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第9話 第二次マレー沖海戦(1)

 第9話『第二次マレー沖海戦(1)』

 

 

 1941年12月25日

 英領マレー半島


 当時、東南アジアという言葉はあまり使われていなかった。何故なら東南アジアの国々は独立していたタイ王国を除き、西欧列強諸国の植民地だったからである。少なくとも当時は考古学や民族学用語としてのみ普及していただけで、地理用語として用いられるようになったのは1942年のことである。そのため、大日本帝国においても同地域は漠然と『南方』という形で一括りにされており、この南方の国々を確保して石油等を始めとする資源を掌握、長期的な自給体制の確保を目指したのが『南方作戦』であった。

 南方作戦は1941年12月8日深夜、帝国陸軍第二十五軍のマレー半島コタバル上陸作戦から始まった。これが『マレー作戦』と呼称される侵攻作戦で、目標は英領マレー半島及びシンガポール占領だった。当時、マレーには約9万名の駐留軍がおり、またシンガポールにおいては英東洋艦隊が駐留していたため、東南アジア随一の軍事拠点だった。その脅威は計り知れないものがあり、大日本帝国軍は南方作戦完遂のため、その障害を排除することを決意する。

 結果として見れば、『マレー作戦』は大日本帝国側が緒戦から大きな戦果を上げることとなる。無事コタバル上陸に成功した帝国陸軍は半島を横断し、一路シンガポールを目指した。また帝国海軍は12月10日、マレー半島東方沖にて英海軍の新鋭戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』『レパルス』を撃沈。その事実は西欧列強にとっては衝撃的だった。この後、史実ではインド洋に進出していた東洋艦隊の大部分が日本軍の航空攻撃を警戒し、マレー方面進出を断念することとなる。

 しかし『イグニア帝国』の台頭とアメリカの消失、そして英イ両国の間で結ばれた密約――12月11日、『チャートウェル』での会談から『チャートウェル密約』と呼ばれる――を経て、その海軍戦略は大きく見直されることとなった。英首相ウィンストン・チャーチルは対ソ向けの支援を大幅に打ち切るとともに、マレー半島の英駐留軍には死守命令を改めて厳命した。更に本国・アフリカ戦線の兵力を引き抜き、マレー半島防衛に回すことを決定する。

 また12月13日には英海軍省に乗り込み、マレー半島及び南方地域での日本軍補給線の遮断作戦を下命する。そのためにまず英海軍は制海権を掌握することを目標として、空母『ヴィンディクティヴ』『ヴィクトリアス』『オーダシティ』計3隻の空母を基幹とした機動部隊を編成。1月10日のシンガポール到着を目指して出撃した。

 また一方でチャーチルは英海軍に対し、空母の増産を指示する。これは『マレー沖海戦』の教訓もあるのだが、一番の理由は主力空母・戦艦の喪失だった。1941年12月当時、英海軍の空母『イラストリアス』『フォーミダブル』『インドミタブル』『フューリアス』や戦艦『ウォースパイト』等は、アメリカ東海岸ノーフォーク海軍工廠で修理を受けており、当然ながら『イグニア帝国』の出現とともにそれらの艦を英海軍は喪失していたのだ。英国政府はそのことを理由に『イグニア帝国』に対して損害賠償を請求しようかと本気で考えているが、その案は帝国側からは「不可抗力であり、同国に履行する責任・能力はない」として一蹴されている。

 今回のマレー方面派遣に関しては、英国内では複数の意見が飛び交っていた。まず欧州戦線の戦力を引き抜くことに関する懸念が上がり、次に『マレー沖海戦』を″不幸な偶然″として主張し、南方方面の戦局を楽観視する声が上がった。これに対してチャーチルは断固とした構えで南方方面の重要性を主張して、これらの考えを退けた。また英海軍としても『マレー沖海戦』の雪辱挽回と、『イグニア帝国』の一件で失墜した権威の取り戻しを狙う意図もあり、海軍内部には比較的賛同する人間が多かった。かくして英機動部隊のマレー派遣が決定、実行に移されたのである。


 碧海と蒼穹、燦々と日が照り付ける夕刻のシンガポール湾にはイギリス・アメリカ・オランダ・オーストラリアと、4つの国籍の軍艦が乱雑していた。空には北東から風に乗って運ばれてきた羊の毛のような、ふわふわとした雲が増えてきた。時計の針が5を刻む頃には、それが固まって厚い灰色の毛布となり、地を衝くような豪雨が降り注ぎ始めた。

 車内はしんとしていて、タイヤが雨に濡れた路面を走る音と、ワイパーが静かにフロントガラスを擦る音の他には、拳のような雨粒が車体を殴り付ける轟音しか聞こえなかった。やがて椰子に囲まれた緑の道の間から『ラッフルズ・ホテル』が忽然と姿を現した。くねった通りを走り抜け、ジョフリー・レイトン英海軍大将を乗せた車はビーチ・ロードに入った。 

 この街――シンガポールは長大な植民地を持つ英国にとって重要な位置付けにあった。東南アジアと東アジア、ヨーロッパや中東、オーストラリアを結ぶ交通の要衝である為、東西貿易の拠点となって古くから繁栄し、海運産業と石油化学産業においては東南アジア域最大規模の発展を見せていた。

