殺害現場に妻が・・・
❶
「素人野呂さんだよ」
「やめて下さいよ。からかうのは・・・」
「早く巧くなって、来年の解禁日はみんなを見下すようにならないと」
「其れはもう、特に今俺をからかったお二人には
勝ちます。」
「無理、無理、三十年かかるから」
「俺は二十五年でいい。その頃には止めているから」
「ところで井村の親父、ろくに釣りもしないで帰ってしまったなぁ」
「おそらく杉原さんが亡くなって其れで堪えているのじゃないの?何しろ同級生だから」
「あんな男が死んだからって、気にするのかな?
たいがい悪評の絶えない男だったのに」
「井村さんは幼いころから杉原さんとふざけたり悪い遊びをしたり、とにかく仲が良かったと言っていましたよ。」
「そうかも知れないけど」
「でもあんた所の本家の春子さんが選挙に出たときは、あの男の事口を合わせてみんなで嫌っていたなぁ」
「でも井村さんは、杉原さんに選挙に出るって聞かされて応援したらしいですよ。
同級だったし幼いころから遊んでいて仲も良かったから。」
「絶対無理だと誰もが考えたよ。あの時は。器じゃないと言っていたよ。」
「悪い噂もよく聞いたからなぁ」
「それに息子も神社で賽銭を盗ったとか聞いたね。」
「でもそれもデマだったと言うか、息子さんでは無かったらしいですよ。本人も親父さんも言っていたと、井村さんは二人に聞いて、だから噂であの親子は潰された様な言い方でした。」
「でも火の気のない所から煙りは出ないと思いますよ。噂が出るって事は、それなりに何かが潜んでいるからだと思うな。」
「俺はこちらへ来させて貰ってまだ六年ですが、それに杉原さんって名前だけしか知りませんが、井村さんがおっしゃるには、この前からお葬式に行ったりして知った様ですが、杉原さんの息子さんが飯田市でお好み焼き屋をやっている様ですね。
其れも随分以前から。だから井村さん、それを知ってたいしたものだと言っておられました。
賽銭泥棒って言われた男がって、だから人は見かけや噂だけで判断してはいけないなぁって、それに息子さんは実は真面目な男で頑張り屋なのかも知れませんねって俺も」
「ほう・・・」
「それが事実なら立派なものだよ。」
「反面教師って事か・・・親父は破産して、子が成功するって、そりゃぁ立派なものだな。」
隆はそれぞれの考えを聞きながら、半面であの日記帳の事を頭に描いていた。
警察が動き出している事は承知であったが、其れは言うなれば警察が花村徳之進宅へ行き、奥さんの紗枝さんから日記の事実認定をする事になり、其れは夫が大事にしていた遺構の日記を、隆が黙って引き千切った事は大失態だった事に気が付いた。
鮎釣りから帰って、居ても立っても居られなく成って来て、直ぐに身支度をして花村の奥さんを訪ねていた。僅かの初鮎を提げて、
「奥さん、俺が釣った鮎です。僅かですが召し上がってください。
それで叱られに来ました。この前のご主人の日記帳の事なのですが、実は・・・」
「あれ?少し破けていましたね。良いんですよ。
差し上げましょうか?貴方が大事にして下さるなら差し上げますよ。全部持って帰ってください。」
唐突に奥さんがその様に口にした。
隆はその言葉に多くの物が隠されているように思えた。
まず奥さんは既に全部読んでいて、その結果これは俺の立場に成れば、全部隠すべき内容であると判断したからなのだろうと思えた。
それにしても未だ警察は来ていないのか、残りのページも全部あげると言った事からもその様に読めた。
それとも全く目を通す事なく、徳之進さんの遺稿だと大層に思っているのは自分だけで、奥さんには然程興味など無いのかも知れない。
丁重にお断りして破った分だけは暗黙の内に許して貰えたと判断して、警察の話をする事もなく家路についた。
当然妻美香を目撃したと書き残したあの場所を奥さんが既に読んでいて、知っていたかも知れなかったが、事実は違っていたから、敢てその部分には触れないでいた。
波風が立つ事なく時は過ぎ、元刑事の野平順平に日記の数ページを届けてから、何ら音沙汰もなく歯がゆくもがいた日を重ねていた隆は、心の中を整理したく成って来ていた。
杉原良助の息子が新犯人ではないかと思う気持ちが浮き沈みする毎日であった。
あれから半年も過ぎているのに、電話の一本も掛かって来ない事や、新聞やテレビでもそれらしいものなど全くない。
『野平さんは所詮警察を離れた人、断腸の思いで一杯になっていたとあの事件の事を語っていたが、あれは被害者に対する演技だったのかも知れない』と思えてきて、諦めムードが漂いかけていた時、妻美香が、
「あの話はどうなったのでしょうね?一度あの元刑事さんて方に聞いてみたら?」と言われた隆は、
「そうだね、既に半年も経っているのに音沙汰なしだね。可也の証拠だと思ったけど、人違いだったのかも知れないね。これだけ経っても何一つ言ってこないと言う事は。」
「おそらく花村さんが目撃されたのは、杉原さんたちでは無く、別人だったのでしょうね。」
「でもこの街から出ていないとなると、更に美香に似た人物だから・・・他に居る?」
「居るかも知れないわ。だって私平田川の何もかもを知っているわけじゃないから。隆さんなら全く判らないでしょう?ここへ来て六年足らずだもの」
「でも一度だけでもあの元刑事さんに聞きに行こうよ。美香にとって何よりも重大な事だから、野平さん蔑ろにしたりはしないと思うよ。」
「そうね。」
それから二人は元刑事野平順平を訪ねていた。
「せっかくご足労願ったのに申し訳ないですが、今の所進展するような事柄は無いようで、
本署に話を持って行って貰っていて、鋭意捜査して貰っているようだけど、進展はないようですなぁ。
何しろ杉原良助の子供の伸介に照準を合わせて追及しているようですが、其れと伸介の彼女にも
確かに奥さんに似ているようですが、それも二十数年前の話、もっと似ていたのか、それとも然程似ていなかったのか、何しろ遠い昔の事で・・・」
「それで息子の居場所は直ぐに判りましたか?
「ええ、だって大きく店をやっているから直ぐにわかりました。
お好みやさんで、結構繁盛しているようで、私と心安くしている刑事が言うには、まさかあの夫婦がって言っています。
つまり商売も繁盛して品行方正で、しかも奥さんを大事になさっていて、子供さんも元気で明るい子で、それにきっちり生きているって感じの家族だと」
「へ~ぇ、杉原の息子がそんな評価をされているのですか?」
「そう言ったのは猪熊と言って、私が現役だったころに親しくしていた部下だから、間違いないと思いますよ。何しろ彼は真面目な男で」
「それでは私たちの考え過ぎだったのかも知れませんねえ。やはり長い歳月は事件を風化させているのでしょうか?其れとも犯人も様変わりしてしまったのでしょうか?」
「でも警察はいくら遠い昔の事件でも、犯人が逮捕されていない以上、諦める事はありませんから。」
「私たちは黙ってじっと待たせて貰う意外方法などないのですね。」
「そうですね。」
「妻の美香にとって生涯の課題でしょうね。一日でも早く解決していただける様に祈っています。」
「まぁ一度飯田市に行かれる事があれば、今言っているお好み焼き店を覗いて見て下さい。
中へ入るの等嫌でしょうが、遠くからなら構わないでしょう。結構立派なお店だから、滅多とあの事件に繋がらないと感じると思います。
心のどこかで疑っているより、彼らの立場に立って考えるのも大事かと思います。第一気が楽に成ります。たとえ刑事でも疑ってばかりいると疲れます。常に肩に荷物を背負っている様に成り、因果な商売なのです。」
「解りました。暇を利用して早速行って来ます。」
隆たちは重苦しい空気を感じながら元刑事野平の家を後にした。
それから時間があった事も手伝って早速飯田市まで足を運ぶ事にした。
目的は杉浦良助の息子がやっているお好み焼き店を偵察する事であった。
午後四時になっていたが店は閑散としていて、車を近くの駐車場に止めて二人で警察がするように店を監視していた。
❷
やがて車が一台停まり二台停まり三台停まりと夕方になってきて客足が伸びてきた。
【四時から深夜二時まで】
その看板通り客がやってきて、いつの間にが大繁盛に成りてんやわんやしている。
時たま表に出てお客に頭を下げているのは、間違いなく息子の嫁である事が判る。何故なら今なお妻美香の面影に似たものがあり、花村徳之進がその様に思い込んだ女は、美香であると書き綴って死んで逝った事も頷けた。
駐車場で夕食までして、まるで刑事の様にお好み焼き店を見張っていると、思わぬ人がやってきて二人は驚いて身をすくめた。
「美香あれって井村さんだよ」
「井村さん?」
「一緒に鮎釣りをしている」
「あぁわかるわ」
「そうか・・・井村さんと杉村さんは同級生だった。子供の頃いつも一緒に悪い事をしたって言っていたなぁ。仲が良かったようだよ。それであの店に来るんだな。この前も釣具店で居たとき、杉村の親父さんが死んだ事知れされてガッカリしていたから」
「仲が良かったのでしょうね。だから息子さんのお店にも励ますようにして来てあげているのね。」
「そうか・・・どこにも刑事さんの言うように悪い人など居ないって事だな」
「井村さんって立派ね。お父さん亡くなって辛い思いをしていると息子さんのお店に、遠くから来てあげているって、お父さんが亡くなって井村さん辛かったでしょうね?」
「でもおかしいなぁ?井村さん釣り道具屋で俺と居た時、電話が鳴り杉原さんの死を知った。でもあの時杉原さんが癌で死んだ事を全く知らなかったと思うよ、電話でそんな受け応えだったから。つまりそれまでは殆ど付き合って居なかったと思うよ。」
「其れじゃお父さんが亡くなった事がきっしょになって、井村さんが来る様になったのかな?」
「行って見ようか?」
「どこへ?」
「あの店へ?」
「今食べたばかりじゃない夕ご飯?」
「でもお好みだから別腹って事で」
「いいわ。」
「井村さんが出て行ったなら、その時ならお腹も少しは空いて来るから」
「解ったわよ。」
それから一時間程過ぎた時、井村が店から暖簾を持ち上げて出てきた。
そして車に乗ろうとした時、杉原伸介の嫁らしきが追いかけるようにして出て来て、井村に封筒の様なものを手渡した。
井村は最敬礼をして、それを受け取り何度も頭を下げた。
「あれって何?」
「解らなね?お父さんが亡くなった事で、何かお礼の品物とかじゃないの?例えば商品券とか」
「そうなの?でも井村さん結構頭下げているわね。あれってあべこべでしょう?奥さんはあまり頭を下げていないわ」
「そうだね。でも井村さんの事はともかくあの人が帰ったなら入るよ。」
「ええ」
店は大盛況で店主の息子をちらっと見ながら、この人が二十数年前に美香の両親を斧の様な凶器で二人の頭をかち割って殺しただろうか・・・
そんな事を思うだけで笑えて来そうな気に成った。満面笑顔で注文を取っている健気な姿からは、想像などまるで出来ない風情であったので、余計な事を考えるより美味しそうにふっくらとして、周りでソースの焦げている香りは、何もかもを消していた。
「うまい。本当にうまいね。」
「ええ、おいしいわ。」
二人は無口になり、お好みに食らいつく様にして食べていた。
息子の伸介は、隆はともかく美香の事も全く知らないようで、何一つ表情も変えず応対する姿からも、決して犯人ではない様に隆には見えた。
「美味しかった。帰ろうか?」
「はい。」
店を出た二人は夜風に曝され乍ら
「来てよかったね。疑ったままで毎日が過ぎるより」
「そうね。あの人が犯人だなんてありえないと思ったわ。」
「俺も。だから来て良かったって」
「花村のおじさんの日記で惑わされたけど、結局あの事件は苔が生えたように成ってしまうのね。」
「美香は犯人の事どう思う?」
「どう思うって言われても、
もう二十何年も経っているから、それに一番大事な事は、あの日記の様に、今私が幸せであるかって事が何よりだと思うわ。」
「だからもう忘れてもいいって?」
「かも知れないわ。犯人も長い間脅えながら暮らしていると思うから・・・」
「そうだね。目に前でお父さんとお母さんが、頭から血を噴き出すように流して、その二人に布団を掛けて殺したわけだから、その光景は犯人でさえ見るのが辛かったと思うよ。二十何年間もその光景を思い出しながら生きているのだと思うと、辛いだろうね。幾ら犬畜生でも、いや鬼畜でも」
「隆さん、もう警察に任せてくれていいから。無理しなくても。私は本物の幸せを掴んでいるから」
「美香それにしても井村さんおかしかったね?杉原のお父さんが亡くなって、同級生の井村さんが悔みに行って、お葬式にも行ったと思う。
でも今日見た光景は、お世話に成った人に対する態度では無かったと思ったよ。あの奥さんの態度は」
「そうね頭を下げていたのは井村さんで、奥さんはそれほどでもなかったように思えたわ。」
「まさかお金を無心に行って・・・それで
長い間親交が無かった二人であったが、片方が泣くなり、その同級生が悔みに来て、其れで亡くなった男の成功している息子さんと出会い、その息子さんが立派に成っていて、其れで無心を思いつき、今日その金を受け取った。」
「うまく推理するのね。でもあの様子はその推理で当たっているかも知れないわね。」
「変だったねぇやっぱり」
「隆さんの言うように奥さんは井村さんを見送るようにしていたのも、実は心配していたのかも知れないね。貸したお金なら」
「じっと見送っていたからね。」
「井村さんってどんな人?」
「どんなって、温厚で優しい人だよ。少なくとも俺には。鮎釣りを始めたとき態々ビールとかつまみとか買って来て祝ってくれた事もあり、気の付く人だよ。」
「でもさっき目の前で見たのも現実なら、勿論お金を無心していた事にして」
「調べて貰おうか?」
「だれに?」
「野田さんに事情を言って」
「その必要があるかも知れないね。思惑が外れた事は確かだから、当たって砕けろで聞いて貰いましょうか?」
「とりあえず相談してみるよ」
それから数日が過ぎ隆は野平順平を訪ね、
「井村氏を調べて貰えないでしょうか?杉原さんの息子さんからお金を無心していたように見えたのです。
❸
その時俺思いましたが、井村さんはお金を借りていたと言う事と、口封じに来たのではないかと、でもそれなら以前から同じ事が続いていた筈で、でも井村さんは杉原さんの親父さんが亡くなってからの付き合いのようだし、こんな頼りない話ですが、何かがありはしないかと、其れに生前の親父さんともどんな関係であったのかと・・・」
「そうですか、行かれましたか。綺麗な店だったでしょう?」
「はい美味しかったです。流行るのもわかります。」
「たぶん何もないと思いますが、警察へ連絡しておきます。私からと言う事で・・・たしか従業員がおる筈ですから、その方に聞いて貰います。従業員の方は一度聞き込んでいて、何方か判っていると思いますよ。自宅も。」
「それは何故?」
「だから今の話ではなく杉原伸介さんと奥さんのあやさんの素性を調べていて、其れは貴方が以前持って来た日記のコピーが切っ掛けになって」
「それでその時は何も引っ掛からなかったのですね。」
「ええ、そうです。」
「では今の所突破口など全くないのですか?」
「そうらしいですよ。聞く範囲では」
「それでは今の話の信憑性などどれ位なのか判りませんが、調べられるならお願いします。」
「ええ」
それから一か月近くが過ぎた時、元刑事野平順平氏から電話が入り、隆は耳を立てて聞き入っていた。
「幾らか見えて来ましたからご報告致します。貴方が仰っていたように、貴方がお好みを食べに行かれた日に、井村がお金を借りに行ったようです。
まだ開店前だから三時ごろだと言っていました。彼女は、彼女って高田伸江と言う女性で、既に十年近く前からあの店で働いているようで、開店の仕度をして居る時、井村が店にやってきたと言っています。
井村の事はお父さんが亡くなった時に何度か見たようで知っていました。でももっと以前から知っては居なかった様で、貴方のご推察と殆ど同じでした。彼女は店の者と家族のような関係で、お金の事でも夫婦は平気で口にしていて、それで井村に二十万円用意して、店が開いて間もなくまた来たのでその時渡したようです。
旦那も奥さんも、あまり嬉しくない人と捉えていた様で、お金を渡してから揉めていたそうです。
無心は可也強引だったようで、店の二人は不安そうで困り果てていたようにも見えたと」
「まさか井村さんは何かを掴んでいるのではないでしょうね?俺が持っていた日記の様なものを」
「其れは判りませんが、あの人たちの間には何かがある事には間違いないようです。今後もしぶとく調べて貰います。」
