第7話 乗り損ねた船
第7話『乗り損ねた船』
1941年12月11日
イギリス/ケント州
一面が緑に覆われ、漆黒に染め上げられた農道を、黒塗りの高級車が駆け抜ける。ヲーターハムから西に2マイルほどのこの地には、かの新首相ウィンストン・チャーチルが壮年期を過ごす一軒のカントリーハウスがあった。
『チャートウェル』として知られるその家の歴史は、1922年にチャーチル夫妻によってこの地の80エーカー近い土地が買収される所から始まる。この地の渓谷の風景に魅了されたチャーチルの提案であり、邸宅の周辺には池やバラ園が造られた。そして、1965年までの約40年間の間、チャーチル一家はここに住み続けることとなった。
「例の『イグニア帝国』だが、その後は何か掴んだのか?」
車両後部座席。チョークストライプのスーツに上質なローン生地の白シャツ、そして特徴的な水玉の蝶ネクタイに身を包んだ、恰幅の良いこの人物は、隣の黒いスーツの男に訊ねた。黒スーツの男は頷き、膝上に置いてあった抱鞄から、一冊のファイルを取り出した。
「首相閣下。あの国はどうやら旧ワシントンDCに首都を築いているようです」黒スーツの男はそう言い、更に話を続けた。「首都名は『アルヴィオン』。国家元首は皇帝フィリップ8世で、帝国自体はその首都を含めた皇帝直轄領と、14の領州によって構成されている模様。国家体制としては、旧プロイセンの『外見的立憲君主制』に近しいものとなっています。帝国には憲法があり、そして議会や内閣がありますが、皇帝の権限が非常に強いようです」
「なるほど、それで米国は全てその『イグニア帝国』に取って代わられたのか?」
恰幅の良い男――イギリス首相ウィンストン・チャーチルは徐に葉巻を取り出し、咥えながら訊いた。
「現在、我々МI6内で掴んでいる情報としましては、少なくとも米本土とハワイ、アラスカは帝国領に取って代わられたようです。カナダ支局からの情報でして、まだ精査が必要となりますが……」
「彼らの外交特使……だったか、アレは拉致出来ないのか?」
チャーチルの問いに瞠目しながらも、МI6諜報員は被りを振った。
「どうやら彼らの魔術は本物のようです。それは不可能でしょう」
「……あの薄気味悪い白肌の連中め、何か解せんな」
ふとチャーチルは咥えていた葉巻をシガーボックスに収めながら、訝しい表情を浮かべた。彼はその心中で、何か――″見逃した事実″があると睨んでいた。特使は優秀な外交官であり、優れた魔術師だという話だが、外交官というよりはまるで工場の労働者のような印象を覚えていたのだ。彼らは様々な要人に向けて、自分達が平和の使者であるということと、また強大な魔術を有しているという事実を強調して語っていた。そこがどうも引っ掛かるのだと、チャーチルは考えていたのだ。
「日本が『真珠湾』を攻撃し、我々は今頃アメリカと同じ船に乗っている筈だった。ドイツやイタリア、日本といった枢軸国を打倒する者達の船に。だがそこに『イグニア帝国』という遠い隣人が列に割り込んできて、我々はその船に乗り損ねた訳だ。何処で間違ったのだろうな……」
チャーチルはそう呟き、流れ行く車窓の風景をぼんやりと眺めていた。
午後10時頃。ウィンストン・チャーチルの私邸『チャートウェル』1階の書斎には、家主たる彼の姿があった。ドイツ第3帝国アドルフ・ヒトラーと同じく夜型人間の彼にとって、この時間帯はまだ執務時間だった。МI6の職員を乗せた車を見送り、軽い夜食を摂った後、彼は明日ロンドンで行われるイグニア帝国との会談に向けて、その準備を進めていた。明日の会談はイギリスにとって国家の命運を賭けた行事であり、同時にこの世界の人間とイグニア帝国が初めて国交を結ぶであろう重要な日でもあった。
「夜分遅くに失礼します。チャーチル卿」
「……あの外交特使ではないのか?」
ふと違和感を覚えたチャーチルは見下ろしていた卓上から顔を上げた。するとデスクの前には、見たことの無い服装の男が立っていた。まるで19世紀から抜け出てきた貴族の服装をした男――白人のようだが、以前にチャーチルが顔合わせをした透き通るような白肌の人物達とは違い、自然な肌をしていた。髪は黒く、チャーチルと同様に恰幅が良いようだ。
「えぇ、彼らの仕事は一段落しましたので。私が引継ぎました」男は言った。「申し遅れました。私、チャールズ・カーティスと申します。駐英イグニア全権大使として、明日の会談に参加させていただく予定です。お見知りおきを」
カーティスはそう言い、チャーチルに握手を求めた。
「えぇ。こちらこそ、しかしこれからはしっかりと約束を取り付けて貰いたいものですな」チャーチルは渋面を浮かべながら、握手を交わした。
「さて、客人をお招きしたんだ。酒はどうです?」
チャーチルはそう言い、デスクの引き出しからブランデーの酒瓶とグラスを取り出した。彼は返事を聞かない内に、ブランデーをグラスに並々と注ごうとしたが、客人は静かに被りを振った。
「お構いなく。酔ってしまって変な事を言ってしまうかもしれませんからね」
「……そうですか。いや、残念だ」