 そんなシンガポールに陥落の危機が迫っている、ということをレイトンはよく理解していた。今やその命運を握っているのは自分だが、はたして勝利の道筋はあるのか……。前任者のトーマス・フィリップス提督は艦と運命を共にしたが、自分はどうだろうか。と、彼はよく考えていた。

 車はラッフルズ・ホテル前の通り、ビーチ・ロードの前で停まった。横殴りの豪雨の中に飛び出したレイトンと東洋艦隊司令部参謀長のアーサー・ビショップ海軍少将は身を屈めて、必死でラッフルズ・ホテルへと走った。マレー人の純白のボーイ――白い制服と帽、そして手袋に身を包んでいた――が駆け寄り、傘を頭上に掲げてくれたので、2人は何とか難を逃れた。

 「酷い目に遭いましたね」ビショップは言った。

 扉が開き、2人が濡れた体で入ってきた。エントランスホールに立っていたイギリス海軍の衛兵がこれを見て折り目正しく敬礼し、持っていたハンカチを渡してくれる。

 「ありがとう」と、2人は警備兵に言葉で返した。

 「そうだ、ハート提督はいらっしゃるか?」レイトンは訊いた。

 「はッ、閣下は『ティフィン・ルーム』にて、軽食を摂られているかと……」衛兵は言った。「ご案内致しましょうか?」

 2人は頷いた。

 

 純白の眩い内装、コロニアル様式独特のフローリング張りの床、天井が高くファンが回り、背筋を伸ばした白い制服のウェイター達が、軍服を着た男達の間を歩き回る。ホテルロビーの左手奥にあるこのレストラン――『ティフィン・ルーム』は現在、イギリス海軍と米海軍の提督達の憩いの場となっていた。プライドの高い彼らは、一般士官達のように昼間から2階の『ロング・バー』で酒を飲んで酔い、暴れ回る訳にいかないからだ。それでは誇り高きロイヤル・ネイヴィーの名が廃る。とりわけ、レイトン大将はティフィン・ルームがお気に入りだった。

 外は雨脚が弱まってきていた。2人が店内に入った頃には細かい霧雨に変わって、途切れ途切れになった雲間から紺碧の空が覗いている。

 米海軍アジア艦隊司令長官トーマス・C・ハート海軍大将は、真っ白にテーブルクロスが掛けられた4人用テーブルに1人で座り、書類の山に囲まれながら執務にあたっていた。ウェイターがサンドイッチやスコーンを載せたケーキ・スタンドを運んできて、ハートは胃袋へ送り込む作業に取り掛かった。レイトンはその席に歩み寄り、折り目正しく彼に敬礼した。

 「ハート大将」レイトンはそう言い、頭を下げた。「本日はこうしてご足労頂き、恐縮です」

 「……よして下さいよ、提督」ハートは立ち上がり、2人と握手を交わした。「さぁ、どうぞ、お掛け下さい」ハートは書類の山を掴むと、手を挙げて従兵に退けさせた。そして彼はレイトンとビショップに、席を勧めた。

 数分後、2人分のティーセットがウェイターによって運ばれてきた。温かな紅茶が純白のティーカップに注がれ、焼き立てのスコーンとヨークシャー・プティング、そしてソーセージが白磁の皿に盛り付けられる。レイトンはクロテッド・クリームを塗ったスコーンを頬張り、ビショップはサンドイッチを口に入れた。

 ハートは2人の顔色を伺った。「お味はいかがです?」

 「本国の料理よりいけますね。それは保障しますよ」

 皮肉交じりにレイトンは言った。

 「……それにしても、日本軍の爆撃が最近多いですなぁ。間違ってここに爆弾でも落とされなければいいが。そうなってしまっては、これが最後の晩餐になりますからね」

 ハートもまた皮肉で返した。「今や私は祖国を失った身。それもまた良いのかもしれませんが、最後に一度でも日本人に一矢報いてやりたいのです」

 英国の情報網を通じて、ハートや彼が普段駐留しているフィリピンにはアメリカ消失の報は既に届いていた。そして現在、アメリカに取って代わった『イグニア帝国』という国家が、イギリス・カナダ・ドイツ・イタリア・日本・オーストラリア・南米諸国等と国交を正式に樹立している事実も把握していた。

 「フィリピンの情勢は?」

 「……米比軍はマニラを捨てました。明日にも『無防備都市宣言』を出します」ハートは答えた。「マッカーサー司令官はバターン半島を死守する方針で固めた訳です。マッカーサー司令官がコレヒドール島に籠城し、マニラ港を失った今、我々米海軍はあなた方に頼らざるを得ません」

 レイトンは頷いた。「必ずや日本海軍を打ち破って見せましょう。あなた方と、我々の手で」



 1941年12月26日。フィリピンの首都マニラで『無防備都市宣言』が出され、マレー半島では帝国陸軍が南下を進める中、マレー方面に派遣された英海軍機動部隊の第一陣がスエズ運河に到達していた。それは英海軍が誇る空母『ヴィクトリアス』とその護衛艦隊だった。


 

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