第4話:廃屋にて
スラドキア王国の東端、貿易都市ルズワンドより北へ進むとベリス帝国の領土に差し掛かる。さらに北へ進めば人類の領域外である荒野に行き着くが、その手前には辺境都市サバラがあった。
サバラは荒野を超えてやってくる魔物の襲撃を何度か受けているため、城壁外に広がった家屋の多くは潰され廃墟と化していた。
そんな廃墟の中でもまだ建物としての機能を維持してる一棟から押し殺した女の声が漏れ聞こえてくる。
「うっ……ぁぐっ……んっ……ふぁっ……んんーーっ!」
うつ伏せに寝た女は目に涙を浮かべ、歯を食いしばりながらも大声を出さないようにと耐えていた。
女の臀部に顔を埋めていた男はゆっくりと身体を起こす。その口元は赤く染まっていた。
「はぁ、はぁ……ロイ? どうして止めちゃうの……?」
「もう……これ以上は危険だ、レイチェル」
血臭を帯びた湿気が部屋に充満していた。
「昨日は食べさせてあげれなかったから、頑張りたいの……ね、もう少し食べて。それともあまり美味しくない?」
「そんなわけ……! 美味しすぎて、頭がおかしくなりそうな程だ」
「よかった……嬉しいなぁ」
「俺はもう十分だから、早く回復を! 意識が失くなる前に」
レイチェルは微笑み目を閉じると、回復の魔法を発動させる。すると魔法の発光とともに臀部の肉が内側から盛り上がり、皮膚も再生されていく。
通常の治癒の魔法では、表面に近く、柔らかい組織であれば再生しやすいが、骨や大きな部位欠損、古傷までは治せない。
「大丈夫か? 痛みは?」
「頭がぼーっとする……おしりもちょっとピリピリするけど平気よ」
ソルベロイはすかさず青い液体の入った薬瓶をレイチェルに手渡そうとする。
青い薬液は魔力の自己回復力を高める効果があり、これがレイチェルの手持ち最後の一本だ。
「えー? 飲ませてくれないの……?」
「いや、この前は自分で飲んでたじゃないか」
「少しぐらい甘えてもいいじゃない……そのぐらいのことはしてると思うけどなぁ。はい、あーん」
何も言い返す言葉が無いソルベロイは、ふらつくレイチェルの頭を抱き寄せ薬液を飲ませていく。
ゆっくりと、レイチェルの嚥下する速度に合わせ、瓶を傾けていった。
柔らかい唇は硬い瓶の口を受け止め、レイチェルはそこから注がれる粘性のある液体を一生懸命に飲み込んでいく。
ただ薬液を飲ませるだけの様子のはずなのに、ソルベロイにはどこか不純で凌辱的なもののように感じていた。
そして最後の一滴を注ぎ終えたとき、上目使いで覗き込むレイチェルと目が合ったソルベロイはみるみる赤くなっていった。
「……ふぁ。ロイ? ふふっ。なに今更照れてんのよ? 胸もおしりも、見て触った以上のことしてるくせにね」
「なっ、いや、その通りだけど……自分でもこの感情に戸惑ってる……」
「可愛いなぁーもぅ。私、前のロイも好きだけど、今のロイも好きよ!」
レイチェルは立ち上がり着衣の乱れを整える。
「えっ、きゅ、急にそんな……俺は、いや俺も――」
「今度こそちゃんと惚れさせてみせるから、今は無理して答えなくてもいいの」
ソルベロイは自分自身を恥じた。感情を失っていたとはいえレイチェルの気持ちにまるで気付いていなかった。それに今も自分のレイチェルに対する気持ちは、見透かされたようにまだしっかりと定まってはいない。
「……これじゃ、どっちが年上かわからないな」
満足気な笑顔で答えたレイチェルはせっせと荷物をまとめ始めていく。
「もう、出発するのか? まだ休んでた方がいいんじゃ……」
「ロイが飲ませてくれたおかげでいつもより効きがいいみたい……なんてね! でも大丈夫。それに早く帰って来たいし、早速行ってくるわ! 私がいない間に浮気しちゃ駄目よ?」
レイチェルは明るい調子でそう言い残すとサバラの城壁内に向かって行った。
目的は失ったままの左手を治癒させるために神殿の祝福を受けることと、青の薬液を補給だ。
しかし、これは急場しのぎに過ぎない。問題は山積みである。
ソルベロイとレイチェルが再会を果たしてから三日目の朝。
ソルベロイがレイチェルから頂く糧を最小限に抑えても、回復に消費する魔力はそれ以上で、いくらかは青の薬液に頼らなければならない。しかし、その薬液は庶民では手が届かないほど高価で、いくら貴族の令嬢レイチェルと言えど継続的に使用していれば直ぐに資金不足に陥るだろう。
おまけに神殿で支払う分も考えれば資金は既に底を着いているとも言える。
この問題を打開できる案があるとすれば、一つは回復魔法が使える聖職者を仲間にすること。しかし、そもそも食人鬼に手を貸そうなどと考える酔狂な聖職者を見つけられるはずもない。
もしそれが叶ったとしても、レイチェルが苦痛を味わい続けることには変わりはない。身体の傷は癒せても、痛みによる精神的な傷は深くなる一方だろう。
もう一つの案は単純かつ最も簡単。レイチェル以外の人間を食らうこと。
それは一度ソルベロイ自身が忌避したことでもある。人類の英雄で有り続けなければならないという脅迫めいた使命感は、今はもう薄れてきている。例えば悪人や罪人に手をかけるのであれば、レイチェルに苦痛を与えるよりよっぽど良いとすら思えた。
「だけど、これは根本的な解決にならない……」
ひとりになった廃屋の窓からサバラの長い城壁に設けられている門の方角を眺める。レイチェルの姿は既に見えなくなっていた。
根本的な解決は人間に戻ること。人間から食人鬼に転生したのであれば、その逆もまた可能性はありそうに思える。
「だけど、そんな話聞いたこともない……手がかりは俺をこんな姿にした老婆の悪魔か。奴は他にも過去の英雄の武器を持っていた……俺にした事と同じ事を繰り返していたというのか? 何のために?」
頭を掻きむしってみるが答えは出ない。情報がまるで足りていない。
「何より奴についてもっと知らないと。俺だけでなくレイチェルも何処かで見てるんだよな……思い出せ。一体どこでだ?」
この三日間ずっと思い出そうと試みてはいたが、あと少しのところで頭に靄がかかり思い出せずにいた。
太陽は天を目指してゆっくりと登っていき、それに伴い城壁から伸びた影が短く薄くなっていく。
そろそろレイチェルは神殿に着いた頃だろうか。
今は側に居ない温もりの主のことを想いながら、ソルベロイは廃屋の窓辺で頭を抱えていた。