クズ、挽歌を歌う。
それに気付いた瞬間、ローレンツを襲ったのは、愉快な感情だった。
「ははっ、これは笑えるな。前の世界で、俺に罪を被せた少尉が、死刑を待たずして死ぬなんて」
しかも、全身血塗れである。きっとものすごく苦しい死に方をしたに違いない。
それにしても、気になるのは。
「なぜ俺のところに助けを求めたんだ?」
男がいた床を見ながら(“顕現”は血痕ごと男を消すことができた。便利なものだ)、ローレンツは呟いた。
「あの少尉が前の世界と同じことをしようとしたかはわからん。だが、廊下での反応を見るに、俺に敵愾心を持っていたことは確かだ」
『一点の日の光にやられて、廊下で行き倒れてる人を、好意的に見ることができる人っているんですかね、えひひ』
女神が口元に手を持っていって笑うのを、ローレンツは一瞥。手配書を見る。
「少なくとも、アインホルン中尉殿は俺に手を差し伸べてくれた」
似顔絵でもわかる男前。手配書なのだから、多少悪そうに描いても良さそうなものだが、それだと本人の特徴を描いたと言えないのがあの男。
「あの、愚直とも言える瞳を見逃すことはできなかったんだろうよ」
『ローレンツさんにしては、えらく褒めますね……? お体大丈夫ですかぁ?』
女神がふよふよと漂いながら、ぺたぺたとローレンツの体のあちこちを触ってくる。もっとも、触られたという感覚は無い。
ひとしきり触診を終えて、異常なしとわかるや否や、女神がにたりと口の両端を吊り上げる。
『これってぇ、あれですよねぇ、えひひっ、普段人と接しない陰気な人がぁ、優しくされると勘違、あっ』
それまで頗る面白おかしそうに笑っていた女神は、何かに気付いた様子で自分の口を両手で覆った。その瞳には、どこか焦燥が見え隠れしている、ように見える。
びしっ、とローレンツを指差した。
『か、勘違いしないでくださいねローレンツさんん……っ、別に、貴方のことを言っているわけじゃ、ないですからっ』
「いや、俺のことを言っていただろう。悪口だった、思い切りの良い」
やれやれ、女神は、ローレンツの心中を読めるはずなのだが。ローレンツは、肩をすくめて。
「誰だって、死者を悪くは言わないだろう」
『……?』
「中尉のことだ」
女神は、長い前髪の隙間から、見える目を、ゆっくり、瞬いた。
『……? え、まさか、助けないんですか? アインホルン中尉を? あんなに優しくされておいて?』
「優しくされたのと、助けるのとは別の問題だろう」
ローレンツもまた、女神を見て、ゆっくりと目を閉じては開ける。こうすれば、意思の疎通ができるような気がしたからだ。
先に音を上げたのは、女神の方だった。浮いているくせに、床に倒れ伏した。
『それは、私もそうですけどぉ。でも、人間に言われるとなると驚きです』
「お前も元は人間だろうが」
『えひっ、そうでしたぁ』
女神は、とても人間とは思えない動きで起き上がった。
『それでは、ローレンツさんは、アインホルン中尉を見捨てるおつもりなのですね?』
「そうだ」
『堂々と言い切ったこの人。ちなみに、なぜかお聞きしても?』
「中尉殿が消えてくれれば、俺がユリアンの所に行きやすくなるだろう」
帝国を裏切るとなると、障害になるのは二人。
憎きアルブレヒトと、善人アインホルン中尉殿である。
「本当は、この二人に殺し合いをさせて、その機に乗じてユリアンのところへ、と考えていたが、そう上手くは行かないようだ」
前の世界では、アインホルン中尉は殺された。だから、ローレンツの障害になりようがなかったが、今の世界では生きている。じきに死ぬだろうが。
ローレンツは、くつくつと笑った。
「もともと、中尉殿は死ぬ予定だったんだ。なぁに、死に場所と死に方が変わるだけだーーそれよりも、だ」
ローレンツは、手に持った手配書、その被害者の名前の部分を、とんとんと指で叩く。
「中尉殿の死因を作ったのは、誰かという点が気になる」
すなわち。
一度はした死体の遺棄。女神のプライベート空間に投げ込んでおいた死体を、誰が移動させたのか。
「答えは簡単だ。女神の存在を知っている人間がやった。俺と同じ、“顕現”の力を持つ人間がいる」
『それは、答えじゃないですよね?』
推測って言うんですよぉ、と女神が嫌味ったらしく言う。女神。
ローレンツは、ふと思いついて、机の上に置いてある『啓示書』を開いた。
複数の語派・語群でカモフラージュしてあるものから言葉を推測するのではなく、とある文字または同意義の言葉があるという逆算から、ページを捲る。
「……あった。この世界の『啓示書』にも、“顕現”はあるんだな?」
『さあ、どうでしょうか』
この世界のことについてはしらばっくれる女神は置いておいて、ローレンツは、やっと、彼の謎の言葉と、今の結果をつなげることが出来た。
『啓示書もまた、血塗られた力だ。彼女のことを思うと、胸が張り裂けそうになる』
あの時は、ローレンツも『啓示書』を解読する前だったから、彼の身内か何かが犠牲になったのだと思っていたがーーとんでもない。
「ユリアン・シーデ・フックス。奴は確かに、『啓示書』を持っていなかった」
ローレンツは、小さく息を吐いた。
「だが、『啓示書』を持っていたことはあった。そして、おそらく解読も……だから、女神の作り方に言及することができた……ははっ、とんでもない狐だな、あれは」




