遠すぎた境界
皆様こんにちは、東郷ミカサです。
前回に引き続き、今回も私が過去に書いた短編小説をいくつか上げたいと思います。2つ目の作品は、とある境界線を目指す青年の物語です。舞台は北の某国です。何故彼が走っているのか、その理由に注目して読んでみてください。
広い草原の上を青年が一人走っていた。
年齢はおそらく20代前半ぐらいで、細身な体型であった。彼が着ている褐色の制服は泥に塗れ、上着はボタンの一つ二つを止めたぐらいで、青年が上下に動くごとに中のボロボロなシャツが見え隠れしていた。黒いブーツには穴が開き、解けた靴紐が蛇のようにうねっている。
しかし、制服が泥に塗れようとも、みすぼらしいシャツが見えていようとも、ブーツに穴が開いていようとも、靴紐が解けていようとも、青年の足が止まることはなかった。ふらふら、ふらふらと覚束ない足取りで走り続けている。
黒髪は大量の汗で張り付き、首筋や背筋にかけてびっしょりと濡れている。痰が喉に絡みつき、乱れた呼吸を妨害せんとする。痰を吐き捨てても、肺に酸素を取り込みたいと願っても、咽せるなどをして肺が新しい空気を中々受け付けてくれようとしない。胃液は度々逆流し、青年は我慢出来ずにそれを吐き出す。嘔吐した後の口内には酸味と酸臭の不快感だけを残し、喉を焼き付けていく。心臓はよもや留まる所を知らず、脈を測らずとも、その鼓動の尋常ではない速さが直接鼓膜に伝わってくる。このまま走り続けたら、この全身に血液を送り続けるポンプは持たないかもしれない。
青年は『神』に願った――足が折れても、呼吸が止まっても、胃液を全て出し切っても、心臓が破裂しても構わない。だから、せめて走らせてくれ。この足を止めさせないでくれ、と。自身の指導者ではなく、今でも自分のことを見守ってくれているであろう、本物の『神』に。
もし、自分がここで足を止めたなら、またあの生活――無味乾燥とした機械のような日々に戻されてしまうだろう。否、システム通りに動かなくなった機械はきっと処分される。「生活に戻される」ということすら、叶わないだろう。良くても苦、悪くても苦――どの道、どちらも受け入れたくない。だからこそ、青年は足を動かす以外に答えはないのだ。足を動かさなければならないのだ。
走り出す前、青年は友と約束を交わしていた。仲間思いの金に。真面目な李に。ひょうきん者の張に。物好きな崔に。ずぼらな黄に。神経質な承に。世話好きな延に。そして、誰よりも優しい朴に――「ここを出ることが出来たら、外の世界でまた会おう」と固く、固く誓い合った。
すると青年は何かに気が付き、はっと顔を上げる。青年の目に映っていたのは、巨大なフェンスだった。高さは凡そ三メートル。自分達のような人間が飛び越えられないようにするためか、上部には鉄条網が張り巡らされている。その壁は南北を横断するようにどこまでも、どこまでも、どこまでも――果てしなく続いている。
そして、フェンスを越えた向こう側には、また草原が広がっている。一見すれば、先程走り続けていた風景と変わりはない。しかし、青年にはわかる。あそこは、こことは違うのだ。ここには決してないものが、あちらにはあるということを彼は知っている。
この光景を映した青年の目から、熱いものが溢れ落ちる。「やっと、ここまで来れたんだ」と、青年は感極まる。今思い返せば、ここに来るまで長い時間を掛けてしまった。多くの者達を犠牲にしてきた。苦しみに打ちひしがれ、嘆くことすら許されず、常に誰かの視線を感じながら、只々自分の感情を殺すことだけを考えていた――そんな生活から、これでようやく解放されるのだ、と。
しかし、感動に浸っている暇はない。こうしている間にも、直ぐに見張りの者が巡回に来るだろう。涙を拭い、フェンスに足を掛ける。鉄条網を気にする必要はない――たとえ、全身が血だらけになったとしても、この壁を乗り越えてみせるという揺るぎない決意があったからだ。乗り越えたら、それで全てが終わる――そう信じて、両手両足でよじ登っていく。