「俺は井村さんって人が判らなく成って来ているのです。これまでも何度か話していて、実に温厚な人で気の利く優しい人ですから、亡くなった同級生の息子さんに無心をしているとは考えられないのです。」
「でも実際している様ですなぁ。それも強引に」
「もし脅して取っていて、それが嫁の両親殺しが原因でなら、警察に徹底的に追及して貰わないと行けませんね。」
「ええ、煙が立っているならやるでしょう。」
やはり犯人は杉原伸介とその妻あやなのか?其れで事実を知った井村は『ばらすぞ』と脅しをかけて金を毟っているのかも知れませんね。」
「それでは警察は杉原伸介と嫁がいつお好み焼き店を始めたのか、そしてその資金はどのようにして工面したのか追及する必要があるようですね。
隠された何かがあり、そこにつけ込んでいる井村さんがあるなら」
「ええ、多分警察はあなたが今言われたように進めるでしょう。あの忌まわしい事件の心髄かも知れないですね。」
「でも人間ってわからないですね。あんなに優しい井村さんが恐喝まがいの事をしているとは・・・」
「それもそうですが、二人の人間を殺しておいてぬけぬけとお好み焼き屋をしている杉原伸介も大したものですよ。私はあの男が犯人でない事を逆に祈りますよ。あの嫁も」
「でも真実は一つだとすれば、かなり可能性があるようですね。警察の方の頑張りを期待します。」
「ええ、また進展が見られましたならご連絡致します。」
電話は切れた。
隆は妻美香に粗方を口にし乍ら、井村さんの心の内に秘められたものを見抜こうとしていた。
「美香、井村さんが美香の両親を殺したかも知れない杉原親子を、恐喝しているかも知れないよ。この前杉原のお好み焼き屋で見かけた井村さんは、杉原からお金をせびっていたようだよ。あの店に来ている店員の高田伸江って人が言っていたそうだよ。
二十万円持って帰ったって」
「そんな事までわかるの?勤め人に?」
「どうも長らく働いていて家族同然だったようで、そんな事まで耳に入ってきた様だよ。」
「では間違いなく杉原さんがお父さんたちを殺したの?」
「其れは判らないけど、でも可能性としては十分在るね。現に恐喝されていたなら。」
「でもそれなら何故事件が起こった時にその事を警察に言わなかったのでしょうね?」
「いや、そうではなく、杉原の親父がなくなってから何かを掴んだんだと思うよ。でかい秘密を。何故って井村さんは杉原の親父さんが亡くなってから店に来るように成ったらしいから。以前に秘密を知っていたなら、もっと早くから店に顔を出していたと思うから」
「成程、でも何を掴んだのでしょうね?」
「解らないけど二十万円を渡す値打ちのある出来事だと思うな。」
「あの花村のおじさんが残した日記の様なものかも知れないね。」
「それとも杉原の親父さんが死んだ事で、誰かに何かを知らされた。例えば同級生の誰かからとか・・・」
「でもそうならお父さんたち殺しの犯人の事、平田川町の誰かが知っているって事よ。そうでしょう?」
「解らないね。警察の今後の捜査を見守って行く事にしようよ。今後警察は杉原伸介と嫁のあやを徹底的に調べてくれると思うから。 今の店を開いた時期や開業資金の事も」
「でも何か具体化して来て見えて来た様ね。何かわからなけど。思い出すのは怖いけど、逃げちゃいけないのね私は」
「俺が付いているから。美香が苦しまなければならない様な事になさせないから。」
ところがそれから一か月も過ぎたころ、元刑事野平順平から電話が隆のもとに入り、
「お知らせしておきます。どうも思惑が外れたように思われます。警察は核心に触れる思いで臨んだようですが、杉原伸介とその妻を徹底敵に調べたようですが、犯人に至るものなど全く無く、むしろ彼ら夫婦は白であるような事例が判ってきた様です。
先ず杉原伸介はまだ若い頃から夢を仲間に話していて、其れは自分で店を持ちたいと言う夢で、必死にお金を貯めていたらしいです。
だから当時工事現場の仮宿場で寝泊まりして、家にも帰らず必死で働いていて、また仕事がきつかったから家に帰る体力も残っていないほど遅くまで働いていて、そんな努力を積み重ねてあの店を手に入れたようです。
ちなみにあの店は杉原伸介が修行で働いていた店で、親方が高齢で杉原に将来を託し店を譲ったようです。もともと小さくで貧相な店だったようですが、杉原がやりだしてからあの様に綺麗で、しかも大きな店になり、元々の親方も今も健在で、九十を越しているようですが、杉原に譲った事を心から喜んでいるようです。
賽銭泥棒と言われて罵られた少年も、今や立派に成っている様で、杉原が殺人犯であると思われる動機が全く見当たらないと、今の所結論が出ているようです。」
「其れで嫁さんは?」
「それも杉原がその様な人物だった事もあり、似たもの夫婦で、嫁も決して悪い噂に成る事など無く、献身的であの店を共に切り盛りしているようです。 更に父親の噂って言うか、生れ故郷の長瀬で立っていたような噂は丸でなく、ただ仕事が巧く行かず破産した事で、子供たちに迷惑を掛けない様に飯田市の安アパートで嫁とひっそりと暮らしていたようです。」
「それで嫁の両親を殺した犯人に繋がるようなものはどこにも無いと言うことなのでしょうか?」
「ええ、正直そのようです。」
「では井村さんに脅されていたと言うのも出鱈目でしょうか?」
「いや、其れはわかりません。貴方が言われる様に何かがあるかも知れませんが、健全にお店をやっておられる以上、問い詰めるもの等無いと言う事です。
ここまで来たならはっきりさせる為に井村氏から事実を聞く必要があると警察は言っております。井村氏が杉原さんを恐喝をしているのか、それとも単に借り入れをしているのか、其れは判りませんからね。」
「なるほど・・・」
「ですから遠くない時期にはっきりするでしょう。杉原氏に何ら問題が無かったなら、事実を言ってくれると思います。でも隠された何かがあるなら只では済まないでしょう。それが奥さんの両親殺し
の新犯人なら」
「そうですか・・・ここまで来たならばはっきりしたいですね。犯人で無かったなら気にしないで済む話ですからね。」
「ええ、滅多に名誉棄損だとか言う話ではないと思いますから」
「ではお願いしておきます。早く真実を知りたいです。誰よりも嫁が知りたがっています。
実は俺と嫁は、先日も杉原さんの親子の事を話していたのですが、あれだけ評判が悪かった親父さんも、賽銭泥棒って言われた息子さんも、それに息子さんは家を再三空けて何日も帰らないろくでなしの様に言われていた様ですが、決してそうではなく、必死で働いていて帰る気力さえ無い迄に疲れ果てていて、それも自分の店を持ちたいと言う夢の為で、だから俺も妻も長瀬の皆さんも、出鱈目を言って居るのではないかと思う様に成ってきて、何かとんでもない大きな間違いをしている様に思えて来ているのです。
俺は長瀬に来てから日は浅く昔の事など知りませんが、でもこれまで耳にして来た事と、貴方からお聞きした現実は、可也違っている様に思います。噂を鵜呑みにして在ってはいけない想像をして、関係ない人を疑い傷つけているのかも知れません。」
「ええ、私もあんなに夫婦で頑張って立派な店を構えているのに、彼らが犯人で在ってほしくなと言うのが心情です。仮面を被っているとは思いたくないのです。」
「でもそれも直ぐにわかるのですね。」
「ええ、警察はそのように動くでしょう。」
微妙な駆け引きが展開する様に思えて来た隆は生唾を飲むようにして見つめる思いでいた。
一人の人生が或は一家族の人生が、壊れるかも知れないと思うと複雑な思いであった。
それでも賽は投げられたと思うように心を決め毎日元刑事の野平順平からの電話が入るのを待ち続けた。
一か月待ち、二か月待ち、三か月持ち、半ば諦めかけていた頃に成って、思わぬ出来事が起こった。
井村義一氏が通い成れた仕事場で、首を吊って居る所を仲間に発見されたのである。
あの温厚な井村氏が何があってと誰もが思う所であったが、隆は何故か一本の糸で繋がっているように思えてきて、慌てて元刑事の野平に電話をしていた。
「いやぁこちらから電話をしなければ行けなかったのですが、面目ない事で・・・」
「それで何があってこんな事に?」
「ええ、実は井村を追及したのです。杉原伸介さんから二十万円を借用した事実を」
「それで?」
「聞いていた通り井村さんは強引に杉原さんからお金を借りたようですよ。
親父さんが亡くなった時、同級だった井村さんと板尾さんと十和田さんて方が悔みに来られ、その後も見送りにも来られ、其れで急接近した様に成って、杉原さんにしてみれば、親父の同級生と思い気を許した様で、お世話に成った思いで無心に応じたようですよ。
でもね、実は杉原の親父さんは生前井村さんの事を息子さんに言っていたのは『とにかく同級だけど仲も好かったけれど気を付けないといけない男』だって言っていたようですよ。
だからその言葉を覚えていて、息子さんは気を揉み乍らお金を貸したらしいですね。」
「それで何故自殺に繋がるのでしょうか?」
「お金ですよ。お金に詰まって自ら命を絶ったのですよ。材木の仕事も上手く行っておらず、火の車だったようで」
「でも井村さんは鮎釣りをしている姿から、まるでそんな事想像出来ませんでしたが・・・」
「いえ、実は最近大きな不渡り手形を掴まされて困っていたようで」
「それが自殺の原因だと?」
「そうなるでしょうね。我々警察が動いた事が拍車をかけたのかも知れないし、つまりまだ隠された何かが在るかも知れないって事ですよ。」
「井村さんが自殺して誰が助かるのでしょうね?」
「助かる?其れは井村氏があの事件の犯人でも、事実は闇の中って事に成り、被疑者であっても被告にはならないって事ですね。詰まり闇の中で事件は終息するって事ですなぁ」
「それでは井村さんの家族が汚名を掛けられるが、罰せられないって事ですね。ただし百年経っても続く噂ですね。俺の妻も犯人も忘れる事など絶対出来ない事件ですからね。」
「だから井村さんが犯人であると言う説も考えられるが、自殺した動機はあくまで手形の不渡りを掴まされた事が何よりで、あの事件とはおそらく関係ない話だと思います。杉原氏にお金を借りたのも辻褄が合いますから」
「そうですか・・・・・また振り出しですね。」
「ええ、」
元刑事野平順平の力のない声を聞きながら電話を切った。
それから隆は悔みに井村家を訪ねていた。
本家の倫太郎さんの家の横にある井村家は、ひっそりとしていて、大黒柱を失った重みがひしひしと伝わって来て息苦しかったが玄関を跨いだ。
「生前はお世話になり優しくして戴いた事を忘れません。鮎釣りを始める様におっしゃって下さったのもご主人で、これから長いお付き合いが始まる事を楽しみにしていましたのに残念です。」
そう言いながら遺影を見つめて、その後ろに何か潜んでいないかと勘繰っていたが、生前にお世話に成った事を思い出して来て目頭が熱くなってきた。
井村氏の自殺は他人事ではなく、平田川町の将来が暗雲としている有様を見届けた思いでいた住民が、相当居た様で暗く険しいお葬式に成った。
過疎化が進む田舎町は時代から取り残されていくお荷物なのかも知れない。花に浮かれる春があっても、夢中になって鮎を追いかける夏があっても、其れは平田川の街にとって一年を通じて考えたとき、決して秋と冬を補えるものではなかった。
井村氏は追い詰められて行く地場産業に、朽ち果てるように敗れた事になり、誰もがショックを感じる結果と成った。
隆は井村家で神妙に悔みを述べ、その後本家を訪ねて、久しぶりに倫太郎のご機嫌を伺っていた。
「おじさん、井村さんお気の毒ですね。」
「そうだなぁ可哀想に・・・何も死ぬ事は無かろうに・・・いい男だっただけに残念だなぁ」
「そうですね。優しくって、よくしてくれましたよ。こんな俺にでも」
「あいつはよくここへ来て話し相手に成ってくれたからな。長瀬の事はよく知っていたよ。どんな事でも」
「そうですか・・・」
「同級生の杉原って男の事もよく言っていたなぁ。尻始末させられているって・・・その同級生が亡くなったと最近聞いたが、まさかあの男までが死んでしまうなんて、着いて逝ったのかな?何も尻始末をさせられる男の後を追ったりしなくても良さそうなものだけどなぁ。人が良すぎるのかなあいつは?」
「尻始末ですか?」
「そうだよ。杉原って同級生にはほとほとしたって言っていたなぁ。 山の木を誤魔化して売ったとか
市場で誤魔化したとか、息子が賽銭を盗った時はもみ消すのに苦労したとか、夜遊びが過ぎてろくに家に寄り付かなかったとか、まだまだ一杯言っていたなぁ。
❹
人の事でも一生懸命に成って。だから杉原が選挙に出るって井村さんが言った時は、私らはびっくりして、結局嫁が選挙に出る事になり、杉原を弾き飛ばした・・・そんな事があったなぁ。懐かしいよ。
でも井村さんも死んでしまって一つの時代が終わった様な気がするな。」
「それでおじさん、今お聞きしていると、井村さんっておじさんにとって、とっても親切で忠実なお方だって感じますが?」
「そうだよ。再三ここへ来て町の事や色々な事を耳打ちして貰っていたから。とても親切だったから」
「そうですか、でもね、実は色々聞いているのですよ。」
「でも今日は止して。仏さん隣りで聞いているから」
「ええ、又の機会に、其れに美香の両親にも関わる話かも知れませんから」
「美香の?」
「ええ」
「それじゃぁ聞かせて貰うよ。今でも構わないよ。」
「では・・・実は俺春子おばさんに紹介して貰って、敏明さんと安枝さんの事件を担当しながら未解決のままで退官した刑事さんと再三合っているのですが、其れで色々な事が判ってきて、どうもおじさんが言っている事と、食い違っている個所があるようで」
「杉原の事がか?」
「ええ、井村さんが叔父さんに言っている内容が、どうも間違っている様に思われて」
「井村が嘘を言っていると?」
「かも知れませんねえ。息子さんは賽銭を盗った事など絶対無かったようで、また家に寄りつかなくてうろうろしていた様に噂で言われていた様ですが、実際は若い時から夢を抱いていて、其れは自分の店を持つ夢で、実際現在飯田市で立派なお店をやっています。
とても美味しいお好み焼き店をやっていて、評判も良く、若い時に家にろくに帰らなかったのは、仕事で頑張り過ぎて疲れて帰る気力さえ無い日が続いていて、其れで三日も四日も帰らなかったようです。
言わば現実は誰よりも真面目だったと言う事です。親父さんの方も噂になっているような事は無かった事も考えられるのです。」
「まさかだが・・・それが事実なら井村さんは何故私にあの様な事を、まるで真逆じゃないか?・・・」
「それは判りません。でもおじさんを利用して何かを企んでいたかも知れません。」
「何の為に?それが井村さんにとって何に成るのかな?」
「解りませんが、この話は同級生の杉原さんを利用して濡れ衣を着せたって事は無いでしょうか?杉原さんて方はおそらくお人よしだと思います。何故なら最近お父さんが亡くなり、そこへ同級生の井村さんが悔みに来て、そのついでだったのか、その積りだったのか判りませんが、お金を無心しているのです。 何年も不通だった同級生の息子から」
「井村さんが?そんな図々しい事出来るのかな、あの人は?」
「ええ、現実強引にお金を二十万円も借りています。杉原さんの息子さんも仕方なく渋々貸したようです。
井村さん商売が行き詰っていたから、破れかぶれだったのか知りませんが、でもそんな事も出来る人だった様です。」
「ふ~ん・・・井村さんって二面性がありそうだね。私の前では従順で素直な人だったけど」
「ええそりゃ俺の前でもそうでしたよ。でも色々聞かされて、其れも元刑事に」
「それで隆君は何を言いたい?」
「だから美香の両親が殺された事件に繋がらないかと・・・」
「今なら隣で・・・棺の中で眠っているけど、何も答えてくれないと思うよ。冗談じゃないけど」
「でも犯人は間違い無く居ますから、この手で見つけて見せますよ。美香の本当の幸せはそれから先の事だと俺は思っていますから」
「そうか・・・美香も良い人と知り合えたものだな。
今でも十分幸せだって言っていた意味よく解るよ。でも隆さんあまり無理をしないでくれよな。」
「いやぁおじさんに銃を突きつけらた事があったけど、あの時が最大の無理でしたから・・・在れ以上の無理はないでしょう・・・」
「嫌味だなぁ・・・一生言われそうだな。ハッハッハッ
それにしても当時実際賽銭が無くなっていた事は確かだから、犯人が居た事は間違いなく、でも杉原の倅は知らないってなると、その話を口にした井村さんはどうしてそんな事を言ったのかな?
まさか・・・自作自演?
其れに井村さんから聞かされた杉原の親父が、木を誤魔化したとかピンはねしたとか、人の木を売ったとかあれも自作自演かな?
