田舎町のきれいな清流に血が流れていた。
❶
平田川町長瀬地区には三十六世帯の住人が住んでいて、何方も穏便な生活を昔から営んでいた。
しかしそれは戦後から数えると、その住民の数は大きく減らしていて、言わば日本中のどの地域に於いても同じ事が言えて、つまり田舎はどこでも過疎化が進んでいた。
ただ田舎の良さは自分勝手な者など然程居なくて、周りの者に対して従順で、言わば何事に於いても、殆どが遣り易いと言える助け合う風習があった。
この長瀬地区も何の文句のない地域であったが、この地に二つのある事が起こってから、不穏な空気が漂い始めて、思わぬ結果を招く事となった。
まず一つ目に起こった事は、この村の住民の花村徳之進と言う人物が、今度の選挙に出馬する意向を地区の住民に伝えた事と、もう一つの出来事は、この封建的な長瀬地区に他所から新住民が遣って来た事であった。
寂れて行く村が新住民によって少しでも活気づけば、それは目出度い事であると誰もが喜んでいたが、現実は決してそうではなく、波乱に満ちた日々を迎える事となった。
平成二十二年十月、年末に行われる平田川町の町議会議員選挙に立候補を決意した花村徳之進は、満を持した様に声を震わせて、大きな声で出馬の挨拶をしていた。
「かねてよりお伝えしていますように、是非今度の選挙において、男にして下さいます様に切にお願い致します。
平田川町はご存知のように、毎年住民の数を減らしている事は危惧される事で、何か手を打たなければならない事は、皆さん方誰もが思う事と察します。
地場産業もこれと言って無い事実もあり、一次産業の林業はともかく農業に至っては、立地から然程適しておらず、大変難しい現実である事は承知の事、
そこで企業の下請けなどの製作工場を誘致出来ないかと、日頃から考えて居りました所、やはりそれなりの地位を得てからでないと話はスムーズには行かず、其れゆえに今回決心致した次第で御座います。
長瀬地区の皆様が中心になって頂き、大きなうねりを作って頂ければ、何かが生まれるのではないかと思われます。
県会議員の大田原重行先生とも懇意にして頂いており、その時が来れば又何かご相談に乗って頂けるのではないかと考えています。
皆さま、平田川町の為に、更には長瀬地区の将来の為に一心に頑張りますので、どうかよろしく応援下さりますように、切にお願い致します。」
丁度二か月前花村徳之進は夫人の花村紗枝を連れ立って、地区の集会に顔を出し大きく頭を下げていた。
ところがその日を境に長瀬地区は大きなうねりが始まる事となり、選挙に向かって戦々恐々とした中で日々を重ねる事となった。
其れと言うのも、実は長瀬地区には田所と言う屋号が多くあり、それは平田川町大木地区の有力候補、田所春子の親戚であった事から、花村徳之進が選挙に出る事は只事ではなかったわけである。
僅か三十六世帯の長瀬地区、その中で田所の姓の家や一党で八件を数えたから、仲たがいに成る事は言うまでもなく、それ故にこれまでも出馬する事を仄めかした人物が過去にあったが、潰されるようにして涙を飲んだ事実もあった。
しかし今回は諸事情で花村が満を持す様に出馬を口にしたので、長瀬地区には只ならぬ空気が漂い始めていた。
そんな空気に対しても一向に気にしない人物が現れたのは、他でもない、この夏に長瀬地区へ引っ越しをして来た野呂隆、野呂早苗夫妻であった。 二人はそんな諸事情などお構いなしに、花村徳之進の手足になって選挙活動に邁進していたので、住民たちは敢ていがみ合ったりするより、彼ら夫婦に任せて後を着いて行く恰好で、終始するようにしていた。
選挙戦も終盤に成ったころ、何所となく妙な噂が飛び交う事になり、長瀬地区の住人にとって厄介なその噂に翻弄される事となった。
其れは入り人でありながら、この選挙で先頭に立って音頭を取っていた、野呂隆夫妻の旦那の野呂隆が、同じ在所の田所春子の親戚の行かず後家、田所美香と親密な関係に成っている様だと言う噂であった。
それは言い換えれば音頭をとっている筈の野呂隆が、寝返って別候補田所春子を陰で応援していると言う事に繋がり、それは花村徳之進を推薦している長瀬地区にとって、国賊に値するものに相応しい裏切りであった。
ところが選挙になり蓋を取ってみて驚く結果に成ったのは、ベテランの田所春子が落選して花村徳之進が初陣を飾ったのである。
驚いたのは長瀬地区の住民で、更に判った事は野呂隆が田所春子の親戚の田所美香に近づいたのは、彼が寝返りを打ったのではなく、田所美香の気持ちを変えさせ、長瀬地区の住民として、花村徳之進に札を入れてくれるように説得していた事が判る事と成った。
それは他でもない田所美香の口から証言され、誰もが驚く事となった。
その様な内情を田所美香によって表面化された事で、野呂隆は気を使ってその日を境に、美香を彼女の親戚の者たちから、身を擁護するように成り、それまで単なる噂であった筈が深い恋に発展して行ったのである。
何がきっかけに成るか、野呂隆は連れだって長瀬地区に引っ越しして来た妻早苗と、この日を境に上手く行かなく成って行き、妻の目を盗んでは、一人暮らしをしていた田所美香の宅を、こっそり訪ねて密通を繰り返す日々を重ねていた。
黙って居られなかったのが、選挙に落ちて只の人に成ったばかりだけではない、親戚の田所美香の噂を耳にした田所春子の旦那田所倫太郎は、冬には必ず猟に出ていたので、その猟で使う銃を片手に、野呂隆がしけこんだ所を見計らって、親戚の美香の宅へ乗り込んだのである。
「貴様!盗人猫のような事をしやがって!」
そう言って銃口を野呂隆に向け、唖然として言葉を忘れた美香を見ながら
「あんたはこんな男に騙されて馬鹿な娘だ!
どこの馬の骨かも知れないこんな男に・・・それにこの男所帯持ちだって言うじゃないか?わしが間違っているか?目を覚ませよ美香ちゃん!」
「おじさん止めて!そんな事しちゃだめだわ。」
「おいあんた、引き金を聞く前に出ていけ!家に帰ってすぐに荷物を纏めてこの街から出て行け!生かしておかんからな!わかったか?泥棒猫!」
野呂隆は銃口が向けられたままで、散らばっていた服を鷲掴みのして、あたふたと美香の家から出て行った。
野呂隆はズボンを持ったまま表に出て納屋の隅に隠すように止めていたバイクの前まで行って、慌ててズボンを履き逃げるように美香の家を後にした。
「お父さん何所へ行っていたの?」
「ちょっと」
「あの美香って女の家じゃないの?」
「違う。」
「でももういいわ。私は出ていくから」
「又そんな事を言う。勝手にしろ!」
「なによ!好き勝手しておいて!都合が悪かったらそんな言い方するのだから」
「・・・」
「明日離婚届貰ってくるから。」
「俺、花村さんに喜んで貰おうと頑張っただけじゃないか」
「もういいわ、変な噂を耳にしながらここで生きて行くなんてばかばかしくって、いいわ出ていくわ。」
「勝手にしろよ」
「あんた、私はバカじゃないのよ。今でも女の匂いがするじゃない?馬鹿にしないでよ!どこへ行っていたか今言える?何所で遊んでいたか今言える?」
「・・・」
「選挙があってからあんたは変わってしまったわ。
何に呆けたのか知らないけど。どうしてあんな行かず後家に惚れたの?ばかばかしい」
「もういいから、出ていくなら勝手にしろ」
「ええ、好きにするわ。弁護士の先生に頼んでまた連絡するから」
「俺も出てゆくから」
「私の知った事じゃないわ」
「ここで居たら殺される」
「殺される?」
「俺殺される。田所の旦那が・・・」
「旦那が何よ?旦那って?」
「田所春子の旦那が逆恨みして俺に突っかかってきて、猟銃を突きつけられて」
「それって?あんたがあの女に手を出したからじゃない?自業自得よ」
「いや選挙に落ちたから、其れに花村さんが受かってそれで腹いせに、相手が違うって」
「そうじゃないわ。あんたが余計な事をするから、そんな風になるんじゃない。馬鹿よ」
「お前は出ていくなら出て行ってくれ!この家では住めないから、明日にでも大家さんに返すから」
「本当に銃で脅されたの?」
「そう、怖かった」
「警察に言えば・・・でも言えないか・・・」
「其れは俺がなんとかする。出て行きたいならすぐにでも荷物を纏めてくれていいから」
「ええ、そうするわ」
野呂隆と早苗夫妻は思わぬ事から危機に陥り僅か五年の夫婦生活に幕を下ろす事となった。
妻の早苗は翌日役所へ行き離婚届の用紙を用意して印鑑をつき、夫隆にそれを渡し出て行った。
あっけない間柄であった。
隆は美香と親密な仲になっていた事は間違いなかったが、田所春子の旦那に銃を突きつけられた事で意気消沈して我に返り居場所をなくしていた。
何も言わず出ていくべきか、それとも美香に対してだけは未練がましく策を講じるべきか、終日悩んだが、やはりあの銃口を突きつけられた状況を思い出さずにはおられず、離婚届の判を押しながら心
は彷徨っていた。
❷
迷いながら隆は、その夕方に町会議員になった花村を訪ね、
「花村さん、俺馬鹿な事をしてしまって、今となっちゃぁ取り返しの付かない事になってしまって、今日離婚しました。」
「そうでしたか・・・奥さんと離婚を」
「恥さらしな事で・・・」
「それでこれからどうされるのですか?」
「実は田所春子さんの旦那に美香さんの事で責められて猟銃を突きつけられて、この街から出て行けと言われ」
「まさか・・・そんな事に。でもそれって奥さんが落選した腹いせではないのですか?
たとえあなたが美香さんと噂の様な関係になっていたとしても、美香さんは所詮一人暮らしの身、はっきり言って一票じゃないですか?それであなたにいちゃもんを付けるなんて了見の狭い事ですな」
「ええ、でも俺もいけない事を・・・」
「そりゃ奥さんと別れたのだから、貴方にもそれなりの理由があるとは思いますが、其れで噂になっている事は真実なのですか?」
「まぁ貴方のおかげで正直な所、本当の幸せを掴めそうですが」
「つまり奥さんとはこれまでそんなに上手く行っていなかったのでしょうか?」
「かも知れません。この地へ来たのもその辺りに原因があったかも知れません。
環境を変えないといけないと二人とも思っていた気も致します。大なり小なり何れこんな日が来ていたかも知れません。」
「それなら、私は無理ですが、どなたか間に入ってもらって美香さんと正式にお付き合いされてはいかがですか?
お互い相思相愛になっておられるのなら。
選挙でこの地区に亀裂が出来た事は確かですが、でもそれは私の問題で、あなたや他の住民が気にするような話ではないと思われます。
平田川町も長瀬地区も選挙では二分したようですが、それはそれ、選挙が終われば一つにならなければならないと思いますよ。
過疎化や若者の居ない街に成っている事だけは確かな事ですから。
その事に懸念して私が立候補して当選させて頂いたのですから、同じ思いなら問題無い筈ですよ。ですから貴方と美香さんの間にどなたか入っていただいて・・・如何です?叶うものならその様にされれば、まして貴方がさっき本当の幸せを掴んだように言われましたでしょう?」
「有難うございます。しかし田所さんは土地柄大御所でプライドもあるでしょうし、私の様な者をしこりのあるこの時期に認めて下さるとは思われません。
むしろ今度はあの銃の引き金を弾きはしないかと思われます。其れに妻を追い出すようにしてまだ湯気が立っている間に美香さんを迎え入れるなんて幾ら俺でも気が引けます。」
「それにしても奥さんと簡単に別れられましたねぇ?」
「ええ、どちらかと言えばその方向に実は進んでいたのでしょうね。
男と女って実はとことん愛し合う事の出来る生き物でありながら、とことん嫌い合う生き物でもあるようですね。
実は私たちはこちらへ来るまでに、その火花が飛んでいたと言うか、色々御座いまして」
「そうでしたか・・・でも気さくな奥さんだったと理解しておりますが、選挙の時お二人で頑張って頂いた事も、あなたに連れられて」
「ええ、初めは素直な気持ちでそのようにやっていたと思います。でも俺に変な噂が出て、彼女は耳に入ってくる俺の噂が、堪らなかったのだろうと思います。」
「ではあなたは奥さんの事は、これまであまりよく思っていなかったのですか?」
「ええ、こちらへ来るまでは都会で住んでいて、そこであいつは食材を買いに行っていた、スーパーの店員と良い仲に成っていたのです。
其れも俺と知り合いに成る前から続いていたようで、だから俺その事を知って嫁とその男を引き離す事を考え、此方の平田川町で空き家対策をしている事を知り、是が非でもと役場の方にお願いして引っ越しして来たのです。
俺が妻と男の事を知っているとは妻は知らないと思いますが、こちらへ来てからの妻は、スーパーの店員の事を忘れようとしていた様にも思いましたが、俺が美香さんとおかしな事に成った事で、何もかもが噴き出すように成ったと思います。
おそらく妻はあのスーパーの店員の居る近くへ行くように思いますが、其れは今の俺にとってどうでもいい事で。」
「大変ですなぁ男と女って。」
「でも所詮その男は所帯持ちのようだから、叶わぬ恋だと俺は思いますが」
「でも万が一その男の人も、実は今の奥さんではなく、あなたの奥さんと以前から知り合っていたかも知れませんなぁ。でもお互意中の人と結ばれなかった・・・いやぁこれは考え過ぎですかな」
「なるほど、それなら辻褄が合いますね。どこでボタンを掛け間違えたか・・・」
「でも夫婦っってその時は経済的な事や、将来の事や、又家族の事などをいろいろ考えて、婚姻届けに判を押すかを決めるのですから、後悔もありうると思いますよ。
それじゃ美香さんと心機一転で幸せに成られたら良いのではないのですか?
野呂さんには随分お世話に成った訳ですから、私で良かったらお力に成らせて頂きますが」
「どうしましょう?何せ銃ですから、おっかないですから・・・」
「一度警察へ行かれて相談されては如何でしょうか?何しろ物騒な話ですから、素人では歯が立たない話、田所の旦那は、それって恐喝でしょう?貴方に直ぐに出て行けって猟銃を突きつけるなんて」
「では警察に行って話してきます。美香さんが辛い思いをしてもいけませんし」
「そうですね。美香さんの気持ちも貴方の気持ちも揺ぎ無いなら、二人でよく話し合って、田所の旦那さんにも解って貰えば良い話で、ですから表立っては私はでしゃばれませんので、其れは解ってやってください。でもお二人が幸せに成る事を願って止みません。」
「有難う御座います。」
野呂隆は翌日警察へ足を運んでいた。その日は黙っていれば田所の旦那に出て行けと銃を突きつけながら警告された日であり、迷う事なく警察に相談していた。
野呂隆にその時の修羅場の顛末を聞かされた警察官は、詳しく聞きたいと言う事で細かく話すと、
「其れは物騒な事ですね。早速事実関係を問うてみます。あなたの話ならそれは立派な恐喝であり、殺意があったかも知れない事になりますね。」
「そこまでは思いませんが、単なる脅しであると、このようにして今に成っても、銃を片手に私の家に押しかけて来て居ませんから」
「でも今準備をしているかも知れないって事も言えるのでしょう?」
「ええ、其れはわかりません。」
「では何故その様に成ったのか、何もかもをお聞かせ下さい。ここで居る間は安全ですから」
「はい、半年ほど前に私たち夫婦は平田川町の空き家対策のPRをパソコンで見て、それでこちらに移住する事を決めました。
運よく抽選に受かり、心機一転で来させて貰いましたが、秋頃、年末に選挙があり、その選挙に我地区の花村徳之進さんが出馬する事を聞かされ、其れでいつの間にか、よそ者の私でありましたが、多くの方が好意を持って下さり、気を良くして運動させて頂いていました。
ご存じのように長瀬地区は議長まで勤めた田所春子さんの親戚が多く住んでいて、長瀬地区は二分する様な状態でありましたが、しかし花村徳之進さんがこの街の将来を懸念され、将来の事を誰よりも考えている姿に賢明致しまして、何かと力になりたいと思う余りに、それまではタブーだった常識を覆さなければならないと思うようになり私は敢て田所美香さんに、花村に札を入れて頂けるように働いたのです。
そして二週間の間、花村さんの目の上のたん瘤の田所さんの親戚に、寝返るように説き続けたのです。其れは花村さんの事を重んじてと言うより、長瀬地区の将来の為にでした。
そして選挙が終わり、結果的にはベテランの田所春子さんは次点で涙し、花村さんが初陣を飾ったのです。
そんな事で時代が変わったと言う事と、誰もが思う結果に成ったわけですが、田所の旦那は決してその様には捉えておらず、私の様な者が居た事で思わぬ結果に成ったと思い込み、其れより私に変な噂が飛び交い、その事が原因で身内贔屓な昔人間の田所の旦那さんは、私にうっぷんを晴らすように逆恨みしたようです。
つまりはっきり申しまして、私は選挙中に花村さんの応援で、広瀬地区の田所さんの親戚の家に何度もお邪魔をして、そして田所美香さんと言う四十歳ほどの女性と、深い関係に成ってしまったのです。不倫と言われても致し方ない事で、それでその噂が田所の旦那さんの耳にも入り、選挙に落ちた腹いせに私と美香さんの事で、鬱憤を晴らしたかったのか、二人で居る所へ乗り込んできて、その時銃を持って来たのです。」
「びっくりされたでしょう?」
「ええ」
「でもあなたには奥さんは?・・つまり不倫ってやつではないのですか?」
「はい、そうです。」
「其れはいけませんね。怒られる事をしているのですから。奥さん怒っているでしょう?平田川町にやってきて間もなくな訳でしょう?可哀想に」
「でもはっきり言って嫁も潔く昨日出ていきましたから」
「えっ離婚されるのですか?」
「ええ、しました昨日。」
「まさか・・・そんな簡単なものですか?」
「ええ、私たちが平田川町に来たのは、元々妻が浮気をしていて、其れで耐えられなく成って私がこちらへ来るように仕向けたのです。
❸
妻は仕方なく付いて来たようですが、この度の事で、「待ってました」とばかり出ていきました。元の鞘に納まりたいのか、それとも私が銃で脅されている事を知ったから、嫌気が差したのか、それはわかりませんが」
「それであなたはこれから被害届を出されますか?でもその前に警察の者で相手の方にも、事実関係を聞かせて頂きます。田所さんはこれまで平田川町の議員さんを何度もされた方だから、こじれてもいけませんから、取り敢えず向こうさんの言い分も聞かせて貰います。それで宜しいかな?」
「はい。」
「まさかと思いますが、逆上してとか、危険が感じるような事に成れば直ぐに駆けつけますから」
「わかりました。お願いしておきます。」
「それで貴方はこれからどうされます?この街から出て行く事も考えておられますか?」
「解りません。今後も銃を突きつけられては困りますから」
「では田所の旦那さん次第って事ですね」
「そうなりますね。」
「其れで奥さんはもう二度と帰って来ないのですか?この件が解決しても?」
「其れはわかりませんが、戻ってほしくないです。」
「それは先ほど言っていました田所美香さんって方と一緒に成るためですね。」
「ええ、その様に、噂通りに」
「解りました。兎にも角にも貴方の今後は、田所さんの旦那さん次第ですね?」
「そうなりますね。上手く捉えて頂きたいです。」
「解りました。」
平田川町派出所の巡査部長など三人が、田所倫太郎と春子夫妻の家を訪ねたのはその日の遅くであった。
倫太郎はテレビを見て寛いでいたので、物々しく訪ねて来た巡査部長他二人の姿に、目を丸くして立ち上がって玄関に出て来た。
奥方も何事かと玄関まで神妙にやってきて、巡査部長の言葉に倫太郎が目をぎらつかせてこう言った。
「あなた方が血相を変えてここへ来られた意味わかりますよ。あの泥棒猫が・・・あいつの事でしょう?卑怯な奴だ全く・・・」
「待ってください。今日お邪魔したのは、実は被害届が出されるようだから、まず貴方にお伺いしてからと言う事で、何分物騒な話でしたから」
「其れは銃の事ですね?」
「はい、昨日貴方は野呂隆さんに銃を突きつけられて、この街から出て行く様に強要されましたか?」
「やっぱりあの泥棒猫が警察に願い出たのですね。卑怯者が・・・」
「いいですか、貴方は昨日親戚の美香さんの家に行き、野呂さんが来ている事を知っていて、其れで銃を彼に突きつけ、この街から出て行くように強要されましたね。どうなのです?」
「ええ、そうです。」
「でもそれは犯罪ですよ。お判りですかな?」
そのやりとりを聞いていた春子は仰天した様に、目を白黒させて夫の倫太郎を見上げながら
「お父さん、一体何の話ですか?この方々は何を言っておられるのですか?」
「前にも言っただろう?選挙の間にもお前も耳にしただろう?美香の事を?」
「それであなたが何を?」
「だから奥さん、旦那さんは美香さんの家に行ってその時出くわせたか、若しくは居る事を確認してからか、野呂さんて方に銃を突きつけ、言わば脅したようです。この街から出て行けって言って」
「お父さん其れ本当ですか?」
「そうだ。」
「でもどうして?」
「第一な、お前が選挙に負けるからこんな事に成る。しっかり親戚の世話を十分していれば、こんな結果になど成らなかったものを。
だからわしが言っただろう。何回も当選しているからって舐めてかからないようにと。しかも美香ちゃんまであんな泥棒猫に寝取られて」
「お父さん在り難いけど私が恥をかくだけですよ。
そんな事をして何に成るのです?私の生命線を断っているようなものですよ。」
「まぁそんな事で、詳しくお聞きしなければなりません。ご主人にはこれから派出所までお越し頂いて詳しくお聞きします。」
「解りました。」
「それと猟銃を持っていますね。其れ提出してください。お預かりします。今は鳥獣の猟の期間ですから弾もお持ちの筈、全部ご提出ください。」
倫太郎は派出所から帰ったのは日が変わりかけていた。こっぴどく絞られ、長年妻が町会議員であった事を考慮して、始末書を書く事で略式起訴に持って行く事もなく、警察としては大事に成らない様に、誰もが為に配慮して事を収めようとした。倫太郎には当然感情に走り二度とこのようなバカな事はしない事も約束させ自宅へ帰らせた。
野呂隆が満を持して、怒りが収まったであろう田所倫太郎の自宅にお邪魔したのは、それから二か月が過ぎていた。
野呂隆は警察のおかげでそれからも同じ所で住み続けていて、これまでと同じ様に田所美香とも深い関係を継続していた。
地区の誰もがそれなりに隆の事情を温かく捉え、今では元の奥さんの早苗が、まるで尻軽女であったように位置づけられ、隆には逆に同情札が集まる環境になっていた。
それを知ってか田所倫太郎も何一つ口にする事もなく、二か月の間にそれぞれの者が隆に対して取り方を変えていた。
だから野呂隆は頃合いを見て、田所倫太郎夫妻に挨拶の積りで勇気を出して訪問していた。
猟銃を突きつけられた二か月前のことを思い出し、野呂隆は緊張感を一杯感じながら、田所宅の玄関に美香共々突っ立って最敬礼をしていた。
「ごめんね、おじさんもおばさんも、」
美香がしおらしい声で優しくそのように口にした。
「いらっしゃい。よく来てくれました。野呂さんでしたね?美香ちゃんからお聞きしています。、また先だっては主人がとんでもない失礼な事をして、大変ご迷惑をお掛けしたようで深くお詫び致します。
私は色々な事、美香ちゃんから聞いているから、
貴方の味方と思って下さいね。
お父さん、お父さんもまず野呂さんに謝って!