そんな意志とは裏腹に、青年の体力はもう限界を迎えようとしていた。手足が思い通りに動かなくなり、今にもフェンスから落っこちそうだ。右腕が、左腕が、右足が、左足が、喉が、肺が、胃が、心臓が――全身が、痛い。「もう疲れただろう」「諦めた方が良い」と、悪魔が耳元で誘惑しているようだ。そういう時、青年はいつも未来の事を考えていた。絶望しかなかった過去ではなく、希望ある未来の事を想像するのだ。これが終わったら何をしようか、何を食べようか、どこに行こうか――そして、次に誓い合った仲間の顔を思い浮かべる。彼らなら、自分よりも先に壁を越えているだろう。向こうで彼らと再会したら、まずは抱き合って喜びを分かち合おう。そして、感情を殺そうとした日々で、唯一殺すことの出来なかった気持ちを朴に伝えよう。そして、あちらで家庭を築いて、幸せに暮らそう。子供は4人欲しい。男の子と、女の子でそれぞれ2人ぐらい。名前は……。
* * *
フェンスが遮る広い草原の上を4人の男が立っていた。
その内、3人が皺一つないような褐色の制服を身に纏っている。さらに、その内の1人――大きなパンケーキを上に乗せたような官帽を被った長身の男が、草原に広がっている「それ」に目を落とした。
それは、1人の男――否、おそらく男であろう死体だった。身長は若干低く、体型は細身。泥塗れた褐色の制服ははだけ、中にはボロボロになったシャツを着ており、足には穴の開いた黒いブーツを杜撰に履いている。その顔は上半分が破裂し、周りに肉片と血液と脳漿をまき散らしているため、身元を確認するには多少時間が掛かるだろう。
「よくやった。持ち場に戻って良いぞ」
長身の男がそういって振り向くと、4人の中で唯一制服を着ていない男――全身草まみれの、所謂ギリースーツを着た男が敬礼をして返す。その後、ギリースーツの男は背中に背負ってあった狙撃銃を前に構え直し、草原の遙か彼方に消えていった。
「こちら、尹大尉。境界線付近において、脱走者1人を発見。法令に基づき、即座に射殺致しました。応答をお願いします」
長身の男――尹が無線機を手に取ってどこかに報告する。すると、その報告を受けたであろう向こう側から、重々しい声で応答が返ってくる。
「よくやった、尹大尉。今回、発見した脱走者は1人だけか?」
「いえ、それ以前に男性6人、女性2人の合計8人の脱走を確認しました。いずれも、皆その場で射殺しております」
「よろしい。その他にまだ脱走者がいるかもしれん。引き続き警戒するように。射殺した9人は、いつものように境界線付近に吊し上げておけ。連中にとって、多少は抑止力となるだろう」
「了解しました。最高指導者万歳」
最後にそう言うと、無線は切れた。尹は命令通り、直立不動で待機していた2人の部下に対して、この男と思しき死体を他の8つと共に街灯に吊し上げるように命じる。2人は一切顔の色を変えず、粗大ごみを扱うように、原型をとどめていない顔の死体を運んでいった。
尹は去り際に、風が吹く方向――フェンスの向こう側を見る。そこには、先程とは変わらぬ草原がどこまでも広がっている。同じ景色であっても、こちらとあちらが全く異なる領域であることは尹も重々承知である。しかし、尹は感銘を受けたりはしない。フェンスを越えみたいとは一切思わない。むしろ、軽蔑するように睨み付ける。そのガラス玉のような目で、フェンスの向こう側――最も近くて、最も遠い国をずっと睨み続けていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
他にも『嗚呼、憂国の烈士よ』や『女神は語らない』といった作品も投稿しておりますので、そちらも読んでいただけると嬉しいです。また、今後は過去作意外にも新作も上げていきたいと思いますので、応援の程をよろしくお願い致します。