でもあれだけ噂に成っている話だったのに、杉原の親父は何も言わなかった。どうしてかな?自分が疑われているのに」
「それは解りませんが、でも息子さんは知っているかも知れません。頗るお人よしだったかも」
「お人よし?あの杉原良助が?」
「ええ、実は息子さんに近付いてきて、二十万円ものお金を無心した井村さんに対し、息子さんは返して貰えなくっても仕方ないような言い方をしていた様ですよ。おそらく証文を書いてとか型苦しい事はしていないと思います。実際俺店先で現金を手渡すのを見ていますから。」
「そんな事までしているの?」
「ええ、実は杉原さん親子を疑っていましたから。でも聞けば聞くほどきちんとした親子で、其れに息子の奥さんも頑張り屋で・・・」
「では私は、今棺に中で眠っている井村さんに踊らされていたかも知れないな?明日出棺の時に聞いてみるよ。これは冗談だけど・・・信じていた人を疑うって事も辛いね。この歳に成ると」
「其れで事件当時の事ですが、おじさんは杉原が選挙に出るからって井村さんから聞かれたと言いましたね。それで井村さんは同級生の杉原さんを
頼みますと言う話だったのでしょうね?」
「そんな言い方もしながら、他の事を思っていたかも知れんな?今から思うと・・・私らは井村さんに感化され、杉原の事を決して良くは思っていなかったから、其れも計算の上で井村は私に言ったようにも思うな。杉原が選挙に出て万が一受かれば、井村さんにとって都合が悪い事が生じたかも知れないなぁ。
何かに対して目を瞑って貰っているとか、でも選挙に受かれば隠しきれない何かがあるとか、だから井村さんは杉原が選挙に出る事は同級生として応援しなければいけない所を、心底はその逆で潰す事を考えていて、私にいち早く口にしたのかな?」
「それって何でしょうね?」
「解らんよ。おそらく町が管理している山の事かも知れないな?井村さんは長年役員を務めていたから」
「そこで不正があったとか言う噂などありませんでしたか?」
「それは無かったね。万が一在ったとしても水面下だと判らないって事だから」
「でも何かが在るのでしょうね?」
「だからと言って敏明さんや安江が殺された理由がそこの辺りにあるとは思わないがね。」
「繋がりませんか?」
「隆さん、私もお隣さんの手伝いに行かなければならないから行ってくるよ。申し訳ないけど・・・」
「ええ、では俺は帰ります。」
「でも今の話を聞かせて貰って、色々な事解かって来たよ。耳をしっかり立てて情報を掴んで知らせるよ。」
「お願いします。」
井村さんは語る事なくこの世を去った。思わぬ出来事で夫婦殺害事件は暗中模索のまま彷徨う事となった。
翌日もお葬式のあと春子おばさんも交えて話が弾んだ。
「昨日主人から聞いたわ。あなたが美香のために頑張ってくださっている事に感謝するわ。
警察も迷宮入りだと言っているようなものだから、混沌としているようね。それで杉原さんの息子さんが立派にお店を持って頑張っているって?」
「ええ、飯田市で頑張っていますよ。井村さんがお金を借りに行って何も言わず貸した様で、立派なものですよ。返して貰えなくっても仕方ない様な言い方をしているようですよ。
親父さんの同級生だから。それに賽銭泥棒って言われた事も全く知らないって否定しているようですよ。平田川の誰もが偏見を持っているのかも知れませんね。」
「でもそれって井村さんがここへ来て言った事を鵜呑みにして、私も父さんも、疑う事なんか知らないから」
「ただ昨日も話したのですが、だからってあの殺人事件に繋がるかってなると」
「難しそうね。」
「でも犯人は間違いなく居る筈だから、ただはっきりして来た事は、当初思っていた杉原親子は犯人では無いかも知れないって事ね。」
「それではお隣の仏さんは?」
「不謹慎だけど井村さんが犯人である可能性はって事ね?」
「そうだな。罰が当たるかな?」
「おじさん、井村さんはどうして命を絶ったのでしょうか?やはり不渡り手形を掴まされたから?」
「そうだと思っているが」
「でもその事でどれだけダメージを受けたか調べる必要があるかも知れませんね。何故かって言うと、実はおばさんに紹介して戴いた元刑事の野田順平さんを通じて、警察が動いているからです。
井村さんが杉原さんの息子伸介さんからお金を貸して貰った事で、どの様な繋がりかを調べ始めたからです。
不渡りを掴まされたのはいつの事でしょうか?」
「はっきりした日にちは聞いていないが、噂では先月の月末に落ちなかったからだと思う。その前の月かも知れないが」
「それは何故って事ですが、不渡りが決定していない時にお金を借りに行っていたなら、今回の自殺はあくまで不渡りが原因だとは言い切れないと思って。」
「つまりもっと以前からお金に詰まっていたのか、あるいは他に理由があるのか、それは警察が動き出した事に原因があるのか、その様に勘ぐるのです。」
「隆君、もし後者ならあの事件に繋がるって言うの?」
「もしそうなら・・・ですが、警察が動き出した事と何ら関係が無いと言い切れないと思って、何故なら警察はあくまであの殺人事件の捜査ですから」
「井村さんがもし犯人なら、びっくりしたでしょうね。あの事件をまだ捜査しているのかと、生きた心地しないかも知れないね。」
「だから死を選んだ」
「そうなるね。」
「待ってお二人さん。私は井村さんを弟の様に可愛がって来たから、お言葉を返させて貰うが、今日はどれだけ皆さんが泣いていたか、今日ばかりは彼を犯人と思う事はしたくないなぁ」
「倫太郎おじさん。ごめんなさいね。俺毎日この事で頭の中が一杯に成っていて」
「今日は疲れたから明日にでもしたら・・・」
隆はいかに不謹慎な会話をしていたのかその時になって解った。
急ぐように家に帰り、メモ帳を取り出して警察の様に時系列で頭の中を整理していた。
ただいくら考えても、どこの誰がどんな目的で、美香の両親を嬲り殺したのか全く分からなかった。
先ず殺さなければならない動機は?親父さんの右手が意味しているのか?荒っぽく汚い口が災いになっているのか?お金に問題があったのか?選挙に関係があったのか?いろいろ思いつくものを書き出してみたが、どれも根拠などない。
美香の父親も母親も隆には全く分からない人で、
八方塞がりである事には変わりなかった。ただはっきりしていることは、二人の写真が引き伸ばされ仲良く映った二人の姿が酷い事件を物語っていた。
それから数日が過ぎ、本家のおじさん倫太郎氏から隆に電話が掛かってきた。
「隆君、実は気に成って居た事があり、でもあまりにもほやほやだったから言わないでいたのだけど、井村さんのお通夜もお葬式にも行かせて貰っていて、気に成った事があり、それで電話させて貰ったのだけど」
「何でしょうか?」
「あの人の交友関係って言うか、同級生って言うか、
胡散臭い連中だと私は思ったな。こそこそと何か話していたのが気になって、側へ寄って行くと直ぐに話を止めお互い離れるから癖が悪いと思ったな。何も無かったなら話を止めないで続けているだろうから」
「でも場所が場所なだけに気を使っていたのではないのですか?」
「かも知れないが、実に嫌な空気だったな。」
「それでどんな意味があるとおじさんは思うのです?」
「いや意味があるかなど判らないけど、同級生として悔みに来ていると言う雰囲気では無かったように思ったな。
井村さんはかもすれば、この同級生に嵌められて死を選んだのではないかと私は思ったよ。」
「それはどうしてですか?」
「いやぁ何となくだよ。実に胡散臭く感じたから」
「つまり悔やみに来ながら、或は葬儀に来ながら心ここにあらずって感じでしょうか?」
「何か企んでいると言う言い方がいいのかな。上手く言えないけど」
「おじさんは何を感じたのでしょうね?まさか自殺に見せかけて殺されたとか思っているのではないのですか?それも同級生として参列している井村さんのお友達に、だから気に成って気に成って」
「隆君はその様に私を見るんだね。私が何を言いたがっているかを見抜くように」
「違うでしょうか?」
「いやぁそこまでは思っていないけど、近い考えを持っているな。」
「それで井村さんは通いなれた山で首を吊っていて死んでいたと成っていますね。それで間違いないのでしょうか?おじさんはその辺りから気に成る事があったのでは?」
「そんなことは無かったけど、先日気に成る事が起こっていて」
「何でしょうか?」
「実はお隣へ保険屋が来ているのだけど、随分遠くに車を止めて来ているからおかしいなと思って
だってむしろ軒先まで突っ込む様にして来て、ドカンと支払うのが保険屋さんだろう。
自殺だからかも知れないけど、保険が降りないのかも知れないと思ってな。だから遠慮気味に車を止めてと思ったわけ。それと何時も来ている方と年配の人と二人で来ているから何かがあると思うよ。」
「でも保険は自殺でも下りるのではないのですか?」
「それは知らないが何か隠されたものが潜んでいるかも知れないと思えて、犯罪の様なものが」
「でも警察はそうは言ってないでしょう?」
「でもそれもわからないからね。」
「・・・」
「また何かが判れば連絡するよ。兎に角同級生ってのが胡散臭かったってこと。」
それから間もなくして井村さん宅に数人の警察管が仰々しくやって来てこの様に口にした。
「奥さん実はタレこみがありまして、ご主人は自殺ではなく殺されたのかも知れないと言う内容でした。手紙に書かれていて何方かは判りませんが、調べ直すように勧告すると言う内容で届いております。心当りがないでしょうか?」
「そんな事言われましても、まさかあの木の上まで主人を吊るして殺したと言われるのですか?」
「もし他殺なら考えられます。詳しい方なら自殺に見せかけることだって出来るでしょう。
何か思い当たることは御座いませんか?お亡くなりに成る前にトラブルがあったとか、変わった事とか、思わぬ方から電話が掛かってきたとか、見知らぬ方が訪ねて来られたとか、その様な出来事ありませんでしたか?
このような意味のタレこみは得てして調べ直すと事実が多く、決して単なるデマとは捉えていません。」
「私にはわかりません。気に成る出来事も在りませんでした。もし他殺だと言うなら、犯人を見つけて下さい。許せません。」
「ええ、徹底的に調べますから、検死解剖の結果も再度見直し精査致します。但し遺体は既に荼毘に付されていますので、どれだけ見直せるかは判りませんが、ご主人はどなたとかと言い争っていたとかありせんでしたか?」
「それはわかりませんが、主人は温厚な性格でしたから争う様なことは見たことがありません。トラブルに成っていたと言う話も私は全く知りません。
❺
ただ手形が不渡りにされ、商売が行き詰ったことは確かですが・・・それとて主人に問題が在った訳ではなく、先方さんに問題が在った事が原因ですから。」
「ご主人は相当怒っていたのではありませんか?」
「怒るって言うより慌てていました。弱った弱ったと繰り返していました。先方の電話も通じなくなっていて困り果てていました。でも不渡りを掴まされるってことはそう言うことなのでしょう。
主人は苦しんだ挙句あのように・・・」
「では奥さんはご主人が自殺しても不思議ではなかったと思われるのですね?」
「ええ、困り果てていましたから、それに仕事もこの何年間は上手く行っていなかったものですから。」
「金策に明け暮れをしていたのでしょうか?」
「私にはわかりませんが、その様なこともしばしばあったかも知れません。疲れていた様に思えた日もありましたから」
「では捜査はし直しますが現状通りに成るかも知れませんが」
「お任せしておきます。黙っていたならまた同じ人からタレこみが入るのと違うでしょうか?現状では気に入らない人から。その人は真実を知っているのでしょうね。真実が他にあるのでしたら」
「正しくその通りでしょうね。兎に角調べ直します。」
警察官はこぞって井村家から出ていった。
その姿を見送りながら井村の夫人の多恵さんは、居ても立っても居られなく成った様に田所家の玄関前にやってきて、
「おじさんかおばさん、居てますか?」と大きな声を張り上げるように出して部屋の中を覗き込んだ
「はい、多恵さん何?」春子が何事かと飛び出して来てすぐさま倫太郎も顔を見せた。
「今ね、警察が来て主人が自殺ではなく殺されたのではないかと言うのよ。タレこみがあったらしくて警察官が大勢来てびっくりしたわ。
今度の日曜日に満中陰を迎える積りだからどうしたものか・・・」
じっと聞いていた倫太郎も
「警察がそんなことを・・・聞き捨てならないねぇ。嫌がらせではないのかな?」
「嫌がらせでそんなことする?」
「ご主人不渡りを掴まされて被害を被ったと聞いているけど、同じように辛い思いをさせられた人も居ると思うし、不渡りを出した問屋に恨みつらみがある事は十分考えられると思うよ。
其れで奥さん、何か思い当たる事はないのですか?ご主人を利用していた人とか、争っていた人とか・・・」
「それは警察にも聞かれましたが私にはわかりません。」
「奥さん、おかしなことを聞きますが、ご主人の同級生の方って生前は懇意にされていたのですか?
お葬式にも来られていた方ですよ。十和田さんとかそれにもう一人・・・」
「懇意にしていたと思います。長い付き合いですから。」
「其れで何ら問題に成っていた事など在りませんでしたか?」
「無かったと思います。」
春子も黙っていられないとばかり
「多恵さん、確かご主人来年から漁業組合の理事に成る筈でしたよね?」
「ええ、それは決まっていました。十和田さんに代わって、しいて言うならその事かも知れませんね。
十和田さんは降ろされる事になり、不服だったと聞いていますが」
「でも同級生なのでしょう?其れにお互い鮎釣りは切っても切れない趣味だし、十和田さんも長年役をして来たから変わって貰えばいいじゃないの。何も不服に思う事など無いと思うわ。」
「私にはわかりませんが、主人も成りたくてなったのではなかった様で、押し出されてって言う感じだったようですよ。」
「十和田さんともう一人同級生が来られていましたね。」
「枝野さんです 。お二人は主人と以上に仲が良いようで、良くご一緒して飲みに行ったりしているようですよ。」
「枝野さんは漁業組合の役は持っていないのですかな?」
「いえ、やはり理事で」
「そうですか・・・私は平田川に生まれ乍ら釣りをしないから判らんが、漁業組合で何か問題など起こっていないのですかな?」
「それは聞いたことありませんが、今回の人事に関しては少々火花が立ったかも知れません。十和田さんが役を下ろされ不服だった事を聞いていますから。」
「それが原因でご主人が殺されたと言うデマが流されるかとなると、意味が解りませんなぁ
誰も得になる者など居ない様に思うから。
奥さん、その話は警察に任せておくほど賢明ではありませんか?動きようがないでしょう?」
「そうよ多恵さん、警察が納得するまで動いてくれると思うわ。でも殺されたなんて悔しいですね。
自殺であっても殺されたとしても辛い人生ですね。もう四十九日ですか?早いもので・・・」
「はい、あっけない人生で、ただ主人は相当苦しんでいましたから、元々貧乏な育ちだから、田所さんの様なお家で生まれていたらなぁと嘆いた事ありました。」
「まぁ奥さん元気を出して下さい。困った時は何なりと仰ってください。」
「そうですよ多恵さん。」
「有難うございます。何と言っても死んでしまったら元には戻りませんからね。」
井村多恵はこうべを垂れ乍ら寂しそうに出ていった。
倫太郎と春子は顔を見合わせながら、お隣りさんに起こった不幸を、我が事の様に感じ、心を共に重くしていた。
警察が勢いよく井村家にやって来たが、それから一か月も過ぎたが何の音沙汰も無く時は流れていた。
ただ唯一井村さんが漁業組合の役員に成ると言うことで、同級生の十和田さんが難色を示していて、相当不服だったことが井村の奥さんから聞かされた倫太郎は、隆に電話を入れていた。
「隆君、井村さん家に警察が来て、井村さんは自殺じゃなく殺された可能性があるような言い方をして帰ったらしいよ。タレこみがあってそれで警察はまんざらでもない素振りだったらしいよ。
奥さんが言うには、井村さん次のシーズンで漁業組合の理事に成る予定だったらしいね。 私はその点は疎いので判らないけど、それで同級生の十和田って男が干されるって言うか、理事じゃ無くなるようだよ。十和田は理事に未練があるのか不服だったらしいよ。
なぁ隆君、私この前に井村さんのお通夜とかお葬式で同級生の十和田の事を言っていたねぇ」
「ええ、なんか胡散臭いとか何かが在るような言い方をされていましたよ。」
「その十和田だよ。隆君はまだわからないと思うが漁業組合の理事に成れば、何かおいしいことあるのかな?」
「俺はまだわからないです。」
「どうもその辺りに何かが潜んでいそうで、どうも臭いな?井村さんが自殺では無く、殺されたと垂れ込めば、誰かが美味しい何かにあり付ける・・・そんなことありえないかな?」
「おじさん、もしですよ、もし漁業組合の理事に成って、美味しい何かの在り付いていたって考えればどうでしょうか?それがばれれば犯罪の様なものでも、