それが礼儀でしょう?」
「解っているよ。その節は申し訳なかったな。わしも大人げない事をして・・・」
「いえ、田所さん、こうしてこの地で今でもお世話に成っていると言う事でも判るように、私は幸せですから。其れに美香さんとこんな風に好い関係で居られますから。とても幸せです。」
「そうですか・・・ではいずれ結婚すると言う事かな?」
「はい、私はその様に望んでいます。でも色々ありましたから、どなたにも賛成して頂く程良いと思っています。其れもまずどなたよりも本家の田所さんご夫妻に」
「いいんですよ。美香ちゃんが幸せに成ればそれだけで、私も主人も遠くない時期に居なくなる身、貴方方二人が大事ですよ。」
「おばさんありがとう。おじさんも。彼についてゆきます。」
「そうか・・・よかったな。」
田所倫太郎は何を思ってかその場にしゃがみ込み、両膝と両手をついて大きく頭を下げ
「野呂さん、これまでとんだ失礼な事を致しました事、田所倫太郎深くお詫び致します。
実は美香から色々と聞いています。どうか縁あって結ばれたとおっしゃるなら、美香の事重々重ねてお願いしておきます。どうか幸せにしてあげて下さい。」
その豹変するような態度に驚いたのは野呂の方で、慌てて、
「田所さん、お顔を上げてください。それにそんな風にこんな私にしないで下さい。さぁ立って下さい。」
野呂は手を差し伸べて倫太郎を立たせて顔を見つめた。
「実は不躾かもしれませんが、野呂さんに最初に言っておかねばいけない事だと思うから言って置きます。」
「おじさん、今、昔の話はしなくっても・・・」
「いや、今だからしておかねばならないとわしは思う。こうして美香もこの方を伴侶の友と思うなら・・・だから今こそしておかなければ・・・」
「美香ちゃん父さんがこのように言っているのは、あなたの事が心配だから。
それに何よりもあなたに幸せに成って貰いたいからなのよ。野呂さんの胸の内を試すような事かも知れないけど、これで縁が遠のく様ならそれも致し方ない事でしょう。」
「でもおばさん、今は・・・」
「美香ちゃん、俺聞いたら困る事?でも田所さんが今だから言っておかなければと言っておられるしいや今だからこそって様だし・・・
聞かせてください。どんな事でも、こちらへ来て選挙に成って、それから美香さんと知り合ってからだからまだ半年足らずですが、でも私の心の中にはしっかり美香さんが育っています。揺ぎ無い思いだと自分では思っています。だからどんな事を言われても挫けたりしませんから」
「そうですか、お力強いお言葉を聞かせて下さって安心です。」
「ではお願いします。」
「丁度美香が二十歳のころに両親があの家で殺されたのです。美香が大学へ行っている頃でした。一人子の美香にとって其れは過酷な出来事で辛い思いをしたと思います。
両親が夜中に強盗に襲われ、二人とも斧の様な物で頭をかち割られていました。それが致命傷で即死だったようです。
丁度美香はその日は大学の友達と旅行していて、、この子は家を離れ京都の寮で住んでいた事もあって、それが幸いして殺されなく済んだのですが、両親が殺された事で、それから精神的におかしくなってしまい、随分苦しんだ毎日を過ごしていたと思います。
大学も中退してそれからはあの家で結婚する事もなく、引き籠りの様な生活が続いていたのです。だから貴方が美香に近付き、よく言えば心を開いて下さり、でもあの頃は、つまり選挙の頃は、あなたが泥棒猫に見えて、しきりに警戒していた事を覚えています。
何故なら美香は両親の事もあり、美香は相当お金も持っていて、それを狙われているのではないかと思えたからです。第一貴方は入り人ですし、それに田所一党は妻の春子が議員だからすべて仕切っているわけで、そんな牙城を壊されたくなかった事は確かです。メンツもありました。」
「其れで犯人は捕まったのでしょうか?」
「いえ、未だにわかりません。あの時金銭を幾らかは奪われた事も判っていますが、安枝がいつも後生大事に持っていたネックレスや指輪なども無くなっていました。あぁ安枝って言うのは美香の母親で私の下の妹です。」
「二十年前ですか?其れで犯人は未だ捕まっていないとなると、これからは見つかる事っておそらく無いでしょうね。
凶悪犯罪は時効が亡くなったように法律は改正されたようですが、二十年はきついですね。そのころ犯人の目処は全くつかなかったのでしょうか?」
「全く分からなかった様です。何しろ深夜に起こった出来事だったから、
この地の者は殆ど早くに寝ますから。其れは今も昔も同じで。当時犯人を目撃したような事も書かれていましたが、それも不確実な話だったようです。
ただ奇妙な事があったように当時言われたのが、事件現場に大きな靴跡が残っていたようです。
其れも三十センチもある靴跡が」
「三十センチ?それってかなり大きな人物ではないのですか?」
「ええ、当時は。二メートル近い男に成るような書き方をされていましたが、でもそれは不確定な一般論で。でもそれが唯一の現場に残された情報だったようで。美香、君も何か聞かされている事ないのかな?」
「ええ、むしろ私に聞かせたく無かったから、みんな何も言ってくれなかったでしょう。警察だって、私がショックのあまり寝込んでいた事もあって。だから私は何一つ事件の事はわからないわ。」
「そうだったなぁ。痛々しかったな~」
「そうでしたか・・・よく言って下さいました。あなたが銃を持ってあの家に来られた気持、今なら少しは私でも解ります。美香さんを思うあまりにですね。」
「そうだな、あの時の犯人がまたやってきたような気になってなぁ、野呂さんには失礼な事をしてしまったなぁ。まぁ美香を頼んでおくよ。出来る事なら幸せにしてあげてください。」
「はい、その積りです。」
わずか六千二百人足らずの平田川町、その中で三十数件の長瀬地区、二十年前この田舎の地で美香の両親、田所敏明、安枝夫妻が斧の様な凶器で二人とも頭をかち割られて殺された。
金銭を奪われ、二十年経った今も犯人は判っていない。なんとおぞましい事か、
野呂隆は思いがけない美香の過去に触れた思いで心が整理出来ないでいた。ただ其れは野呂にとって決して悪い話ではなく、あれだけ怖がり脅えていた田所倫太郎が、決して意地悪い人ではなく、心の温かい、まるで身内のように思えた瞬間でもあった。
大きな壁を乗り越えて、晴れて美香と夫婦に成れるように思えて来て、心に踊るものさえ感じた。
二十年前のおぞましい事件の事は、想像しても仕切れないものがあり、その事は隆にすれば想像を絶する出来事でどうでもよかった。
それから元嫁の早苗と諸々の事を弁護士を挟んで解決し、正式に離婚が成立したのは桜が散るころであった。
その桜も満遍なく葉桜になった時、隆と美香は婚姻届を平田川町の役場に提出して目出度く夫婦となった。
「俺、正直に言うけど、今日生まれて初めて幸せに成った気がするよ。これが幸せってものなんだと役場から帰りながら思ったよ。だから悔しいけど、それにちょっと恥ずかしいけど、俺何度も目頭が熱くなって来たなぁ。美香有難う。」
「そう、私もありがとう隆さん」
「まさか、この地へ移住してきて、こんなパッピーな出来事が待っていたとは、神様も意地悪だな。全く・・・だから末永くよろしくお願いします。」
「ええ、こちらこそ」
翌日野呂隆はかって心配かけた町会議員花村徳之進を訪ね、田所美香と夫婦に成った事を告げた。
ところが花村徳之進は、手放しで喜んでくれると思っていた筈が、思わぬ言葉が飛び出した。
「美香さんは正直どのような人で?」
「いやぁそれは入り人の私などより、むしろ貴方が知っておられる筈。ご想像にお任せします。何か気に成る事でも」
「いいえ、私の思い過ごしで、以前ずっと前から気にしている事があり・・・いやぁ私の記憶違いかな?これは失礼な事を」
「どの様な事を気にされていました?」
「いやぁやはり止めておきます。いい加減な事を言っても。せっかくお目出度い話を持って来て下さったのに。」
「先生、もし形だけでも式を挙げるほど良いと成れば、世話人をお願いしても構わないかとお聞きしたくて」
「私が?」
「ええ、正直先生と田所さんとがこれからも力を合わせて、平田川の為に働いて貰わなければなりませんから。
その様に思っています。田所倫太郎さんとも先に美香さんとの事で挨拶に行かせて貰って、蟠りも全て無くなった事からも、そんな事で、当然私の口から今度の選挙では、お二人とも当選されるように話させて頂きます。」
「そうですか・・・あなたがそんなにおっしゃるなら差支えがなければ、こんな私でよかったなら、お世話になった貴方の事だから、喜んでお受け致します。」
花村徳之進から快く返事を貰い、気を良くしながらも、彼が言葉を詰まらせて美香の事を言いそびれていた事を思い出していた。
野呂にとってこれから長い人生を共に生きていこうとする人に、何か言い難い過去があるとは思いたくなかったが、花村徳之進は言葉を濁していた事は確かであった。
美香の両親の悲惨な出来事は、この地区の者なら誰もが判っていて、それ以外に何があるのかと気に成りだした。
しかし隆が家に着いたときに美香が迎えてくれて、瞬時にして美香のもう一つの過去の事など吹き飛んでいた。
其れは田所倫太郎から聞かされた二十年前の事かも知れないと理解していた。
それを裏付ける出来事として、田所倫太郎が猟銃を持って乗り込んできた事実と、頭を下げ、まるで土下座をするようにして二人を祝ってくれた事の一連の動作が、何もかもを忘れさせてくれた。
幸せな生活が隆と美香の二人を包んでいて、長瀬地区には久しぶりの目出度い出来事であった。
そんな事で野呂隆は選挙でも頑張って、それから美香との間で変な噂が流されたが、それもそれなりに理解され、今では長瀬地区のれっきとした住人に成りかけていた。
小さな町で起こる事など誰も直ぐに忘れる。其れは言い換えれば大した事も起こらないと言う事で、至極平凡な時が繰り返されていると言う事に繋がる。
それゆえ美香の両親が二人とも殺された残虐事件は、二十年が過ぎた今なお忘れる事の無い出来事であったと言える。
それは決して忘れてはいけない出来事で、未だ犯人が捕まっていないと言う事実である。
誰も口にしなくなっている事は確かであるが、消えたわけではない。僅か三十六軒の長瀬地区であるが、この中に犯人が未だに潜んでいる事も可能なわけで、その事が当時何度もニュースで報じられたから、未だ拘っている者が可也居るのである。
当時長瀬地区は小さな田舎町であるが、近くに高速道路もあり、道路整備が進んでいて、要所要所にパトロールカメラが設置されていて、実は美香の自宅から外部に出るには、それが車だと間違いなく何処かのカメラの下を潜らなければならないわけで、当時警察はしぶとくそのパトロールカメラに写された事実に汲汲としていた様である。
その結果外部から車で入って来た者が居ない事が、全ての出入りした車を満面なく調べ、その様な結論に達したのである。
つまり犯人は土地勘のある長瀬地区を含む平田川町の者で、カメラの内側の住民と成り、平田川町の誰もが震え上がるような出来事に、身に詰まる思いの日々が続いたのであった。
凶悪犯が実は近くに住んでいると思うだけでも夜道は危険であるとか、一人暮らしの者がまた狙われるかも知れないとか、女、子供は遅くなれば絶対外へ出ないようにとか、警察始め役場からも公共放送が流され、誰もが疑心暗鬼になり、苦しんだ一年近くが過ぎて、次第に忘れる様に成っていたのである。
それでも未だ解決に至らない事で、夜道などで思い出せば、身の毛もよだつ思いに駆られる事は言うまでもなかった。
ただ野呂隆は外部から来た男、まして自分の奥さんの親が当事者であったにも関わらず、二十年前の残虐な事件の事など全く分からないから、然程身に詰まるものなど無かった。
ところがそれから間もなくして花村徳之進町会議員と出くわした時、
「野呂さんお久しぶりで・・・新婚生活如何ですか?楽しく毎日過ごしていますか?」
「はい、おかげさんで。先生にお願いしていた披露宴も中止になり、でも機嫌よくやっていますから」
「其れはよかった。わたし余計な事を考えて取越し苦労でしたなぁ」
「何を?」
「いえ、前にも言いそびれていたのですが、私の思い過ごしだったようです。」
「一体何を?」
「ええ、笑わないでくださいね。実は美香さんは、
いやぁ止めときます嘘みたいな話だから・・・」
「何でも言って下さいね。隠し事は嫌いだから」
「ええ、またの機会に」
「先生は何かに拘っているのですね。美香の事で」
「いえ、もう忘れます。それほどいいと思うから」
「変な先生?奥歯に・・・」
「いやいや、無かった事に・・・では急ぎますから・・・」
❹
奥歯に物が挟まったような花村の言葉を感じた隆は、甚だ意地悪な話だと思えてきて、決して気が良いものではなかったが、対した事ではないように感じていたので、どうでもよかった。
何故なら妻の美香は、四十の歳でありながら目出度く妊娠して三ヶ月目に入ろうとしていた。
そんな現実があったから、今誰が変な事を言って来ても聞く耳を持っていなかった。
隆と美香の間に目出度く男の子供が出来たのは、翌年の可也寒い日に産声をあげた。
名前を隆一と付け元気に育っていた。
更に翌年にはまた妊娠して男のが出来、名前を隆二と名付けた。
美香が高齢出産であった事から気がかりであったが、何の事なく二人の男の子をいとも簡単に産んで、独身時代に味わい続けた嫌な思いを一気に吹き飛ばし、倍返しの様に幸せな毎日が続いていた。
「よかったね。隆さんが誰よりも幸せな感じに見えますわ。事実幸せでしょうね。美香さんもいい人と出会ったから幸せでしょうね。本当に良かった。」
それは花村先生の奥方の紗枝さんが、久しぶりに隆の妻野呂美香さんとスーパーマーケットで出会い、交わした言葉であった。
「誰よりも幸せにならないとね。あなたの場合は」
「はい、ありがとうございます。 お蔭様で」
二人の子供を預かり美香は幸せ一杯の中で日々を重ねていたが、そんな時思わぬ人が美香を訪ねて来たのである。
其れは大学時代に大学の寮で一緒だった仲良しの岩瀬由美と言う女性で、旧姓は里川由美と名乗る女であった。
その友達の岩瀬由美が二十年ぶりに訪ねて来た事になる。
「美香ちゃん、もう二十年なるね。あなたが大学を去ってから、私も辛かったわ。でもよかった。あなたの噂を耳にして、つい億劫に成って、電話も出き無くなっていてごめんね。
だからあの頃から二十年もの間、再三気にしていたわ。どうしているのだろうと、それに病気が治ったかなとか、結婚したのかなっとか、いろんな事思いながら二十年が過ぎていたわ。」
「有難う。私は実は何年か前まで引き籠りの様な毎日だったわ。でも主人に出会って、それで彼の力で生き帰らせて貰って、だから今は毎日感謝感謝で生きているのよ。
とっても幸せだし、二人の男の子にも恵まれたし、病気も精神的なものだったから、彼が私の体や頭から嫌なものを追い出してくれたように思うわ。」
「へぇ~そうだったんだ。良かった。
私取越し苦労をしていたようね。思い切って訪ねて来てよかった。あの頃の仲間の皆に伝えておくわ。
あなたがあんな不幸な目に遭って、誰もが貴方に同情しながらも、誰もが避けたかったようよ。
それは私も含めて」
「申し訳なかったわ。正直言って、私十何年もの間まともじゃなかったわ。」
「何年だったか前にあなたの事聞いたの。あまり良くないって聞かされたわ。
むしろ二度と会う必要がない様な言い方をしていたわ。其れはどの様な意味だったのか、私とあなたとは特に仲が良かったから、彼女気を使てくれていたのだと思うわ。私が辛い思いをしないように。誰かは言えないけど」
「ええ、言っている意味わかります。御免なさいね。」
「でもよかったわ。まさか言っちゃ悪いけど、こんなに幸せに成っているとは思いもしなかったわ。みんな知ったら喜ぶと思うわ。きっと」
「せっかく掴んだ幸せだから、噛み締めて生きていきます。主人のおかげです。」
久しぶりにやってきた岩瀬由美と、和やかに時を取り戻すように美香は、心の中で溢れそうに成っている幸せを感じていた。
「それでお子さんは?」
「ええ二人、でもまだ小さいの。四十に成ってからの子供だから。でも巧く出来た事に感謝しないとね。」
「そうよ、私は結婚して十五年たったけど、子供に恵まれなったから羨ましいわ。寂しいものよ。でも私の事はともかく、貴方本当に幸せに成れてよかったわ。」
「ありがとう」
「確かあなたがどこかへ旅行していて、その時にご両親が殺されたのだったわね、今でも昨日の事のように覚えているわ。
あなたは居ないし、警察が来て何かと応対したのを覚えているわ。旅行から飛んで帰ってきた貴方のあの時の顔を、今でもはっきり覚えているわ。
この人はこれから二度とお母さんともお父さんとも言えなくなったのかと思うと、辛くって辛くって堪らなかったわ。
其れからあなたは大学を去って、帰って来ないあなたの机や椅子と半年近く過ごしたわ。
でも間もなくあなたの噂を耳にして、病院通いをしていて、時には錯乱状態になっている事も知り、会いたかった気持ちも億劫になって、その内貴方の机や椅子や何もかもが無くなり、他の子が入ってきて、あなたの事は次第に遠くなってしまったわ。 それから何年も経った時、貴方の事を耳にして相変わらずあなたはふさぎ込んでいて、姿さえ見なくなってしまったと聞かされたわ。
引きこもりって言うやつだって。だから私にはどうする事も出来なかったの。この儘ではいけないといつも思っていながら、行動に移す勇気と言うか、思いやりと言うか、一歩を踏み出せないでいたの。
でも心の中で常にあなたが気に成っていたのね。其れでこの度こうして勇気を出して来させて貰ったの。良かった!本当に良かった。」
「ありがとうごめんなさい。私はあなたの事を考える事すらしなかったわ。いい人だった事は重々覚えているけど、でも会いたくて会いたくて堪らなかった事も無かったわ。
はっきり言って誰とも会いたく無かった。何故か過去に戻るのが怖かった。それだけ」
顔をこわばらせて美香は俯いたので、察する様に、
「ごめん美香、余計な事を言って、嫌な事思い出させて仕舞って、ごめんね。」
「ごめんなさいね、私子供たちを迎えに行かなければならないから、少し待って居てね。それに構わないなら一緒に夕ご飯でも」
「いいえ、嬉しいけどそろそろ帰らないといけないのだから今日は失礼するわ。また会えるじゃない。」
「そう、よく来てくれたね。有難う。」
「では失礼します。御主人にも子供さんにもよろしくね。」
岩瀬由美は帰って行った。
美香はその時過去が舞い戻って来たようで辛かったが、岩瀬由美を追い出すように帰らせた事で、過去は今迄通り遠くに引き返して行くように思えて、うねり始めていた心の内が落ち着いて行くように感じた。それでも静まり返った二十畳もある仏間の中央にある仏壇の前に座り、そっと目を瞑っていた。
夜になり隆が仕事から帰ってきて、テーブルの上に置かれた土産物の包みを見つけるなり、
「これって京都の八つ橋じゃない。懐かしいね。」
そう言って箱を見つめながら
「俺これ子供のころ好きだったんだけど、滅多とお目にかかれなかったから、親戚のおばさんが態々買ってきて俺んちへ送ってくれた事があったよ。この生姜の香りと歯ごたえが堪らなかったな。これどうしたの?」
「二十年振りに友達が来て、大学の時、同じ部屋だった子よ。仲が良かったから」
「へぇ~其れはよかったね。二十年ぶりか・・・」
「でもそれは私にとって一番嫌な時だから何とも言えないわ。実際会ってみて帰って行く後ろ姿を見つめながら、嬉しくなんてなかったわ。」
「美香にとって色々あった時だからね。でもせっかく来てくれたのだから感謝しなけりゃいけないよ。こんな所に置かずに仏さんに供えてあげて」
「そうね。罰が当たるね。」
「そうだよ。今日初めて会った人は明日からの友って言うだろう。これからまた会えばいいじゃない。」
「ええ、そうするわ。寮で居たころは仲が良かったから、また思い出すと思うわ。」
