クズ、頭を下げる。
女神は、眉を器用に持ち上げた。
『ですが、ユリアンのスパイをアルブレヒトさんに売ったら、アインホルン中尉の無実が証明されてしまいますよ』
「そうだな。せっかく空になった兵舎に、二人が戻されることになってしまう」
女神の言葉に、ローレンツはもっともだと頷いた。
「だから、そうならないようにする。二人が別の理由で、兵舎を留守にするように仕向ければ良いんだ」
『あ、ああ〜』
そこでようやく、女神も、ローレンツの考えに至ったらしい。というか、思考を読まれた。
『ユリアンのスパイを、今のアインホルン中尉と同じ立場にするわけですね』
「そうだ。そうすれば、兵舎が空になる。俺はその隙に、ユリアンの所に、『啓示書』を届けられるわけだ。どうだ、完璧な作戦だろう」
『うーん、虫が良すぎる気がしますが、そうしたら、二人共撒けますね』
「今の状況よりも好転するしな」
それだけ言って、ローレンツは、ただ一つの疑問に眉を顰めた。
「そもそもなぜ、中尉殿が逃げているのかが疑問なんだ。状況証拠が何だ、さっさと『俺はやっていない』と言えばいいものを。それだけの力はあるだろう、アインホルンは貴族なのだから」
まさか、家の力を使いたくないとは言うまい。いや、あの生真面目な軍人ならば、それくらい言うかもしれないが。
「死んでは元も子もないだろうに」
『……前の世界でひどい死に方をした人が言うと、説得力が違いますねぇ』
「黙れ生贄」
女神が、貫通するはずもない拳を懸命に振り上げた。ローレンツはそれを無視する。
「それからスパイ候補だが、やはり怪しいのは第一発見者だな。あの少尉の遺体が“顕現”で現れた時に、たまたま、現場を目撃したとは考えにくい」
『お誂え向きに、アインホルン中尉が修練をしていたのは、日も昇らない時間帯らしいですからねぇ』
「不自然すぎるのに、どうしてアルブレヒトは気付かないのだか。目撃者がよっぽど信頼できる人間だったのか?」
ローレンツは、手配届を手に取った。殺された少尉の名前と似顔絵、殺害容疑を掛けられているアインホルン中尉の名前と似顔絵が載っている。当然、目撃者の名前などは載っていない。
『どうします? ローレンツさん。引きこもりのローレンツさんじゃ、捜査前線の情報は何一つわからないじゃないですか……えひっ』
女神が若干馬鹿にしたように笑うのを、ローレンツは「これだから低俗は」と息を吐き。
「だったら、わかる人間を召喚すれば良いだろう」
ローレンツの屋敷(独居房)にやってきたアルブレヒトは、困惑しているようだった。彼は、中尉捜索の傍ら、国策である『啓示書』解読の進捗も確認しなければならない立場にある。
「貴公がこのことに関わる必要は全くない。厳しい言い方だが、汲んでくれ、ローレンツ」
弱々しい言い方。
「貴公の頭脳があれば、アインホルン中尉殿の捜索も捗るだろうが……貴公に、このことに触れさせてはならぬと言われている」
「言われている? どういうことだ、教えてくれ!」
ローレンツは、前のめりでアルブレヒトに迫った。アルブレヒトが仰け反るが、それにも構わずに。
「アインホルン中尉は、俺に菓子を差し入れてくれた。そんな中尉が、殺人をするだなんて、考えられないんだ」
「ローレンツ……」
アルブレヒトは、悲壮な表情を浮かべた。嘆くローレンツの肩に手を置く。
「貴公に、この事件についての詳細を教えられないのは、貴公が中尉殿と親しかったからだ……それから、私の事情に、貴公を巻き込むわけにはいかない」
「驚いた、知っていたんだな。俺たちの関係を」
『二回会っただけじゃないですか』
女神の余計な茶々を聞き流して、ローレンツは、舞台俳優を思い浮かべながら、鬼気迫る表情を浮かべて、床に頭をつける。
「頼む……ッ、教えてくれ、俺は、アインホルン中尉殿に、恩返しをしなくてはいけないんだ」
『すごい、心にないことをぺらぺらと』
心にないとは失礼な。可能性のひとつとしては考えていたというのに。
アルブレヒトから見えないのを良いことに、ローレンツは、顔を思いきり歪めた。どこにでも現れることができる女神は、ローレンツと目を合わせて、にんまりと笑う。
「……顔を上げてくれ。貴公を、危険に晒したくないんだ、わかってくれ、ローレンツ」
アルブレヒトの静かな声が、部屋に落ちる。ローレンツは、頭を上げなかった。
「そんなわけには行かない、俺を関わらせてくれ、アル。いくらでも危険な目に遭っていい。ここは戦場だぞ? 命なんて、あってないようなものだ」
「ローレンツ……そこまで、中尉殿を……」
アルブレヒトが、感極まった声を出す。当然、ローレンツは。
ーーでなければ、俺の亡命作戦が台無しになってしまうじゃないか!
『台無しなのは、ローレンツさんの心の中ですよぅ』
ーーなんとでも言え。今度こそ俺は、正しい『帝国史』を書くのだからな。
そのためには、思ってもいないことを言ってやる。遠い昔には、そうでなかったかもしれないが。善意だの何だのは、炎と共に焼け死んでしまったのだ。
「わかったよ、ローレンツ。まったく、貴公には敵わないな」
その善意を持っていたかもしれない、当時のアルブレヒトは、ローレンツの安い土下座に感銘を受けたらしい。
「これを話せば……貴公はもう、引き返せなくなる。それでも良いか?」
もとより、女神の力を使えば引き返せるので、ローレンツは顔を上げ、一も二もなく頷いた。
アルブレヒトは、唇を、重そうに開く。
「実は……犯行現場を最初に目撃したのは、私の父、ベルンハルトなんだ」