例えば組合には相当の預金があります。僅かな金ではありません。昔ダムが出来るかも知れないとなって、基金を創設したと聞いています。その時からの積立金が相当あると」
「それなら知っているよ。もう二十・・・いや二十五年も前から続いている話だと思うが」
「時期はわかりませんが、組合員に積み立てられた基金が相当あることは確かで、去年組合員に成りその事を説明されました。またダムの話が再燃した時の為だと聞かされました。
その手つかずの基金に何かがあるかも知れませんね。」
「隆君良いこと言ってくれた」
「どうしたのです?」
「下の妹が殺された何年か前、そんな話があったことを思い出したよ。、其れで連日揉めていたね。所がダム建設が中止になって 、川にお客さんが一杯来るようになったが、その後妹夫婦が殺される事に成った。
まさかあの事件もそれに今回も、ダム建設や漁業組合が関係しているかも知れないな?」
「おじさん、糸が繋がったように思われるのですか?」
「何かがあることは間違いないだろうな。二十数年前と言うと、私は関係なかったことだけど、そりゃ大層なものだったよ。至る所に車が止められて川は大賑わいだったことは覚えているよ。
一日千人もの釣り人が平田川に来て、人で人で川が見えない位だったことは覚えているよ。お金も飛ぶように入っていたことは確かで、川へ入る鑑札の年券が売れて売れて、勿論日券も売れて、相当なお金が動いていたと思うよ。」
「それで殺された親父さんは漁業組合に拘わっていたのでしょうか?」
「拘わっていたってものじゃなかったよ。敏明さんは長瀬では群を抜いて鮎釣りは上手かったよ。私の所にも良く鮎を運んで来てくれていたから、彼はね、利き腕を無くしたが義手で竿を提げていた様だよ。
怪我をする迄は相当上手かったと聞いているよ。」
「では理事とかに成っていなかったでしょうか?」
「いや、まだ若かったから、そんな事しなかったと思うよ。ただ組合員として意見を言うことはあったと思うが・・・何しろ口が悪かったから」
「親父さんは何かを掴んでいませんでしたか?不正とか?」
「さて~遠い昔のことだから・・・でも今同じことが起こっているかも知れないな?」
「誰かが揉み消そうとしている?」
「そうだね・・・」
「おじさんが解らないならおばさんにも聞いて貰って欲しいのですが、美香の両親が殺される以前に、安枝母さんが何かを言っていたとか、愚痴を零していたとか、思い出して頂きたいのです。
僅かな事でも。今回の井村さんが亡くなった事と関係があるように思われます。
おばさんに母が相談していたとか、実のお兄さんの貴方に何かを相談していたとか、是非思い出して頂きたいのです。」
「解った。春子なら何か思い出すかも知れないな。
何故なら春子は嫁に来た身でありながら、安枝とは実の姉妹の様な関係だと思わせる間だったから、気が合い色んな事を話し合っていたと思うよ。」
➏
「ではおばさんに期待しています。」
翌日早速春子おばさんから電話が掛かって来て
「関係ないかも知れないけど、当時ね、敏明さんが組合の事を言っていたのは、何か同じ番号の券が見つかって大変なことになっているって、
それで意味わから無かったから聞くと、一現さんに売る券で、詰まりその日だけ使える券の事よ。
その券が同じ番号で二人に売っていたようよ。
偶々同じ仲間に売ったので見つかって、役員が苦情を聞くことになり、ところが金額が合わなかったので売り子をしていた者に聞くと、判らないと言うことになり、それで売り子が責任を取って自腹で埋めたらしいわ。
原因は印刷屋が同じ番号を印刷してしまったことに成っていたと誤ったらしいけど、でも敏明さんはそんなことあるわけがないと言っていたそうよ。印刷機のカウンターって言うのが動かず、同じ印刷をしてしまったって印刷屋が」
「それでどうなったのですか?」
「敏明さんが随分気にしていた様よ。何かを掴んでいたのかな?でも身体も不自由だったから逆らえなかったかも知れないわ。
ただあの事に絡んだ事が原因して殺されたのなら、何かを見つけていたことは間違いないわ。つまり抗議したと思うわ。不正を暴くと言ったかも知れないわ。当時そんな事事件に関係ないと思って気にもしなかったから、警察には誰も一切話していないと思うわ。」
「その時その券を作ったのは何方が担当していたのでしょうね?」
「そんなことわからないわ。二十数年前に漁業組合で事務をしていた人に成るわね。
でも解るかも知れないわ。漁業組合の組合長は長年務めていて、その後町議会議員に成った和佐俣錬氏だから、時系列で紐解けば解ると思うわ。
おばさんね。明日議会があるから彼に聞いておくわ。組合長を辞められてその後議員に成られて、既に三期は務められているから、ちょうど時期的に合うと思うわ。
和佐俣さん漁業組合に居られた頃、事務員さんと噂に成ったりしていたから、当時色々言われていたこと覚えているもの。つまり事務員さんも長らく勤めていたって事だと思うわ。」
「ご健在でしょうか、事務員さん?」
「そう願いたいわね。明日聞いておくから」
「お願いします。」
数日が過ぎたが春子おばさんがしっかり調べてくれていて、その人は岩井地区に住む野島夢と言う名の人であった。
生涯独身を貫きひっそりと一人暮らしをしていた。岩井地区と言えば鮎釣りの師匠の矢代さんが住んでいることに気が付き、気にしながら野島の表札を探した。
直ぐに見つける事が出来、ベルを鳴らしていた。
「遠い昔のことで恐縮です。あなたは覚えていて下さるでしょうか?鮎の日券のことですが、同じ番号があり二人の方に売られていて、お金が一枚分しか在らず、売り子の役員さんが責任を取って弁償されたことがあった様ですね。
それで原因として印刷屋さんが言うには、カウンターがうまく動いていなくてそのような結果に成ったと、あくまで機械の故障だと、それで印刷屋が責任を取って始末書を書き終息した出来事ですが」
「遠い昔のことですね?でも覚えていますよ。不思議な事件でしたから。切られた切符は確かに二枚あるのにお金が足らなかったから、それも三千円ですからちょうど一枚分でしたから。
でも印刷屋さんが機械の故障だと言い切って事が収まったから、それ以上の事にはならなかったですよ。
でもあの時目くじらを立てて怒ったのは田所の敏明さんでした。つまり貴方の義理のお父様ですね。」
「どうして父が怒ったのでしょうか?」
「いやぁお父さんの若い頃は血気盛んな時で、それにあんな大きな事故に遭われたのでしたから、気が荒れていたのかも知れません。お父さんは真相を知りたかったようですが、皆さんが止められて・・・それでも当時の役員の方に食って掛かっていた事を覚えています。お金が無いのは券を二枚発行した事と、また別問題だと言い張って、お父さんが言われたのは同じ番号の券が二枚出ていても仕方ないとしても一枚分のお金が無いのはおかしいと言われ、当時の役員の方にしつこく食って掛かっていました。」
「それで当時の役員ってどなたでしたか?」
「十和田さんの長男さんです。三兄弟の一番上の方で組合が発足した時からの役員をされている方です。」
「十和田さんですか・・・今年一杯で役を退く筈の十和田さんは?」
「その方は二番目の方だと思います。私は面識はありませんが噂ではお聞きしています。お二人で随分長らく理事を務められご苦労なことですよ。」
「報酬などあまりないのでしょうね?」
「ええ、理事長の様に議員にでもなれば、たいしたものですが、理事だけでは名誉職です。」
「それは鮎釣りが好きだから出来たのでしょうね。義理の親父が十和田さんに食って掛かって、みんなで慰められ、それからどの様に成りましたか?」
「収まりました。お父さんも手が普通では無かったから、悟されながら我慢されたと思います。」
「それで貴方や理事長はどの様に捉えたのですか?」
「ええ、印刷やさんが機械の調子が悪くて成ったと言い切りましたから、その言葉を信じて収まりました。確かに三千円が不足していた事は問題でしたが、十和田さんが文句も言わずお金を弁償しましたから収まったのです。」
「親父もそれからは納得して何も言わなかったでしょうか?」
「いえ、納得いかなかったのか、それから組合と距離を置くように成りました。事務所にも来なくなり、お父さんの心の中で何かが起こっていた事は確かだと思います。」
「何が起こっていたのでしょうね?」
「私にはわかりませんが、あの二重の券で騒いだ時の経緯が原因だったことは間違いない様です。」
「十和田の長男さんはご健在でしょうか?」
「いえ亡くなられました。次男さんや三男さんは生きて居られる様ですが」
「変なことお聞きしますが、内の両親が殺された時警察が再三来て、根掘り葉掘り聞かれたと思いますが、」
「いえ、警察の方は組合には来ていません。少なくとも私は記憶していません。お父さんは理事でも何でも無かったですし、トラブルも在りませんでしたから、其れに疑われる組合員も居なかったと思います。個人のお家へ行っている場合は私には判りません。」
「そうですか・・・どうも長い間ありがとうございました。嫁の美香に無理しないでって言われていますが、可哀想で・・・
気が狂ったように成っていた時期もあったようで、それを知って放っておけなく成りまして」
「旦那さんは優しいのですね。美香さんは幸せに成られたとお聞きしています。頑張ってください。」
「有難うございます。」
隆にははっきりはしていなかったが、大きな山が動いているように思えて来ていた。それは刑事が事件に対して刻苦勉励で猛突進する姿に似ていた。
僅か一歩であったが間違いなく一歩づつ進んで行っている思いであった。
自宅へ帰って久しぶりに妻美香と膝つき合わせて言わば現状報告をしていた。
「なぁ美香 お父さんは正義感の強い人だったのかな?」
「ええ、曲がったことの嫌いな人だったわ。神経質だったけど、偉そうに言いながら実は母さんに気を使っていた事も確かだったわ。自分の手が不自由で、それで田所へ養子に来た事も手伝って、神経質って言うより臆病だったのかも知れないな。でもそれとは別に曲がった事は大嫌いで、そんな時は男らしかったわ。」
「なるほど。美香は大学に行って京都の寮に入るまでの事だけど、高校生の頃お父さんの事で何か思い出って言うか、心に残ったことあるかな?」
「遠い昔ね。父さんと川へ行って、竿を持ちにくそうにしていたから手伝おうとしたら叱られた事かな?あれってショックで今でも私には解からないわ。間違っていたのか、それとも正しかったのか。私も手首を落とさない限り解らないかも知れないと思ったわ。」
「美香がたとえ娘であっても構われたくなかったんだと思うよ。構われればそれだけ悔しいだろうし、甘えたくなかったかも知れないね。二十五歳で手首を失くし、お父さんは誰にも言えない苦労と戦っていたんだと思うよ。
聞けばお父さんは平田川で屈指のアユ釣りの名人だったらしいな。でも怪我をしてから竿をあまり持たなく成ったと聞いているよ。川へ行くことも少なく成ったと。」
「だからお父さんストレスが堪ったのか、私が大学へ行く頃は、お母さんに当たって母さん可哀そうだった。気病いって言うの?それだった。
でも私も大きな事言えないわね。自分も同じ様に成ってしまって。やっぱり親子ね。」
「美香、お父さんが、美香かそれともお母さんに、入川券とか入漁権とか鑑札とか切符とか、そんな言い方で怒る様に言っていたこと無かったかなぁ?ご飯食べながらとか雑談をしていてとかで・・・どこの誰が許せないとか・・・」
「聞いたことあるわよ。鮎のことで、役員が鑑札を身内に無記名で渡して、シーズンが終わる頃に返して貰うって言っていたわ。それって今でも同じ事が繰り返されていると思うわ。無記名の鑑札はみんなそうと思うわ。」
「それでお金を払わないってわけ?」
「そうよ。汚さないで真っ新のままで返すわけ、隆さんは知らないんだ。でも外部の人にはそんなわけには行かないと思うわよ。きちんと年会費貰っていると思うわ。」
「其れでみんな納得なのかな?不公平だけど」
「でも平田川の人にはそれでいいのじゃないの。でも父さんは嫌がっていたわよ。反対意見を出していたらしいけど聞き入れて貰えなかったと思うわ。当然事実を知った外部の釣り人は、嫌気をさして来なくなった人も居たと思うわ。不公平さに呆れて」
「何だか入り人の俺には受け入れがたい風習だね。
美香までが平気でそのようなことを言うから」
「だからこの街は落人の街って言われるのよ。」
「そうか・・・落人の街ね・・・それだけ?他に何かない?」
「鑑札のことで父さんは何かを言っていたなぁ。なんだっけ?印刷屋がどうのこうのとか、何だっけ?」
「印刷屋が?印刷屋が同じ番号のチケットをどうのこうのと言っていたのと違うかな?機械が故障してとか・・・」
「いや、違うわ。故障とかじゃなくって誰かと企んでいる気がするって言ったいたと思うわ。」
「誰かと企んで?」
「十和田って言ったかな?」
「十和田?」
「十和田って言ったと思うわ。青森にある十和田湖のあの十和田って言ったと思うわ。高村幸太郎の銅像がある十和田湖よ。だからその名前ははっきり覚えているのよ。高校の時修学旅行で行ったことがあるから。」
「間違いなさそうだな。十和田って名前は」
「ええ、間違いないと思う。」
「そうか十和田か・・・」
➐
翌祭日隆は、先日お邪魔して漁業組合の事をお聞きした、組合の元事務員野島夢さんを再度訪ねていた。
「先日は有難う御座いました。ところで貴方がお勤めだったころ、お聞きしました様に同じ番号の入川券が見つかり問題になったことがありましたね。それで印刷屋が機械の故障でその現象が起こったと」
「そうでしたね。その通りですよ。」
「ただ一つお聞きしたいのですが、漁業組合が券を印刷屋に注文する時に、担当者が居られたのではないのですか?」
「当然居ました。すべて十和田さんが采配して下さっていました。十和田さんはあのお歳でしたが大学も出ておられ、経済にも長けていて助けて貰っていました。組合の発起人でもあり、何かとお役に立って戴いていました。印刷物の事は勿論、経理の事にも精通していましたから、理事長の右腕で、無くてならない人でした。」
「相当信用のおける方だったのですね。」
「ええ」
「それでは印刷屋さんって平田川町の方でしょうか?」
「そうですよ。田辺印刷工芸舎です。ご存じないですか?」
「知らないです。田辺印刷工芸舎さんですね。解りました。」
「町の広報誌なんかされていると思いますよ。この街ではあそこしかないと思います。」
「そうですか・・・何分知識不足で、都合でお伺いしてみます。」
「そうして下さい。詳細も判ると思います。遠い昔の事ですが、信用問題に係わる事でしたから、其れなりのに大きな問題になったことは事実ですから」
「解りました。」
隆は野島宅を後にして自宅へと急いだ。思惑があった。
「美香、お父さんが日記とかメモ帳とか何か書き残している物がないかな?思い出すのは嫌だろうけど」
「だったら一緒に探そう。私一人でお父さんの部屋に行くの嫌だし辛いから。」
「わかった。一緒なら怖くないんだな。構わないよ。それ程いいから」
そんな会話を交わして二人は薄暗い儘で閉じていた父敏明の部屋に光を入れた。美香は窮屈そうに父の
書斎に手を伸ばしていた。
机の引出しをそっと開け、どっと無残な過去が噴き出すように美香には思われた。
「駄目!無理!」
美香はそう言って部屋から小走りで出て行った。
「大丈夫?もういいから。美香は無理しなくていいから」
隆はそう言って美香の肩に手をやり、慰めるようにして落ち着かせた。
それからまた一人で父敏明の書斎に向かい、ピリッと引き締まるものを感じながら、美香が開けた儘にしていた引き出しの中身を覗き込んだ。
何冊もの本が仕舞われていて大学ノートもあり、きちんと並べられた筆記具に、父敏明が厳粛な人であった事がそれらから想像出来た。
『ここにあるものは全て警察が目を通しているから、漁業組合に関する疑わしきものは無いだろう・・・もし疑わしいものが在るなら、警察は漁業組合に捜査の手を伸ばしているだろう・・・でも事務員の野島さんは警察は来ていないと言っていた。
つまり親父さんとお母さんが殺されなければならなかった動機は、漁業組合に関係ないのだろうか?親父さんは組合の何かに腹を立てていた・・・それは何なのか?重複した一枚の切符の事なのか?それとも・・・』
おそらく警察も目を通しただろう大学ノートに目をやっていた隆が、気に成るイラストの様なものを見つけた。
それは二本の線が描かれていて、両端に二つの丸が書かれていてそれぞれにⒶとⒷが書かれている。
意味が解らない。でも意味がある事は解る。
何故ならきちんとした厳粛を思わすノートに書かれているから、それを大事に引き出しの中に仕舞ってあるのも深い意味を感じさす。丸の中には鉛筆で3000と書かれている。
隆はそれを見てはっと閃くように思った。
『まさか入川券はダブルで作られていたのではないだろうか?つまりそれは誰かが故意に作って、集めた金を懐に入れていたかも知れない?
