第2話:英雄の仲間
人類の生活圏の中央部にある貿易都市ルズワンド。
道路のほぼ全てが石畳で舗装され、行き交う馬車や通行人の数も多く、最も活気のある都市の一つだ。
この都市に限った話では無いが、都市の一等地には貴族や成り上がった商人の屋敷が立ち並ぶ。
雲ひとつ無い満月の夜だった。
夜間の警備に立つ一部を除き、一等地に住む屋敷の住人はどこもかしこも寝静まっていた。ただ一つ、長い歴史を持つ名家カーライル邸の一室を除いては。
カーライル家の次女、レイチェル・メイ・カーライルは窓から差し込む明かりを頼りに旅支度を進める。
長く伸びた髪は背中で束ねられ、光の反射を受けて金色に輝いていた。
しかし、一見美しくも見えるその髪は枝毛があちらこちらに伸び、普段であれば愛嬌のある丸く青い瞳にも、どこか生気が抜けているような雰囲気が漂っている。
「次の新月の日で一年……いい加減立ち直らなければと分かっているのに、ね」
小さく呟くその横顔は未亡人のような儚い美しさがあった。
支度を終えたレイチェルは静かに自室の扉を開けて廊下の様子を覗う。
予想された通り全ての照明は落とされ、使用人すら起きていないのが確認できた。
これから向かう先は彼女にとって非常に神聖な場所だ。誰にも邪魔されたくないという思いがあった。
金属鎧と腰に挿した剣が大きな音を立てないように、細心の注意を払いながら玄関まで歩み寄る。
そしていざ門を開こうとしたとき、高い女性の声が響いた。
「光よ、あれ!」
またたく間に魔法のランプに光が灯っていく。
「あら、レイチェルちゃん。どうしたのかしら? こんな時間に」
「お母様……」
この家に設置されている魔法のランプは呼びかけ声に反応するので、特別な魔法の才能や技能は必要としない。ただし、彼女の動きを察知したのは術者による魔法、マルヴィナ・ワーズ・カーライルの魔法だ。
レイチェルの母であるマルヴィナはこのカーライル家の当主であり、この街ロズワンドにある魔法学院の理事長でもある。その風貌はまさしく厳格。
「旅支度なんてして、もう体は良くなったの?」
「えっと、はい……だいぶ調子が戻ってきました」
「良かったわ。もう一年経つのだったかしら、急に戻ってきたときの貴方の顔ったら見てられなかったわよ。ようやく、あの御方と再会出来るのね?」
「そうです……ね」
「あらあら。久しぶりの再会というのに元気ないわね。しおらしくも緊張しちゃってるのかしら? ソルベロイ様と出会ってから本当に貴方は変わったわ。貴方の……そう、王子様ですものね」
レイチェルの知る普段の態度と打って変わり、マルヴィナはにこやかな笑みを投げかける。
「貴方もソルベロイ様も良い年頃なんですから、そろそろ落ち着いても良いんじゃないかって、私思ってましてよ」
貴族の縁談は通常貴族同士の間で行われ、家系を重んじる貴族の相手に平民が選ばれることはない。
しかし、相手が英雄であれば話が別だ。
英雄が手にするのは名誉や名声だけではない。実利として既にスラドキア王より騎士の称号と領地を授かっている。
「お、遅れてはなりませんので、行ってまいります!」
レイチェルは逃げるように屋敷を後にした。これ以上彼について話をされていては取り繕った表情が壊れてしまいそうだったからだ。
ソルベロイの死を知る者は少ない。命からがら帰還し、報告を上げた国王とその周りの一部にしか未だ英雄の死が知らされていないのだ。
箝口令が敷かれた理由は人々の希望が失われたことによる混乱を避けるためと、次の英雄が生まれるまでの時間稼ぎだ。
しかし、これは表向き。
王国が英雄を失ったと知られれば、他国に付け入る隙を与えてしまう。それに他国に先んじて新しい英雄候補を見つけたいという思惑もあるのだろう。
さらに世界中から集まる寄付金も馬鹿にならない。王国は英雄を支援したいという人々の受付口になっているのだ。
故に英雄は人類の領域外で今もなお戦っていると信じられている。
レイチェルは魔法では癒えない傷を負ったため、一時戦線を離脱して療養しているということになっていた。
しかし一年もの間、音沙汰が無ければそろそろ事実が明るみに出る頃だろう。
「ロイ……私もあのとき一緒に死ぬべきだったんだ。だけど、もう決めた。直ぐに私もいくからね……」
レイチェルは目の端に涙を浮かべ、北へ北へと向かった。英雄が命を落とした最後の戦場、墓標を作ったあの洞窟の中へ。
人類の領域内では馬車に揺られ、外に出てからは馬を借りて単身目的地を目指す。
荒野が見えてくると当時のことが否応なしに思い出された。
仲間と共に邪竜を討伐したその帰路のことだった。
突如として現れた老婆は悪魔に姿を変え、英雄たちを襲う。
熾烈を極めた戦いの末、悪魔は次々に魔法を放ち、仲間は全滅。
ある者は黒焦げに、ある者は八つ裂きに。レイチェルだけは邪竜より手に入れた宝玉の守護により生き残った。
そして、英雄ソルベロイは形見一つ残さずに消えてしまった。
ここには誰も見ている者は居ない。レイチェルは子供のように大声で泣きじゃくった。
英雄の仲間として、貴族の令嬢としての誇りが今まで彼女を我慢させてきたが、最早そんなものに意味はない。
一年の間に溜め込んだ苦しみを全て吐き出し、そして笑顔で会いに行こうと思った。
日が沈みかけた頃、洞窟の入り口が見えてきた。
十分に泣き腫らし、枯れたかと思われた涙は再び湧き出てている。
「だめだなぁ……こんな顔、見せたくないのに……」
顔を袖で拭い、馬を降りる。
「帰るべき場所は分かるね? さ、お行き」
馬はそれに答えるようにひと鳴きすると元来た方角へ走っていった。
レイチェルは暗視の魔法を唱えて洞窟の中へ踏み入る。
広い洞窟の中、彼女の歩く足音だけが響いていた。
墓標の前に差し掛かったとき、横たわった何かに気づく。
「誰!? そこにいるのは! ……悪魔?」
憤怒、憎悪といった激情がレイチェルの内側を駆け巡る。
彼女にとってそこは神聖な場所。何人たりとも汚してはならない。
事もあろうに悪魔。ソルベロイと仲間達を殺した悪魔の一種である食人鬼だ。
「死してなお、侮辱する気かッ!!」
一息に抜かれた剣が上段の位置で震えて止まる。
そのまま振り下ろすことを躊躇ったのは、奥にある墓標が視界に入ったからだ。
レイチェルはここがさらに汚れて欲しくなかった。最期の瞬間はもっと静かに、厳かにありたいと望んだ。
力なく剣を鞘に戻すと、外に運び出すために倒れた食人鬼の側まで近寄っていく。
「まだ息があったのね。……え? 嘘でしょ……この顔……ロイ!?」
何の冗談か。レイチェルは自分の見たものが信じられなかった。
よく見ると通常の食人鬼よりも二回りも体格が良い。ちょうど生前のソルベロイとほぼ同じだった。
気が動転した彼女は迂闊にもその顔に手を伸ばす。
「ウガアアアアッ!」
灯火消えんとして光を増す。
突然覚醒した食人鬼は首を動かし、レイチェルの左腕に食らいついた。
そして、その強靭な顎は手首ごと噛み千切ってしまった。