第6話:襲撃
辺境都市サバラの長く伸びた城壁に日が沈み、夜の帳が下りた。
城壁外の廃屋でレイチェルの帰りを待っていたソルベロイは落ち着きなく呟く。
「遅すぎる。まさか、俺を置いて……いや、そんなはずはない。レイチェルの身に何かあったと考えるべきだ」
苦痛に耐えきれなく逃げ出したというのであれば、それを恨むのは筋違いだ。レイチェルへの罪悪感がソルベロイを弱気にさせるがその可能性は低いだろう。
であれば、不測の事態が起きたということ。こういった場合にどうするかを決めていなかったのは失敗だった。
「十分暗くなったし、これ以上じっとしてられないな。うまく見つかるといいが……」
未だ全身を隠せる外套の類は無く、着衣は腰に巻いた布だけだ。体の一部でも住民に見られれば騒ぎになってしまうので、出来るだけ闇に紛れて行動する必要がある。
城壁の上を巡回する兵士の目を盗み、素早く壁をよじ登ると壁内へと飛び降りた。そのまま街灯の届かない屋根の上を跳躍で移動していく。
ソルベロイは自分の体の変化に改めて驚いていた。英雄であった人間の頃も人並み外れた力で同じ様な動きは出来ていたかもしれないが、その精度、力強さは比べ物にならない。まさに人外だ。
そしてまた人外の力がソルベロイに教えてくれる。それは匂い。ある特定の人物の匂いを嗅ぎ分けることは人間には難しいが、今のソルベロイには可能だった。
「間違いない、レイチェルの匂いだ」
散り散りになって消えてしまいそうな匂いの残滓を嗅ぎ分け、ソルベロイは嗅覚を頼りに跳躍を繰り返す。
次第に匂いは濃くなっていく。見えてきたのは帝国軍の施設。同時に嫌な臭いも混じり、顔を歪ませる。
「焦げ臭い。まるで戦場の……皮膚の焼ける臭い」
焦燥感が募っていく。
街を囲む城壁よりも警備兵の数は多いが、機敏な身のこなしで施設の壁内に侵入すると匂いの元を探っていった。
行き着いた先は牢獄。裏手に回り込むと格子窓が並んでいる。
ソルベロイはその内の一つにしがみつき、中を覗き込んだ。
そこには横たわった人の姿があった。全身に火傷を負い、血が吹き出した痕が残っている。
「くっ! レイチェル! 無事か!?」
返事は聞こえてこない。ただ、少し手が動いたことで意識は確認できた。
「待ってろ! 今ここから出してやる!」
ソルベロイの掴んだ鉄格子がぐにゃりと曲がる。
しかし、体を入れられるほどの幅はない。代わりに腕だけを差し込み、窓枠を広げるように力を込める。すると岩と石灰で固められた壁がまるで砂山を崩すかの如く壊れ、たちまち人ひとりが十分に通れる程の穴が開いてしまった。
ソルベロイはすかさず駆け寄り、両手でレイチェルを抱え上げる。
「ロイ……ごめ……んね……」
「ッ……今は喋らなくていいから……遅くなってすまない」
レイチェルは掠れた声でそれだけを言うと気を失ってしまった。
恐らく魔力はもう残っていないのだろう。回復し切れなかった生々しい傷がそれを物語っていた。
このとき初めてソルベロイの中に怒りが芽生えていた。
もちろん、幼少期に村を襲われ両親を失ったときは魔物を恨んだ。酒場で働いてた少年期、つまらないことで腹を立てたことは何度もある。洞窟で目を覚ましたときは自分の身に起こった不条理に絶望し、怒りに似た感情も抱いていた。
しかし、それらとは根本的に違う。
絶対に侵されてはならない領域を汚されたのだ。
体が震える。感情が理性の抑圧から解き放たれ、全身を支配していく。
その間にも壁を崩した音に気付いた兵士達が槍や剣を構えて集まり、穴の空いた壁を取り囲み始めていた。
ソルベロイは優しくレイチェルを抱えたまま、兵士達が待ち受ける牢獄の外へゆっくりと歩みを進めた。
「あ、悪魔だッ!!」
兵士達の間にどよめきが起こる。
構わずソルベロイが一歩前に進むと、その幅に合わせて包囲が一歩分後退していく。
しかし、その中で逆に一歩距離を詰める者がいた。
「へぇー。こりゃ一体どんな状況だ? こいつは食人鬼だよなぁ? ずいぶんと男前な面してるじゃねえか。しかも、お持ち帰り希望たぁ変わった奴だぜ」
「ヤッグ軍曹!」
「おい。周りの警戒も怠るなよ! 魔物は大抵群れるからなぁ」
ヤッグは剣を引き抜き油断なく構える。この男が言うように魔物はよく群れて行動する。魔物でなくても弱いものは群れ、反対に強いものこそ単独で行動する傾向がある。
つまり目の前の悪魔は強者だと、ヤッグは判断したのだ。
そしてその判断の正しさは直ぐに彼自身の体で証明されることとなった。
悪魔が咆える。
憤怒、憎悪といった感情が吹き荒れ、兵士達を震え上がらせた。
そして、ヤッグ目掛けて悪魔は跳んだ。繰り出されたのは蹴り。それを正面に構えた剣で受けるが、単純に受けきれるだけの力が足りなかった。
蹴りを受けた剣はそのまま顔にめり込み、折れる。その勢いは反対側の壁まで体を吹き飛ばし、ヤッグは息絶えた。
悪魔の攻勢は止まらない。
怖気づいて硬直した兵士の頭を蹴りで刎ね、散り散りに逃げる兵士の背中を砕いてまわる。
帝国軍の基地内は騒然としていた。
地面は兵士の血で染まり、多くの遺体が転がっている。
その中であっても流石と言うべきか、訓練され統制の取れた後追いの兵士達が陣形を整えていた。
「撃てーーッ!!」
号令と共に放たれたのは弓兵と魔術兵による一斉射撃。
通常の矢に加えて魔法の付与された矢、鋭く尖った氷塊や紅蓮の礫といった攻撃魔法が悪魔に向かって放たれた。
悪魔は腕に抱えたものを守るようにうずくまる。
次の瞬間には着弾した魔法の効果によって悪魔の姿が遮られた。
「やったか……!?」
薄れていく粉塵に目を凝らす兵士達の顔に、次第と困惑の色が広がっていく。
「消えた……?」
「探せ! まだ遠くに行ってないはずだ!」
兵士達は射撃陣形を解き、周囲を警戒しながら悪魔の姿を探し回っていた。
その頃、ソルベロイは基地の施設の中でも一際大きい建物の屋上に飛び乗っていた。
「もう少しだけ待っていてくれ。すぐに終わらせてくるから……」
抱きかかえていたレイチェルを安全な場所に隠し、ソルベロイは再び兵士が群がる中心へ飛び込んでいく。
砲弾の様な着地は数人の兵士を同時に吹き飛ばす。
ソルベロイは兵士の落とした剣を両手に一本ずつ拾い上げると、兵士の集団に突撃した。
突き出された槍や剣を圧倒的な力で弾き飛ばし、がら空きとなった急所に正確な剣を差し込んでは切り裂いていく。
生きてる兵士の数が死んだ兵士より少なくなった頃、ソルベロイに向かって一筋の雷が水平に奔った。