「早く供えて・・・俺それ本当に好きだから。お裾分けを頂きたいから。」
隆が帰ってきた事で和やかなムードになり、子供たちもせっせとチキンを頬張っている。
人生はわからないものである。
隆が夢描いて結婚した前妻は、知り合う以前から引きずっていた男に妻は翻弄して彼を蔑ろにした。
そしてそれでも未練があった隆は、妻と男を引き裂くようにして平田川の街に移り住んだ。
しかし隆はその地でたまたま行われた町議会議員の選挙の運動に参加して、それまで引っ込みがちの毎日を重ねていた美香と知り合いになり、やがて深い関係に、態々連れてきた妻とは、糸が切れる様に縁が無くなり別れ別れに。
それは妻にしても解放された思いだったのか、あっさり離婚に踏み切った二人であった。
美香との関係を許せなかった田所の長老に、猟銃で脅された隆であったが、隆を猟銃で脅した田所倫太郎さえ、隆が解きほぐし、身内のような関係になって、今ではどこから見ても親戚である。
人の幸せってわからないものだと、隆にしても美香にしても同じ思いになっていた。正に塞翁が馬の如くであった。
❺
それから三年半の月日が流れ、町議会議員選挙が間近に控えたころ、田所春子が前回次席で涙を飲んだ事から、起死回生を願って貪欲に選挙運動を繰り返していた。
其れは隆にすれば複雑で、もともと花村徳之進の応援に終始していて、田所の札を横取っていたのが、今や田所の懐刀に成らざるをえない状態であった。
何しろ田所の親戚に成ったわけだから。
それでも隆は常に考えていたように、田所春子さんが当選して、当然花村氏も当選してと願っていた。そして二人力を合わせて平田川町の為に尽力して貰いたいと望み口にしていた。
ところがいよいよ選挙の日が来る時になって、花村徳之進が大病である事が検査で判る事となり、其れも手遅れの癌であった。
断腸の思いで出馬を残念した花村徳之進は、ベッドで出馬の日を涙一杯にして迎えていた。
選挙が始まったが、隆は時間の許す限り、病院のベッドで横になって、打ち拉がれたように成った花村徳之進をあえて訪ねていた。
朽ちて逝きそうなその姿は、見るに忍びない姿に豹変していて、其れはあと僅かかも知れないと思わせる何もかもであった。
「よく来てくれたね。もう明日は居ないかも知れないよ私は・・・人生とはこんなものかと複雑な思いに成るね。わしはつい最近まで、つまり病院に来て検査をするまでは、どれだけ幸せな男であるかと思っていたが、今はどれだけ不幸な男なのかと嘆いているありさまだから・・・わからんね・・・」
「先生、でも先生は良い人生を歩んで来られた事だけは間違いありません。」
「そうかな・・・終わりが悪ければ何もかも悪いように思ってしまうな。今の選挙でわしは鉢巻きを締め、白い手袋を履いて、颯爽とマイクを手に街中を走りまわしていた筈が・・・」
「先生、辛いなら俺の妻の事を考えてください。
両親が殺された妻の事を。でも今は幸せだって言ってくれています。だから勇気をもって明日と言う日を信じて、病気と戦ってください。負けてはいけませんよ。」
「有難う。隆君には世話に成ったね。そうだな、君の言う通り良い人生だったね。わしは」
「そうですよ。」
「隆君、幸せかい?」
「はい、かなり幸せです。何かとご助言頂きました事、今更ですが感謝申し上げます。」
「そう、でもよかったね。美香さんを大切にしてあげてください。」
「はい。先生、先生は俺に二度も何か言いたいような事あったでしょう、これまでに?あれって何です。今なら言って貰えませんか?」
「言っている意味は分かるけど、でも止すよ、今更。」
「でも俺気にしているんですよ。あれからずっと」
「隆君、私は遠くない時期にこの世から居なくなるから、だから約束して」
「何をですか?」
「だから、美香さんを幸せにするって」
「其れは承知しています。わかっていますよ。」
「ならいいよ、其れで・・・」
「やっぱり言って貰えないのですね?」
「それほどいい。」
「では無理に聞かない事にします。お体に気を付けて頑張って乗り切ってください。田所さんの応援に行ってきます。」
「そうかい。隆君、私投票日まで生きて居られたら間違いなく田所春子さんに入れるよ。約束するから。期日前投票があれば、それでもいい」
「有難うございます。春子さんに言っておきます。喜ぶと思います。」
「ついでに平田川町の事宜しくって言ってください。」
「だめですよ。先生の口で言わないと。そんな弱気ではいけませんよ。では行ってきます。」
「頑張ってください。」
それから投票日を待たず花村徳之進は肺炎を併発し他界した。
隆に気になる一言を残して。
田所春子は前回の屈辱を見事吹き飛ばし、トップ当選して錦を飾った。気が付けば隆は田所選挙事務所で風格さえ表わす存在に成っていて、世の中に吹く風ほど不確かなものが無い様に隆には思えた。
美香でさえあれだけ親戚から厄介者に思われていた筈が、今では二人の子供に振り回されて七転八倒の状態で、常に笑顔の絶えない女になっていた。
「よかったね。みんな隆さんのおかげだよ。」
親戚の者たちは男も女も口を揃えてその様に隆を評価していたので、隆は田所一族にとってまるで宝に思える存在と成っていた。
其れは言い換えれば、田所一族にとって美香と言う存在は決して嬉しくないわけで、引きこもりを続けていた事が、田所の誰からも迷惑がられていたわけである。
其れも長年続いていて、得体の知れない迷惑な親戚であったようで、美香の事は誰も口にする事なく、むしろ隠して隠し続けて、まるで抹殺するような捉え方をしていたのである。
それには一理があった。当時美香は両親が殺された事で放心状態になり、よく雨の日でも傘もささず長瀬地区を放心状態で、ぶらぶらと歩いている姿を誰もが見ていたのである。
その噂はすぐに田所の本家に伝わり、自殺でもされたら困ると言わんばかりの意見が飛び交い、地区の常会では常に話題になった事があった。
近くには池もあり、首を吊るに相応しい木立もいくらでもあった事から、十数年に渡り美香はそんな噂のど真ん中で日々を重ねていたのであった。
だから親戚中で美香は厄介者にされ、本家の春江倫太郎夫妻だけが何かと目を掛けていたのである。
早いもので花村徳之進が亡くなってから一年を迎える事になり、隆は一周忌法要に赴いた。
花村徳之進の奥方紗枝さんは気丈な女性で、町会議員には目もくれなかったが、婦人会の役を持ち溌剌としていた。
まるで繋がれた犬が行き成り紐が外れた様に隆には思えた。顔艶もよく、目も輝いていて、まるで法事には思えないありさまに隆は驚かされた。
まさか・・・その時別れた元妻の事を思い出していた。
あの別れた瞬間を。何の迷いもなく去って行った妻は、むしろ別れを待っていたかのようにあの時思った事を。
大好きな男のもとへ帰って行く少女のように、妻が見えた事は確かであった。あの時夫婦って何?と疑心に満ちた夜であった事は、間違いなかった。 今花村紗枝さんもまるで同じように、何の感情も感じさせない儘で法事を終わろうとしている。隆は紗枝さんの心の内を知りたくなって来た。
「今日はありがとうございました。主人も喜んでいると思います。隆さんの事は生前何度も話し合った事があり、こうして手を合わせて頂いていると主人もさぞ嬉しかろと思います。」
「そうですか、その様に言って頂ければ幸いです。もっと頑張ってほしかったのに残念ですが、でも今更どうにもならず、奥様が先生の分まで長生きされる事を祈っています。」
「優しい事言ってくれるのですね。主人は亡くなるまで日記をつけていて、貴方の事を随分書かさせて頂いたと思いますよ。選挙に受かった事は、あの時は奇跡に思えましたから。
第一この地区は田所の地盤だから、随分無茶な挑戦だったと思いますよ。
でもあなたが頑張ってくださり、見ごと受かったのですから、主人にすれば感謝感激だったと思います。日記帳を見てあげてください。あなたがどれだけ出てくるか、亡くなる前にも何度も言っていましたから」
「へぇー先生が日記を・・・」
「そうですよ・・・見てあげてくださいね。供養だと思って」
「其れってお借り出来ませんか?必ずお返し致します。夜にじっくり読ませて頂き先生を偲びたく思います。無理でしょうか?」
「いいえ、喜んで」
「ではお借りして今夜読ませて頂きます。」
分厚い日記帳を片手に隆は花村家を後にした。
夜になり子供たちも床に就き、妻も「お先に」と言って書斎でくつろいでいる隆に声をかけ部屋から出て行った。
机の上に置かれた分厚い日記帳を眺めながら、隆は思ってもいない過去を知るかも知れないと、正直日記を借りた時点から思い続けていて気が重くさえ成っていた。
かもすればこの日記の中に、花村徳之進が何度か歯に物が挟まった様に言っていた何もかもを、知る事に成りはしないかと危惧していた。
其れでも読む事にした。パラパラと開き、隆が長瀬地区にやってきた頃の事から読み始めた。
何ページかが過ぎたとき、野呂隆と言う文字に出くわして、そこから目を光らせて読む事にした。
「本日長瀬の皆さんに出馬の意向を伝え、快く了承して貰えた。そして今日は野呂隆、野呂早苗さん夫妻が初めて参加してくださり頼もしい限りだ。
彼らはこれまでは都会で暮らしていた様であるが平田川に馴染んで戴き、満足して暮らして貰いたいものだ。
この地に新住人が来て貰える事など考えられなったが、役場の方針で空き家対策が初めて実った事になる。目出度い話だ。
これから同じような話がいくつも生まれる事を切に希望したい。」
「本日とうとう選挙が始まった。
野呂君の計算では勝ち目が十分あると強気であるが、田所一族にどれだけ食い込んだかなど私にはわからない。
ただ野呂君が相当頑張ってくれている事は間違いなく、男なら私も信じるしかない。
突き切るだけか・・・」
「中日に成った。次第に「頑張れよ」と熱狂じみて活きの良い声が掛かる。
これはかなり脈があるように思えてきた。まるで野呂隆のマジックに掛かっているように、みんな選挙に酔っている。
でもそれは実に好い雰囲気である事は間違いない。ただ一番信頼置ける野呂君に、変な噂が出ている事も確か。
野呂君が田所の美香さんと深い関係になっているという噂。田所一族の切り崩しだと彼は言っているが、どうも田所美香さんの家に日参しているようで、気を付けて貰いたいものだ。
奥さんが事務所に来て頂いているのにばつの悪い話である。長瀬に来るまでどの様な関係であったのか私にはわからないが、イメージが壊れないように気を付けて貰いたいが、ここまで来たから今更どうにもならない。
野呂隆君突き切ってくれ!」
「当選した。私はこれから長瀬の為に、いや平田川町の為に奮闘しなければならない。
朽ち果てて行く自治体は山ほどあるが、平田川の未来は夢に満ちた街であらなければならない。
野呂君本当にありがとう。有権者の皆様、必ず平田川を再生して見せます。ご期待ください。」
「野呂君が結婚すると言う。奥さんとは円満に別れたようだが、私の選挙が相当絡んでいる事は間違いない。ただ奥さんも機嫌よく出て行ったからせめてもの救いだろう。お互い又新しい人生を幸せに歩んでくれる事を願うばかりである。
だから野呂君の結婚は目出度い話と捉えていいように思われる。披露宴は中止に成ったのは、別れた奥さんに対する思いやりだろう。
ただ隆君のその相手が美香さんだと聞いて、私は分かりつつも仰天した。田所の人間と思うと因縁めいたものさえ感じた。
美香さんと一緒に成ると言う事は、私には余りにも乱暴な事にしか見えない。
ただ幸せになって貰いたいものだ。
取り敢えずおめでとうと言いたい」
「今日は野呂隆さんと雑談。
一層美香さんの事を口にしたかったが、でも止めておくほど良いって誰かが言っているように思えた。余計な事を言えば、其れは余計になる。子供も出来たようだしやはり御法度か」
「しかし私はどうしても忘れる事は出来そうにない。あの事実を忘れる事など考えられない。何故なら、未だあの事件は解決していないからで、犯人がこの街で潜んでいるかも知れないからである。
田所敏明、田所安枝夫妻が殺されたあの事実が、今なお脈々と心でマグマのように動き続けている事は紛れもない。
そう、はっきり覚えている。
あの日私は薄暗い中で、何時もの様に犬の散歩の準備をしていた。そして勝手口のドアを開け外へ出ようとした時
戸木村さんが椎茸の出荷で市場へ出る所であった。いつもの光景である。
二トン車に椎茸を一杯積んで、荷台は上からシートが掛けられて居て、見慣れた光景に何の違和感も無かったが、でもその時私はその荷台のシートから若い男女が隠れて乗り込んでいる姿を見た。
何が起こっているのか私にはわからなかったが、よく目を細めて見ていると、男の方は見当がつかなかったが、女性は間違いなく田所の美香さんである事がわかった。もたもたしながら車に乗り込んでいた
不思議な事だったが、トラックはすぐに走り出し、木戸村さんはそんな事全く知らないように、私の家の前の道をいつものように通り過ぎて行った。
それでも何事か私にはわからなかったが、その日の午後になって、大惨事が起こっていた事を知った。
其れは田所敏明さん、田所安枝さん夫婦が殺される残虐な凶悪殺人事件であった。
二十年程前私はあの事件が起こった日の朝、美香さんが男と一緒に、木戸村さんのトラックの荷台に乗って、出て行った事は今でもはっきり覚えている。
でも当日の美香さんは、警察には友達と旅行をしていたと成っている。だから何も知らなかったと、
其れも旅行は男友達と大学の寮から出ているので、同室の里川由美さんは同じ事を証言している。ただ行先は美香さんしか知らない様であるが・・・
私は毎日のように警察が来て検証をしている姿を見つめながら、あの朝見た事を口にしたかったが、万が一間違いであればとんでもない事になり、両親が殺された一人娘に疑義が圧し掛かれば、ただ事ではないと思い、あの時は黙って何もかもを静観する様に努めていた。
それから一日でも早く犯人が見つかるように願っていたが、外部と繋がる道のパトロールカメラには、不審者も不審車両も一切写っておらず、身近な者の犯行ではないかと、警察は見解を述べ、町中に異様な空気が漂っていた。
もし美香さんが何かを知っていて、その時見たトラックの荷台に隠れて逃亡したのなら、カメラには映って居ないだろうと思えた。
あれから二十年程が経ち、未だ犯人は判らないままで、迷宮入りしそうな感じに成っている。
美香さんも隆君と夫婦になり、今は幸せを掴んだようである。たとえ事実がどこにあっても、美香さんが今幸せである事は、更なる事実なのであり、何よりも優先されるのである。
だから私はこの様に書き記しながらも、この件に関して、墓場まで持って行くのが妥当かも知れないとも思う。
とは言うものの、さてどうする・・・犯人はどこかに居る・・・これでいいのだろうか・・・これで迷う事なく人生を全う出来るだろうか?」
日記と思われないほどの長い文章で在った。
妻美香がトラックの荷台に乗り込んでシートの下に潜り込み、身を隠して男と逃亡する姿が目に浮かんで来て怖くさえ成ってきた。
まさかと思いながらも、これまで花村徳之進は二度もこの話をしたかった事は間違いない。
おそらく真実を、この長い文章が言い表しているように思えて来るのは当然だろう。
❺
言い換えれば花村氏は二十年余りの間、この事を気にし、拘り苦しんでいたのかも知れない。
そして忍び寄ってくる犯人像を描きながら、殺気すら感じていたのかも知れない。
更に言い換えればこの三十六軒足らずの長瀬地区で、気が狂ったような振る舞いをしていた美香を、どれほど気にしていたか計り知れない。花村氏だけが心の中で必死に葛藤して居たのだろう。二つの可能性から・・・犯人か全く関係ないのか・・・
隆が日記帳をさらに読み続ける気力はどこにも無かった。隣りの部屋では、すやすやと眠る子たちも妻も、まるで嘘の世界ではないかと思え、両親を殺して逃亡している娘の姿が現実ではないかと思えてきた。
結局隆は朝まで日記を読み続けて、二十数年前に起こった夫婦惨殺事件に触れた場所を折り曲げ
丁寧に切り取った。
奥様にばれはしないかと思いながら、彼女が日記帳に目を通していない事を祈った。
万が一目を通していたとしても、証拠となる部分は剥ぎ取り、こちらで保管するからそれでいいと考えていた。よもやコピーなどする事は考えられず、運を天に任せて日記帳をそっと奥さんに返す事にした。
翌日早速花村家を訪ね奥様に思っていた通りに実行して、その時奥様が日記の中は全く見ていないと口にしたので、安心して隆は花村家を後にした。
隆は家路につきながら、「問題は我が家にあり」と身に迫るものを感じながら、これから美香と言う妻とどの様にして付き合って行くべきかと、心は相当重く成っていた。
自宅に帰るなり、美香の友達に貰ったあのお土産の事を思い出し探していると美香が、
「何を探しているのよ?」と其れで「いや、あのやつはしって残っていないの?」と返したら、「まだ少しあるでしょう」と帰ってきて、
「あの八つ橋美味しかったね。彼女は京都方面なの?」と聞くと、
「そうよ京都と言っても日本海側だから随分遠いけど、でもいいところよ。宮津と言ってね。海が側にあり、海鮮のレストランが側に在って、抜群よ」
「行った事あるんだ美香は?」
「ええ、たった一度きりだけど、だって二年間大学に居ただけだもの。それで何?」
「いや、何って事ないけど。」
「由美ちゃん私を見て幸せそうだねって言ってくれたわ。嬉しかったわ。でも大学時代のあの頃も、由美ちゃんとわいわいがやがや騒いでいたから楽しかったけど、でも同じ頃が一番辛かったから思い出したくないわ。遠い過去よ今では・・・」
「でもお父さんもお母さんも殺されて、犯人の事今でも憎いだろう?忘れる事など出来ないだろう?」
「隆さん、その話はこれっきりにしてください。二度と言わないで・・・」
「解った、御免。余計な事言って。」
「お願いします。二度と触れないように、解かって」
「わかった、ごめんな」
一気に緊張した空気が二人の間に漂って、隆はばつの悪い思いになり言葉を失くしていた。
それでもやはりあの殺人事件の真相を知るべきだと、心の中に拘るものがある事を、あの日記帳を覗き見した時から消える事はなかった。
そんな心境が潜在意識の中に在った隆に、思いがけない出張を言われ、京都福井と金沢富山の北陸三県で拡販の仕事が舞い込んで来て、その時あの美香の友達と言う岩瀬由美に会う事を誰に告げる事なく企てていた。
場所はわかっている。宮津と言う場所で海があり隣に海鮮レストランがある所、それだけで十分であったが、何分美香の記憶は二十数年前のものであるから、隆は兎に角当たって砕けろと言う構えでいた。
そして京都へ行ったときに宮津まで足を延ばし、岩瀬の旧姓の里川の家を探していた。
海鮮レストランは今は漁師の作業道具入れになっている事もわかり、また里川の家も訪ね、其れで岩瀬に嫁いだ由美の現在の様子を知る事ができたが、京都ではなく福井の鯖江に嫁いでいて、むしろその方が都合よく内密で由美に出会う事が出来た。
「ごめんなさいね。こんな所まで押し掛けて来て、
でも私としては美香の両親を殺した犯人を見つけてあげたいのです。縁あって結ばれた以上、是が非でも探したいのです。其れも愛情の内かと、
警察も今は全く探す事は無いでしよう。凶悪犯罪に関して時効が無くなったとしても、捜査はとっくの昔に打ち切っているでしょう。
でも犯人は何処かで生きているのです。死んでいる事を願いますが、でも二十年余りでは物理的にまだ死んでいないと思われます。
斧の様な物を振り上げて、二人の頭をかち割ったようですから、年齢的にも若い人が想像出来るわけで、まして近くで住んでいる人かも知れないのです。」
「解りました。出来る限りの協力致します。と言っても私の様な者ではお役に立てるかは」
「それであなたにお伺いしたいのは、美香の両親が殺された時、美香はどの様にしていたのか知りたいのです。」
