第3話:生きる道
一瞬の出来事だった。
レイチェルは耐え難い激痛に叫び声を上げるも、即座に飛び退き剣を抜いた。
魔法特有の輝きが失った左手と、構えた刀身にそれぞれ宿っていく。
魔法の才能に秀でたカーライル家の血筋の中でも落ちこぼれだったレイチェルの戦い方は魔剣士。もともと剣の才能があったためそちらに寄せた形だ。
一方の食人鬼は骨の砕く音を響かせながら噛み千切った手首から先を咀嚼していた。
食人鬼の特性として、より知性の高い者、より高位な存在であるほど吸収できる栄養価は高くなる。
「……クッ! ロイに装って謀ったわね。絶対に許さない!!」
「ぷはぁ…………感覚が戻ってきた。……え? まさか、お前、レイチェルか!?」
呼びかけられたその声にレイチェルは一瞬目を見開くが、直ぐに冷静さを取り戻す。
「そう……声までそっくりなのね。何処まで私を馬鹿にすれば気が済むのかしら」
「ま、待て! 剣を下ろしてくれ、レイチェル!」
「今更命乞い? 私の手は冥土の土産にくれてやるわ。だけど、ロイを侮辱した罪、万死に値する!!」
「手? いや、違うんだ。俺がロイだ、ソルベロイなんだ! 信じてくれ!」
「ふっ。化けの皮が剥がれたわね、偽物。……いえ、元から食人鬼相手に馬鹿げた話だったわ。教えておいてあげる。ロイはね、どんな時も焦ったり動揺なんてしなかった。感情を表に出さない人だったのよ」
「……確かにそう、だった。それには理由があるが……この姿で信じてくれと言うには無理があるよな。……いや、これはきっと救いだ。最期にレイチェルに会えて良かった……」
食人鬼の熱気が急激に薄れていく。全てを諦めたように背中を向けて座り込み、斬ってくれと言わんばかりに首を差し出した。
「……なんなのよ。ふざけるな! わけがわからない!! 何が目的なの!?」
レイチェルは駄々をこねる子供のように喚く。その様子をソルベロイと同じ大きさの背中は黙って受け止めていた。
油断させる罠である可能性を考慮しても、隙きだらけの背中に斬り込めば間違いなく首を落とせる確信があった。しかし、何度斬りかかろうとするも踏ん切りが付かない。生前のソルベロイとは姿形はもちろんのこと、雰囲気だって別人だ。それにも関わらず、無関係では無いのではないかという願望にも近い勘がレイチェルの頭に纏わりついて離れない。
長考の末、レイチェルは荷物から予備の剣を掴み食人鬼に向けて放おった。
「どういうつもりだ……?」
「いつもの”手合わせ”、願えるかしら」
「…………」
「チャンスをあげる。剣を手にしたところで偽物なら私には勝てないわ。本物というなら証明して見せて!」
食人鬼は迷いを見せつつも剣を拾い上げ、レイチェルに向き合った。
空気も時間も、その場の全てが凍りついたかのような錯覚に陥る中、交差する視線だけが熱を帯びていた。
そして、両者がどちらともなく動き出す。
中段を狙った互いの剣と剣がぶつかり合い、火花を散らす。上段、下段と狙いは目まぐるしく変わるが、両者が避けることは一度もない。軌道の先には常に相手の剣が正面からぶつかり合い、その連撃音は途切れることなく徐々に加速していった。弾き出された無数の剣撃が周囲の空間を切り刻む。
それはレイチェルとソルベロイが剣技を高めるために来る日も来る日も行っていた鍛錬。
一撃を放つ度に返ってくる当たり前の感覚に、レイチェルの口元はほころび、涙が滲み出ていく。
遂に百手目を数える頃、レイチェルの剣が僅かに遅れた。その遅れは次の一手を乱し、体勢を崩し、剣が弾かれる。最後に食人鬼の刃先がレイチェルの首元で止まった。
「今回も俺の勝ち、だな」
「本当に、本当にロイなのね?!」
剣を交えて伝わってきた感覚は、正しく長い年月ともに鍛錬を重ねた相手のもの。確信に至るには十分だった。
レイチェルは剣を投げ出し、食人鬼となったソルベロイの体に抱きついた。
「ちょっ、お、おい」
「会いたかった! ずっと会いたかった!!」
ソルベロイはどう接していいのか困惑するが、所在ない手をレイチェルの頭に置き、優しく撫でることにした。
さっきまでと違い、今のソルベロイの胸の高さに収まったレイチェルはか弱く儚い存在に思えてしまう。
「……ずいぶん心配掛けたみたいだな。信じてくれてありがとう、レイチェル」
暫くの間レイチェルは泣いていたが、ふと泣き止むと体を突き離した。
「あの、ロイ……? 何か当たって……」
「え? あ、あぁー!? ち、違う! これはそういうつもりはなくて!!」
「そ、そうなの? ロイってそういうことに全く興味なかったみたいだし……でも、ちょっと安心したかも」
服を纏った食人鬼を見たことがなかったせいか、今の今までソルベロイが布一枚身に着けていない事実に二人とも気付いていなかった。
「もぅ。淑女の前なのだから、前ぐらい隠して頂戴ね」
荷物の中から取り出された毛布を受け取ったソルベロイは、それをせかせかと腰に巻く。
その光景を見て愉快そうに笑うレイチェルに、ソルベロイは気になっていた問を口にした。
「なぁ、レイチェル。その左手はどうしたんだ? まさか……」