一枚は正統でもう一枚は闇にして小遣い稼ぎに。
このイラストのように場所を変え同じ番号の切符を切れば、誰にも判らない。切符の番号は小さな数字だから確認など本来誰もしない。
当時は釣り人でごった返していたと言っている。だから尚更見つからない。ただ一度だけ偶然見つかり問題になったが、印刷屋がカウンターの故障と言い切ったと言っていたが、それはもみ消す手段だったのかも知れない。十和田さんって役員も自分で弁償したようだが・・・それも大きな犯罪を揉み消す為だったのか・・・
❽
親父さんは十和田さんを相当疑っていたのでは無いだろうか?窓口に成っていた十和田さんと印刷屋。何方も疑がっていたかも知れない?何かを掴んで、かもすれば親父さんはおとりを用意して、十和田さんに近づけていたのかも知れない・・・そして偽の券を証拠として既に手に入れていたのかも知れない。』
たった一ページに書かれたイラストであったが、隆にはその様な疑惑のストーリーが浮かんでいた。
『それは言い換えれば、たった一枚の券の話ではなく、百枚も綴られた一冊かも知れないし、それ以上かも知れない。そしてそれは何年にも続いている悪習かも知れない。三千円ではなく三万円であり三十万円であり、もっと莫大かも知れない。当時は毎日千人も二千人も釣り人が来ていたと聞いているから。
いま思いついたことが現実なら、それを親父さんが見つけ、係わった者に抗議したとしたなら、殺される動機に間違いなく成っているだろう?十和田さん個人ではなく、組合員全体の犯行ではないのか?今なお無記名の券が平田川の者に配られていることを考えると・・・』
静まり返った父敏明の書斎で隆は心の中で蠢く多くの事を考えていた。
隆はその親父さんが残した大学ノートを持って元刑事の野平順平を翌日曜日に訪ねていた。
「これ見てくれませんか?二十数年前に父が殺された時に、現場検証で目を通されたかも知れませんが、 このイラストには大きな意味があるのではないかと気が付いたのです。
この二つの丸は釣り人を意味しています。そしてこの二本の線は平田川です。釣り人に券を売ってお金を貰い、それから可也離れた所でまた券を売るのです。でも売った券は同じ番号で、買った方は胸に付け券があることを証明するのです。
日によって色を変えているので、遠くから見ても直ぐに判る様に成っています。何故なら胸に付けてくれない客が居り、遠くからでも見分けられるようにしているからです。番号はこの様に小さな字でそこまで見る監視人はいません。監視人は色の確認だけ遠くからでもします。
親父がこのようなものを残したのは、何かに疑惑を持ったからだと思います。つまりこのイラストで判るように、番号の同じ券を誰かが作っていて、こちらでは集金して、同じ券でまたこちらでも集金していたのではないかと、親父は疑っていた様に思うのです。
其れで誰かに頼んでおとりに成って貰い、疑わしい監視人から証拠を掴んでいたのかも知れないのです。」
「券を偽造し、客からお金を集め懐に入れていた。
それを見つけたお父さんは追及しようとしたから、だから殺される事に成ったと言うのですか?」
「ええ」
「でもこの話はどこまで真実が含まれていて、どこまで推測なのですか?」
「真実はこのイラストを残した大学ノートだけです。」
「それでは殆どが推測で・・・」
「そうですね。」
「でもこうして態々来られたと言うことは、それなりに思うものがあると言う事ですな。
野呂さん、刑事の気持ちわかって貰えます。一歩一歩、ほんの僅かしか前へ進めないことを。」
「ええ、大変なお仕事で」
「親父さんがおとりを使って証拠の券を手にしていたなら、大きな意味があるでしょうね。あの時、事件の後その事を意識しながら検証したなら、現場で見つかったかも知れませんね。貴方が言われる事が真実なら。もう一度探されては如何です。それが在るなら警察も動くと思いますよ。」
「解りました。券が在れば重大な証拠に成ると思われます。ですから親父さんも大事に仕舞ってあるでしょう。探してみます。
それと噂で耳にしたのですが、自殺をされていた井村さんとも、生前はご懇意にさせて貰っていたのですが、春子おばさんから聞きましたが、どうも井村さんは自殺ではなく、殺されたかも知れないと、警察にタレこみがあったようですが、誰が何故そんな事をするのかさっぱりわかりません。」
「他殺であるほど得をするからですよ。」
「誰が?」
「例えば奥さん。一般的に自殺より他殺の方が保険金は大きいと思いますよ。」
「まさか奥さんが・・・」
「でも判らないですよ。滅多と私が言ったとは言わないで下さいよ。しかし刑事を長年して来たから在りうる話だと思います。補償内容を見てみないと判りませんが。まぁ憶測の話はこれ位で」
「怖いですね。それが事実なら。」
「とりあえずこれをコピーして警察に言っておきますから、証拠に成る物が在れば探しておいてください。」
「解りました。」
「お父さんも意味なくこんなものを残さないと思いますから」
「解りました。」
「でも貴方が持ち込んで来た花村氏の日記の控えによって、杉原良助と伸介親子が浮上して来て、その子に親父と同級生であった井村が金を借りに来て、それは貴方の両親を殺害した杉原伸介に対して、口止め料ではないかと警察は嫌疑を掛けた。
しかし杉原伸介は真面目な男で、立派に店も構え、その上井村が金を無心に来た事に対しても、返して貰うことを考えないで気持ちよく貸している。この男が二十数年前に、二人もの命を残虐な手口で奪った等とはありえない。
ところがお金を借りに来て、貸してあげた井村は不渡りの手形を掴まされて商売に行き詰り、首を吊って死んでいた。でもそれは自殺ではないと垂れ込みがあった。
こんな所ですね。大きな山があり頂上が見えている様に思うのだけど、霧が掛かっていて、どこから登るのかさえ分からない。野呂さん辛抱強く焦らず頑張って下さい。」
その言葉に逆らうように、隆は急いで自宅へ向かっていた。
親父さんが殺される前に、それなりの証拠を残しているように思えて焦っていた。
元刑事の野平氏からアドバイスを受けながら、警察も証拠を突きつければ動いてくれると確信していただけに、心には溢れるものがあった。
『在ってくれよ』と祈る様な思いで家路を急いだ。
帰るや否や義父の書斎に身を置き黙々と遺品に目をやった。
本などをパラパラと捲り、証拠の品が落ちて来ないかと祈りながら同じ動作を繰り返した。本棚を探る様に一時間も二時間も、目の前にある全ての諸物に手を掛け、目ぼしい物が落ちてくることを信じて祈る思いで繰り返していた。
どこにもない。証拠の切符、若しくは鑑札、入川券、二十数年前の見たことの無いそれらを取りつかれたように探し続けた。
六時間探しまくったが、結局目的の物は見つかること無く、も変わっていて明日の事を思い渋々さじを投げた。
「疲れたでしょう。あまり無理をしないでね。」
美香が心配顔で隆を慰めた。
「見つかると思ったのに残念だなぁ。大きく動くと思ったのに、親父さんも間違いなく何か不正を見つけたと思うよ。その後どの様な行動を執ったのかは判らないけど。ただそれが原因で命を狙われたと思っても不思議ではないと思うよ。
美香が先日言っていたお父さんの印象に残っている言葉、『十和田が誰かと何かを企んでいる』と言った言葉。その言葉に大いに意味があると思うな。十和田三兄弟について徹底的に調べて貰おうか?」
「誰に?」
「野平さんにお願いして警察に」
「でも証拠に成る物も何も無いのなら無理じゃないかしら、警察も素人の意見など受け入れてくれないでしょう?」
「でも美香が言えば聞いてくれると思うよ。当事者だから、両親を殺された被害者の考えなら、取り敢えず聞いてくれると思うよ。」
「そうかしら?遠い昔の事だから判らないわよ。それより明日も時間があれば探したら、私も頑張って手伝うわ。」
「なぁこの襖やドアを全部外して広間の様にしようか❓境界が無い様にすれば、お父さんの書斎って感じでは無くなるだろう。
これから先も全部取っ払って・・・子供らもその方が喜ぶと思うよ。第一美香が自分の家で入りたくない部屋があるなんて辛いだろう?書斎も隅にやって」
「でも怖がって生き続けているから、あの事件に拘っているとも思うわ。部屋の雰囲気を変えてしまったら、あの事件も過去のものに成ってしまわないかなぁ?」
「それは美香が考えればいいけど、美香が思うようにすれば・・・俺はどっちでもいいから。とりあえず明日も探してみるよ。」
「出来るだけ手伝うわ。」
深夜の一時を回っていた。
『何の因果でこうまでして俺は頑張るのか・・・』
隆は湯船に浸かりながら、頭から湯をかぶって運命の様なものを感じていた。
最初の結婚は結局心を開くことさえなかったと今なら思える。でもあの時は判らなかった。それでいいのだと思った。でも妻は心ここに在らずで他の男の事を考えていた。それでも俺と毎日同じ布団で眠っていた。
そんな結婚だった。
そして今美香と暮らしている。幸せに暮らしているが、美香もまた不幸な一家で両親が殺され、二人とも頭をかち割られていたらしい。地獄絵の様な現場だったと元刑事野平順平が言っていた。
そんな両親の子供の美香、一人子の美香はそれからの青春は地獄のような日々となり、朦朧として日々を重ねていた。
そんな美香と出会った俺は、気の毒にと思いながらも、関わり合いになりたくなかったと言うのが第一印象であったが、それでも何か魅かれるものもあり、次第に心の中で育てていた。そこには肌掏りあう事すら忘れた妻との遣り切れない現実があったからだろう。愛のない夫婦、溝の感じる夫婦、冷めたものを取り戻す事の出来ない毎日が続いていた事に、疲れて居たのかも知れない。
『美香幸せにして見せるから・・・せっかく縁あって結ばれたからには・・・』
隆は逆上せるほど湯船に浸かりながらいろんなことを思い出していた。
正直、四十近くに成るまで、はっきり言って、平田川町のホームページをたまたま見るまで知らなかった。暇つぶしに見ていたパソコンで見つけた平田川町のページ、過疎化対課のコーナー
「あなたも落人の街で暮らしませんか?静かで水も山も綺麗で、春には川岸に桜が咲き乱れ、夏は鮎を求めて太公望で川辺を埋め、秋は紅葉に心奪われ、冬もまた雪景色に包まれ、
第二の人生は平田川町で羽ばたきませんか?高速道路も側を通っていて、とても便利に成りました。貴方の決断を歓迎します。」
隆はその言葉に吸い込まれるようにねぶた目を擦って応募する決意をした。それは誰が考えただろう、このような運命の道に導かれ立ち向かうことを。 想像すら出来ない残虐事件の犯人探しに邁進していることを。
井村さんの満中陰も過ぎ、タレこみがあった他殺説も勢いを無くし沈静化していたが、警察は動いていた。聞き捨てならないタレこみであったことから慎重になっていたようで、背広姿の刑事が聞き込みに来ているようであった。
詰まり井村さんは自殺したことになっているが、杉原伸介からお金を無心していた事実があり、あくまでも警察の目から見て、疑わしき存在であったようである。
元刑事野平順平が隆にその様に答えている。
その疑惑に包まれた状態で自殺となった。そしてそれは自殺ではなく他殺かも知れないと垂れ込みが警察に舞い込んだ。
当然、警察は美香の両親の殺害事件も踏まえて取り組んでいるようであった。
それゆえ、私服刑事が再三平田川町を訪れていたことが、見知らぬ番号の車が良く停まっていることからもわかった。
今はシーズンオフであるから、鮎釣りの客など一切居ない。其れゆえ見知らぬ車は誰もが敏感で警戒もする。それが長年続いている習慣である。何故なら平田川町は落人の街だから。
なろ、きろ、さろ、ころ、すろ、ゆろ、にろ、めろ
これは屋号である。裏屋号である。
どこの誰であるかを外部の者に判らない様に暗号化している。なろさんとは本名は石田さんと言うように
隆はそんな街に住み着いたのである。
元刑事野田氏に根掘り葉掘り聞き辛いこともあり、隆は警察の動きを掴めないでいた。
少なくとも井村さんの足元を睨んでいる事は想像出来たが、それはタレこみに関しての物か、それとも美香の両親殺しの物か等さっぱり判らない。かと言って変に立ち寄る様な事は出来ない。
美香の両親の事件は未だ未解決であるから、
其れゆえいつ命を狙われても不思議ではない。頭を斧の様な凶器でかち割られた両親を想像すると、犯人は鬼畜に勝る恐ろしい心を持った人物であることは言うまでもない。
井村氏の満中陰も過ぎてから二か月ほど過ぎたとき、隆は釣具屋の「友翔」に暇つぶしにお邪魔していた。
「野呂さんせっかくいい竿を買って戴いたのに、あまり釣りをされなかったのですって」
「ええ、今年は頑張ろうと思って張り切っていたのですが、思うように行かなくって。
結構仕事が厳しかったので、前に住んでいた頃に比べて、その点は一時間は通勤に当てなければならなくなったから、結構厳しいです。祭日は天国ですが・・・」
「そりゃぁ都会で住んで居られてここへ来れば、大変だと思いますよ。」
「でも後悔なんかしていませんから。最高ですよ。ここは」
「それなら良かった。また来年ですね。でもこんな田舎でも色んな事がありますね。井村さんがそっと笑顔で入って来そうで、そんな優しい方でしたから、お気の毒なことで」
「民主主義なんて良い様で結構きついシステムですからね。運の悪い者は弱者に成るのですね。頑張っても、誰も不渡りを考えて頑張っていませんからね。」
「過疎化の進む町なのに、何も死ななくってもいいような気がしますが、生きているのも辛かったのでしょうね。」
「では友翔さんはやはり井村さんは自殺されたと
お考えですか?」
「そうなのでしょう。新聞にも書いていましたよ。」
「そうでしたね。」
「それ以外なのですか?」
「いえ、自殺だと思います。もし違っていたなら警察が何かを言うでしょう。」
「そう言えば最近警察が再三来ていると誰かが言っていましたが、其れって井村さんのことで?」
「いえ、わかりません。俺は知りません。」
「何かがあるのかな?井村さんに・・・」
「ところでご主人、この街の昔の事をお聞かせ貰えませんかな?もっと賑やかだった時の事を。」
「そうですね。想像がつかないくらい賑やかでしたからね。鮎の解禁日なんかに成ると、それは祭りでしたから大変でしたよ。
❾
この店も一晩中電気を煌々と点けて、鑑札を売っていましたから、外部からも大勢来られ、朝四時には川に入らないと釣りも出来ない位場所が無かったですから、河原で場所取りで火を焚く釣り人も居たし、喧嘩もあったし、祭りです。
お正月に神社に参るのと同じで、この店でも一晩で鑑札が百枚も売れて、今思い出すと考えられない勢いがありましたね。」
「平田川の漁業組合がしっかりしているのでしょうね。宣伝も行き届いていて、平田川が釣り人で川が見えないほどに成るって凄いですね。何処かで聞きましたよ。その話」
「でも漁業組合は決して歴史などなく、上流でダムが出来るって噂が出て、それで補償のことなどを考えてくれる政治家がおり、確か県会議員の大田原先生が尽力してくださり、今の形に成ったのですよ。ダムが出来ても満足の行く補償を貰うようにと考えて下さり、そのころ理事長には今は町会議員の和佐俣さんがなり、十和田さんたちが理事になって、総勢七人で平田川漁業組合が誕生したのですよ。
それまでも一応こじんまりにやっていましたが、外部からはたいして客も来ず、鳴かず飛ばずで、でもダムの計画が中止になり、本腰を入れて宣伝をしたわけです。
そうしたら見違えるとに人が来るようになり、タイミングよく高速道路が近くに出来て利便性がすこぶる良くなった事で、平田川は長い間取り残された落人の街から、一変して鮎の里に変身したのです。もう何年前に成りますかな?三十年近くに成りますかな」
「そうでしたか。歴史を感じますね。それでそのころの理事さんは十和田さんっておっしゃいましたね?他の方はお判りですか?」
「ええ、わかりますよ。組合が発行する冊子はきちんと残していますから」
「へぇ~たいしたものですね。其れって見せて頂けないでしょうか?川の様子も写っているのもあるでしょう。鮎釣りをこれから始める俺にとって間違いなく勉強になりますから」
「そうですね。見れば昔のことは一目瞭然ですね。
持ってきます。」
暫くすると店主は笑顔で自慢げにその冊子を突き出すように隆に渡して、
「まぁ見てください。平田川漁業組合の歴史がわかりますよ。」
「はい。」
色褪せたその冊子の最初のページに初代理事長に成った和佐俣氏の写真が飾られていて、その次ページに県会議員大田原重行が載っている。
そして次のページには個別写真で五人の理事と、その次に事務員の若かりし野島夢が載っている。
「この人が理事長の和佐俣さんで、この人が大田原さん、それにこの人が十和田さんに、今村さんに、平さんが二人、平元雄さんと豊さん、それに石崎さん。そうですか、この方たちが今の漁業組合を作られたのですか・・・友翔さん、これってお借り出来ませんか?全部ゆっくり読みたく成ってきました。そろそろお腹も空いて来た事でもあり、大切に扱いますから。」
「構いませんが・・・でもまた今度にして戴けませんか?何故かって言うと、貴方だから正直に言いますが、これ私直ぐに出して来たでしょう。三十年も前の物を、貴方なら直ぐに用意出来ますか?おそらく出来ないと思いますよ。
探すだけでも時間が掛かると思います。でも私は直ぐに出して来ました。どうしてかって言うと、実は先日警察が来て、これを見せたから直ぐに出して来られたのです。どこにあるのか判っていたから、
そんな事で、この冊子は警察にとって重要な物かも知れません。ですからどの様な意味があるかは判りませんが、出来ることなら、この儘ここに置いておきたいのです。さっき警察が平田川町に来ていると言いましたが、実はここにも来ているのです。」
「それで警察は何を聞きに来られたのですか?」
「おそらく井村さんの自殺に関してだと思います。
野呂さんあの方は間違いなく自殺ですよね?」
「そう思いますが」
「でもあなた最初戸惑われたように見えましたが、他に何かがあるような素振りだったでしょう?」
「いえ、まぁはっきりしませんから」
「やっぱり、それで警察が動いているのですか?でもこの冊子とどのような関係がるのかな・・・まさか野呂さん、貴方の奥さんの両親の事件が関係しているのではないのですか?だから貴方もこの冊子に興味を持ったのでは?」
「ご迷惑なら構いませんよ。嫁の親の事件は確かに酷い事件であったことは誰もが知っている事で、もう二十何年も前のことで」
「それもそうですね。変に勘ぐってごめんなさいね。これ、少し経てばお貸しさせて貰いますから、暫く待ってください。」
「ええ楽しみにしています。ただその当時の理事さんのお名前を控えさせて戴いても構いませんか?」
「それ位なら良いと思いますよ。大事なお得意さんの野呂さんの頼みですから。去年の今頃、あの竿を二つ返事で買って戴きましたからね。」