「其れは警察の方が来られて話さして頂いたのは、美香が志野村さんって方と旅行をしていて、どこかへ泊まっていて、翌日の午後になり帰って来た事を伝えました。
事件はその日の昼頃に発見されていて、警察は彼女と連絡が付かなかったようで、こちらの寮にやってきて、戸惑っていた事を覚えています。
それで何やかやらと聞かれましたので、答えていたと思います。何を言われ何を答えたのか今では覚えて居ませんが、美香の事や志野村さんの事など聞かれたと思います。
どこへ行ったのかとも聞かれましたが、私はそこまでは知らなかったので、とにかく前の日から泊りがけでどこかへ行った事だけを伝えた様に思います。彼女、旅館に泊まるとか言っていましたから、行き先として鄙びた田舎の様な所だったかも知れません。」
「二人は相当深い関係だったのですか?」
「そうだと思います。美香に志野村さんを引き合わせて貰った事がありますが、私はあの様な人は苦手でしたが、美香は結構気に入っている様でした。」
「どうしてあなたは苦手だったのですか?」
「う~ん生理的にって言うか・・・はっきり言えません。多分合わなかったのでしょう。なんか乱暴な感じで」
「それであなたから見て、美香はどのように映っていましたか?」
「性格ですか?」
「性格って言うか、総合的に」
「待ってください。旦那さんは美香の事をどうしてそんな風に聞かれるのです?まさか美香の事をお疑いなのですか?」
「いえ、何もかもを知りたいからです。例えば美香とその志野村って人と、貴方から見て仲が良かったように見えていても、あなたは志野村と気が合わなかった様に肌で感じたと、先ほどおっしゃいましたね。其れは美香の両親にも同じ事が言えるわけで、例えば二人の関係を大反対していたとなると、その延長線上に、思うように行かなくなって、きつく反対され、両親が胡散臭くなって来て・・・消してしまいたいとか・・・稚拙で身勝手な人物ならそんな事だって考えられるわけで・・・これは飛躍した例ですが」
「解りました。でも私からこれ以上の何も引き出すものは無いと思います。」
「そうですか。私もこの度はこちらで仕事がありますので今日はこれで失礼しますが、またの機会に何かがあればまたお伺いするかも知れません。再度寄せて頂きます。」
「そうですか・・・美香の為なら構いませんよ。」
「ただお願いがあります。今日こうして来させて貰っていろいろお聞きしましたが、美香には内密でお願いしておきます。」
「美香に内密で?」
「はい、彼女と夫として、付き合う事で一番触れてはいけないのは、彼女を過去に引き戻す事なのです。
一瞬にして血相を変えて黙ってしまいます。怖いのでしょう。両親の顔が浮かんで来るのでしょう。」
「解りました。お約束致します。」
「無理かと思いますが、志野村さんの写真とか御座いませんか?」
「あるかも知れません。三人でゲームだったかカラオケだったか、付き合わされた事ありましたから。
プリクラを撮った事あったように思います。待ってください。」
隆は志野村の写真を預かり岩瀬由美と別れ慌ててホテルへ戻った。
『事件の遭った日、或は前の日、美香は志野村とどこへ行きどこで泊まっていたのか?』
それを調べる必要があるように思えてきて、次の手を考えていた。でもそれを考え乍ら、脳の半分は美香との間に大きな亀裂が生じるかも知れないと思えてきて、正直苦しさもあった。
妻の過去を知るような無粋な事はしたくはない。されどそれが殺人事件に係わっているなら、その限りではない。
両論が蠢く中でメモ用紙に美香と志野村の名を書き睨めっこしていた。
昼に出会った美香の友達の岩瀬由美から、更に聞き出す事が無かったか、お浚いする様にしてお茶をすすりながら一日を振り返っていた。
美香が当時警察に言った事は、どのような内容であっただろう?
そして岩瀬由美が警察に言った事に嘘などが含まれていなかっただろうか?つまり美香に頼まれて嘘のアリバイの様なものを考えていないか?
当日美香はどのような手段で志野村と出掛けたのか?もし実家に帰っていて、それが車でなら、必ずカメラに映っている筈、それは無かったのだろう。
亡くなった花村徳之進さんは、美香を間違いなくあの事件の朝に見たと日記に書いてあるが、その話に間違いはないだろうか?或は其れは美香によく似た若い男女で、薄暗い早朝だったようだから、見間違っているのではないだろうか?
まさか日記が作り話ではあるまいと思うが・・・
隆はますます混迷する現状に、頭が割れそうになってきて、二十数年前の出来事が、さらに盤根錯節の域に突進して行くように思えてきた。
そこで出た結論は一番早道を進む事であった。
つまりそれはどんな方法よりも勇気のいる行動であると思われ、腹を括ってかからなければ、何もかもが吹っ飛んでしまう様な覚悟の居る方法であった。
其れは、美香本人から何もかもを聞き出す事で、それは夫婦としてタブーな手段でもあった。
隆が北陸から帰ってきて、その姿を見つけ行き成り子供たちが纏わりついてきて、更に美香の顔を見ながら
『今は何も言うべきではない』と強く感じていた。
翌日隆は警察へ赴き、
「私、実は縁あって田所美香さんって方と結婚したのですが、実は当時は深く考えずに五年ほど前結ばれました。しかしその間に色々な事が判ってきて、結婚に何ら躊躇いはなかったのですが、今に至って縁あって結ばれた以上、この儘では夫として行けないと思うようになり、徹底的に調べたく思っています。」
「それはどのような事でしょうか?掻い摘んでお話し頂くほど・・・具体的に仰って下さい。」
「解りました。実は嫁の両親が斧の様なもので、頭をかち割られて殺された事件の事です。」
「えっ頭をかち割られて?」
「はい、二十年程前の事ですが、未だ犯人は検挙されていません。法律が変わり凶悪犯罪に関しては時効が廃止された事は聞いています。ですから今日はその時の何もかもをお聞き出来ないかと思いまして」
「その事件は聞いたことはあります。其れで何か掴んだ事とか気になる事とかあるのでしょうか?それとも奥さんが被害者だから」
「後者です。私は亭主として何かを掴んで警察に報告し、それで動いて下さらないかと考え、其れも妻に対する愛情の一つではないかと考え」
「それで被害者のお名前は?」
「田所敏明と田所安枝です。」
「なるほどね。たどころとしあき、たどころやすえさんですね・・・申し訳ないですが、今パソコンから詳細を打ち出しましたが、確かに未解決な凶悪事件ですね。
相当残虐な事件だったようですね」
「ええ、だから妻は私と一緒になる本の前まで事件が原因で、引きこもりに成っていて、暗い人生だった様ですよ。今は幸せに暮らして貰っていますが」
「お気の毒ですなぁ未解決ですなぁ」
「其れで今でも捜査は継続されているのでしょうか?」
「はっきり言って、他の事件でパクった犯人の取り調べで、このような事件に係わっていないか調べる程度に成っています。
それでも結構検挙するわけです。何故なら悪い事をして食っているような輩は、何度もその様な事を繰り返すからです。
同じような手口で繰り返すから、凶悪犯人はまた凶悪な事件を起こす事が多いのです。ただこの事件は未だ解決に至っていない様ですが」
「それで私の様な者が更に詳しい事を知りたいと考えたなら、どのようにすればいいのでしょうか?」
「其れは・・・例えば退官した警察官に聞く事ですね。当時この事件を担当していた人物に・・・それを私が言って良いものか・・・第一知りませんから」
「それじゃぁこちらで調べさせて貰って何とかします。おそらく話を聞いて下さり、ご理解もして頂けると思います。
未解決で終わると言う事は、刑事さんにとって屈辱で、とても嫌なものだとドラマなんかでやっていて知っています。」
「まぁそうですね。確かに」
警察を後にして隆はある事を思いついてた。其れは退官した刑事を紹介して貰う事で、勿論其れは現役町会議員で、今回の選挙でトップ当選した親戚の田所春子氏にであった。
隆は旦那の田所倫太郎に猟銃で脅された事があったが、その後倫太郎が頭を下げて来て仲直り出来た事もあり、隆にとって春子氏にお願いする事は容易であった。
「春子先生、お願いがあります。」
「やめてよ!あなたが私に先生なんて言うの。おばさんって言って、それほど気が楽だから,だって深い親戚じゃない。」
「それでいいのですか?恐縮です。」
「それで何?」
「実はあの事件を担当していた刑事さんを知りたいのです。」
「あの事件って美香の・・・」
「ええ、あの事件を担当していた刑事さんで退官した方を、おそらく断腸の思いで退いたと思われます。ですからその方に何もかもをお聞きしたくって無理でしょうか?」
「其れはわからないけど、美香がそう言っているの?だってあなたには関係ない話なのよ。田所家の事よ。」
「でも私の妻の家族の出来事です。紛れもなく」
「其れはわかるけど。放って置けないって事なの?」
「そうする事は美香に対する愛情の一つかと、それで知った以上気になって、
でもこの話は美香には言っていません。寧ろ伏せています。彼女は過去に戻る事を極端に嫌っていますから。
だから自縛を取り除いてやりたいと思う気持ちと、過去を消してやりたいと思う気持ちがあるからです。そうなってこそ本物の幸せに成れるのではないかと」
「つまり犯人を見つける事に繋がるのね?
でもそれって警察でも未だに・・・何か新事実でもあれば少しは動いてくれるでしょうが・・・」
「無理でしょうか?」
「わかったわ。とりあえず聞いてみるわ。近々警察に行く用事が在るから、丁度今署長とお話しする用事があるから都合がいいわ。何とかなると思うわ。」
それから間もなく隆は元刑事の野平順平を紹介された。
日曜日の午後に約束をしていて野平家を訪ねた。
「事情はお聞きしました。奥さんのために一肌脱ごうと思われるのですね。其れはいい事だと私も思います。人生で悔いが残るって事は一番体に良くないからね。其れで何から話せばいいのかな?」
「当時犯人像が絞られていたのでしょうか?それにで目撃者とか?」
「全くなかったね。ただ犯行から言って、かなりの腕力がある者であると言う事と、相当被害者に怨みがある人物かも知れないと、然し利き手と言っても傷具合から左とも右とも取れたから、目撃者も全く居なかったね。相当洗ったけど。」
「つまり手がかりに成るものは何も無かったわけですか?」
「そうだね、今だ未解決に成っている事案だから。」
「それで私の妻の事ですが,美香です。当時娘の美香は京都の大学へ通っていて、住んでいた大学の寮も京都の左京区にあり、その時彼女はどのような言い方をされたでしょうか?知る限りでは男友達とどこかへ旅行に行っていたと聞いていますが、其れは大学の寮の同部屋の里川由美さん、現在は岩瀬由美さんから最近ですが聞いています。ただ美香がどこへ旅行に行っていたかは知らないと」
「それであなたは奥さんの事まで調べているのですか?手帳には美香さんは鳥取の方に行っていたように成っていますね。レンタカーで、レンタカーは京都市内で借りていますね。其れで旅館には泊まらず車で二人で寝てしまったって」
「其れはしっかり裏を取られたのですね。」
「おそらく、すべて私が担当していた訳ではないから、
ただ美香さんはあくまで被害者の家族ですよ。部屋中が血の海に成っていた現場は惨劇そのもので、美香さんに関しては、あくまでお気の毒と言う言葉しか無かったですから。」
「まさか間違っても疑いをかける状態ではなかったと言う事ですか?」
「そうです。其れに帰ったと言う証拠もありませんでしたから、其れはそれからのパトロールカメラなどを精査して判っていましたから」
「それって美香が車で出入りした証拠が無かったからですね。カメラに映っていなかったから」
「ええ、仰る通りです。」
「それで当時、町内部者の犯行ではないかと位置付けられたように聞いていますが?」
「その考えが何よりだと成りましたね。何しろ出入りした不審者など居なかった訳ですから」
「お金とか盗られていなかったのでしょうか?」
「いや、数万円は盗られたと思います。田所さんの家柄から考えて」
「其れははっきりしないのですね?」
「そうですなぁ大なり小なり旦那の財布には何も入っていなかったですから。おそらく盗られたと考えました。」
「金庫とかは?」
「其れは手つかずで可也の金や株券が入っていました。」
「ではお金が目当てでは無かったのでしょうか?怨恨とかその線だったのでしょうか?」
「解りません。お金が目的なら金庫の金も奪うでしょうね。ただあの残忍な現場を思うと、お金が目的であったとしても、何かトラブルが起こったとも考えられるのです。
つまり感情的に成って言い争いになり、犯人を怒らせたとも考えられます。ただしこれは金銭目的の犯人像ですが、それが怨恨なら恨みつらみを一気にぶつけるわけですから、夫婦の頭をかち割って血が噴き出すのを見ながら、犯人はスッとしたでしょうね。積年の恨みを晴らして」
「積年の恨みを買うような何かが、美香の両親に在ったのでしょうか?」
「其れは調べましたが全く無かったように結論付けています。品行方正な夫婦であったと」
「それならやはり強盗殺人の線ですね。」
「おそらく。ところであなたが態々こうしてお越しなのは、何か気に成る事を掴んでいるのではありませんか?もしそうなら言って下さいね。何故なら凶悪犯人は未だどこかで暮らしているからです。身近に居るかも知れませんから。鬼畜のような犯人が、如何です?」
「いえ別に、何も在りません。」
「そうですか・・・でも警察が躍起になって長年捜査してきた事案です。盤根錯節って言うか大変酷い事件でした。悔しいです。解決に至らなかった事が・・・」
隆はこの際花村徳之進が書き残した日記を、元刑事野平順平に見せてあげたかった。
❻
其れでどのような反応をするか見たかった。でもそれは妻美香の運命を左右するものである事は言うまでもない。地獄へ突き落すような事かも知れない。
喉まで出そうに成ったその思いを飲み込んで家路についていた。
自宅へ帰った隆は、書斎に潜り込むように身を隠して、引き出しからそっと花村徳之進が書き残した日記の引き裂いたページを見つめていた。
美香に間違いないと断言している事がやたらと引っ掛かり何度か読み直して、
「花村先生の見間違いであって貰いたいものだな」と心で叫んでいた。
そんな隆の態度が気に成ったのか美香がすぐに書斎に入ってきて、
「どうしたのですか?手も洗わずに、余程急いでいるのですね?」
そう言って笑い顔を作って隆を見つめた。
「いやぁちょっと気に成った事があってそれで・・・」
「そうですか、でも手も洗って鵜飼もして」
「美香は子供たちに同じ事を言っているから、俺も子供に見えてくるのじゃないのか?」
「かも知れないわね。大して変わらないからですよ」
「そうかもな。わかった美香の言う通りにするよ」
隆は机の上に出していた日記の数枚をまた引き出しに仕舞い、美香の言う様に手を洗う為に洗面所に向かった。
手を洗いながらこれからこの様なやり取りが再三起こるのだろうと思うと、情けなくもあった。
一つ屋根の下で暮らす妻をある意味疑ってかからなければならない事は、果たして夫としていいのだろうかと、道義的に許される事なのだろうかと、苦しくもあった。
それから数日が過ぎ隆は役場に用事があり、用事を済ませて帰りかけると、後ろから元気な声で田所春子おばさんが、ニコニコ笑って手招きをしてる姿が目に入って、
「あっ春子先生」
「やめてよ、おばさんって言って。前にも言ったでしょう。」
「はい」
「それで今日は何?」
「ええ、ちょっと野暮用で」
「それでこの前言ってたの巧く行った?」
「はいお世話に成りました。ちゃんと待っていて下さり至極丁寧に応対して頂きました。でも犯人に繋がる事無く、退官された事を悔やんでおられました。」
「そりゃそうでしょうね。誰だって同じ気持ちと思うわ。犯人がすぐ近くに居てるかも知れないと思うと、逮捕されない限り平田川町はいつまでもあの事件を引きずって行かなければならないと思うわ。」
「そうですね」
「隆さん、あなた今度からは私の事おばさんて言ってくれるように、これから二人で食事でもしてお話ししましょう。だからこれからはおばさんだから・・・わかった」
「・・・」
「さぁ言って、おばさん御馳走に成りますって、さぁ早く」
「はい、おばさんごちそうになります。」
「そう其れでいいの、これからずっとよ。」
「はい、おばさん」
「その調子よ、断然それほどいいわ。あなたが可也近くなった気がするわ。」
「そうですね。俺も嬉しいです。」
「じゃあ私もあなたの事隆君って呼ぶわ。」
「はい。嬉しいです。」
和やかに食事が続き、春江の口から、
「其れであの日何かめぼしい事わかったの?」と、言って隆の目を見た。
「いえ、先の長い話でしょうね。警察が二十年以上も捜査していても判らない事件ですから、其れでおばさん、俺実はあの事件の事何も知らないのです。第一美香に聞けば良いのだろうけど、それは出来ないし、でも美香の親の事だから解決出来るものならしてやりたいし、ただ美香に聞く事は辛い過去を思い出さなければならないから、ですからおばさんが話せる範囲で良いですから、聞かせて戴けないでしょうか?」
「それで何を知りたいの?」
「全部です。何もかも」
「そうね、差しさわりなんかの何もないけど、私だって辛いから、だから貴方の口から具体的に聞いて」
「じゃぁお聞きします。お二人が殺されるまではどの様な夫婦でしたか?」
「そうね、あの二人はその事も大事ね。
敏明さんは田所家へ養子に来た事は知っているわね?」
「いえ全く」
「そうなの・・・そこから始めなければならない様ね。敏明さんがまだ青年のころ二十五歳を超えた頃だったか、山仕事をしていて大きな木を切り倒す仕事で、ところが冬の日に足を滑らせて引っ繰り返り、そこへ切っていた木の枝が倒れて来て、彼の右腕の肘とくるぶしの間に倒れて来て、其れで利き腕の右腕の手首から少し上の所から切断しなければならなくなったの。今ほど便利が良くなかったから手遅れになって・・・
其れで仕方なく病院で義手を作って貰い、何とか頑張ろうとした様だけど、何事も上手く出来なくなって、一人子だったけど、経済的に苦しかったようで、当時世話人の様な人が居り、主人の下の妹と見合いをしたの。
田所家は資産があったから、妹たちにも養子さんを貰い、分家して田所の姓を継がせたの。
敏明さんは自分の手の事を考え、又経済的にも納得しているように私たちには見えたけど、でも安枝さんと一緒に成ってからは、可也荒れていたように聞いているわ。おそらく切ってしまった手が言わせていたのでしょうね。
乱暴な言葉を使うようになり、安枝さんも随分我慢していたと思うわ。
でも美香ちゃんが出来、大きくなってきて、次第に大人しくなって来たと思っていたけど、実際はわからないわ。敏明さんの実家は小川って言うのだけど、今は既に無く荒れ地になっているわ。
ただ二人が殺された時は、二人とも健在で、泣き崩れるお母さんの姿は今でも忘れられないわ。
たった一人の男の子を養子に出してしまった、申し訳ないと言う積年の思いが、あの姿だったと思うと堪らなかったわ。同じ女として。まして事故でも病気でもなく逆を見たわけだから」
「一人子だったのですか・・・其れなら美香に男の兄弟でも居たら、また違っていたかも知れませんね。親父さんも」
「でも敏明さん、不安だったと思うよ。手首のない自分の姿をいつも気にしていたから、将来の事など読めなかったのでしょうね。不安で不安で、だって自分で稼いだお金などしれていたから」
「成程ね。悔しかったんでしょうね。」
「そう、だから気が荒くなって、安枝さんに当たったりしていた様よ。寧ろ自分自身に当たっていたのかな。」
「其れで突然殺されてしまった。母も・・・」
「そうね。むごい話ね。何もあの二人があんな目に遭わなくっても良いようなものだけど・・・」
「でも正直親父さんは乱暴な言葉を平気で使っていたなら、それは母だけでなく、誰にもその様な態度ではなかったのでしょうか?
