き倒れるわけだ」
居室には居室だが、第三者に言われると複雑な気持ちになるローレンツである。『啓示書』を閉じて、ノイスに向き直る。
ただし、起立しているノイスに対して、ローレンツは座ったまま。この前手を差し伸べられた時の経験を活かし、これくらいなら許されるだろうという計算の元だ。
「中尉殿、俺の部屋に、何か御用で?」
「ああ……用というほどでもないんだが」
そう言って、ノイスが取り出したのは。
「菓子、ですか」
「そう、このような戦場では、なかなかお目にかかれない高級品だ。一緒に食べよう」
「へ?」
いそいそと茶を淹れて(この独居房は、虫が這ってはいるが、茶器などを運び込んだのでたいへん住み心地が良い)、ノイスは目を細めた。存外柔らかな表情だ。ローレンツは、茶を啜りながらそう思った。
「どうして俺に、この菓子を?」
「……君がふと頭に浮かんだからだ。俺のような身分では、誰かに菓子を与えることすらも、贔屓と見做されてしまう」
それはそうだろうな、とローレンツは思った。ノイスは貴族であり中尉。アルブレヒトの周りもそうだが、そういった類の人間には、蠅のように手を擦る人間が必ずついてくる。そうして、その蠅のような人間どもは、目をかけられた人間を許さないのだ。
前世にて、アルブレヒトと仲良くし過ぎて、上級将校に嵌められたローレンツのように。
そんな人間を作らないために、このノイスという男は頭を悩ませているのである。
「せっかく、美味い菓子を貰ったんだ。誰かと食べたいが、誰と食べても角が立つ。だが、君は違う。これは、“差し入れ”だ」
「“差し入れ”ですか、成程」
美味い菓子をもらったら、誰かと食べる前に独り占めにするだろうとローレンツは思ったが、口に出さないでおいた。
「独居房に入っておいて良かったです。こうして、美味い菓子にありつけた」
バターと小麦と砂糖をふんだんに使った菓子は高級だ。戦場でなによりも尊ばれるのは、日持ちのする食品である。このような、熱い日の下に置いておいたらすぐに腐ってしまいそうなものは、そもそも好まれないのである。
ノイスは微笑んだ。
「それに、君は廊下で行き倒れていただろう。菓子をやるなら、君だと思った。戦場では、誰もが切迫しているが、普段の生活で切迫しているのは、君ぐらいだからな」
「俺は、時間を忘れるだけです」
ローレンツは反駁した。失敬な。ローレンツの中では、『啓示書』の解読が最優先事項なのであって、食事睡眠排泄が二の次になるだけである。
『便秘になりますよ』
五月蝿い女神がそんなことを言ってくるが無視である。
「やはり、君は面白いな。君だけ、別の世界にいるみたいだ」
一息ついて、ノイスは、机の上の『啓示書』を見る。しまった、隠すべきだったか。
あっという間に菓子を食べ終わり、いいというのに茶器をしっかりと洗って、ノイスは片手を挙げた。
「また、ここに来て良いだろうか」
「妙な噂が立ちますよ」
「そうだな、俺は“男前”だからな」
「ご勝手に」
「そうさせてもらうよ」
そう言って、ノイスは独居房を去っていった。
『あのノイスという男は、前世では死体姿しか見たことが無かったが、なかなか気持ちのよい青年だったな。性格が壊滅的な俺のところにきて、菓子を振る舞い、あまつさえ、また来るだのと』
「勝手に俺の気持ちを代弁するな」
『えひひっ』
神妙な顔をして、ローレンツの真似事をする女神を、ローレンツはぎろりと睨んで、とあることを思って、硬い床に寝転ぶ。そろそろ絨毯も欲しいところだ。
「女神、俺が帝国を裏切ったとして」
『はい』
「あの男は、俺を殺しに来ると思うか? 意外と許してくれたりするだろうか?」
『いや、あの人、帝国貴族で軍人ですよぉ。裏切ったら、こう!』
寝そべるローレンツの体に自らの体を密着させて、女神は、ローレンツの首元に、自らの手を刀のようにして添えた。ローレンツは、ため息をついた。
「だろうな」
『えぇ、どうしたんですか? あの人のこと、怖いんですか?』
「……知ってるくせに。ノイス・フランメ・アインホルンは、アルブレヒト・フォン・シュレッターと並び立つほどに、帝国の中で有力視されていたんだ……」
『つまり?』
「ノイスを引き抜くことができれば、アルブレヒトの死が近くなるということだ。逆に」
俺がユリアンの元に行けば、アルブレヒトとノイス、二人を相手取らなくてはならなくなる。