「あれから一年ですね。ちっとも鮎釣り上手くなっていないです。師匠に皮肉言われました。」
「師匠って岩井の矢代さんでしたね。あの方は口が悪いから気になさらないで」
「口が悪いと言えば、友翔さんは嫁の親父の事知っておられますか?相当口が悪かったようで」
「知っていますよ。いい腕していましたよ。偉そうに口は汚かったですが、でも私は親父さんのことは好きでしたね。裏表がなかったから。組合の総会で理事さんと喧嘩したりして、まさか殺されるとは思いませんでしたが、でも組合には関係無いと思いますよ。殺される程の事は考えられないでしたから。
親父さんみんなに慰められるようにして引き下がりましたから。ちょっとした事だったと思いますよ。何だったか忘れたけど。其れで当時の理事の名前を控えてどうするのです?」
「ええ、取り敢えず何も判りませんから、確かにこの時代に嫁の親父たちが殺されているのですから、知っておく事も大事かなと思いまして、時たま刑事さんが電話を下さるようで、俺も何も知らないより少しでも知っておくべきかと思い」
「野呂さんにいい加減な事を言う積りはないですが、これ、持って帰って下さっても構いませんよ。私には解からない試練が貴方にはあるようですね。
どうぞ持って帰って下さい。何かお役に立てば幸いです。失くさない様にだけしていただければ」
「えっ有難うございます。助かります。本当にいいのですか?」
「いいでしょう。貴方だからいいでしょう。」
「有難うございます。」
「万が一何かがあれば言いますから、それまではお気軽にゆっくり見てください。」
「ここに写っている十和田さんのお兄さんが亡くなられたそうですね。」
「ええ、でも弟さんが引き継がれて頑張っていられたから、でも先の選挙で井村さんが選ばれて、十和田さんは退任に成るようですが、でもその井村さんが亡くなられて・・・どうなるのか・・・私にはわかりません。」
「でも十和田さんって井村さんと同級ではなかったですか?」
「そうですよ。中の方は。お兄さんはもっと上でしたが」
「でもそれってお互い気を使っているのではないのですか?下ろされる人と選ばれる人とに成るのでしょう?」
「まさにそうですね。選挙ですから仕方ないと思いますよ。封建的なこんな田舎でも民主主義は健全だと思いますが」
「なるほど。ではこれお借りしても構わないなら、持って帰りますよ。出来るだけ早くお返し致します。」
「はい」
隆は冊子を手にして込もる思いを押さえながら家路についていた。
真四角な十和田氏の写真が頭から離れなかった。家に帰るなり冊子を広げてパラパラと開いて、平田川で数え切れない釣り人が写っている写真を見つけ、その光景に驚くばかりであった。
立錐の余地もない釣り人の、竿を立てたままで空くのを待っている姿も数人写っていて、百聞は一見に如かずとはうまく言ったもので、まさにその光景に呆れる思いで見つめ続けていた。
それでもあの両親が惨殺された事件は、この冊子の一ページと二ページから始まっているように、隆には自信ありげに思えていて、まるで理事の写真を指名手配の写真であるかの様に捉えていた。
五人の理事の写真を見つめながら、一番先に載っている十和田氏の写真を見つめながら、親父が書き残したイラストの様なものを思い出していた。
川があり、丸が書かれていて、そこからかなり離れた場所で同じ丸が書かれていて、番号の同じ券が売られている。
片方は正規で片方は自分の懐に・・・一枚が三千円それが三万円に成り三十万円に成る。それを何年も繰り返していた・・・もしその推測が事実なら、この冊子を作った田辺印刷工芸舎が、色違いで作らなければならないから、外部の者には出来かねる。
冊子を立案して発注するのは十和田氏、それを受けるは田辺印刷工芸舎、この仕組みで長年繰り返されてきた。十和田氏が亡くなって次に弟さんが滑り込みで理事に、兄の貢献から誰もが何も言わなかった。そしてこの度理事の選挙があり、十和田氏は落選し井村氏が当選して、来期は井村氏が理事に成る予定であった。しかし井村氏はもう居ない。自殺したのか、それともタレこみがあったように他殺なのか・・・
疑惑は隆の頭では整理が付かなくなっていた。
ただ警察が動いてくれていることを知り、それがどの様な目的であれ嬉しくなってきた。
釣具店友翔に警察が来て、過去の漁業組合に関する事柄を知りたがっている事は確かな様である。
それは隆が元刑事野田順平に推測を述べた事に繋がっているように思えた。
つまり十和田と言う理事が誰かと企んで、券を二重に発行していると言う、隆の推測に繋がるように思えていた。
そして誰かとは言うまでもない。組合の印刷を一手に手掛けている田辺印刷工芸舎に他ならない。
隆は祈っていた。警察がその線で動いていてくれていているものと、そして警察の手はその疑惑の田辺印刷工芸舎に伸びている事が予想出来た。
隆にその警察の情報は一切入って来なかったが、
それから間もなく警察車両が二台漁業組合の駐車場に車を止めて連日捜査をしていることを知り驚くこととなり、気に成って来たので元刑事野田に電話を入れ現状を聞くことにした。
「野田さん、お聞きします。いま警察は漁業組合に連日来ているようですが、何があったのです?」
「それは言えないが、あなたが前に言っていた事を参考に動いていると思うよ。二重で券を作っていた疑惑を調べに、それで連日詰め掛けていると言う事は満更でもないって事だと思うよ。」
「つまり推測が当たっていたと言う事に成るのでしょうか?」
「何も聞いてないからまだ判らんが、何かがあるって事だと思うよ。理事長と五人の理事、其れに事務員の七人、まだ居てるな・・・県会議員の大田原重行・・・この八人を徹底的に調べるかも知れないな。
二十何年か前のあの事件が起こった時は、漁業組合には一切捜査の手は伸びていなかったから、遠い昔の事でも犯人は死ぬまでビクビクして生きて居るから、絶対忘れることは無いと思うよ。
昨日の事の様に覚えていると思うよ。何度も魘されて脂汗を掻いて、つまらない人生だと思うよ。貴方方の両親を殺してスカッとしたのだろうか?・・・口封じしたのだろうか・・・その内判ると思うよ。其れに井村さんの死因も」
「でも野平さん随分詳しいですね?」
「そりゃぁ私には相談方々警察の元部下から電話くれるから、それで事件当時の詳細を話させて貰っているよ。何もかもあなたには言えないが」
「そうですね。でも嬉しいです。嫁も感謝していると思います。ただ私も先日証拠に成るものを徹底的に探したのですが、何一つ見つからなくって」
「そうでしょうね。遠い昔のことだから。ただ漁業組合はきちんと何もかもを残していると思いますよ。ああ言った組織は、補助金が下りたりするからきちんとしないとそれも貰えないから、滞りなくきちんと残している筈ですよ。」
「そうなのですか」
「さて、警察が連日捜査をしているとなると、何が出てくるかだね。鮎が釣れるか鯛が釣れるかクジラが釣れるか・・・そんなことならまた電話掛かってくるかも知れんな。期待しているよ。何か判れば電話差し上げますから、言ってもよい範囲で」
「お願いします」
「一気に行けばいいんだがね。」
隆は電話を切って直ぐに釣具店友翔から借りてきた冊子を再度広げていた。
最初のページに初代理事長和佐俣錬、その次ページに県会議員大田原重行が挨拶文と一緒に載っている。そして次のページには個別写真で五人の理事と、その次に事務員の若かりし野島夢が載っている。
「この人が理事長の和佐俣さんで、この人が大田原さん、それにこの人が十和田さんに、今村さん、平木さんが二人、平木元雄さんと豊さん、それに石崎さん。そして事務の野島夢さん
この中に妻美香の両親を斧の様なもので頭をたたき割って殺害した人物が居るかも知れない・・・そのように思うと殺気立ったものが色褪せた写真から滲み出て来る様に思え、背中で冷や汗が流れる思いに成った。
❿
警察は今何に興味を持ち何を疑い何を探っているのか、それが井村氏の死因なら他殺なのか自殺なのか、なぜ井村氏は二重人格の様な生き方をしたのか、温厚で優しく気の利く性格、しかし現実は同級生の杉原良助の悪口を言い利用し、その息子の悪口を並べ、その息子からお金まで借りている。一体あの人は何を思い何を目指し何に溺れて何故死んだ
それとも警察は未解決のあの事件に拘って捜査しているのか、美香の両親が彼らの頭上に今なお消えることなく圧し掛かっているのか、
隆は既に警察が動いていることを知り、動くことが許されなくなったと判断し、静観することを自分に誓っていた。それは言い換えれば命に係わる事の様に思えて来ていた事も確かで、鬼気迫るものを感じていると言うことは、事件が真髄に近づいている様にも思えた。
理事たちの写真を見つめながら、既にその殆どが今は居ない現実に一抹の不安を感じながら、理事長が今なお健在であることが、ある意味救いであるように思えて、更に県会議員の大田原重行も、隆が平田川に移り住む前から知っていた名前であったから気丈に思えた。
それでも今生きている者に何かを聞く事など一切出来ない隆は、警察に委ねる以外になかった。
警察は連日捜査に来ているものと思って期待していたが、いつの間にかその姿を見ることなく、組合はシーズンオフでもあり静まり返っていた。
また年が変わる。美香の両親惨殺事件は時効こそ無くなったが、事件は闇に包まれた儘で新しい年を迎えそうである。
事件は風化しても記憶から遠ざかっても、事実には間違いない。美香は今でも父の書斎に入ることを拒み怖れ萎縮してい居る。襖も障子もドアでさえ取り払ったが、未だあの地獄を忘れられないのだろう。
隆は警察にあの事件を是が非でも解決して貰えるように祈りながら暮らす日々が続いた。
それから何日かが過ぎて年が変わろうとしていた時、一人の男が警察に任意同行を求められて出頭していた。
それは平田川町の印刷物を一手に引き受けている田辺印刷工芸舎の代表田辺譲であった。
容疑は公文書偽造で、漁業組合に黙って鮎の当日入川券を闇で印刷製造している疑惑が表面化した為であった。田辺譲は初めは困り果て黙秘を貫いていたが、次第に口を割り始め、
「実は井村さんに頼まれて」と口にした。
「どうして井村さんが?」
「お金の為にだと思います。」
「どう言うことかな?」
「誰かに頼まれたか売る積りであったと思います。」
「誰かに…誰かって?」
「解りません。あの人お金に困っていたと思うから」
「其れでどのように作り、どの様に売ったのか?」
「はい、色違いの五色の紙に印刷して、本物と同じ番号を入れ、表に出さないようにするからって指図される儘しました。」
「でもどうして?井村さんは理事でもないし、第一あんたはそんな事に手を出せば、何もかもが終わってしまうこと解かっているじゃないか?嘘はいかんぞ。」
「でも井村さんがとにかく同じ物を作ってくれって言いましたから。」
「井村氏に?二重に売って稼ぐ腹だったのか?でも誰かに頼まれたと言っていただろう?その券を利用出来るのは、川の監視人だけだから、井村氏は関係ないと思うが?」
「それはわかりません。」
「それであなたは何冊刷って、どれくらいの報酬を貰ったんだ?」
「三万円です。百枚綴りを一冊刷っただけです。」
「百枚だな?百枚って言っても一枚三千円なら三十万円に成るな?」
「はい。全部売れれば」
「それをわかっていて何故そんなものに手を出した?」
「・・・」
「なぁ田辺さん、何か弱みを握られていたのではないのか?あんたに人に言えない秘密があるのではないのか?違うか?」
「・・・」
「答えられない・・・ところでここで住んでどれ位に成る?」
「五十年近くに成ります。」
「詰まり生れてからずっとだな?」
「はい、何代か続いています。ずっと先祖は九州でしたが」
「だったら何故?そんなケチなことをした。印刷屋はあんた所が平田川では唯一じゃないのか?気が知れんな」
「・・・」
「先祖に申し訳ないと思わんのか?馬鹿なことをして・・・それでばれそうになり、井村さんの口を封じたのか?」
「・・・」
「どうした?井村さんは殺されたと垂れ込みがあったぞ。判っているな?」
「・・・」
「おい、田辺譲、井村さんを殺したのはお前じゃないのか?」
「・・・」
「言ってみろ、正直に言ってみろ」
「・・・」
「偽造で鮎の入川券を作ったことは認めるが、殺しには関係無いと言うのか?」
「・・・」
「どうした?何故黙る?関係無いなら無いと言ってみろ?」
「あんな男死んでも仕方ないと思いますよ。人の弱みにつけ込み、穏やかな顔をして、悪さを常に企んでいて、同じ九州男児として許せなかったです。」
「井村氏も九州出なのか?」
「そう言っていました。だから最初は気を許したかも知れません。経緯はわかりませんが、同じ様な境遇ではないかと勝手に想像して」
「同じ境遇とは?」
「信じられないと思いますが先祖が落人で」
「平家の落人ってやつかな?」
「まぁ」
「それでそれがどう影響してあんたは井村氏を?」
「やっていません。殺してなんかしていません。」
「しかし許せなかったのと違うのか?井村氏は殺されたとタレこみがあったからな」
「あの人は自殺したのです。」
「何故わかる?」
「見ていたから」
「見ていた?」
「ええ、自殺する所を、ロープを首に巻き付けぶら下がる所を」
「まさか?出鱈目云うんじゃないよ、では何故止めなかった?」
「止める?止める理由が無いから、死んでくれたほど良かったから、第一あの人が望んでいたと思ったから」
「あんたは自殺する現場に居たって事なのか?」
「ええ、私が電話を入れてあの場所で落ち合いましたから、井村さんの都合であの場所で落ち合いましたから」
「それで、それでどうして自殺に成る?自殺をするから来てくれって言われたわけないだろう?」
「いえ、私が自殺するように勧めました。不渡りを掴まされて自棄に成っていましたから、あの人とんでもない人だと私は薄々気づいていましたから」
「とんでもない人とは?」
「あの人は恐ろしい人かも知れません。」
「何が恐ろしい人だと思うのだ?」
「昔、この街であったでしょう、殺人事件が・・・あれって未だ犯人は見つかっていませんね。迷宮入りに成っていますね。刑事さんあの事件を覚えておられますか?」
「解っている。夫婦が殺された事件の事かな?」
「実はあの事件・・・犯人は・・・井村さんではないかと」
「田辺さん、この場に及んで出鱈目を言っては困るよ。あんたは公文書偽造で立派な犯罪だから家に帰れないからな。この場に及んでそんな思い付きの出鱈目を」
「いえ、刑事さん、私あの男から聞いたことあるのです。あの男と同級生で今は平田川を出て行った男のことを。
杉原良助って名前です。同級生で幼馴染で仲良しだった男です。子供の頃はいつも一緒に遊んだり悪いことをしたりしていたようで、でもその杉原は気がおっとりしていて、いつも井村さんの言いなりに成っていたらしく、言わば子分のような存在だったらしいです。それでそれをいいことに井村さんは、杉原が大きく成ってからでも利用して、悪者に仕立てていたらしく、山の木を誤魔化したとか他人の木を売り飛ばしたとか、神社の賽銭をちょろまかしたとか、全部杉原さんや息子さんの仕業にしていた様です。」
「待ちなさい、それで井村さんが何故恐ろし人と成るのかね?昔起こった殺人事件とどう繋がるのかね?」
「ええ、ですからあの人がいつだったか言っていたのです。私と二人の時に、確かお正月で神社でお神酒を頂いて可也酔っている時に。」
「殺したと?」
「いえそうではなく、先祖の話になって、共に九州であることがわかり意気投合して、それであの人の口から同田貫の話が飛び出してきて、どこかで聞いたのか見たのか、感動したことを自慢げに言っていました。同田貫って刑事さん知って居られます?」
「確か胴を叩き切って田圃まで突き刺さるって言う話だな・・・聞いたことあるが」
「ええ、そんなもので。九州のものです。それで井村さんはその話をする表情が普通ではなかったように覚えているのです。真っ二つに切られ殺されるさまが目に浮かんで来ました。
⓫
殺気だったと言うか、何か取りつかれたと言うか、気持ち悪くて酔いが覚める様な気に成りました。その時、その時です、私はあの事件を思い出していました。田所さんの家に族が入り、お二人が斧の様なもので頭をかち割られて殺された事件を、正に井村さんが自慢して話し続ける、同田貫で遣られたような事件でしたから」
「何か井村氏がやったと言う証拠はあるかな?」
「いえ、でも井村さんは、お隣の田所の本家の直ぐ側の家、主の倫太郎さんに杉原の事を悪言いしていたことが考えられ、分家の妹夫妻に間違ったことが言い伝えられていたと思います。つまりそれは選挙に出る積りであった杉原さんにとって、同じ長瀬地区の住民として聞き捨てならないものであったと思われます。
そしてトラブルに成る何かが起こった。
実直だけど口の悪い田所さんと井村さんが揉めたかも知れません。詳しい事は判りませんが、逆上して結果的に井村さんが田所夫妻を殺してしまった。私はその様に考えています。」
「そんな俄芝居の様な文句を並べてあんたは何を云いたいのだね?」
「いえ、井村さんが生きていれば真実が判ると思います。あの人が田所夫婦を殺害したことが・・・ですからあの人は自殺を選んだのだと思います。」
「あんた、自分の犯行を棚に上げて何を血迷っている?それで井村氏が自殺をしてあんたはどうした?」
「関わり合いに成ると面倒だからその場から引き揚げました。死ぬ人は勝手に死ねばいいと思ったから。何故ならさっきから言っていますように、あの人はとんでもない殺人と言う罪を犯していると思ったから」
「そんな証拠も何もない話に、警察は乗れない事あんたも十分解かっているだろう?確実な証拠を言わないと」
「でも事実かも知れないと思いますよ。だって未だ犯人は見つかっていなわけですから。」
「それはともかく井村氏があんたから受け取った券は誰に流れたのか判らないか?」
「井村さんから流れた券は、川の監視をしていたのは井村さんと同級生の十和田さんかも知れませんが、私にはわかりません。でもまさか十和田さんて事は無いと思います。」
「またあんたは適当な事を並べて逃れようとするなぁ。」
「違います。」
「とりあえず公文書偽造だけは認めなさい。」
そのニュースは小さな町の平田川町に広がるのに時間は要らなかった。
隆の耳にも素早く入ってきて、予想していたことであり、それは亡き義父が突き詰めていた疑惑でもあったことから大いに関心があった。
早速元刑事野田に電話を入れて田辺印刷代表田辺譲の自供した内容に対して信憑性を確かめていた。
「井村は誰から頼まれたのでしょうね?」
「たった一回と言っているから、それに三万円の報酬だから、そんなに深い意味は無いと思うよ。
軽い気持ちって言うのか、魔が差したて言うのか、断り切れなかったんだろうね。さてその人物となると組合の関係者ならやはり十和田ですかな?