チャーチルはそう言い、酒瓶とグラスをしまい込んだ。彼としてはこの招かれざる客人を酔い潰して、イグニア国内に関する話をなんとなく聞き出そうとしていたのだが、その目論見は既に見破られていた。白肌の連中――彼や彼の関係者は『ホワイト』と渾名していた――とは訳が違うようだ。
一方で駐英全権大使を自称するカーティスは、このチャーチルという男に関心を抱いていた。特使達からも聞き及んでいたが、どうやらイギリス政界の豪傑という話は本当らしい、と。
1874年11月30日、チャーチルはロンドン北西から約100キロの位置にあるウッドストック、ブレナム宮殿で生まれた。父ランドルフ・チャーチル卿は庶民院議員であり、母ランドルフ・チャーチル夫人はアメリカの大富豪の4女であった。母チャーチル夫人はランドルフ卿の結婚時代にイギリス社交界に顔を出し、その中で複数の貴族や王族と繋がりを持っていたとされる。チャーチルはそんな家庭の中で不自由なく過ごし、学生時代を経て軍人となる。英領インドでの駐在やスーダン侵攻、そして従軍記者として参加し、後にチャーチルの名声を高めることとなった第2次ボーア戦争を経て、1900年に庶民院議員に当選。政界入りを果たすこととなる。その後、政治家としてのキャリアを積んだチャーチルは商務大臣就任、結婚、内務大臣就任といった経緯を経て、第一次世界大戦に突入する。その後も各大臣としてのキャリアを積み、戦争・経済・民族問題に立ち向かった。そして現在では挙国一致の連立内閣――戦時内閣首相としてイギリス国民の先頭に立ち、ドイツやイタリアといったファシスト陣営との戦争を続けていたのである。
そのチャーチルが今顔を上げ、カーティスに目を向けた。
「全権大使。ご用件は何でしょうか?」
チャーチルはそう訊き、デスク前に用意してあった椅子に着席するよう促した。
「首相閣下。単刀直入に言いますが、我が国はある資源を欲しております」カーティスは言った。「あなた方の世界においては、″ゴム″と呼ばれる資源です。これは我が国の魔術産業において、必要不可欠となる戦略資源なのです」
ゴムには″天然ゴム″と″合成ゴム″の2種類が存在している。天然ゴムはゴムノキの樹液から作られるもので、合成ゴムは人工的に合成されたものである。合成ゴムはアメリカが第二次大戦時に開発したもので、当然この世界においては実用化はまだなされていなかった。一方、天然ゴムに関しては当時、英領マレー半島やビルマ、蘭領東インドが一大資源地となっており、大日本帝国軍が米国だけでなくイギリスやオランダに宣戦布告したのも、このゴム資源の確保が一因にあったのだ。
「どういった用途で使用するのですかな?」
「魔術の媒体として」カーティスは言った。「我が国には現在、その備蓄が潤沢にあります。100年周期の異世界転移に備えて、大量の資源を備蓄していたからです。しかし資源には限りがある。我が国の産業や軍事を立ち遅らせないためにも、それらの資源の安定供給は必要。そこでゴム資源国を植民地として有している貴国とは、まず始めにコンタクトしたかったわけです」
「まだ3日足らずなのに物知りなことで……」チャーチルは唸った。「それなら貴方も理解しているでしょう。そのゴム資源国が現在、敵国に侵略されている事実を」
カーティスは頷いた。「もし、我が国に資源を安定供給して頂けるならば、貴国に対しては惜しみない支援をする用意があります。ですから、是非ともアジア方面の戦争に勝利して頂きたい」
勝利だと? 冗談だろう……。チャーチルはこの話し合いの中で、全権大使の真意をなんとなく理解していた。奴らはマレーのことも、そこにゴム資源かあることも知っていた。ならば先日の『マレー沖海戦』で英海軍が誇る新鋭戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』と『レパルス』が撃沈され、それより前には日本軍がマレー半島が上陸して、現地を蹂躙していることも知っているだろう。その上で旗色の悪い陣営を支援するなどと、甘い言葉を囁いてくる。それはつまり、既に敗北濃厚の我が国にこれ以上無駄な出血を負わせ、大日本帝国と″共倒れ″にさせようとしているのではないか、と。チャーチルはそう考えていた。そしてそれが誤りだったとしても、少なくともイグニアは大英帝国の勝利など望んでいないことを、彼は理解していた。
「なるほど分かりました。そのご提案に乗りましょう」
しかしチャーチルはそれに同意するしかなかった。イグニアが支援するしないにしても、アメリカが消失した今、マレー半島の失陥は重要な戦略物資であるゴム資源の枯渇を意味するからだ。当時ゴムは、軍用機や軍用車両の製造に必要不可欠な物資であり、イギリスやアメリカはそれを東南アジアのゴム資源に頼っていた。当然、大日本帝国も同様にゴム資源を必要としていた。
「話が早くて助かります」カーティスは笑みを浮かべた。「それでは資源の件はそれとしまして、もう一つ、我が国からご提案があります。これからの話はゴム資源の話同様、ここだけの話とさせていただけるよう、お願い致します」
「よろしい。何だねその提案とは?」
「――我が帝国領内に建設する予定の、″アメリカ人居住地″についての話です」