何故かって言うとね、先日元刑事さんと話をしていて、親父さんか母かは判らないですが、犯人を怒らせたのでないかと言っていた事を思い出しまして、つまり言い争ったのではないかと、其れはあの事件があまりにも残忍な手口だったから」
「其れはわからないけど、あり得る話かも知れないね。只誰だって普通じゃ居られないと思うわ。犯人は斧の様な物を持って犯行に及んだようだから、刹那の間に起こった事だと思うわ。」
「親父さんはどなたかに嫌われて居なかったですか?母も?」
「嫌われては居なかったと思っているけど、何故なら私たちには本家とか分家とか関係なく、穏やかに付き合っていたから。主人も敏明さんの事を常に案じていたから。美香ちゃんも一人子で寂しかったでしょうけど、すくすく育って良い子に成っていたわ。大学へ行ってからはあまり知らないけど。でも時々帰って来た時は、元気な顔を見せてくれていたから問題なかったわ。」
「でもそれでは何故って事に成りますね?」
「だから警察も解決出来ないと思うわ。要するに波風が吹いている家族で無かったから、全く問題が無かったから。殺される様な事が考えられないから」
「考えられなかった・・・でも殺されてしまった・・・
俺、結果が出ないかも知れないけど、許される限り追求してみます。美香と一緒に成った夫として、これを運命と考えてでも、美香が本当の幸せに辿り着くように」
「でも無理をしないでね。過去を弄る事が最善かは判らないから。」
「ええ、それで話は変わりますが、おばさんが初めて選挙に出られたのはいつの事です?」
「いつって、其れははっきり覚えているわ。敏明さんと安枝さんが殺されて、やっさもっさしていて、その何か月か後に出馬が決まったの。
婦人会の郡の支部をしていた私に、白羽の矢が立ったって言うか、有力者から声が掛かって、それまで田所家は政治に拘わらない一族だったのだけど、その時は主人からも言われ、断れなくって、其れで出馬したら下から二番目で当選したわけ」
「その断れなかった有力者って何方で、今でもご健在ですか?」
「ええ、九十にも成っていると思います。現役を引退し隠棲の如く暮らされています。曾孫さんに世話してもらって」
「そうでしたか。」
「でもそんな事聞いてどうするの?」
「生きていればこそ事細かに思い出せますよね。
親父さんのように突然命を他人に断たれれば、そこで何もかもが切れて仕舞うのです。
つまり親父も母も殺される理由が何処かに在るように思えているのです。
死んでしまったから、誰も説明など出来ないですが、だから徹底的に掘り起こさなければ、真実が見えて来ないのではないでしょうか。
そのおばさんに選挙に出るように説得された有力者って方に、お会いする事出来ないでしょうか? 何故おばさんが選挙に出なければならなかったか?倫太郎のおじさんなら判るでしょうか?」
「そう、徹底的に調べたいのね?じゃぁ一日も早く 篠塚兵衛さんに会って来たら」
「篠塚兵衛さんですか?」
「ええ、さっき言った有力者で、九十のお歳の方よ、お歳がお歳だし、万が一の事があっても困るから、
それに主人にも話しておくわ。」
「はい、おばさん。ありがとう御座います。其れで最初に言いましたように美香には内密で」
「解っているわ。頑張ってあげて。いずれ美香ちゃんが喜ぶと思うから」
「ええ」
実りある一時を過ごせたと隆は感じ、大きく頭を下げておばさんを見送った。
❼
おばさんは颯爽と車を走らせ消えて行った。
『何故殺された二人も?何故金庫は無事であった?何故二人が殺された直ぐ後で、おばさんが選挙に出る事に成った?田所家は政治に関心が無かった筈が?そして美香があの朝に実家に帰っていたと言う事は間違いなかったのか?真相を暴く事は美香が地獄へ行く事になり、其れは我が家族の崩壊かも知れないが・・・』
戸惑う事に成った日記を残した花村徳之進を恨みたくなっていた。
『あんたの思い余ったものを俺が引き継いでしまったのですね。日記を恨みますよ。花村さん』
冗談半分で笑いながらそのように花村徳之進の事を回顧していた。
それから数日が過ぎたときに隆は、村で長老の篠塚兵衛さんを訪ねていた。
お邪魔するなり酸素ボンベを横に置き、鼻に刺さった透明の管を見つけ、申し訳なかったが、然程大層にするでもなく、むしろ退屈凌ぎに嬉しそうに迎えてくれてほっとして居ると、
「なんか春ちゃんの事でお聞きに成りたいと?」
「ええ、随分昔の事で恐縮です。」
「いいですよ。体はこのような有様だけど、記憶はまだまだ健在ですから、ただその様に思っている事が、実は病気に気が付いていないだけかも知れませんが・・・何なりとお聞きください。」
「では手短に。それで春子婆さんが初めて選挙に出るようになった時の事を、お聞きしようと思います。」
「其れは一口に言って、とんでもない奴が出る事に成って、私らは慌てたのですよ。貴方の住んでいる長瀬地区から、杉原良助って男で。その男は親の代から他人の木を売ったり、木材市場でごまかしたり、兎にも角にも風上に置けない男で、それが選挙に出るって成って、その男を潰すために長瀬には可也親戚が居り、力もあり、更に常識のある人を急きょ出馬させようと話し合い、其れで郡の婦人会の役員をしていた春ちゃんにお願いして、それが始まりでした。」
「それってどなたかにお聞きしましたが、選挙に出ようとしても田所一族が居るから潰されたと言う話かも知れませんね。どこかで聞きました。」
「それでしょうね。」
「成程ね、其れでその方は今は?」
「いやぁ出て行きましたよ長瀬を。
結局。実に悪い男だったと私は解釈しています。田所さんも選挙に出る事納得して下さったから、同じ思いだったと思いますよ。
あの時は平田川町にとって、私は大ピンチだったと思いますよ。あんな男に牛耳られていれば、この街もどう成っていたか・・・そうでなくっても財源も無く過疎化に向かっているのに」
「それでは家族もみんな居なく成ったのですか。」
「ええ、奥さんも子供さんも、あんな父親の元に生まれると気の毒ですなぁ。みんなが苦労する事に成るから」
「でも選挙に出るからには、それなりの票を集める手筈だったのでしょう?」
「其れはわかりません。ただあの男は無投票を狙っていたのですよ。利権を掴む為に。それが駄目なら札を売る積りだったかも知れないし、何かおいしい話を掴んでいたかも知れませんから、悪は悪なりにくっ付く輩も居る事も間違いないですから」
「それでここを出てどちらへ行かれましたか?」
「解りません。ただ選挙の頃には居なかったかも知れないね。それに息子は息子で、一旦家を出たら三日も四日も帰らなかったり、言わば札付きのような所があった様ですよ。今何をしているか知りません。」
「其れでよく選挙に出れたのですね。」
「いや、だから潰されたのですよ。出る前に。私らが動いて、選挙に通って長瀬や平田川町の為に働くなんて、微塵もなかったと思いますよ。」
「相当悪みたいですね。実は私は妻の美香の立場を思い、父や母を殺した人を見つけたいのですが、この杉原良助って男は事件には関係ないでしょうか?」
「それは全く分かりません。田所さんの身内から選挙に出たからって、怨む様な事無かったと思いますが、そんな事で怨んで居たら、たまったものじゃないですからね。斧を振り上げて私に一票入れって言うのですか・・・他にも何人も立っていますからね。」
「関係ないと思われますか?」
「ええ、ただ出馬を残念した事は、それなりに辛かったとは思いますが」
「成程ね。では息子さんに彼女が居なかったでしょうか?」
「其れは判りません。二十年も前の事ですから、それに家を出たら三日も四日も帰って来ない男でしたから、その可能性は十分にあるでしょう」
「でもこんな小さな田舎町だから目立ったでしょうね?そんな事していたら」
「でも札付きにはそれなりの仲間が居て、結構楽しくやっているものですよ。だから震災でも起これば彼らが役に立ったりするのですよ。
どこでも寝れるし、プライドも無いから、変に飾らないから」
「成程…結局、何所にも無いですね、父や母の事件に繋がるものは・・・」
「う~ん、むずかしいなぁ」
「そうですか。長らくお邪魔致しました。色々お聞かせ戴いて有難う御座いました。」
❽
隆は長い一日に成ったように思え、どっと疲れが溜まっていた。酸素を吸引している姿を見ながら、追求するようにしなければ成らなかったから、いくら気丈に振る舞われても気になって仕方なかった。それでも長い話の中で気に成った事が一つだけあった。
其れは夜明け前に花村徳之進が目撃した美香に似た女性の事で、それを美香と言い切った花村氏であったが、もしやすると杉原良助の息子の女友達ではないかと思いついた事であった。
隆は帰ろうと自宅を目指したが、その時ふと選挙に出る積りであったが、長瀬地区のみんなに潰されて、思惑が外れ、涙を飲んだ杉原良助って男の家を見てみたくなった。
それは帰り道の途中にあり、今は朽ち果てた空き家に成っていて、人手に渡り【私有地につき立ち入り禁止】と言う文字だけが目立つ状態であった。
じっと見ているとどこからか一人の老人が近付いて来て、よく見ればお隣の篠塚の親父さんで在る事が直ぐに判った。
「あぁこんにちわ」
「あんたは田所さんちの旦那さんだったね?」
「はい。」
「それでこの家に何か用事でも?」
「いえ、春江さんと選挙の事を話していて、それでこの家の主人の事が出てきて、それでなんとなく気に成りまして。つまり春江さんが選挙に出られた経緯を聞いていて、この家の主が登場したものですから」
「そうだったね。正直私はこの家の事は可也嫌っていたから、あの時はすっとしたね。
みんなで叩き潰したように成ったから。自業自得ってやつだよ。杉原良助って男は詰まらん奴だったからなぁ」
「ええ、其れもお聞きしました。其れは春江さんではなく、篠塚兵衛さんに」
「そうですか?同じ苗字ですが全くの他人で、あの方はまだご健在で?」
「ええ、酸素を吸っておられましたが」
「そうですか・・・あの方が頑張って下さったから、平田川町も汚されずに済んだと思いますよ。
杉原良助の周辺には同じ狢が居ましたからね。この男が選挙にもし通っていたなら、平田川も長瀬地区も大きく変わっていたかも知れないでしたから、それだけ重大な出来事だったのですよ。」
「子供さんも随分評判が悪かったようですね。」
「ええ、仰る通りで。あのころ夜遅くまでこの家で喧しく騒いでいたのを覚えています。
内の畑などにも平気で入って、柿やイチジクを取ったりされましたから、まぁ、そんな事は然程問題では無かったですが、問題は、そんな事をしても親は平気でしたから、それが問題であったと言う事です。
子を見ても親を見ても、同じ穴の狢って事でしたから、厄介でした。」
「それでは居なく成って良かったと言う事ですね。」
「ええ」
「でもどうして出て行かなければ成らなく成ったのでしょうか?」
「そりゃぁ御覧の通りでお金に詰まったからだと思いますよ。丁度この辺りで背広を着た人たちが突っ立って、何やら揉めていましたから、それから間もなく紙が貼られて、おそらく債権者とか言う人達だったと思います。
選挙に出る筈の人が、ほとんど同じ時期に家屋敷を取られていたのですから、一体どうなっていたのか計り知れませんなぁ」
「その時に内の父と母は殺されていたのでしたね?」
「え~と、あの事件があって、其れから選挙にこの男が出る事がみんなに伝わって、慌てて春子さんに出馬を依頼して、だからお父さんたちが亡くなられてから、半期ほど過ぎた頃に選挙があって、その時この男は既に居なかったと思うな。水面下で動いたいたとは思いますが・・・
確かこの家にテープが張られていた時に、選挙カーでみんなで話し合った事を覚えているよ。
だからそれまではお金の事を隠していたのだろうね。議員報酬で乗り切ろうとしていたのかも知れないし、兎に角狡賢く生きていた男だったから」
「何か父と母の事件にくっつけるものなど無いしょうか?」
「事件に?もしですよ、もし田所さんの家に強盗に入ったならお金を取るでしょう?困っていたのだから。でも金庫は手つかずであった。お金も可也眠っていた。
それにこの男の仕業なら、慌てて長瀬を出て行かないと思いますよ。疑われるから。」
「そうですね。やっぱり選挙には関係ないですね。父と母殺しは?」
「でも犯人は今でも判らない事は確か。あのころ随分言ったのは、犯人は身近の者である様な言い方でしたから、警察もその様な動きをして居たのか、随分聞き込みに来ていましたね。」
「こんな小さな町で一体何が起こったのでしょうね。嫁の美香を思うと可哀想で・・・正直辛い半生であったと聞かされています。
ですからこんな私には何も出来ないかも知れませんが、出来れば犯人を見つけ出して、本当の幸せを掴ませてあげたいと思います。せめてもの夫としての気持ちで」
「えらいですね。優しいお人だ貴方は。良い人が長瀬に来て下さった。美香ちゃんもあんなに幸せになって」
「有難うございます。其れでこの人たちは何方へ行ったかご存じないでしょうか?」
「確か奥さんの実家の方とか聞きましたが、奥さんは思いもつきませんが、漁師町から来ている人で、杉原さんがどんな経緯があってか知りませんが、見初めたようで連れて帰ったのですよ。
それで別れるとか別れたとか、誰かが言っていましたが、其れも噂で、それ以後についてはわかりません。」
「有難うございました。」
然程得るものもなく家路についた隆は、子供たちを連れて河原へ行き、魚釣りをしている釣り人を眺めながら戯れる様に時を過ごしていた。
「あ~ぁ野呂さんだね。」
年配の男が近付いて来て笑顔でそのように口にした。
「たしか・・・井村さん?そうでしたね。井村さんでしたね。春子おばさん家のお隣の?」
「はい、井村です。」
「魚釣りですか?」
「ええ、鮎ですよ。毎年の事で」
「いいですね。楽しい趣味があって」
「ええ、何もない田舎はこんな事でもしないと、でも子供の頃からだから随分やってます。毎年毎年飽きずに」
「いいじゃありませんか。継続は力なりって言うではありませんか」
「そうですね。私と同じように昔から魚釣りをしても、居なくなった人も何人か居ますからね。
亡くなった人も居るし、事情があり平田川から出て行った人も、あなたが住まれている長瀬地区にも私の連れだった男もいますよ。杉原良助って男が、あいつは借金まみれになって出て行ったのですが、同級生で同じように悪さをして遊んだ仲ですよ。
ただ町の皆はあいつの事相当嫌っていて、可哀そうな男でした。みんなに干されたようになって」
「確か遠い昔選挙に出られたのでしたね?」
「ええ、田所春子さんが初めて出た時に、出る筈だったわけです。でもみんなに干されて」
「そうそう、そうでしたね。春子おばさんから聞いています。」
「でもあいつが出て通れば助かった奴も相当居ましたよ。平田川の町は田所家が全てだから。あいつは一番底辺で生きていたから、気持ちは解るのですよ。私だって同じような立場だから。
ここから見てください。四方八方見えている山のほとんどは田所の物ですよ。貴方も田所の一族だけど」
「でも俺はこちらへ移住して来た時は、花村さんを応援していましたから、何もわからずに。」
「ええ、あの方は立派な方ですから何ら問題はありません。決して間違ってはいませんよ。寧ろあなたはそんな事があったからこそ、値打ちが上がった事はみんな知っていますよ。
言っちゃ悪いが、あれだけの事件があったお家ですから。
平田川町が村から町に格上げされたのが三十年前この三十年間に誰かが殺されたと言う話は、後にも先にもあの事件だけですあら、誰も忘れる事は無いでしょう。まして犯人が未だ逮捕されていないのですから。」
「亡くなられた花村さんって立派な方と仰いましたが、どの様に立派な方だと思われるのですか?」
「真面目で温厚な方です。大らかだから、どんな事でも丸く収める術を持っていましたね。我慢強くて信念もあり、実に惜しい人を亡くしました。」
「奥さんは?」
「似たもの夫婦で、でしゃばって旦那さんの上を行く様な事は絶対しない方です。控えめな女性ですな」
「よくご存知ですね。在所が違うのに」
「ええ、でも長瀬地区には親戚もありますし、田も少しばかりあるのでよく行くのです。
野呂さん。話は反れますが、遠い昔の事に拘るより、こんな綺麗な川があり、鮎も沢山取れますから、釣りでも始めればいかがです。
綺麗な空気を吸って、伸び伸び生きるって事はとっても大事だと私は思いますよ。」
「ええ、釣りですか・・・」
「あの事件は忘れられない事件ですが、忘れようとする事も大事ではないかと私なんかは思います。
おそらく犯人もあんな事件を起こして尋常ではない筈、おそらく脅えながら毎日暮らしている筈、
其れも今では二十何年も経っていて、毎朝起きれば警察が気になり、外へ出ても事件の事を気にしながら、生きていかなければ成らないのですよ。
鮎を釣っていても、側に誰かが居れば、警察ではないかと気にしなければならないのですよ。
疲れると思いますよ。この綺麗な山々だって透き通って流れているこの川の水だって、見えないかも知れないのですよ。そんな人生嫌でしょう?」
「井村さん、今度また釣りを教えてください。こんな田舎で住んでいて、釣りも知らなかったら、あの子らにも笑われる様に思えて来ました。」
「ええ、容易い事ですよ。」
隆は井村氏と別れて川辺で遊ぶ子供たちの方へ行き、きらきらと腹を見せて泳ぐ鮎を見つめながら、井村氏が言った言葉を思い出していた。
遠い昔の事に拘るより・・・と言った言葉を。
その言葉だけが隆の胸に引っ掛かっていて、今自分がしている事は誰の役にも立たないばかりか、害を受ける者が居る事だけであると思われた。
花村さんが書き残した日記が事実なら、そして白日の下に晒されたなら、美香が男と組んで実の両親を殺した事実に繋がるかも知れない。
もしそうなら自分は、笑い者に成って、この街から出て行かなければならないだろう。
そしてこの子たちはどうなる?肩身の狭い思いをして生き続けなければならないのである。
それは美香の両親殺しの犯人が、今味わっているものと似たものを感じながら、母親が人殺しと言う剥がす事の出来ないデッテルを貼られて生き続ける事に成る。
もっと大事な事は、万が一美香が犯人なら、二十年余りの間圧し掛かっていた逃れられない心と、これから始まる新たな罰を受ける事になるわけで、どれだけ苦痛か計り知れない。
死をもって清算する事もありうる話で、泥沼の道だけが見えて来る。
翌日隆は仕事の合間を利用して、釣り道具屋に足を運んでいた。そこに二人客が来ていて、隆の顔を見るなりギョロッとした鋭い目になり、七十近い男が椅子に座りながら、
「珍しい人が来た。あんた田所さんの娘さんと一緒に成った人ですな?え~と名前は」
「はい、野呂と申します。」
「野呂さんか・・・わしは岩井地区の矢代って言うのだけど、選挙の時に何度かお話ししましたね。」
「はい、その節はお世話になりました。」
「奥さんはきついだろうが?」
「いえ、何ですかそれ?行き成り?」
「いやぁ失敬!おやじはなぁ、えげつない人やったからなぁ」
「えげつない?まぁ、きつかったとは聞いています。事故に遭ってから特にきつかったと、」
「唐突に失礼な事を言ってしまって面目ないな。
