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第1話:成れの果て

 虚空の大地に穴が空いたような大きな水たまりが一つ。

 おもむろに近づき覗き込むと、ここでは無い何処か遠い昔の記憶が映像のようにして浮かび上がってきた。


 そこは戦場。

 城壁をよじ登り、攻め落とさんとするのは武装した狼獣人の大軍。それに対し、防戦一方を強いられ今にも瓦解する寸前の人間の軍。

 戦況は狼獣人の圧倒的優勢だった。勝敗は決したと誰の目にも明らかな中、金色の輝きを放つ剣と共に戦渦に飛び込む青年――いや、少年の姿があった。


 水面が揺らめく。


 そこは闘技場。

 年に一度開催される皇覧試合。名誉、金、権利を得るため、腕に覚えのある勇敢な猛者が集い、しのぎを削る場だ。しかし、その年の決勝戦は異色の組み合わせとなった。

 一人は金色の剣を携える青年。十六という若さで決勝の舞台に立てる者は少ない。

 そして驚くべきはもう一人の方だ。剣技と魔法を組み合わせる魔剣士というだけでも世にも珍しいが、その使い手は年端も行かぬ十四歳の少女だった。


 水面が揺らめく。


 そこは王都。

 王城へと続く大通りには英雄の凱旋を一目見ようと大勢の人達が押し寄せていた。

 王国騎兵隊の後に続き、屋根のない馬車が進む。乗っているのは六人の若者たち。その中の黒髪黒眼の青年が手を挙げると、歓声が一段と大きくなった。


 水面が波立つ。


 そこは荒野。

 草木も殆ど無い大地で馬を走らせる六人の若者たち。ひしゃげた防具、全身の無数の傷が激しい戦いの後を物語っている。

 しかし、彼らの表情は達成感と充実感で満たされていた。

 旅の道具を運ぶ荷馬車の一角に乗せられた竜の頭。まさに英雄と呼ぶに相応しい、竜狩りという偉業をやり遂げたその帰路だった。

 仲間の一人、弓を担いだ男が何かを見つけて声を上げる。周囲に町や村は無いにも関わらず、ひとり寂しく立ち尽くす老婆の姿が見て取れた。その瞳は確かな意思を持ってこちらを見つめていた。