名前を出したと言う事は、其れなりに根拠がある事が考えられるから」
「そうですね。十和田さんは井村さんに理事選出の選挙で負けて、其れでも下りなければ成らない事を拒んでいた様ですから、何か意味があるのでしょうね?」
「それなら尚更だね。」
「でも十和田さんはお兄さんから役得で理事に成り、その立場を利用して券を作ったりするでしょうか?そんな兄さんの顔を潰すような馬鹿な事を」
「だから軽い気持ちでしたのかも知れんな・・・まさか兄貴が生前に同じ事をしていてそれを見ていて・・・そんな事は無いか?田辺は一度きりだと自供したなら」
「でもこれって今の時代には相応しくない出来事でしょう。昔芋を洗うほど平田川に鮎釣り客が来ていた時なら、どさくさに紛れて出来た事かも知れませんが…
当時義父が疑っていたことが、あのイラストの様な絵で残っていますから、野平さん、もしかしてもっと以前から同じ事が起こっていて、田辺印刷工芸舎は嘘を言っているのではないでしょうか?」
「万が一嘘を言っているなら、この公文書偽造事件はもっと大きな問題に成るかも知れないな。常習性があると言うことに成ると。言い換えれば井村氏が死んだことで、何かが闇に包まれたかも知れないと言うことだね。」
「其れなら田辺印刷を徹底的に調べて頂きたいですね。」
「そうだね。田辺は井村さんを前面に出して、口が利けない事をいいことに、作り話をしているかも知れないね。たった一回きりだけ頼まれて断れなかったと訴え、其れでこの話を情状酌量とか自宅謹慎処分位に持って行く積りかな?それが駄目なら在宅起訴位に」
「それで井村さんが義父たちを殺したかも知れないと言う言葉の信憑性は如何でしょうか?」
「同田貫の話だな?どうだろう?判らんな?ただはっきり覚えているのは、あの事件は斧でお父さんたちが頭をかち割られ、斧は胸を切り裂き、刃は畳に突き刺さり、畳を刃で四センチほど切り裂いていたから、正に切り捨て御免とばかり思いきり切りつけたように思うな。それは正しく同田貫の伝説と今なら同じように思うな。」
「それは田辺印刷が井村さんがやったと言ったからですね。」
「だから信憑性があることに成るな。」
「そうですか・・・親父らは井村さんに・・・」
「でも根拠なんかどこにもないからな、ただ我々が長年携わってきた事件だから、でも田辺の話す内容は考えもしなかったから、警察は裏取りをすると思うよ。死人に口は無くともどこかに真実があると思うから」
「田辺印刷は本当の事を言っているのでしょうか?」
「それはこれからだね。切っ掛けは出来たのだからこれからは警察の追及次第だね。」
「なら、田辺次第ですね。期待してます。」
「あぁまた何かが判れば教えてあげるから、許される範囲で、組合にも捜査が入っているから、まだ何かが出てくると思うよ。」
「お願いしておきます。ところでどうして田辺の犯行が判ったのでしょうね?」
「それは聞く所によると、税務署に入られた田辺は、謝礼の三万円の事をうっかり口にしたようだよ。間の抜けた男で。
其れで詳しく聞いた税務署員が警察へ報告して犯行が判ったらしいよ。黙って懐に入れておけば済むものを・・・変な書き方をして控えていたようだよ。だから余計に不自然な収入に成って突っ込まれて、経費ならともかく所得なのに、税務署は鋭いね。」
「なるほど、人は悪い事は出来ませんね。」
「そう言う事ですなぁ」
田辺印刷工芸舎の不正入川許可証偽造事件は、平田川町の漁業関係者だけではなく、広くは部外の平田川のアユを愛している釣り好きの耳にも入り、漁業組合にも平田川町役場観光課にも、連日問い合せの電話がひっきりなしに掛かって来た。
それから間もなく警察が再度漁業組合にやって来て、何年も遡り何もかもを調べ始めた。
田辺印刷工芸舎は組合が立ち上がった時からの付き合いであることは、組合の冊子の創刊号で最後のページに名を連ねていることから読み取れた。つまり何もかもに係わっていると言う事に成る。
田辺印刷工芸舎代表田辺譲は、『一回だけ』と不正印刷を自供したが、その後になって不正印刷は田辺印刷の自供と食い違っている事実を見抜いた警察は、更に田辺と組合を容赦なく追及した結果、組合ぐるみで不正を繰り返されていた事実が発覚した。
それは県から出る補助金の不正受給に繋がる話で、資格が無くなっていたにも拘らず補助金を遠慮なく受け取り続け、組合で隠し金を作る悪質な慣例が継続されていたのであった。要するに詐欺に当たる行為であった。
ゆえに現在平田川町議会議員で、当時平田川漁業組合の理事長であった和佐俣錬氏に逮捕状が出て、平田川の街は大変な状態に成った。
全容解明に警察は当時の理事長始め理事、更に事務員など全ての容疑者に追及の手を緩める事なく続けた。
そしてダム建設反対運動の立役者で、県議会議員であった大田原重行にも捜査の手が及んだ。
大田原は平田川村に漁業協同組合を作ることを進めた指南役でもあった。
その大田原が大きく絡んでいると警察は判断したからである。
当時の役員が芋づる式に事情聴取され、また死んでしまった者に関しては、被疑者死亡で略式起訴他で打ち切られたが、当時の役員の口から思い思いの供述が出る中で、殺された隆の義理の両親について、意味ありげなことを言う者が出てきて、警察は色めき立った。
「実は私は不正をすることは反対で在りました。
幾ら平田川村が財政難で利便性に劣って居るとしても、それでこそ我々は納得してこの地に移り住んだ先祖が居て、それを尊重し我々もこの地を愛して来た筈が、ダム建設の話が出て、これ幸いとばかり若者はこの地を捨て、誰もが出て行こうと言いだしたのです。しかし結果的にはダム建設が中止となり、平田川が一気に好転して釣り人が来るようになりましたが、長らく県の思惑で動かされ続けたのです。そんな環境の中で起こった話なのです。
だからと言って不正は許されるものではないし、人様に迷惑を掛けるなどあってはならない。
それが法律なら尚更。しかしながら長い物には巻かれろとばかり、反対の手を挙げる者は居なかったのです。
ただ田所敏明さんだけは猛烈に反対していたが、みんなに説得され身を引くようになり、組合から距離を置くように成ったが、村八分に成っても構わないとまで言って相当怒っていました。
ところがあの方が殺され、奥さんまでが殺され、身の縮まる思いがして、組合の理事を引くことを決心しました。誰がやったとか考えもしなかったです。それを思うだけでも怖かったから。当然警察に何かを言うなんてこと在り得なかったです。」
「でも今なら言えますね?」
「いえ、墓場まで持って行きますと言うと思うかも知れませんが、実は全く判らないのです。
ダム建設が中止に成り、高速道路が近くを通り、大田原先生のご配慮で組合が活性化し、宣伝も行き届き、外部から釣り客も沢山来る様に成って様変わりしたのです。
平田川村は他所と合併して町に格上げされ、それまでは稚鮎を買う事も儘ならなかった平田川漁業組合でしたが、以上の様な環境の変化で、しかし様変わりしていたにも関わらず、それからも甘んじて補助金を受け取り続けたのです。」
「それで田所夫妻がそんな中で殺されたわけですね?」
「はい。」
「はっきり言って田所氏が猛反対をしていて、それを誰もが迷惑がっていたのですか?貴方以外と言うべきかな?」
「ええ、そうだと私には思えました。田所さんを慰める様にしていましたが、『ここは黙って従ってくれ』と言っていましたから」
「つまり長い物には巻かれろってことですね。」
「そうだと思います。」
「遠い昔のことですが、今後あの事件について再検証しなければならないようですね。貴方もこれからもご協力下さいますね?お体は大丈夫でしょうか?」
「はい。至って丈夫とは言えませんが・・・」
「今日はありがとうございました。勇気を出してよく言って戴きました。お疲れの様ですから今日はこれ位にします。」
「どれだけ理由があっても、どんな地位であっても、してはいけないことをした者は罰せられなければならないと思います。
私は田所敏明さんとは結構気が合ったので、出来るなら日の目を見させてあげたいです。」
「解りました。精一杯努力します。そして犯人を捕まえます。」
「是非逮捕して下さい。」
捜査は理事長の逮捕に始まり、全ての理事から事情聴取も繰り返された。
【昨日早朝平田川町町議会議員和佐俣錬(七十五歳)を通常逮捕いたしました。
容疑は和佐俣錬氏が町議会議員に成るまでに、務めていた平田川漁業組合の理事長時代に、鮎の稚魚を購入するに当たって、資金が無く県から補助金を受け取っていましたが、この事に関して何ら問題など無かったのですが、受け取る条件として、漁業組合が資金不足でないと受け取れない仕組みに成っていて、所が当時平田川村は町に格上げされ、高速道路も近くに出来ていて、外部からの利便性も頗る良くなり、鮎釣りの客が見違えるように増え、芋を洗うような釣り人で川は埋め尽くされる様に成っっていたのです。
大幅に収益が出ていたにも関わらず、補助金を搾取した挙句、入川券も二重に販売し、現金所得を隠し、当然漁業組合の収支は年を追うごとに更に大幅に改善され、稚鮎を買い付ける事さえ金銭的に儘ならなかった漁業組合は様変わりしたのです。
所がそんな法に触れるような悪質さにも目を瞑り、理事長以下全員の理事が、補助金を抵抗することなく受け取っていたのです。
これは言わば詐欺で犯罪です。その期間は三年近くに及び、一般の組合員で、ただ一人だけ猛烈に反対していた平〈仮名〉さんが居ましたが、突然深夜に殺されると言う悲惨な事件に巻き込まれたのです。
頭を斧でかち割られ、斧は畳まで突き刺さると言う酷さで、奥様も同じように殺されていたのです。もう二十五年も前の事ですが、平田川町長瀬地区と言う、僅か三十六軒の地区で起こった残虐事件でした。
ただ当時漁業組合の関係者に捜査の手が及ぶことは無かったのですが、今以って未解決の事件として言い継がれています。この事件を切っ掛けに不正受給は鳴りを潜めたようです。
二十数年の時を経てこの度漁業組合による詐欺事件が発覚し、未解決事件がクローズアップされる運びと成ったのです。但し年数が経っていて、詐欺罪を立証出来たとしても全て時効に成っている可能性があります。】
「ねぇ怖く成ってきたわ。事件が蘇ってきて、あの場所で父さんも母さんも血まみれになって死んでいたあの姿が・・・思い出したくないけど、思い出さなければいけないのね。乗り越えないと。子供たちに変な姿見せられ無いから」
「美香無理しなくていいから・・・避けて過ごす事も大事だから、明日から新聞止めてもいい。テレビをつけなくってもいいから。」
新聞に書かれた概要を見つめながら、美香は隆に覚悟を決めたように口にした。
田辺印刷工芸舎の代表田辺譲が、死んでしまった井村氏に罪を擦り付け、軽い罪で逃れようとした企みは、あっけなく見抜かれ、警察に厳しく追及された挙句、何もかもを口にする結果となった。
三年に渡り補助金を取り続けた事に、猛反対をした田所夫妻が殺されるまでの間、田辺印刷工芸舎は組合の要請で、闇入川券を作り続け、領収書無しで現金を受け取っていた。
組合もまた川の改善や川掃除などしてもいない経費を作り、支払った様に見せかけ難を逃れる積りで偽帳面まで作っていた。
補助金詐欺事件は滞りなく捜査の手が行き届き、理事長は公文書偽造と詐欺罪で統括責任者として逮捕され、田辺印刷工芸舎も公文書偽造で、理事たちも公文書偽造である事を知りながら行使し、在宅起訴に一応持ち込まれた。事務員の野島夢は発言権も無く無罪であった。
そして凡ての罪は二十数年間が過ぎていることから時効に成っていた。
警察は一連の詐欺事件の向こうに、あの忌まわしい殺人事件が存在することを確信しながら、一向に窓口の見えない現実に地団駄を踏んでいた。
井村氏がその犯人だと田辺印刷工芸舎の代表田辺譲が口にしたが、それはあくまで推理の範囲で確定ではなかった。
それでも警察は元刑事野平順平が隆に言っていたように、事実を思わせる内容であると判断していた。
「田辺、あんたは死んだ井村を利用して罪から逃れようとしたが、そうはいかなかった。三年もの間会員権を偽造をしていた事は、誰に頼まれた等関係ない話で、社会人として法に触れることをしたと言うことは、罰せられる以外にない。
今度は死んだ人を利用して罪を逃れようとは考えてくれるな。
それで公には、組合全体として田所夫妻が殺された事で、不正受給を止めたようだが、実際は其れからもしてはいけないことを続いていなかったのか?
理事と組んで密かに続けたと言うことはないのか?田所夫妻が殺され警察が日参していたにも拘わらず、漁業組合には捜査が一切来なかった事を良いことに、しぶとく続けたのではないのか?
理事長は当時を振り返り、こりごりだったようであるが、性懲りもなくどの理事かわからないが、あんたと組んで不正な券を作り続けたりはしなかったか?
はっきり言ってくれ。全員に聞くから間違ったことや嘘を絶対言わない様に。罪が重くなる事を肝に銘じて責任持って答えてくれ」
「いえ、誰ともそんなことはありません。」
「しかしあんたはそれから二十年以上も経ってから同じ過ちをしている。当時警察から何も疑われなかったし、それからも現在まで何一つ疑われる事が無かった。だから然程罪の意識すら無かった。
それともさっき言ったように性懲りもなく続けていたのではないのか?」
「刑事さん、刑事さんが言いたいのは、鮎がどうのとか、券がどうのとかではなく、はっきり言って田所夫妻を殺害した事件の究明でしょう?だったら井村さんを調べて下さいよ。あの人の先祖や生い立ちから、それに交友関係も、例え本人が亡くなっていても警察力でなら何とかなるでしょう?
間違いなくあの人がやった事に行きつく筈ですよ。
⓬
あの人はね、同田貫の話を自慢げにしていたから、それが身に憑いていてあんな殺し方をした筈ですよ。陰で同級の杉原さんの悪口を言っていて、でも事実はあの人が相当の悪で、それがばれて逆上したって言うか、辻褄が合わなくなって、律儀で神経質で曲がったことの嫌いな田所さんの耳に入り、あんな残虐な事をしてしまったと思いますよ。
それにあの頃噂になっていた事は、杉原さんが田所さんの本家の山の木を黙って売ったと言う事でしたが、それだって井村さんもその山で一緒に働いていて、実際は杉原さんでは無く売ったのは井村さんだったと思いますよ。悪い事をしたのは。
ただ杉原さんは穏便な方で、解かっていたが黙っていたと言うか、黙らされていたのかも知れませんよ。」
「田辺、見ていたように言うな?少し黙って、あんたは二十何年ぶりに井村氏に頼まれ、券を作ったと言っているが、組合からの要請が無くなってから、それまで一切作ったことは無かったのか、もう一度はっきり言って貰えるかな?」
「ありません」
「ではどうして今更?不思議だな・・・あんた井村に作るように頼まれたと言っているが、あんたが過去のことを思い出し、その様にすればお金に成ると指南したのではないのか?」
「いえ、あの人が何もかもを指図して来ました。」
「悪いと解りつつ受けたってことだな?」
「ええ、この何年もの間は、私の仕事は名誉職のように成っていて、役場の仕事も儘ならない状態で、この儘仕事を存続する事自体が困難に成っています。辞めれば多くに方の迷惑を掛ける現実を思うと、中々辞めることも出来ず、あの井村さんが持って来た仕事は、可也率が良くつい引き受けてしまったのです。魔が差したのでしょうね。」
「それが法に触れる事でも良かったのか?」
「でも昔も同じ事をしていたけど一切警察には判らなかったから、だから出来たのです。昔に捕まっていればあんな事絶対しないですよ。
私も年貢の納め時ですね。廃業致します。この田舎で食って行くには辛過ぎます。昔あれほど賑わった鮎の里も、今は閑古鳥が鳴いていて、殆どが廃業してしまって、あれほど在った民宿も食堂も釣具店も、何もかも影を潜め、先祖が開墾したこの地も、やがて草が生い茂り獣が往来し、人っ子一人居なく成るのでしょうね。」
「おい、寂しいこと言うなよ。捕まったからって」
「刑事さん罪は罪です。其れに何もかもを話した積りです。だから私は裁かれるでしょう。
和佐俣錬氏は町会議員を自主的に辞職するでしょうし、他の理事たちも幾ら時効でも身の縮まる何日かを過ごさなければならないと思います。
でもあの夫婦殺しの犯人は今でも捕まっていないのです。この小さな町にあの事件は未来永劫語り継がれるでしょうね。この街が朽ち果てて滅びてしまわない限り」
「わかった、わかった。それでいい。いずれ裁判所から通達があると思うから、従うように」
「帰っていいのですか?」
「いいよ。自宅謹慎だから、その積りで」
新聞には大雑把な事だけが活字に成っていて、以後の事など誰も興味がないのか、それ以後に載る事は無かった。
隆は今回の騒動で、あの義父たちの事件に繋がるかも知れないと期待していたが、まるでその様相はなく、ロウソクの火が消えるが如く騒動は収まった。
鮎釣りの客も、漁協の不公平な噂が流布され、更に長らく続く不況から近年大きく減少し、組合員も昔の様に血気盛んに漲って反対する者や異議を申し立てる者も居なく成っていた。
其れと言うのも平田川町の平均年齢が六十才を超えている事が何より物語っていた。
義理の夫婦殺しは、とてつもなく大きな事件であったにも関わらず、長い年月が何もかもを風化させていた。
隆はせっかくチャンスが来たと言うのに、意気消沈するようになっている現実に憤りを感じながらも、それでも仕方ないようにも思え、次第に穏便な毎日を取り戻す様に成っていた。
疑義が湧いていた井村氏も、結局自殺で処理され、田辺印刷工芸舎の代表の言っていた事も自然消滅する様であった。
元刑事から力ない言葉を聞かされて項垂れていた隆は、忘れるほど良いように思えて来ていた。
それは美香にとっても犯人にとっても、十分過ぎる宿命に思えてきた。
美香は言葉に出来ない程苦しめられ、犯人も平田川の者であるならさぞ息苦しい二十五年であっただろうと思えて来て、何故かそんな宿命を背負いながら生き続け成ればならない運命を、他人事とは言え可哀そうに思えた。
犯罪なんてどれだけの時間が要するのか?
人を殺す事など拳銃であれ斧であれ数秒でかたが付く。間違いなく人の一人など簡単に殺せる。
その数秒の過ちで犯人は、どれだけ気を使い、どれだけ嘘を言い、どれだけ誤魔化し、どれだけ逃げなければならないか、そしてどれだけ脅えなければならないか・・・その様に考えた時、田所敏明と言う口の荒い男に罵られたとしたなら、咄嗟に殺したく成ったかも知れない。つまり咄嗟と言う時間と、犯行に要した時間とでは殆ど変らないだろう。そんな出来事に対し警察も法律も未来永劫追い、生き続けることに成っている。何よりも真面で何よりも理不尽である。
それよりそんな苔むした事件を、今更の様に気を揉んで立ち向かっている自分も如何なものである。隆は複雑な思いで大きくため息をついていた。
あと二か月で川開きに成る。
既に鮎の稚魚が追いかけ合いをして戯れている。
隆はまだ静寂の平田川の土手の葉桜の下から川を見ていると、師匠の岩井地区の矢代さんがバイクで側までやってきて、
「どうした?疲れたような顔をして」
「久しぶりですね。また始まりますね。いま川を見ていると稚鮎が固まって泳いでいるのが見えますよ。」
「あれが解禁に成ると大きく成るからたいしたものだね。我々も鮎の様に一年で死ななければならなかったらどうだろう?こんな事はしていないだろうな?子孫増やす事と食べる事しか考えないだろうな。古事記に書かれている様に」
「忙しいでしょうね。アユの如く生きなければならないとなると」
「すばっしくな。抜け駆けする様に、遣ることをやって生きていかないとな」
「俺には無理です。」
「そうだな。人間で良かったなぁ!ところで色々あったけどあんたの親父さんたちの・・・」
「いえ、もうその話は暫くは・・・」
「したくないのかな?」
「したくないって言うか、してもどうにもならないようで・・・元刑事さんにもよく電話してお聞きするのですが、膠着状態のようで」
「そうか・・・しかしわしらは一組合員だから詳しくは判らないけど、未だに何かあるようだよ。年間の鑑札だって身内に甘い事はあんたも知っているよな。あれだって身勝手とわしは思うが」
「平田川の人には鑑札を無記名で渡して、シーズンが終わる頃には帰して貰うってやつですね。其れ嫁から聞いてびっくりしました。俺は所詮よそ者だから。」
「そうだろう。其れだって外部の人の耳に入ったなら気が悪いと思うよな。そんな事もあるから、あんたの親父さんはそんな不公平な何もかもを嫌っていたらしいから、色々問題はあったと思うよ。
揉め事や言い争う事が、はっきり言ってこの街のどこかで犯人が居るとわしは思っている。」
「実は元刑事に聞いたのですが、井村さんが自殺をしましたが、どうもその事で逮捕された印刷屋の田辺さんが、一言警察に言ったのは、親父たちを殺した犯人は、井村さんだと」
「まさか・・・其れで証拠があると言ったのかな?」
「ええ、証拠ではないのですが、田辺さんも井村さんも共に先祖が九州から来ているようですね。
其れでお正月神社でお神酒を頂き、共に九州で在る事を知り、意気投合して遅くまで飲み明かしたらしいです。
その時井村さんが同田貫って言う九州の伝説の話を自慢げにされ、興奮していて目を輝かせながら話されたらしいです。
同田貫って言うのは、敵の腹を真っ二つに切り、田圃迄刃が突き抜けたと言う伝説らしいですが、
その話を取りつかれた様に話されたので、聞き入っていて、その時田辺さんは親父たちの事件を思い出したらしいです。頭をかち割られていた姿を。
だから警察はその話に信憑性があるか判らなかったようですが、話を詰めた事は詰めたらしいです。でも他に証言も、物的証拠も何も出る事無く話は尻すぼみになった様で」
「へえ~そんなことが・・・でも田辺印刷も卑怯だな、死んだ人を利用するなんて、まさか作話ではないのか?」
「でもあの方も役場の仕事を打ち切られて噂では廃業するしいですよ。」
「仕事を打ち切られた・・・可哀そうに・・・自業自得か・・・独り舞台だったからなぁ この街では。
それにしても今の話おかしいなぁ。」
「何がですか?」
「その同田貫の話。わしあの男から聞かされたことがあるよ。随分前に、わしらがまだ若い頃だから相当前だったなぁ」
「田辺さんから?」
「そうだよ。今あんたが田辺さんが聞き入っていてと言っただろう。井村さんの話を聞き入っていてと
でもわしはあの男から聞かされた事あるよ。」
「どう言う事でしょうね?聞き入っていてと言っていたそうですが」
「それはおかしい?むしろあの男が聞かせていたのではないのかな?」
「どう言う事でしょうか?」
「解らんが、そのあんたの話には矛盾があるな。田辺は警察を相手に芝居を打ったのかも知れんな?