「えっ。こ、これ? えっと……これはここに来るまでの間に魔物に襲われて」
「正直に教えてほしい。……俺がやったのか?」
レイチェルの腕から流れていた血は既に止まっている。それは治癒魔法によって傷口が塞がったためだ。決して手首から先が元に戻ったわけではない。
「……ええ。でも私の不注意だわ。ロイは無意識だったみたいだし、事故みたいなものよ」
「なんてことだ……すまない、レイチェル。俺は取り返しの付かないことを……」
「気にしないで。神殿の祝福を受けられれば元に戻るわ。それより教えて! 何があったのか。私も話したいことが沢山あるの!」
その話は強引に打ち切られ、レイチェルの質問攻めがしばらく続いた。
「――つまり、あのときの老婆の悪魔は初めからロイを狙って……?」
「そうなる、か。思い出してきた……アテランテに向かったときに俺に剣を与えたのもあいつだ。それも一番最初に見せられた同じ剣を。他にも何度か見かけてる気がする……」
「そう言えば私も何処かで……初めて見た顔じゃない気がしてるの……」
もう少しで核心に迫ろうとしたとき、ソルベロイはレイチェルの異変に気づいた。
「レイチェル? 大丈夫か!? 顔が真っ青だ」
「少し、疲れただけよ。横になってればすぐ良くなるから……ちょっとだけ休んでもいいかしら」
レイチェルは青い液体の入った薬瓶を一つ取り出しそれを呷ると、その場で丸くなって寝てしまった。
長旅の疲れ、魔力の消耗、何より受けた損傷の大きさを考えれば無理もない。それが安堵したことで、張り詰めた精神状態から解放され一気に表面化したのだろう。
治癒魔法や支援魔法が使えないソルベロイにしてやれることは何もない。ただ壁にもたれ掛かり、その寝顔を眺めていた。
一定間隔に聞こえてくる雫の音と、レイチェルの微かな寝息だけが聞こえて来る静かな時間。
自分の中に抱えた闇はそんなひとりの時間にこそ牙を剥く。
レイチェルに押し切られる形で流されてしまったが、欠損した手は元に戻るから良いという話ではない。
そもそもソルベロイの体の特性から生じる問題は全く解決していない。
何より知ってしまった。体が覚えているのだ。あの味を。味わったこともない美味を。
腹が唸る。まだ足りぬと言っている。
次に激しい空腹が襲ったとき、我慢が効かないという確固たる予感があった。
ソルベロイは決心して立ち上がる。
「ごめん、レイチェル。さよならだ……」
レイチェルは重たくなった瞼を持ち上げ、気怠い体を無理やり引き起こした。
「そうか私、眠って……あれ? ロイ……?」
辺りを見渡すが洞窟の中にソルベロイの気配はない。
残されたのは石を擦りつけて書かれた『ありがとう、さようなら』の文字。さらに剣の一本が無くなっていた。
レイチェルは血相変えて走り出す。
体はまだ安めと訴えてくるが無視をする。
何度もよろけ、躓きそうになるが必死に洞窟の外まで駆け出した。
広がるのは闇夜の荒野。当然ソルベロイの姿は何処にもない。
「ロイーッ!! どこなのーッ!!」
虚しくもその声に答える者は居ない。
魔法を発動させる。眼と頭にヒビが入るような痛みが走るが構わず続けた。
祈る気持ちで周囲をくまなく探す。
「あった!」
魔法が示したのは現在と過去との差分。これでソルベロイの足取りを追うことが出来る。
足跡を追うだけであれば、もっと他に効率の良い魔法があるがレイチェルが使える魔法の中ではこれが最適だった。
足跡は遠くまで続いている。決して見逃さないように注意深く、出来るだけ早く追いつかなければならない。
レイチェルは進む。血の涙を流しながら。
「嫌だ……! もうひとりは嫌なの……!」
次第に辺りが明るくなってくる。夜明けが近い。
続く足跡の先、丘の上に人影を見た。
叫びたい気持ちを抑えてレイチェルは駆け寄る。
「レイチェル……駄目だ、来ないでくれ!」
ソルベロイの手には剣。その刃先はレイチェルにではなく、彼自身に向けられている。
「嫌よ……!」
レイチェルは一歩、ソルベロイとの距離を縮める。
「頼む……! でないと俺は……」
「分かってる! 分かってるわ。食人鬼として生まれ変わったことで本能に逆らえないのね。その選択は英雄ソルベロイとしては正しいかもしれない。でも、ロイを想う私の気持ちはどうなるの? 苦しかった……ひとり残されて。貴方だけ死んで、またひとりにさせる気?」
「俺だって生きたいさ! けど、それは無理なんだ。今だって衝動を抑えるのが――」
「だったら、私を食べて。そして、一緒に生きるの!」
レイチェルはソルベロイに飛びつく。
「そんな……! 殺してしまうかもしれない!!」
「そこはロイが努力なさい。私が死なないようにね。大丈夫、きっとロイになら出来るわ。私は信じてる」
胸元の紐を解き、その白く透き通った肌を顕にさせる。窮屈そうに押し込められた豊満な肉がソルベロイの目に飛び込んできた。
レイチェルはソルベロイの頭に手を回すと優しく引き寄せ、包み込む。
夜が明けた。眩い光が二人を照らし、一つの長く伸びた影を作った。
その光景は二人のこの先を祝福しているかのようだった。