 水面が赤く染まり煮え立つ。


 水の中から唐突に伸びた何者かの腕が体を掴んだ。抗う間もなく、そのまま深い深い水の底に引き込まれてしまった。






 途方もなく長い夢を見ていたような気がした。

 一定の間隔で額の上に落ちる大粒の雫が目覚めを促している。

 男は自分の体が仰向けに倒れていることを自覚した。


「う……。ここはどこだ……?」


 体を起こして辺りを見渡してみると、そこは岩肌に囲まれた洞窟のような広い空間だった。遠くには小さな光が見える。おそらくは洞窟の出口だろう。

 反対側はすぐに行き止まりになっており、そこには墓標のようなものがあった。

 男は墓標に近づき、そこに祀られてる人物の名前を探る。


「私の英雄ソルベロイ、安らかに眠る……俺の名か?」


 確かに自分自身の名前であった気がする。同時に、英雄ソルベロイとして共に旅をした仲間達の姿やあらゆる出来事も鮮明に思い出せる。

 しかし、どこか他人の記憶のような違和感が付きまとう。なぜならば、それにまつわる喜びや苦悩、その他感情の記憶が全く存在しないからだ。

 まるで長い夢の中、その人物の壮大な人生をただ傍観していたような感覚だった。


 不安と苛立ちが男を襲う。

 何気なく胸元にある物を掴もうとするが、その手は空を切った。夢の中の記憶では常に木の板がぶら下がっていたが今は無い。


「くそっ! 何がどうなってるんだ……俺はどうしちまったんだ?!」


 苛立ちが頂点に達したとき、男の腹が鳴った。空腹だ。更に追い打ちをかけるように喉が渇きを訴える。

 墓標に供えられていたであろうものは既に朽ちていて、食べられそうなものは周囲になかった。


「とりあえず水はなんとかなりそうか」


 幸いにもこの洞窟内には水の滲み出ているところがあり、水たまりができていた。

 男は勢いよく水たまりに顔を突っ込み――慌てて吐き出した。


「うぇっ! ぶぇっぺ! おえ……なんだこりゃ」


 汚物を拭き取った後の雑巾を絞ってもここまで酷い味にはならないだろう。そんな決して受け入れることの出来ない味がした。

 滴り落ちて来る雫を直接口に含んでみても結果は同じだった。

 通常、こういった水は土壌でろ過され比較的安全に飲める水であるにもかかわらずだ。


 早々に洞窟の中を諦め、出口を目指す。

 視界が開けた先に男を出迎えたのは、容赦なく降り注ぐ日光と果なく続く荒野だった。


 男は絶句する。食べ物をここで見つけるのはとても困難に思えたからだ。それともう一つ。


「何だ……これ。これが俺の体……?」


 明るみに出て初めて気が付いた。自分の体の異変に。

 爪は黒く染まり、浅黒く変色した皮膚は薄く、隆々とした筋肉に持ち上げられた静脈が浮き上がって見えている。

 頭に手を伸ばせば無いはずの角に触れ、意識を向けると動く尻尾が腰の下から生えていた。


「クッ、クク……ハハハ。可怪しいと思ったんだ。明かりも暗視の魔法も無いのに洞窟の中で文字が読めるなんて」


 不浄の地から這い出り、人を襲って食べる悪魔――食人鬼。

 下位の悪魔に属する食人鬼だが、種族的特徴として人間あるいはその近縁種の体組織以外摂取不可というものがある。

 すなわち、人間を襲わなければ腹を満たすことが出来ないということだ。


 絶望した。今まで英雄として様々な人類の脅威と戦ってきた。その成れの果てが憎き食人鬼だなんて。


「これは呪いか……? 今まで疑問に思ったことすらなかったが、そうか。あの時からおかしかったんだな……。何者でも無い俺が英雄になんて、なっちゃいけなかったんだ」


 それからしばらくは動く気力さえ出なかった。

 状況を理解し、整理し、そして最も良いと考えられる答えを導き出す。


「死ぬか……」


 食人鬼に生まれ変わっても人間の心が残っていたことが不幸中の幸い。いや、運の尽きかもしれない。であれば、人を襲う前に自ら命を絶つべきなのだ。

 しかし、だからといって、自死の決心は恐怖という感情が邪魔をしてなかなか定まらない。本能は生きろ、腹を満たせと囁いてくる。

 これが英雄のソルベロイのままだったならば、最善と判断した瞬間に行動に移せていただろう。


 男は洞窟の中へと踵を返す。

 人を襲うことは出来ない。しかし、渇きは既に限界を超えていた。

 いくら受け入れ難い味だったとしても水は水。喉を通るところまで我慢すれば、どうにかなるかもしれないと考えたからだ。


 男は耐え難い苦痛を我慢して一気に飲み込み、そして――吐く。

 何度も何度も繰り返し飲み込み、吐き続けた。

 生きるために――いや、死を先延ばしにするために必死に足掻き藻掻く。


 しかし、その選択は間違っていた。


 悪魔や天使といった生物の枠に収まらない超常的存在は、しばしば契約や制約といったものに縛られている。人間の観点からすれば簡単に出来ることも悪魔にとって禁忌であれば、それを覆すことは出来ない。


 次第に朦朧となる意識。視界は白く染まり、手足の感覚は痺れを通り越して無くなっていった。

 そして遂には倒れ込む。

 意識が遠のく中、男は嗤った。

 これでよかったのだと。愚かな男に相応しい、惨めで哀れな結末だったと。






 目覚めたときと同じくささやかな墓標の前で、男の命は今にも消えかけていた。

 そして最期の瞬間を迎えようとしていたその時、静寂が支配していた暗闇の中に足音が響く。

 音の主は洞窟の入り口から奥へと歩みを進め、やがて男の前で立ち止まった。

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