親父さんとは一緒に山仕事をしていて、親父さんがまだ若かったから面倒みて上げていた事があって、それでつい身内の様な失礼な事を言ってしまって。 あの事故も側で居たから大変な事だったんだよ。
手はつぶれるし、血は噴き出すように出ていたし、良く助かったものだよ、今から思えば。
救急車も早速来てくれないし、まだ高速も無かったから・・・命だけは助かったけど。」
「初耳です。相当お世話になったのですね。」
「お互い様だけど、でも親父さんはきつい男だったな。事故に遭ってから人が変わってしまって、でもまさかあのような死に方をしなければならないなんて因果なものだな。口は災いの元だったのかな。
親父さん、事故に遭ってから見舞いに行っても、励ましに行っても・・・やりにくかったなぁ」
「辛かったんでしょうね。おそらく」
「そりゃぁまだ二十代の半ばだったからな。あの事故は。それから田所家に養子に行って、一人息子の親父さんは涙を流しながら話を受け入れたと思うよ。おふくろさんだって、あんな気丈な人でも息子の事を思って耐え忍んだんだと思うよ。何しろ田所家が相手だから」
「其れじゃ親父さんは苦労したのでしょうか?」
「でも手の事以外はそんな事ないと思うよ。第一経済的に満たされていたから。山へ行っていた頃は安い給料で、結構文句言っていたし、その日暮らしだった事を思うと、でも心の内は誰にも解からなかったけどね。
其れであんたも鮎釣り始めようと?」
「昨日、春子おばさん家の隣の井村さんに、こんな田舎に来たのなら鮎釣りでもしませんかと言われまして」
「どうせ奥さんもきつい人だと思うから、川に行って逃げ場を作っておかないと・・・と言う事ですなぁ、ハッハッハッ?」
「まさか・・・そんなに嫁がきつい女だと言われているのですか?」
「いやぁ親父さんの血を引いているからですよ。」
「でも嫁はそんな事全くないですよ。私の知る限りでは。いい嫁ですよ。」
「そうでしたか・・・亭主のあなたが言うのだから間違いないですなぁ。わしはおやじの事を知り過ぎてるから同じ様に見えて。悪い先入観を持ってしまった様ですな。これ以上しゃべると嫌われそうだからお暇します。」
矢代と言う老人はそう言って笑いながら店から出て行った。
「あの人も随分口が悪いのですよ。」
店主がそう言って笑いながら隆の顔を見たのでほっとした。
「行き成り失礼な事を言われてびっくりしました。」
その隆の声に店主も笑った。
「でもね、あの矢代さんは、貴方たちのお父さんが亡くなられた時に、一シーズンの間釣りを止めていましたよ。喪に服すように・・・
それだけ弟分のお父さんが可愛かったんでしょうね。随分一人で泣かれたと思いますよ。あの様に口が悪いのも、もしかするとお父さんを思い出しているかも知れませんね。」
「そうでしたか・・・では私こそとんだ失礼な事を感じていましたね。」
「結局田舎ってね、のんびりと鮎を釣って、ここで暮らし続けると言う事は、例え口が悪くとも間違った事をしていなければ、上手く生きて行けるのですよ。嫌われる事も無く・・・
私はそのように思います。決してあの方はあなたを嫌っている訳ではありませんから、あの方とお父さんは、まるでボヤキ漫才をするのような間柄だったと思いますよ。」
「良い話ですね。ほのぼのするような。では俺も鮎釣りでも始めますか・・・なんか楽しそうですね。河原で酒喰らって、みんなでおにぎりでも食って、わいわいがやがやと冗談言いあって」
「そうですよ。それが田舎ですよ。田舎の良さですよ。」
「ではまた教えてください。」
「ええ、いつでもお越しください。」
❾
隆はそれから間もなく、鮎釣りの装束から釣具をそろえて鑑札を買って河原に向かっていた。
早速指南役を買って出た矢代さんに、何もかもを教わりながら竿を出した。
「鮎はね、苔が付いた岩の周りに居座って縄張りを作るんだよ。苔が餌だから、そこへ余所者が行き成り断りもなく入ってきて、縄張りを荒らされれば守っていた鮎は腹が立つな。だから入って来た鮎の腹にぶつかって追い出すわけだ。『出て行け』って
でも入って来た鮎はおとり鮎だから、腹に針がついていて、その針に見事に掛かるってわけ。判るね?」
「ええ、人間の世界には無い話ですね。」
「そりゃぁあなたは入り人でもそんな事無かっただろうが、そんな話もあると思うよ。鮎ほどではないが」
「鮎ってそんなに嫌うのですか?入り人を?」
「生活が掛かっているからな・・・だと思うよ。」
「あっ掛かっているかも知れません?ビビッと来ています。急に・・・強い力で・・・」
「ほう、掛かっているな!うまいもんだよ。その感触を忘れない様に。それが鮎釣りの醍醐味だから」
「はい」
「ゆっくりと、ゆっくりと引き寄せて」
「はい。これは病み付きになりそうです。」
「面白いだろう。」
後ろから見ていた人が居り、二人のやり取りを聞いていて、それを見つけた矢代さんが、
「あぁ、井村さん来てましたか?」
「はい、今日はあまり追わなくてガッカリです。」
「今新人さんを連れて来て、早速一匹目を釣りましてほっとしています。」
「まさか野呂さんが釣りをしているとは、びっくりです。先日野呂さんに釣りでも始められてはと言ったばかりだから」
「そうですね。あなたに言われて、それから矢代さんとも釣具店で知り合いになり、矢代さんが家内の親と一緒に働いていた事も知り、これは釣りをしないでは済まされないと判断してこうなりました。
先生が良いから早速一匹仕留めました。」
「さすがですね。やはり選挙でも辣腕を振るう貴方だから、鮎釣りでも結果を出すのですね。」
「そんな大層な、全部矢代さんの言われるようにさせて貰っただけですから」
それからも鮎釣りに夢中に成って、時間が過ぎるのを忘れるほどに頑張っていた隆に、一旦帰っていた井村さんが、ビールを提げてまたやってきた。
「ちょっと休まれませんか?これ持って来ましたから」
そう言ってビールとスルメを石ころの上に置き、
「今日は野呂さんの鮎釣りデビューの記念日だから、私がおごりますから祝いましょう。
この辺で川に入る人の風習でね。お互い仲良く末永くやりましょうって事だから」
「そうですよ。私もこうして持って来ているから」
二人がそれぞれ石の上にそれらを並べて宴会が始まった。
更に匂いを嗅ぎ付けた様に、何人かが集まってきて宴会は更に盛りあがった。
始めて釣った鮎であったが、それも串に刺されて、こんがり焼かれ誰かの口に消えて行った。
「野呂さん心配なく鮎は一杯釣ってあるから」
名前も知らない人から優しく言われ、都会では考えられないほのぼのとした和やかなムードに、心が熱く成る思いであった。
みんな屈託のない笑顔、透き通ったような心の内、川も自然もそして住民も、
隆はお酒が入っていたが、其れでやや大げさだったかも知れなかったが、
「皆さん今日鮎釣りを覚えて、こんなにして戴き、言い様が無い位嬉しいです。良い所へ移住して来ました。今更ながら最良の選択だったと思います。良い人生になりそうです。
ここへ来るまでは妻とぎくしゃくしていて、其れで打開策として、新天地を求めて来させて貰いましたが、波乱に満ちた船出ではありましたが、今楽園に到達した様に思います。みなさんありがとう。」
「新米さん、今日はそれで何匹釣りましたか?」
「はい、八匹です。でも先生が殆ど鮎を動かしてくれたからです。」
「先生って?」
「矢代さんです。」
「へぇ~矢代さんが先生?矢代さん先生だって」
「からかうなよ。死ぬまでに一度ぐらい先生って言われても構わないだろう?」
みんなで大笑いになり、実に和やかな時間が流れていた。
そんなムードであったが、誰かが、
「こんな田舎でどうしてあんな事件が起こったのだろうね?野呂さんも何時話を聞かれたか知らないけど、びっくりされたでしょう?」
「そうですね。それはもう」
「平田川は誰に会っても、悪い人など居ない様に俺は思うのだけど」
「居ないね。まず出会わないな。ここは高速が出来るまでは、外部からあまり人は入って来ない場所だからだと思うよ。悪い事など出来ない環境だからじゃない。」
「そうだね。それも相当古くからだから、もしかして三百年とか、それ以上かも知れないな。」
その話に隆も遠慮気味に口を挟んだ
「でもそんな田舎で嫁の両親は、どうしてでしょうね?考えられないですね。」
「野呂さん、あの頃私は何度も考えたけれど、この町であの事件の様な残虐な事を、出来そうな人物が居るかって思ったが居なかったね。
ただ当時あの事件の後、この街から出て行った人物が居り、しいて言うなら、その人物は可能性があったと思ったな。」
「其れなら判るな。あの人だな。」
「それって長瀬の人を言うのでしょうか?」
「そう」
「皆さん、名前を出してはいけない様ですね。」
「当たり前じゃないか。未だに犯人は捕まって居ないからだよ。」
「と言う事は、何方もあの事件の事は、はっきり覚えていて、今でも進行形の出来事なのですね。
俺はとっくの昔の事と皆さんが捉えていると思ってましたが、あの事件は今なお脈々と生き続けているのですね。
それなら俺美香の為にも一生掛かってでも、あの事件の犯人を捜しますよ。そうしないと美香に本当の幸せが来ない様に思うのです。
もし何か知っている事が在りましたらお聞かせください。
あの事件を担当していた元刑事さんにも会ってきて、色々お聞きして参りましたが、解決に至らず、断腸の思いで退官されたようです。
何分遠い話で錆が湧いた出来事かも知れませんが、何とか出来るものならしてあげたいです。よろしくお願いしておきます。」
「野呂さん、お気持ちはよくわかりました。あなたがこの地を選んで来て下さったのも何かの縁、お役に立てるものが在るならお付き合いさせて戴きます。鮎を釣るように簡単には行かないでしょうが」
「感謝します。」
『当たり前じゃないか、未だに犯人は捕まっていないからだよ。』 強い口調でそう言ったのは、師匠の矢代さんでは無く、温厚な筈の井村さんであった。
井村さんの家は、春子おばさんの家のすぐ隣だから、可也な事を知っている気がした。
隆はその様に思いながら、井村さんがきつく言ったのは、間違いなく名前を出さなかった人物が、犯人ではないかと疑っているように思え、また同時にそうであってほしくない様にも思えた。
まさしくそれはあの事件があり、後に行われた選挙の前に長瀬を出て行った人物となれば二人と居ない。杉原良助とその家族以外に誰も居ない。
それを何故ひた隠しにするのか、隆には疑問に思えたが、形だけでも隠すようにしたのかも知れないと思えた。
其れは望まない火の粉が飛んで来ては困ると言う事かも知れない。
それだけ事件が発生した当時は、町中の九千人の誰もに、疑いが掛けられた事件で在った状態が頷けた。
まさか杉原良助と同級生の井村さんが、あの強い口調で・・・隆にはその事が可也気に成った。
何の事はない。隆はその日の夜から、あの事件後で選挙に出る筈が、誰もから干されて出馬を辞退させられた杉原良助について調べる事にした。
今日河原で酒やビールを飲みながら、酒の肴に聞かされた人物に間違い無かった。それはまさしく杉原良助とその家族であった。
それから少し経ってから仕事の合間を見て隆は、杉原良助について調べようと元刑事野平順平を訪ねていた。
「野平さん、当時杉原良助って人物について、何か引っ掛かるものなど御座いませんでしたか?」
「杉原良助ですか?一応マークしていたようだね。
其れは事件の直後慌てて長瀬地区を出て行った事で、しかしそれは金銭的な理由の様だったから、何しろ被害者の金庫は手付かずだった事もあって、
重要視はしていなかったと思うな。」
「実は先日ですね、平田川で鮎釣りを教えて貰っていて、そこで釣り仲間に囲まれて、、その時あの事件の話になり、何方も犯人の事は具体的には言えなかったようで、でも私には誰を疑っているか直ぐに判ったのです。
事件があって間もなく長瀬を出て行った人物だと、遠回しに皆さん言っていましたから、其れは他でもない杉原良助だと言っているみたいでした。でも名前を出さなかったのは、未だ未解決事件だからだとも言っていました。」
「我々もあの男の事はそれなりに調べましたよ。何故ならあの辺りでは珍しい位の悪だった様で、良からぬ噂の絶えない男だったようで、それに息子に至っては、再三ほっつき歩いているらしく、何せ三日とか四日とか家を開ける癖がついていたようで、息子の交友関係なども調べたと思いますよ。」
「その息子さんにどのような友達が居られましたか?」
「ここに控えてあるのは六人ほどだな。男友達五人に女友達が一人」
「住所までわからないでしょうね?」
「そこまでは調べていないようだな。」
「でも杉浦良助の引っ越し先は控えてありませんか?」
「どうだろう?これだ!ここに控えてあるな。
必要ならメモして帰りなさい。」
「はい。何か重要人物のように思えています。釣り仲間のみなさんの話からすると」
「当然警察もマークしていたと思うが、何しろ金庫に手を付けていなかった事で、更に杉原は破産して家屋敷を抑えられた事が同時期だったから、マークを外したのだろうね。」
「それでは言わば杉原に関して手つかずの状態でもあるのですか?」
「そうだな。捜査の方針として平田川全域に目を向けていたからな。何しろカメラに不審な車も人物も、出入りしたものは写っていなかったから、其れで案外近くの人物の犯行と認識していたと思っている。」
「それではこの住所を訪ね、杉浦良助を探ってみます。」
「でも幾ら奥さんの事を思ってるとしても、素人なのだから気を付ける様に。犯人はとんでもない鬼畜の様な心を持った奴だと言う事は間違いないから。」
「はい、気を付けます。」
隆は家路につきながら重いものを感じていた。
確信に触れて行けば触れて行くほど、嫁の美香の顔が浮かんできて、花村徳之進が残して逝ったあの日記が常に原点に在った。
『こんな事止めようか?何に成る?妻を追い詰めて何に成る。二十何年も前に殺された犯人を捜して、どれだけの意味がある。こんな事するよりみんなと鮎を釣って余暇を楽しんで過ごすべきではないだろうか?』
重いばかりの行き先に、うんざりして来ている事も確かであった。
花村徳之進の評判は悪くはなかった。大らかでどんな事でも纏め上げる術を持つ人物で、忍耐強く我慢強い男のようである。
其れゆえに間違った事や、いい加減な事など言わないだろうと隆には思えて、其れは言い換えれば事件のあった朝にトラックの荷台に滑り込んで、シートの下に隠れ逃避したのは、美香に違いないとその言葉を信じる以外になかった。
隆にとって複雑な思いで寝苦しい夜が続いていたが、それでも吹っ切れる事も忘れる事も出来ないでいた。
其れは万が一嫁の美香が犯人だとしたら、その女とこれからの人生を共に生きなければならないとなり、それもまた辛い事であった。
残虐な人殺しをしている女と一つ屋根の下で生きて行けるだろうか・・・?そしてあの子たちを今まで通り愛せるだろうか?この小さな町で耳の痛い流布に曝されながら暮らせるだろうか?
先日河原で祝ってくれたあの人たちを敵に回さなければならない事に耐えられるだろうか?
美香の立ち位置を考えて、両極端の結果に対して双方の想像をしなければならなかった。
夏のアユ釣りシーズンが終わり平田川の川も人影が見えなくなったとき、釣り道具屋の猪原から電話が隆に掛かってきた。
「野呂さん、助けてもらえませんか、実は鮎竿を注文頂いていたんですが、その方は遠方の方で返品出来ないかとなって、問屋に返しても良いのですが、貴方がこの前、来シーズンは長い竿を買わせて貰うからって言っておられたので、其れでお電話させて貰ったのです。
勿論お安くさせて戴きますから、それに貴方が望んでいた十メートルの長さだから、お得かと思いまして。」
「そうですか、今持っているのはやはり短いですから、其れはありがたいですが・・・断れそうにないですね。・・・良いですよ。買わせて戴きます。是が非でも欲しかったのは確かですから。」
「助かります。」
「それですぐに頂きに行ってもいいのですか?」
「ええ、いつでも」
「ではこれから行きます。」
隆は善は急げと言う言葉の様にお金を用意して飛んで行った。
釣り道具屋に着いたとき先客がおり、其れは春子おばさんのお隣さんで鮎釣りの初日に祝ってくれた井村さんであった。
「こんにちは、いつ度やははどうもお世話に成りました。私も本格的に鮎遣りますよ。」
隆は満面笑顔を浮かべて井村に挨拶代わりにその様に口にした。
「変われば変わるものですね。すっかりあなたも平田川町の住人になって来ましたね。」
「ええこれほどいい街は今までなかったですから」
「嬉しいですね。野呂さんはそのうち選挙にでも出られては如何です。当選しますよ。」
「いやぁ春子おばさんに叱られますよ。」
「そうかぁ本家だものなぁ気を遣うか・・・」
「まず来年は鮎を釣って上手くなりますから」
店主は隆の前に新品の竿を伸ばし
「これです。持ってみて下さい。しっかり風を切り重みのない竿です。きっと気に入って下さる筈です。」
「有難う御座います。迷惑にならないのですか?」
「ええ、元々これを注文された方は急きょ海外に転勤すると言う事で、この川にも来れなくなるって言ったいました。釣り自体が出来なく成るっても寂しそうに・・・」
「どなたでも諸事情あるのですね。長い人生には。」
その竿を見ていた井村さんが気なり層に
「いいですなぁ。こんな竿持てて・・・しっかり釣ってくださいね。素人とは思えませんなぁ」
「井村さん、来年は二十匹ほど行く度に釣りたいと思っています。自分の力で」
「釣れますよ。こんな竿を持てば、初めて行って八匹釣ったって言っていたでしょう。、もっと釣れると思いますよ。」
そんな雑談をしていた時、井村さんの電話が鳴った。
「はい、はい、あ~ぁ枝尾君。はい、はい えっ良助が・・・良助が死んだ・・・?
それで・・・わかった。へぇ~癌で・・・可哀そうに・・・
うん、あさってだね・・・午後一時、飯田市の市民センターの近くのセレモニーホールだね。わかった。
又連絡して、任せておくから。五千円なら・・・頼みます。」
電話が切れて隆にも店主にも電話の意味が分かった。良助と言う名の男が死んだ事がわかったが黙っていた。
井村が神妙な顔で
「同級生がまた一人死んだ。つまらん人生や。あいつは・・・杉原良助が死んだよ。野呂さんは知らないかな?」
「知っていますよ。顔は知らないけど名前は春子おばさんから聞いていますよ。井村さんもいつの日か同級だって言っていたでしょう。
春子おばさんが選挙の出る事に成った原因を作った張本人でしょうその人は?」
「そうだったなぁ。長瀬の皆に嫌われて干されまくって、其れで選挙に出る積りだったけど残念して、家は差押えされて紙を貼られるし、一家で夜逃げするように出て行って、可哀想な男遣った。
死んでしまって楽に成っただろうな。みんなに嫌われていた男だったけど、私等は同級生だったから、悪い事をしたり、ふざけたり川遊びしたり、あのころは楽しかったよ。」
「それでお葬式に行かれるのですか?」と、店主が口を挟んだ。
「うん、同級生が行ってあげようって、だから付き合う事にしたよ。飯田市で住んでいる様だから直ぐ判ると思うよ。喪主は息子と言っていたから。あいつ飯田市に住んでいたんだな。息子も喪主って言っていたから真面目に生きているのかな?