つまり同田貫の話は田辺がしていた。それを井村さんに聞かせていた筈だが・・・」
「それって言い替えれば井村さんが田辺印刷の話を聞いていて、親父たちが殺された事件を思い出した。」
「まさかだな?」
「矢代さん、これから元刑事の野平さんって言う方なのですが一緒に行って貰えないでしょうか?それで今の話を聞いて頂くのです。野平さんはとっくに退官されていますが、未だにあの事件を追って下さっているのです。」
「いいよ。行ってあげる。はっきり覚えているよ、その話は。」
「お願いします。」
それから二人は車を走らせ元刑事野平を訪ねた。
「なんだって、あの男警察に芝居を打ったと言うのか・・・けしからん。其れで実際はどうなのです?」
「はい、私から申し上げます。野呂さんの為に。
実は何年も前に、田辺印刷工芸舎に看板の仕事をお願して、やって貰ったのですが、仕事が完成して打ち上げの時にお酒が入って、その時あの人が自慢げに同田貫の話をし始めたんです。
私は何事やら解りませんでしたが、子連れ狼を知らんかとか何とか言われました。酒の勢いで長い自慢話が始まり聞かされました。
子連れ狼が持っている刀も同田貫だってとも言っていました。
その内立ち上がり、座敷箒を持って天井から思いきり振りかざし、まるで切り捨て御免と言わんばかり、箒を縦に畳まで振ったのです。」
「その話を私も担当刑事から聞いている。しかし田辺はその話を井村さんから聞かされていて、聞き入っていて、その時野呂さんの両親の事件を思い出したと、つまりしゃべっていたのは井村氏で、あの事件の犯人も井村氏ではないかと、いや間違いなく井村氏だと言いきっていたようだ。だから警察も目くじらを立てて証拠を固めていた様だが、何も物的証拠など無く叶わなかったらしい。
先日野呂さんにもその事を報告させて貰ったね。」
「野平さん、田辺印刷さんは大きな秘密を持っているかも知れないですよ。親父の事件にも関わっているかも知れないし、親父が殺されなければならなかった理由が、まだあるかも知れませんね?」
「よし解った。直ぐに田辺を・・・今検察で入川券偽造の処分で、略式起訴の手続きをしていると思うから、それを持って出頭させ一気に潰すから」
「旨く行くでしょうか?狭い田舎の町だから気を使います。」
「でも乗り越えないと、落ち着いて鮎釣りも出来ないだろう?」
「そうですね師匠」
「ここで師匠はないだろう?」
「いえ、師匠のお蔭で大きく動くかも知れませんよ。」
「そうだな、貴方の一言が大きく波を起こすかも知れないな。私が取り調べをしていたなら、いやそれはともかく彼らに頑張って貰うよ。」
その日の内に警察に話が回され、矢代さんは同じ事を警察で口にした。
その日の夜、警察は田辺印刷を訪ね、署まで同行する様に求め素直に応じたので、
「実は貴方が言っていた事は作り話であると判断致しました。
神社でお神酒を飲みながら、貴方が井村さんに同田貫の伝説を自慢げに語ったのではないのですか?貴方は聞き入っていたと言っていましたが、それは真逆で、聞き入らせていたのではないのですか?井村さんは実は同田貫の事など全く知らなかった。だから貴方は井村氏に子連れ狼の話などもして、教えてあげていたのではないのですか?そうでしょう?違いますか?どうです?思い出しましたか?」
「・・・」
「そうなのでしょう?それで肝心なことを言いますよ。あなたは井村さんに向かって大きく棒か箒か何かを振り上げ、面から切る動作をされたのではないのですか?つまり田所さんの夫婦を殺した時の様に。頭をたたき割って、血が一面飛び散って、違いますか?間違っていますか?
貴方はこれまでも俄芝居をして嘘を重ねて逃げ切ろうとした。この度も略式起訴程度で逃げる積りでしょう。死んだ人を出汁にして利用して極悪犯人にまでしてしまう積りなのでしょう?」
「・・・」
「本当の事言って下さい。貴方が長年していた店を閉めたのは、不景気だからですか?組合の不祥事がばれて同罪であったことから、道義的責任を取ったのですか?違うでしょう?
あなたは殺人を犯していることに疲れたからではないですか?貴方の商売の経営状態も調べて貰いました。直ぐに辞めなければならないほど行き詰ってなどいませんね。むしろ確実で安泰だと税務署も言っています。つまり貴方はあの時も嘘を言って同情を買おうとした。
作り話をこれからも考え、窮地を乗り切ろうと思っているのですか?でも貴方には絶対忘れられないあの瞬間が、死ぬまで憑いて回るのです。血が迸り乍ら倒れた、田所さんの姿が、そして奥さんの姿が、寝ても起きても、居ても立ってもどこからか貴方を見ているのです。」
「・・・」
「違いますか?」
「一体何を言っているのです?私には判りません。何を言っているのか?」
「いや、貴方は酔いながら我を忘れて言ったのですよ。脅えていた毎日があったから、お酒が入って我を忘れたその時、噴き出すように口に出してしまったのですよ。
私が田所夫妻を殺したって言ったのですよ、この手に斧を持ち、思いっきり頭に殴りかかり、畳まで届く勢いで切り付けたと」
「まさか?」
「覚えていませんか?全く覚えていませんか?」
「そんなことありえない」
「いや、言った。間違いなく」
「そんなことありえない。こんな扱いをされるなら帰ります。任意なのでしょう?」
「いや間違いなく心で思っていて身体で示していた、
違いますか?」
「刑事さん、私は井村さんに同田貫の事を聞かされたのですよ。前にも言ったように、何を勘違いされているのですか?おかしな人だ刑事さんは、同田貫なんて知らなかったですよ。それまでは・・・」
「いいか、よく聞け!あんたが神社で井村氏から同田貫の伝説を聞かされたと言うが、ではどうしてあんたは同田貫の話を自慢げにしている?
それは井村さんとあんたが神社で話すもっと前の事だから矛盾しているではないのか?」
「私が?」
「ああ、あんたが同田貫の話を自慢げにしていたのは、井村さんではないんだぞ。あんたがお酒を飲みながら同田貫の話を自慢げにしたのは、もっと以前に岩井地区の矢代さんにだぞ。
言っている意味解るな?あんたが井村さんと同田貫の話をした、もっと以前のことだからな。矛盾している事がわかるな?
また嘘がばれたな、今度はどんな嘘を並べる?
田辺、観念して白状しろよ。あんたは田所夫妻にどんな怨みがあった?」
「・・・」
「どんな怨みがあった?何もかも判っているんだぞ、正直に言ってみろ!
相当怨んでいたから、あんな酷い事が出来たのだな。言ってみろ!苦しんでいたのだろう?罪を認めて気を楽にしろよ。これ以上苦しまなくって済むから。長年苦しかったのと違うのか?何を言われた?何をされた?何が許せなかった?田辺言えよ!全部吐いてみろよ!おい田辺!」
「違う!俺と違う!」
「いやお前がやった!」
「おれ・・・おれ・・・」
「どうした?」
「俺飲んでいたから・・・」
「飲んでいたから?思い出したな?」
「俺、あの日、お酒飲んで田所さんの家に行った。」
「それで?」
「そうだ!そうだった。思い出した・・・俺選挙の話で行ったのに・・・
行き成り罵られた。訴えると言われた。馬鹿にもされた。警察に言ってやるとも言われた。
組合の不正を全部知っているとも言われた。私がしていることも知っていると言われた。証拠もあると言われた。平田川から出て行けとも言われた。組合を潰してやるとも言われた。
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味噌くそに罵声を浴びせられ、私は玄関先でたじろいだ。
私は躊躇なく直ぐに外へ出て、車に乗っていた斧を手にしていた。
それを持ち再び玄関から中へ入り、旦那の怒っているその顔を睨む様にして近くへ行った。
どこからか奥さんが二人の様子を見ていたのか、私に大声を張り上げて『馬鹿者』と飛び掛かる様にして、私の胸ぐらを掴もうとしたので、私は咄嗟に持っていた斧で、奥さんの顔を目掛けて思いっきり振りかざした。訳が分からなかった。
奥さんは大きな声を張り上げてその場に倒れ、溢れるほどの血が湧き出したいた。
その時旦那が鬼のような形相で私を睨み、手に持っていた剪定ハサミで、私を突き刺そうとしたので、
私は血の垂れているその斧で、旦那の額をめがけて同じ様に振りかざしていた。
唸り続ける二人に、側に在った夏布団を掛け逃げた。いや逃げました。
私はすぐに捕まるものだと思っていました。でもどうしてか車のタイヤ痕も判らなかったのか、これまで追求される事も無く、今日に至りました。」
「そうか・・・よく言ったな。それで井村さんはどうなんだ?
全部言って体に染みついた何もかもをおとして気を楽にしろよ。あんたがやったんだろう?」
「脅された。金が要るからと脅された。」
「それは田所夫婦殺害を知っていてか?」
「そんな言い方をして・・・私があの日田所さんの家に行った事をあの男は知っていた。
暗く成ってから行ったのに、何処かで車ですれ違った様であった。その後付けられていたらしい。
あの男は同級生の杉原良助って候補を応援していたから、他の候補を内密で応援している私をマークしていたと言っていた。それで私の動きを見張っていたらしかった。私が田所さんの家から出て来るまで張っていたと言っていた。
誰にも言わず長年その話を温めていたと言っていた。犯人が逮捕されていない事が、あの男にすれば私を脅す尚更都合のいい話だったと思う。
おそらくあの男は私が田所の家から去った後、あの家に行っていたのかも知れない。そして惨劇を見て私の犯行だと判っていたが黙って居たのだと思う。いつの日かにお金にする積りで、だから私の車のタイヤ痕も消えていて警察に疑われなかったと思う。
それから何回もお金も要求されていたので、あの日私はあの男を殺す気で、あの自殺現場で落ち合うように考え、それで首を絞め吊るした。これで何もかも話しました。」
「そうか・・・田辺これで終わったな・・・あんたが苦しむのは・・・田所さん夫婦それに井村さん・・・
死刑になって向こうへ行って詫びることだな。」
「・・・ええ、終わりました。」
翌日、田辺印刷工芸舎の家宅捜査が行われ、裏庭に山と積まれた小刻みになった原木があり、その真ん中で切り株が置かれていて、軒下には山と積まれた割木が、風呂を焚くのに薪で焚いていたようで、田辺譲は原木を割りながら、あの同田貫の伝説を思い出していたのだろう。
斧を天まで振り上げ、『おりゃ~』と声を張り上げ、一気に原木を真っ二つに叩き割るその動作が身についていたようである。
警察が田所家にやって来たのは、それから間もなく田辺が起訴された翌日であった。
「何とか大きな事件も解決に至り、安堵の色隠せないです。二十五年は長過ぎます。
刑事の人生そのものに成りますから。ですから誰よりも喜んでいるのは、既に退官された野平さんではないかと思われます。確かに署長も鼻高々でしょうが、殆どの者は三年か四年の出来事。しかし野平さんは退官されてからも一途にこの事件に拘り、誠にご苦労様です。」
「本当に有難うございました。妻の美香はやっとこれから心底幸せに成れると思います。」
「私からも一言お礼申しあげます。主人にはこの家に六年ほど前に来て戴き、犯人探しと言うとんだお荷物を背負わせてしまいました。
でもみなさんのお蔭で何とか解放されそうです。本当に有難うございました。田辺譲ってどれだけ酷い事をしたか今更ながら驚きます。そんな鬼畜の様な人間が,この小さな街に居たことが信じられません。死刑に成る事を望みます。」
「野呂さん、其れに奥さん、
実は犯人の田辺は、自供をした後にこの様なことを言いました。これからお二人がこの事件を思い出される事があるなら、これから話すことも思い出して頂きたいのです。
それは田辺が幼い時に親から聞かされた事は、古びた新聞に書かれた事件の事だったようです。九州の片田舎で田辺の先祖が住んでいて、その家に族が入り、両親が貴方がたの両親の様に、斧で殴られ殺された事件があったようです。
田辺はその事件が載った新聞の切れ端を、後生大事に持っていて、その事があの男を狂わせた様です。つまりあの男の心の中で流れる川は、常に血が流れて居たのかも知れません。
家宅捜査をした時、庭一面に割木が散乱していて、お風呂などガスで焚けば簡単なものを割木に拘って・・・あれっておそらく敵を討ちたかったのでしょうね。来る日も来る日も力を込めて割木をたたき割ることで、先祖に思いを伝えていたのでしょうね。」
「其れで犯人は?」
「未解決事件です。」
「そうでしたか・・・そんなことが・・・でも何故我々の両親の殺害に繋がったのでしょうね?」
「おそらく過去と常に向かい合っていて、割木に犯人像を浮かべて叩き割っていたのでしょうね。其れであの日お父さんから罵声を浴びせられて、逃げることも誤魔化すことも出来ない我が身を知り、犯行に及んだのだと思われます。
入川券も十和田の次男坊と組んで悪事を繰り返していたが、それもばれそうになり、井村氏を殺したうえ利用したようです。
あなた方が苦しんだ思いは、田辺家はそれから更に何十年も遡った時から同じ思いが続いていたようです。
田辺は最後に、
『死刑にしてください。これでおわれます。』と言って泪を一筋流していました。
それで『許されるものなら死刑に成る前に一度でいいから先祖のお墓参りをさせてください。』と、
こんなところです。」
刑事は帰って行った。
「なぁ美香、事件も解決したことだし、元刑事の野平さんにお礼方々何かご馳走しない?」
「ええ、お任せします。」
「俺、気に成っている事があるから、あの店に行きたいと思うのだけど」
「あの店って?」
「お好み焼きの、あの杉原さんの息子さんがやっている店、伸介さんて言ったっけ」
「賛成!だって美味しかったもの」
「決まりだね。」
それから間もなく野平さん夫妻を誘って、子供たちと六人で杉原さんの息子さんの店を訪ねた。
「前に一度来て頂きましたね。」
「覚えていてくれてましたか?」
「はい、」
「私たち家族は平田川の者です。」
「平田川の?❓そうですか態々遠くからお越しくださいましてありがとうございます。」
「それでこちらの方は、元刑事のご夫妻で」
「はい、ご主人のお顔は何度か・・・」
「実は目出度い事があり、それはある事件が解決したのです。」
「判っていますよ。平田川でしょう?田所さん夫婦が殺された犯人が逮捕されたことでしょう?」
「ええ、」
「良かったですね。娘さんが狂ったようになっているとあの頃噂で聞いていましたから・・・お気の毒に・・・どうされているのか?もう可也のお歳だと思いますが・・・」
「これです。この人です」
「えっ娘さんが・・・?」
「はい私です。狂ったように成っていたのは。でもおかげさまで今は幸せになっています。」
「本当に?・・・よかった。こんな立派なお子さんも居られて。良かった・・・本当によかった。」
「ええ、こちらの刑事さんが骨を折ってくださり、何とか逮捕に至ったのです。警察を辞められてから随分経っているのに、頑張ってくださり」
「そうでしたか・・・実はあの事件、俺、多分事件があった頃に田所さんの家の横を通っていたと思います。新聞を読んで、俺達があの家の横の道を歩いていた時には、既に事件が起こっていた様で、この子あやって言うのですけど、この子を連れて早朝に、椎茸屋のおじさんのトラックの荷台に乗せて貰って、市場近くまで帰りました。
それから仕事場に行き、昼過ぎに事件を知りました。びっくりして警察に言おうと思いましたが、何も言う事など無かったから黙っていました。
だからよく覚えています。それから親父が破産して家にテープが巻かれ、平田川に帰ることもなくなり、事件もいつの間にか忘れるように成っていました。本当に良かったです。
あの~図々しいですが・・・今日は皆さんに奢らせてください。他人事と思い忘れていたお詫びです。」
「いえいえ私からも・・・野呂さん、私は刑事を長年やって来たから判るのだけど、この店主は間違いなく大物に成ると思うよ。そうは思いませんか?実に心の優しい人だ!
店主、私は貴方を田所夫婦殺害犯として、疑って何度か来させて貰った。親父さんがあまり良い噂が無かったから、でも間違っていた。
だからそんな私を叱ってやってください。今日は私に面倒見させてください。野呂さんも奥さんも子供たちも、好きなだけ召し上がれ!」
「みなさんありがとうございます。こんな日が来るなんて、夢にも思ってもみませんでした。本当にありがとうございます。」
「美香、やっと幸せに成れたね。本当の幸せに成れたね。
ところで伸介さん、そろそろ平田川の川辺に桜が咲きますよ。」
「平田川にですか?桜が?」
「はい、綺麗ですよ。植えてから二十年近く成るそうです。立派な木になって、本当に綺麗です。また来てください。いえ帰ってください。貴方の故郷に。
落人の街かも知れませんが勝組の貴方が帰ってもおかしくないでしょう。」
完結
(この物語はフィクションです。実存する
ものとは一切関係ありません。)
題名 落人の街
血の川
作者 神邑 凌
完結です。おつかれさま。。。。