悪い評判ばかり立てられていたからなぁ・・・」
「同級生が亡くなったら辛いですね。」
「死んでしまったらおしまい!こんな日は町へ出てパチンコでもしますか・・・」
「友達が亡くなり、鮎も終わってこれから寂しいですね。」
「長らく会ってないからなぁ・・・でも死んだと聞いたらあんな奴でもジーンと来ますね。私はみんなが思うほど彼の事嫌いじゃなかったから、幼い時は本当に仲が良かったから」
「悔みに行ってあげたらどうです?」
「そうするよ。どうせ寂しい人生だったと思うから」
井村さんが神妙な顔をして出て行った。
店主が、
「井村さんは優しい人だから、あんな同級生が居るのに杉原さんはいい加減な生き方をして、情けないですね。こんな田舎で生き続けられないような生き方をして」
「でもああやって悲しまれて、悔みにも行かれるようですね。井村さんは優しい人ですね。飯田市って大きな町なのでしょうか?」
「ええ、十二万人ほどの街だから」
「そうですか可也大きな町ですね。」
「井村さんには申し訳ないけど、杉原って男は悪い噂の絶えない人でしたからね。死んで良かったのじゃないですか?誰よりも本人がほっとしていたりして」
「そうかも知れませんね」
「だから安らかな顔で眠るようにって言われるでしょう。あれって結構生きている時は波乱万丈って言うか灰汁が強い人かも知れませんよ。」
「なるほど・・・」
「でも気の毒ですなぁ。死んでしまうと言う事は、だから貴方の奥さんのご両親を思うと堪りませんね。どれだけ辛い人生であったか・・・」
「はい。」
「生きていてこその人生」
「そうですね。」
竿はあまりにも唐突だったから店に置いた儘でお金だけを払い、隆は釣具店を後にした。
凶悪犯のターゲットと思っていた杉原良助が逝った事は、思いのほか戸惑う事となり、二十年余り前の話で被疑者が死亡したとなると、雲を掴むような話に思えてきて、息が抜けたビールを飲んでいる面持であった。
秋になり行楽のシーズンが来て、家族で旅行する事となり、隆は思惑を秘めて妻美香にこの様に口にした。
「今度の休みを利用して日本海の島根に行こうと思うのだけど、島根って言うより沖ノ島だね、景色が綺麗だし魚も美味しい様だから、俺行ってみたいのだけど」
「いいわよ。子供たちも喜ぶと思うわ。」
何となく交わした会話であったが、隆には辛かったが策略があった。
それは島根と口では言ったが、そのついでに鳥取に車を走らせる積りであった。帰り道は国道九号線を京都まで戻る計画を考えていた。
何故なら、美香は学生時代に彼氏と鳥取を旅行をしていて、その途中で電話が入り、ただその時は電話を切っていたか、圏外だったから繋がらなかったが、やがて電話が鳴り、出てみると両親が殺されていた事を警察に知らされたと、あの時供述していた事をその状況を隆は過去に調べていたのである。
其れは美香の大学時代の同級生で、寮の同部屋だった里川由美に聞いていた。
その事が隆をいつまでも拘らせていて、美香の言った事に嘘がなかったのか知りたかったのである。
島根まで車を快適に走らせて、子供たちは随分楽しそうにして騒いでいる。
境港から高速艇で一時間、島前につき早速鯛めしでお腹を一杯にして海辺を散策。至福の時が流れている。
「隆さん有難う。こんな日が来るなんて思った事なかったわ。人生って我慢していればいつかこんな日も来るのね。不幸だけじゃないのね。」
美香が噛み締める様に口にした。
島前で三時間程ぶらぶらと名所を回り、鄙びた旅館で落ち着いた。
テーブル一杯に並べられた料理は、興奮するほどの光景で、誰もが驚きながら料理に生唾を飲む様に眺めていた。
「いいね、島根は。沖ノ島は最高!」
「沖ノ島に乾杯!」
楽しい一日が終わり、就寝したのは深夜になっていた。長旅の疲れがどっと出て、隆は美香の手を触りながら寝てしまった。
夜が明け、高速艇で境港まで戻り、車で土産物の販売所まで走り、たっぷりお土産を買いこんだ。
「倫太郎おじさん家にも、それから親戚の皆に買って帰らないと」
「いつもそのようにしているの?親戚が多いと大変だね。」
「いえ、初めてだから。こんな事するの」
「初めて?」
「そうよ。私からお土産貰えるなんて誰も思っていないと思うわ。新婚旅行の時以来でしょう?」
「・・・」
「私は田所家のお荷物だったのよ。
実際そうだったし、夢遊病者の様にして道をのそのそと歩いていたから仕方ないわ。隆さんが救ってくれなかったなら、私は狂った儘だったかも知れないわ。だれもが腫れ物に触るように思っていたと思うわ。倫太郎おじさんと春子おばさん以外は。
隆さんが何も知らず花村のおじさんの応援をして、私に、田所の私に花村さんに入れてくれってしつこく言われて、そんな馬鹿なって思っていたのに、いつの間にか隆さんの情熱に魅かれて行き、今日に至っているのね。
ありがとうこんな私に・・・私親戚の人たちの事も怖かったわ。何が悪いの?わたしたち家族に何か問題があるの?気に成る事を言われると心の中でいつもその様に思ったわ。でも何も言えなかった。」
「美香もう良いから。帰ったら楽しくお土産をみんなに配ってあげたら。お世話になりましたって・・・幸せにしていますって。それ以下でも以上でも無いから」
「ええ」
それから隆の運転に身を任せて妻と子供はわいわいがやがやと騒いでいた。
車は国道九号線を東に走り京都方面に向かっていた。
「鳥取砂丘へ行こうよ。俺行った事ないから」
「いこう、行こう」
こどもたちが元気に答えたが美香は何も言わなかった。美香から何か言葉が出る事を恐々期待していた隆は、それでも催促などせずに只管待ち続けた。
砂丘に着き、果てしないその砂の山に向かってみんなで歩き続けた。
「すごいね。本当にでかいなぁ。実にダイナミックだよ。」
そう言って美香の顔を見たが、それでも砂を気にして俯きながら何も言わなかった。
あの境港の土産物屋で口を尖らせて愚痴っていた事を思うと別人であった。
『まさか昔の男の事を思い出しているのでは・・・』
隆はあの過ぎし日の美香の行動を聞かされていたので、その事が頭に浮かんできた。
『男の人と鳥取へ旅行して、事件の前の夜は車で二人で眠った事に成っていた。それが事実で今美香はあの純真な時の事を思い出し、其れで人が変わった様にナイーブになっているのではないか?
其れなら大歓迎である。事実鳥取に来ていたのだから。両親の事件には全く関係ない事になり、これまで抱いていた疑義は瞬時にして消滅する。
『美香そうであってくれ。頼むから。この砂丘を懐かしんでくれ!美香頼む!』
「どうしたの?隆さん。目を押さえて」
「砂だよ。砂が目に」
「引き返しましょうよ。私も靴に砂が」
「そうだね。引き返そうか」
隆は涙が滲んできて美香の顔を見れ無かった。
伴侶の友を嫌と言うほど疑い、疑っている自分が嫌になり、それでも疑い、花村徳之進の日記を信じ、そして疑い、疑心暗鬼が頭の中で蠢き広まって行く。
『美香、真実を教えてくれないか、頼む!』心で叫んでいた。
車に戻り走り始めたが、隆は我慢出来なく成って来て、とうとう口にしていた
「美香はこの辺に来た事なかった?」
「解らないわ」
「鳥取だよ。」
「だから解からないわ。来た様な気もするけど、どうして?」
「いやぁ聞いてみただけ、この辺に友達居ただろう?」
「其れって京都よ、京都のずっと北側だから、もっと先です。この車ずっと先まで行くのでしょう?」
「行くよ。」
「じゃぁその辺りにあるわよ、彼女の実家が、宮津ってところよ。
でも今はそこでは居ないと言っていたわ。福井の鯖江って所で住んでいるようよ。
前に家まで来てくれた事があったでしょう。二十年ぶりに、あれから電話を何回かしあっているから」
「そうなの?」
隆は驚いた。仕事を利用して美香の京都の友達の、岩瀬由美を極秘で訪ねた事が、ばれていないかと心配に成ってきた。
探りながら聞き出そうとすると、思わず冷や汗を掻かされる。それでも知らなければならない真実がある。これから共に暮らす妻の事実を知る必要がある。
隆は心の中で葛藤している二つの思いが嫌と言うほど解かっていて、堪らなかった。
美香がなんとなく発した言葉に身がすくんだように成った隆は、違う話題を必死に探していた。
「この儘走って行くと温泉があるね。城崎温泉と三朝温泉」
「城崎?そこへ行った事があるかも知れないわ。誰かに聞いた事あるから・・・」
「其れじゃ城崎へ行こうか?温泉に入りに?泊まらなくってもいいと思うよ。」
「いきたい、行きたい。」
美香より先に子供たちが声を揃えてはしゃぐようにそう言った。
「行くね?」
「ええ」
「決まりだね」
「そこでお風呂へ入って美味しいもの一杯食べて」
隆は相当楽しそうに声を弾ませて笑顔でそう言い
そっと美香の変化を伺ったが、さして思う事はなく同じように笑顔で楽しそうである。其れは子供たちと何ら変わらない面持であった。
過去に男と行った城崎だったのか、それとも男と行ったのはあくまで作り話で、あの宮津の女友達で寮の同室だった里川由美に誘われて行ったのか、美香の屈託のない笑顔からは何も読み取れなかった。
車は九号線を只管走り続け、子供たちも美香も気が付けば深く眠りに就いている。
妻の寝顔を時々見つめながら隆は、
『この人が両親を殺す事など出来るだろうか?
自ら手を下さなくっても、男友達が手を下したとしても、その現状を間違いなく見ている事は確かで、その現実に耐えられるだろうか?
二人で犯行に及んだ早朝、トラックの荷台に滑り込むようにして乗り込み、途中でそっと降り、逃亡してアリバイ作りをした。
何食わぬ顔をして電話にも出ず、頃合いを見て電話に出ると、警察から両親が殺されていたと悲報、涙一杯にして大学の寮へ戻り、優しくて親思いの子となり、大学も辞め、気が狂ったような、誰でも想像出来る悲惨さを身をもって芝居して・・・長瀬地区を夢遊病者の様に徘徊して・・・親戚からも始めは同情されていた筈が、そのうち厄介者扱いされ、やがて引き籠りになり何年も流れ・・・そんな人間などありうるだろうか?・・・もし事実なら想像を絶する出来事に成る。』
堪らなく成ってきた隆はドライブインで車を止めハンドルから手を離して目を瞑った。
そして同じ様に眠り始めた。
目が覚め、気が付いたとき、三人は車から外へ出てはしゃいでいる。
美香と長男の歩夢がボールの投げ合いをして
弟の良淳がそのあたりで座り込んで絵を描く真似をしている。
隆は目をこすりながら、『どうかこの家族が本物であってくれ』と思わず祈っていた。
気を取り戻し、
「ここで食事をしようか?ちょうど昼前だし、美味しそうな物があるようだから」
「温泉は?」
「後で行くから」
「それならここで食べよう。」
長男の一声で決まり、レストランに向かった。
食事を済ませ、一路城崎温泉に向かっていたが、既に午後の半ばに成っていて、
「泊まれるなら城崎でもう一泊して明日帰ろう」
「連休だから無理じゃないの?」
「とりあえず向こうへ行ったら聞いてみようよ。」
「泊まれる所在ってくれますように」
「でも連休よ。予約していなかったら無理だと思うわ。」
「無理かな?でも聞くだけ聞こうよ」
みんなそれぞれ思い思いにしゃべっていた時、美香の口から出た言葉に大いに意味があった。
「そう、昔おそらく城崎だったと思うけど、どこにも泊まれなくて海岸で車の中で寝た事があったわ。
確かあれは城崎だったと思うわ。」
「何時の事?」
「はっきり思い出せないけど・・・」
「其れじゃ無理だろうな。昔なんかより客が多いと思うから。どれくらい前の事?」
「いやぁはっきり覚えていないわ。随分昔だから」
「そう」
「父さん、行かないの?」
「いやぁ行くだけ行ってみるよ。何件も探せば何とかなると思うよ。」
「探してね。見つかるまで」
「あぁ」
気が付けば美香はそれからあまりしゃべらなくなった。いろいろ思い出しているのだろうと隆は察しられた。
その過去にあるものは、昔恋い焦がれた志野村と言う男であったのかも知れない。岩瀬由美がはっきりそう言っていた。
『美香はかなり志野村さんを好きだったみたい』と、そして由美さんはむしろ『彼とは合わなかった』と、隆はそんな話をした事を思い出していた。
美香もまた何かを思い出していて、その何かが空気を重くしている様に思えた。
美香は過去の事を話す事を極端に嫌っていて、たった一度だけ両親の事を口にして強く叱咤された事があった。
『過去の話はしないで』と、それが夫婦で続けられる掟の様なものでもあった。その過去を今少しだけ開き紐解こうとしている。そして美香の表情が強張って来た様にも思える。
やがて城崎について温泉街をゆっくり車を走らせた。既にかなりの時間になっていて、是が非でも泊まるように心は傾いていた。
気を入れて宿を探すつもりで在ったが、思いのほか簡単に宿が見つかって、一安心して家族全員で温泉街を浴衣姿で散策した。
至福の時である。夕焼けが家族全員を満遍なく照らし、過去も未来も関係なく今を照らし続けている。幸せを家族でたっぷり味わいながら時が流れている。城崎の街がどこの町より綺麗に見えてきて暖かくさえある。鄙びた街並みは趣だって相当ある。
『美香、俺達許されない過去何て無いよな?』
幸せに感じれば感じるだけ、同じ不吉な思いも浮かび上がってくる。疑心暗鬼が見え隠れする。
旅館に戻り少々遅めであったが、お風呂に浸かってから食事を済ませた。
子供たちが眠ってから、美香は縁側の唐の椅子に座り外を眺めて、、
「もう二十年以上なるわ、大学の時だから。あの頃はそれなりに楽しかったのに、めちゃくちゃになって、本当にめちゃくちゃになって、よく持ったと思うわ。良く生きてきたと思うわ。」
「どうしたの?」
「おもいだしたの。歩きながら・・・」
「何を?」
「だから昔を、思い出したくなかったころの事を。
好きな人もいたわ。大好きだった。でもあの事件で何もかも無茶苦茶になって」
「美香、無理に思い出さなくってもいいから。せっかく楽しくここまで来たのに」
「隆さん、どうしてここにきたの?」
「城崎に?」
「そう、私の青春も大げさに言えば人生もこの地で終わってしまったの。
ここで居たときに警察から電話が掛かってきて、其れで父たちが殺された事を知ったの。どうしていいのかわからなかったわ。意味が解らなかった。お父さんもお母さんも殺されたって、意味が解らなかった。
長瀬って田舎なのに、そんな事起こる筈が無いと、それでも信じられなくて思ったわ。
飛んで家に帰って両親を見て、頭の傷を見て、包帯で隠されていたけど、包帯を持ち上げると、頭が割れていたわ。二人とも。ねぇ、そんな時子供として冷静で居られる?解かって貰えるでしょう?
泪がね。閉め足らなかった水道の様に、蛇口から水が落ちる様に出続けたわ。怖くて辛くて・・・」
「美香、思い出さなくっていいから、もういいから」
「ごめんなさいね。」
「泣くなよ、そんなに・・・泣くなよ・・・・・
美香ごめんね。悪かった。俺美香に・・・美香の事を・・・」
「どうしたの?隆さんまでそんなに涙ぐんで、ねぇ泣かないで。ごめん泣かせてしまって。
隆さん優しいから。ごめんね。本当にごめん」
「違うんだ!違うんだよ。俺美香に謝らなきゃ。
俺謝らなきゃ・・・」
「なんで?」
「苦しかったよ・・・辛かったよ・・・でもよかった!良かった。」
「どうしたの?何が良かったの?ねぇ言って?」
「美香、両親が殺された時、美香は間違いなくここで居たんだね?」
「そうよ。」
「鳥取へ行っていたと言わなかった?」
「其れは動転していて警察に言ったかも知れないわ。
だって土地勘ないんだもの。それがなに?」
「間違いなく城崎で居たんだね?」
「そうよ。慌てて帰ったの覚えているもの」
「そうか・・・そうか・・・とんだ取り越し苦労を。まいったなぁ・・・よかった。」
「ねぇどしたのよ。意味わかんない?」
「これを見せるよ。見て」
「何?メモ?」
「これ、花村徳之進さんが書いた日記」
「花村のおじさんが?」
「花村さんの一年の法事の後、奥さんから預かり、それを黙ってこのページをこそっと千切って持っている。読んでみて」
「解った。読むわ 」
「野呂君が結婚すると言う。奥さんとは円満に別れたようだが、私の選挙が相当絡んでいる事は間違いない。ただ奥さんも機嫌よく出て行ったからせめてもの救いだろう。お互い又新しい人生を幸せに歩んでくれる事を願うばかりである。
だから野呂君の結婚は目出度い話と捉えていいように思われる。披露宴は中止に成ったのは、別れた奥さんに対する思いやりだろう。
ただ隆君のその相手が美香さんだと聞いて、私は分かりつつも仰天した。田所の人間と思うと因縁めいたものさえ感じた。
美香さんと一緒に成ると言う事は、私には余りにも乱暴な事にしか見えない。
ただ幸せになって貰いたいものだ。
取り敢えずおめでとうと言いたい」
「今日は野呂隆さんと雑談。
一層美香さんの事を口にしたかったが、でも止めておくほど良いって誰かが言っているように思えた。余計な事を言えば、其れは余計になる。子供も出来たようだし更に御法度か」
「しかし私はどうしても忘れる事は出来そうにない。あの事実を忘れる事など考えられない。何故なら、未だあの事件は解決していないからで、犯人がこの街で潜んでいるかも知れないからである。
田所敏明、田所安枝夫妻が殺されたあの事実が、今なお脈々と心でマグマのように動き続けている事は紛れもない。
そう、はっきり覚えている。
あの日私は薄暗い中で、何時もの様に犬の散歩の準備をしていた。そして勝手口のドアを開け外へ出ようとした時、戸木村さんが椎茸の出荷で市場へ出る所であった。いつもの光景である。
二トン車に椎茸を一杯積んで、荷台は上からシートが掛けられて居て、見慣れた光景に何の違和感も無かったが、でもその時私はその荷台のシートの下へ、若い男女が隠れて乗り込む姿を見た。
何が起こっているのか私にはわからなかったが、よく目を細めて見ていると、男の方は見当がつかなかったが、女性は間違いなく田所の美香さんである事がわかった。女だからかもたもたしながら荷台に乗り込んでいた
不思議な事だったが、トラックはすぐに走り出し、木戸村さんはそんな事全く知らないように、私の前の道をいつものように通り過ぎて行った。
それでも何事か私にはわからなかったが、その日の昼前になって、大惨事が起こっていた事を知った。
其れは田所敏明さん、田所安枝さん夫婦が殺される残虐な凶悪殺人事件であった。
二十年余り前私はあの事件が起こった日の朝、美香さんが男と一緒に木戸村さんのトラックの荷台に乗って、出て行った事は今でもはっきり覚えている。
でも新聞によると、当日の美香さんは、警察には友達と旅行をしていたと成っている。だから何も知らなかったと、
其れも旅行は男友達と大学の寮から出ているので、同室の里川由美さんも同じ事を証言している。ただ行先は美香さんしか知らない様であるが・・・
私は毎日のように警察が来て、検証をしている姿を見つめながら、あの朝見た事を口にしたかったが、万が一間違いであればとんでもない事になり、両親が殺された一人娘に疑義が圧し掛かれば、ただ事ではないと思い、あの時は黙って何もかもを静観する様に努めていた。
❿
それから一日でも早く犯人が見つかるように願っていたが、外部と繋がる道のパトロールカメラには、不審者も不審車両も一切写っておらず、身近な者の犯行ではないかと警察は見解を述べ、町中に異様な空気が漂っていた。
もし美香さんが何かを知っていて、その時見たトラックの荷台に隠れて逃亡したのなら、カメラには映って居ないだろうと思えた。
あれから二十年余りが経ち、未だ犯人は判らないままで、迷宮入りしそうな感じに成っている。
美香さんも隆君と夫婦になり、今は幸せを掴んだようである。たとえ事実がどこにあっても、美香さんが今幸せである事は、更なる事実なのであり、何よりも優先されるのである。
だから私はこの様に書き記しながらも、この件に関して、墓場まで持って行くのが妥当かと思う。
とは言うものの、さてどうする・・・犯人はどこかに居る・・・これでいいのだろうか・・・これで迷う事なく人生を全う出来るだろうか?」
読み終わった美香は目を光らせて、
「おじさん、花村のおじさん、間違っているわ。私じゃないよ。おじさんしっかり見てよ。
隆さん、こんなものに惑わされて苦しんでいたのね?
しっかり見ろよ!おじさん、しっかり見てよ。おじさんのバカ!隆さんに誤ってよ!隆さんに助けてもらったのに・・・畜生!誤ってよ!」
「美香、いいから、もういいから、もう終わったから」
その夜は城崎温泉のひなびた宿で隆と美香は久しくして愛を確かめあった。
深夜になり、お腹が空いてきた二人はソファーに座り、美香が冷蔵庫からつまみを取り出し、頬張りながら、花村徳之進が書いた日記をテーブルの上に置き、
「怖いね。日記にこんな事書かれて、これがまるで真実に成るかも知れないのだから、堪ったものじゃないわ。」
「歴史なんてこんなものじゃないのかな?饒舌で達筆な人が歴史をおもしろおかしく書き残せば、それから何百年も経てば古文書と成り、それが歴史に成るような気がするな。怖い話だね。」
「よく言う冤罪って奴も、こんなものかも知れないのね。だってこれってすごい証拠に成るじゃない。まして書いた花村のおじさんは亡くなっているし」
「全くだね。それで一体誰だろう?美香に似た人って?」
「私に似たひと?でもこの日記本当の事かな?」
「まっさら嘘なんか書かないと思うよ。花村さんそんないい加減な人じゃなかったから。むしろ信頼の置ける人だったから。まして墓場まで持って行こうと思った話だし、それ故に俺は信じて、苦しまされて、辛い思いをさせられたけど」
「なら、現実の話ね。」
「俺はそうだと思う。美香が二十歳のころに長瀬、若しくは平田川町で、美香によく似た女性が居なかったって事だね」
「私に似た女性?同級生では居なかったなぁ」
「わからないかな?」
「待って、顔とかと言うより、同じような格好をしていた人を見かけた事があるわ。
何時だったか判らないけど、全体の雰囲気がよく似ていた人が居た事を覚えているわ。いつだったかなぁ~」
「それが誰だか判るの?」
「だれって?長瀬の人じゃないと思うわ。だって子供の頃からは見ていないもの。大人の女性だったと思うわ。どこかから来ていた人よ。
そうそう、思い出して来た。煙草をふかして居る姿を見たのよ。あの時、よく似た恰好をしていて、印象に残っているわ。」
「どこで?」
「私が道を歩いていて、それで家の前の庭でタバコを吸っていたのを見かけたんだっけ。目が合ってちょっと怖くなって・・・自分と同じ様な服を着ていたら嫌でしょう?」
「其れはどこで?」
「杉原さんってあるでしょう?あそこの家の前で」
「杉原さんの家で」
「たぶん息子さんの友達だと思うわ。派手な感じだったから、息子さんも結構派手だったの、遊び人風で」
「其れって間違いないかな?」
「ええ、段々と確かに思い出して来ているから。あの時の女の人の顔も思い出して来たわ。怖かった仕草も」
「どうも間違いない様だね」
「ええ」
「その人に聞けば何もかも解るかも知れないね」
「事件の事?」
「うん、間違いは許されないけど」
「あの人と私を見間違えたのでしょうか?でもこの日記には男の人も書かれているわ。つまり杉原さんの息子さんなのかな?」
「そうなるなぁ」
「ではあの息子さんが父さんや母さんを?」
「かも知れないね。」
「隆さん、怖くなってきたわ。同じ長瀬の住民が父さんや母さんを殺したかも知れないなんて思う
と」
「でも杉原さんは亡くなったんだよ」
「お父さんの方?いつ?」
「未だ最近に」
「では息子さんはどこで生きているの?長瀬には居ないでしょう?」
「それはわかると思う。親父の喪主をしていたようだから。平田川町からもお葬式に同級生とかが行った様だから」
「それでどうして調べるの?間違っていたなら悪いから?」
「それは何とかなるよ、元警察官って人が居るから春子おばさんが教えてくれたから。あの事件を担当していた元刑事さんなんだ。」
「そうなの。其れはそうと、でもこの旅行には大きな意味があったよね。一生忘れられない思い出になりそうよ。」
「更に犯人が捕まれば尚更だけど。とにかく帰ったら聞いてみるよ。」
「春子おばさんたちに言ってもいいのかな?」
「其れはまだ時期尚早だな」
「わかった」
人間は苦しんでこそ見い出せるものがある様で、そこを避けていれば、いつまで経っても結果も出ないし、トンネルを抜け出す事も出来ないのか、この度の家族旅行は、百年の計にも劣らない企画となった。
家族の中に歪になった出来事があると言う事は、其れは夫婦の関係なら亀裂となり離婚に繋がるわけで、隆にとって言うまでもない教訓であった。
どれだけ妻の美香を疑い苦しまされたか、近くに見える花村家の奥さんの姿を見ては、喉まで手の出る思いであった。
それでも花村徳之進は正義感に満ち溢れた自分でありたいのと、そこに人間としての奥ゆかしさを共に求めた結果だったように思われた。
それから数日が過ぎ隆の頭も美香の心も落ち着いてきた頃に、二人で元刑事野平順平を訪ねていた。
「そうですか、あなたがあの時の御嬢さん。あの頃は大学へ行っておられましたね。それから辛い毎日が続いていた事も十分把握させて貰っています。よく頑張られた。お子さんも二人ですか・・・
とっても幸せなのですね。よかった。お父さんとお母さんの分も幸せにならなきゃ。私も嬉しいです。応援しますよ。
それで本題をお聞きしましょうか?」
「はい、先ずこれを見て戴きたいのですが、この部分を」
「これは何ですかな?」
「事件当日に書かれた日記です。書いた方は町議会議員をされていて、既に亡くなられましたが、花村徳之進さんの言わば遺構の様なものです。」
「なるほど・・・読ませて戴きます。
《二十数年前私はあの事件が起こった日の朝、美香さんが男と一緒に木戸村さんのトラックの荷台に乗って、出て行った事は今でもはっきり覚えている。
でも新聞によると、当日の美香さんは、警察には友達と旅行をしていたと成っている。だから何も知らなかったと、
其れも旅行は男友達と大学の寮から出ているので、同室の里川由美さんも同じ事を証言している。ただ行先は美香さんしか知らない様であるが・・・
私は毎日のように警察が来て、検証をしている姿を見つめながら、あの朝見た事を口にしたかったが、万が一間違いであればとんでもない事になり、両親が殺された一人娘に疑義が圧し掛かれば、ただ事ではないと思い、あの時は黙って何もかもを静観する様に努めていた。
それから一日でも早く犯人が見つかるように願っていたが、外部と繋がる道のパトロールカメラには、不審者も不審車両も一切写っておらず、身近な者の犯行ではないかと警察は見解を述べ、町中に異様な空気が漂っていた。
もし美香さんが何かを知っていて、その時見たトラックの荷台に隠れて逃亡したのなら、カメラには映って居ないだろうと思えた。
あれから二十数年が経ち、未だ犯人は判らないままで、迷宮入りしそうな感じに成っている。
美香さんも隆君と夫婦になり、今は幸せを掴んだようである。たとえ事実がどこにあっても、美香さんが今幸せである事は、更なる事実なのであり、何よりも優先されるのである。
だから私はこの様に書き記しながらも、この件に関して、墓場まで持って行くのが妥当かと思う。
とは言うものの、さてどうする・・・犯人はどこかに居る・・・これでいいのだろうか・・・これで迷う事なく人生を全う出来るだろうか?》
成程、私はどうすればいいのかな?」
美香が語気をやや荒げて
「刑事さん、これってわたし知らないのです。花村のおじさんの見間違えだと思うのです。
其れで彼と話し合って、私に似た人があのころ長瀬でも平田川町でも、居たのじゃないかと話し合ったのです。
花村のおじさんは滅多に嘘を付く人ではないし、まして公にする気も無かった様だし、つまり私に似た人を見た事自体は事実だと思うのです。
それで、二人で思い出していると気が付いた事があり、確かに似た人とわたし出会っている様に思われるのです。」
「ほ~なるほど・・・しかしトラックへ乗った事を目撃されたとしても、其れであの事件と繋がるのかな?位置関係は?」
「私の家があり、それから二百メートルほど下ると、椎茸栽培をしている木戸村さんの家で、そこからほんの僅かで花村さんの家があります。」
「なるほど。それで貴方に似た人って?」
「はい、二十年以上前ですが、私が長瀬地区の町道を歩いていて、杉浦さんの家の前に差し掛かった時、杉浦さんの庭でタバコを吹かしていた女性が居り、派手な感じで、でもじっと見てしまい、目が合い睨むように見られドキッとしました。
何故気に成ったかと言うと、彼女が着ていた服が同じ様なデザインだったから、何となく恥ずかしいような、変な気持ちに成ったのです。
花村さんが見たのは、おそらくこの人ではないかと二人で話し合いました。」
「それでその杉原さんの家はどこに?いや待って下さいね。手帳を持ってきます。
お待たせ、これだ、これだ、
実は杉原って言われたから何か引っ掛かって、それで・・・成程・・・わかりました。取り敢えず調べる必要があるようだね。」
それまで黙っていた隆が満を持して口を挟んだ。
「野平さん、俺花村さんの一周忌にお参りして、奥さんからこの日記帳を渡され正直随分苦しみました。 美香がまさかあの事件に関係しているのではないかと、眠れない夜が続いていました。怖かったです。
余りにも残酷な出来事で、其れに関わっていると思うと」
「そりゃそうでしょう。前代未聞の事件でしたからなぁ」
「それで先日になりますが、妻が事件当時旅行に行っていて、そこで事件を知ったと言う島根まで行ってきました。時間を巻き戻すように
でも本当は島根ではなく城崎温泉だったのです。間違っていた事は間違っていたのですが、妻に確固としたアリバイがある事がわかり、胸の中に詰まっていた何もかもが瞬時に消える事に成ったのです。ですからこの日記でどれだけ惑わされたか計り知れません。」
「それであなたはいつの日か尋ねて来られたのですね?奥さんの身を案じて」
「はい。でもそれもあったけど、一つ屋根の下で、妻と一緒に暮らさなければならない事実が、正直怖かったです。」
「あの殺人の首謀者ならそれは大変でしょうねぇ。身の毛もよだつ話です。」
「其れで刑事さん、この杉原って人を調べて頂けるのですか?」
「調べる必用はありますね。貴方の記憶に狂いがないなら」
「私たちは何をすれば・・・」
「いえ、ここからは警察にお任せ下さい。私が平田川の派出所に話を持って行きます。私から言うほど話も早いでしょう。本署には瞬時に伝わり動いてくれると思います。
只二十数年前の出来事です。貴方と目があった女性も、今ではいいおばさんに成っているでしょう。
しかし犯人に繋がる可能性があると考えるなら、犯行は力のある男の仕業だと思われます。
中々女性で二人の人の頭を斧の様なもので、叩き割るって動作は出来ないと思います。
ですからこの女性が黒であるなら、間違いなく杉浦の倅も黒だと思われるのです。
よって時間が掛かるかも知れませんが、あなたが覚えている女性をまず探して貰います。
何故なら犯人なら落ちやすいから、それに反対にすると口封じの為に殺されるからです。主犯格は間違いなく死刑ですからね。」
「解りました。お願いしておきます。」
それから年も変わり五か月近く過ぎ、桜が川辺の色を変えて、見事に平田川の至る所で宴が繰り広げられていた。
「みんな酒が好きだなぁ全く」
町中で同じセリフを吐く酒飲みが屯していて、寒い冬の間眠っていた年寄りも、蕗の薹の様に息を吹き返した如く元気な姿で騒いでいる。
そのうち夏を迎えれば、また例年通り鮎釣りの季節に成る。
太公望が竿を並べて腕を競い合う。
隆も十メートルの竿を仕込んで、虎視眈々と腕を磨き釣果を狙う。
やがて夏になり、隆と美香が元刑事野平順平を訪ねた時から八か月近くが過ぎていた。
相当重要な話を持って行ったと思っていた二人にとって、可也期待をしていた事は間違いなかった。
それでも警察が何一つ言って来ない事に、少々苛立っていたが、丁度鮎釣りの解禁日となり、隆は心の中で嫁の美香が今は間違いなく幸せになって居る事実で、犯人追求は警察任せで半ば諦めていた。
隆にすれば犯人の逮捕より、美香の容疑が晴れた事が全てに近かった。
六月三十日、二人の結婚記念日である。隆は大袈裟な式をする事を避けていた。前の奥さんとの間で綺麗に成ってから間が無かったから、既に美香の家で住んでいて、役場の住民課に婚姻届を出したのが六年前のこの日であった。
鮎釣り解禁日、隆は真新しい竿を手にして、颯爽と平田川へ向かっていた。すでに多くの太公望が竿を並べている。
「おーぉ新米さん来ましたね。」
「おはようございます。よろしくお願いします。」
川は広いのであるが何せ釣り人も多く、隆は気を使いながら間に入れて貰った。
慣れない竿と覚えたての何もかもであったから、はっきり言って巧くなど行かない。もたもたしながらおとり鮎をつけていると、後ろから井村さんが見ていて、
「なかなか難しいでしょう。その内慣れますから」
優しくそう言って笑顔で見守っている。
「凄い人ですね。この街は春の桜と夏のアユで生き返った様に成りますね。こんなに人が来て活気があり、でも冬なんか人の気配すら無いですからね。」
「そうですね。若者は出ていくから、日本中同じ現象が起こっていると思いますよ。田舎は」
「でも俺の様に都会で住んでいて、こうして縁あって田舎に移り住んで、その良さを知って、今まで知らなかったゆったりとした満足感は、何か取り戻したような気に成りますよ。」
「そうですか?多分私はその所を感じているから、こうして田舎で楽しく暮らしているのでしょうね。」
「そうそう、前に釣具屋で出会った時に、丁度この竿を店主が買ってくれないかと言われて、それでお邪魔した時、あなたとお会いしましたね。」
「そうでしたね。それがこの竿なのですか?立派な竿じゃありませんか。本格的ですなぁ・・・相当釣果が上がりますよ。」
「えぇ楽しみにしています。
そうそう、あの時お友達が亡くなられた時でしたね。杉原さんて方が?」
「そうでした。あの時でしたね?あっけないものですよ。あの悪さ坊主ももう居ないのですから」
「同級だったと言っていましたね。」
「そう、貴方だってあいつの事は色々聞かれているでしょう?殆ど良からぬ話を。
長瀬地区の人はみんなあいつの事を嫌っていたから、あいつが選挙に出るって言った時、私なんかは賛成しましたよ。田所一族が牛耳っているこの街をどうにかしたかったからですよ。
貴方にはっきり言って悪いけど。でもこの街は田所一族にとっては問題無いと思うけど、過疎化が
進み、若者が出て行き、良い事なんて何もないでしょう?
我々のような年寄りがいくら住み良いって言っても、じゃぁ若者はって成った時、真逆でしょう。
随分前に成りますが杉浦は、平田川の将来を熟知した考えを持っていましたよ。ただ評判が良くなかったから」
「何故そんなに評判が悪かったのですか?」
「田舎だからですよ。何もかもをあの男に被せるって言うのか、何か悪い事があれば、先ずあの男を疑うって成ってしまって」
「でもそう成るには、それなりの根拠があるでしょう?誰も闇雲に人を疑ったり傷付けたりはしないと思いますよ。」
「あいつ山の仕事をしていたから、木を誤魔化したとか、人の山に手を出し勝手に処分したとか、其れなりの事はあった事は確かで、それにこの街でそんな噂が出れば命取りに成るわけですよ。
本人はそんな事無いと我々に言っていましたが、でも悪く言う人は語気を荒げて言うでしょう?
だから初めて耳にする人は、まるで全て事実に思うのです。
杉浦の子供も可哀想に、この上の神社のお賽銭が失くなった事があり、あっと言う間に噂で『杉浦の倅がやった』と誰かが言って、其れで広がって、私は杉浦から聞かされていたのは『絶対息子ではない』と言う言葉で、可哀想にと思いました。息子さんにも聞きましたが、知らないって言っていました。
いやぁ、折角楽しみにしていた鮎釣りに来られたのにこんな話をしてしまって、」
「いえ、こちらこそ。そうなのですか?人は見かけや噂だけで判断してはいけないですね。嫁の父親も山仕事をしていてあんな大層な事故を越し、本家の春子さんから見ると、きつい事を言う性格に成ったようですが、杉浦さんの事をどんな言い方をしていたのか・・・」
「そうですね。春子さんはそんな事よく言っていましたね。やりにくそうに。でも他の人はともかく春子さんにも倫太郎さんにも、お父さんは従順だったと思いますよ。二人とも優しかったから。」
「それで杉浦さんの息子さんは、今はどうしておられるのですか?」
「いやぁ立派なものですよ。飯田市でお好み焼き屋をやっていて繁盛しているようですよ。賽銭泥棒と言われたあの子が・・・随分前からやっているようですよ。」
「でも噂とは裏腹に実は真面目な人かも知れませんね。」
「ええ、その様に思いますよ。私なんか特に親子を知っていますから。ただたった一度でも間違った事をすると、それが親父の方でも息子の方でも、田舎では一瞬にして広がり、決して許して堪えないですからね。」
「でも息子さんが成功していてよかったですね。嫌な噂にも負けずに」
「ええ、親父も浮かばれると思いますよ。」
ところがそんな話を井村さんから聞き、杉原良助の息子伸介が、事業に成功した事を知った隆は、複雑な思いであった。
妻美香と一緒に考えた推理は見事覆され振出しに戻っていた。
元刑事野平順平も一向に連絡して来る素振りもなく、いよいよ事件は闇に包まれたままで晴れる事の無い出来事に成る様に思えてきた。
ところで鮎は全く追わず掛かりそうにもない。立派な竿を手にしながら、不甲斐無い腕に苛立つ思いであったがこればかりは仕方ない。
周りの連中はコンスタントに鮎をかけている。見るからにベテランと言わんばかりの連中である。何十年同じ事をして来たか、計り知れない。隆は竿を置き岩井の矢代さんを見つけて近付いて行った。
「師匠、こんにちは。さっぱりです。全く掛かりません。」
「掛からない?」
「はい」
「こんなに掛かっているのに、あんた掛かり過ぎて休んでいるものと私は思っていたのだけど、長らく井村さんと話をされていたから」
「いえ、まったく」
「掛からないって?私の竿を持って見て、」
「はい」
「それで軽く引きながらじっと待って、駄目ならまたそっと引き」
「あっ来ました。ガガーンと手元に」
「掛かった?掛かったね。鮎釣りなんて簡単だから掛かるよ。」
「どうして俺のは掛からないのでしょう?」
「下手だからだよ。良い竿持って、恥ずかしいね。」
「なるほど、旨いものですね。やっぱり」
「今と同じ事をすればいいから・・・簡単だから」
「はい」
そうこうしている間にまた大勢の釣り人が集まってきて大騒ぎになってきて、隆は慌てて酒屋へ行き、ビールとおつまみを両手に抱えてみんなの元へ戻ってきた。
「皆さん飲んでください。去年御馳走に成ったお礼です。今日は解禁日、お祭りでしょう?」
「そうだよ。鮎もいくらでも掛かるから、解禁日は特に楽しいなぁ」
「それが幾らも掛からない人も居るようだよ。」
「そんな人いるの?顔を拝みたいな」
「あんたにビール配っている人」
次話に続きます
第二部分にに続きます。