第3話 外交特使
第3話『外交特使』
1941年12月8日
大日本帝国/東京府
その日、大日本帝国の中枢たる霞ヶ関の朝は気象的にも政治的にも、荒れに荒れていた。米国との通信途絶――その事実を多くの有識者達が、米国側に対米開戦の意図が察知されたからだという結論に結び付けていた。それは即ち、大日本帝国が国家の存亡を賭けた戦争、『大東亜戦争』が出鼻から失敗したことを意味していた。当時帝国陸海軍は重度の機密性を以て南方――東南アジア諸国への侵攻作戦と、米海軍根拠地たるオアフ島真珠湾への攻撃計画を実行に移していたが、午前0時を発端とする″奇妙な予兆″を前にして、多くの人間がこれら作戦が米側に既に察知されており、迎撃態勢を取られていると考えていたのだ。
この日、外務省に出勤していた第65代外務大臣の東郷茂徳もまた、同じことを想定していた。だが、彼の考えは以外な人物の到来によって覆されることとなる。
午前1時40分。外務省内での緊急会議の準備が進められる中、外相執務室にて雑務をこなしていた東郷の前に、突如として眩い閃光が迸った。次の瞬間、東郷の眼前にある空間がまるでハサミで切り取られたかのように真っ二つに裂けて、その裂け目から黒いローブのようなものを着た人物が姿を現した。
突然の状況に東郷は唖然とし、声を発することも忘れてしまう。黒いローブの人物はそのまま東郷の前に躍り出て、直立の態勢を取った。その人物は次に自身の喉仏の部分を右手で弄り、静かに頷いた。そしてそのローブのフードを上げて、顔を覗かせる。
相手は白髪が特徴的な年配の男だった。藍色の瞳と髪色の特徴から、東郷はこの男を西欧出身の人物だと予想した。その時はそこまで異質な人物とは考えていなかった。しかし訝しむべきはその肌色で、真っ白――まるで初雪のように白く透き通ったその肌色は、不気味に感じた。
「……お初にお目に掛かります。東郷外相」
出し抜けに男が言った言葉を聞き、東郷は瞠目した。それはとても純粋な日本語だった。外国人特有の訛りなどがなく、聞き取り易かった。まるで頭に直接話し掛けているかのようだ。
「何者だ? という顔をしていらっしゃますね」男は言い、一礼する。「突然押し掛けてしまい、申し訳ありません。私、『イグニア帝国』の1等外交特使を務めております、名をユリウス・ゼファーソンと言います。本日こうして、東郷外相の下に訪問出来たことを喜ばしく思います」
「私としては好ましからざること、この上ないがね」
東郷は語気を強めて言った。「名は名乗った、それは良い。だが一体何の用でここに押し入るような真似をした? そしてイグ……イグニア帝国だったか、そんな名前の国を私は知らんのだがね」
「物事には順序があります。外相」ゼファーソンは努めて冷静に言った。「最初の無礼は改めてお詫びします。火急の要件でしたので、このような無礼を働くこととなりました。ですが我が国は貴国、また″この世界″のあらゆる国々とまずは平和的に対話し、その国交を結びたく思い、こうして失礼ながら参上させていただきました」
「″この世界″?」
東郷はそのワードに強い印象を覚えた――いや、そう仕向けられた気がした。
「我がイグニア帝国にはこういった伝承があります」ゼファーソンは続けた。「″神は民に試練を与えた。100年の年月を境に、異なる世界へと国土と民、文化と知識を移さんと。そして民はその世界で100年の繁栄と衰退を繰り返した後、また異なる世界への旅を続ける――″と」
当惑する東郷を横目に、ゼファーソンは更に続けた。
「我がイグニア帝国は100年の周期ごとに一つの世界から別の世界に転移してきたのです。その歴史の中でまず我々は、その世界において頂点に君臨する国家・勢力に成り代わります。そして頂点不在のその世界において時に友好的に、そして時に暴力的に物事を進め、繁栄を続けてきました」
「俄かには信じ難い話だ。まるで作り話のように聞こえる」
東郷は皮肉を込めてそういったのだが、何故かこのペテン師――ゼファーソンの言葉には信頼に足るものを感じていた。同時にそれは、とても気持ちの悪い感触だった。
「私が語る話は嘘偽りない事実なのです」
「信じる信じないの話ではない、ということか?」東郷は言った。
それに対し、ゼファーソンは頷いた。「今は両国の国益を優先し、現実的な対話を進めてべきでしょう。両者の腹を読み合うのは、それからでも遅くはない筈です」
「何もかもお見通しという訳だ」東郷は唸った。「それで先ずはどうするつもりかね」
「先程も述べましたように、両国の国交を結びたいと思います」ゼファーソンは続けた。「詳細はこの場ではお話出来ませんが、平和的に進めたいと我が国の国家元首たる″皇帝陛下″は思慮しております。それで、ご返答の程はいかがでしょうか?」
一間の沈黙の後、先に口を開いたのは東郷だった。
「私にはそれを決められる権限はない。まずは国内で協議し、次に貴国との外交交渉の機会を設けたい。話はそれからになるだろうが――」
東郷が続けて言おうとしたことを見越していたのか、ゼファーソンは不敵な笑みを浮かべて言った。
「ご心配なさらずとも、そちらの事情については理解していますよ。それに貴方が懸念していらっしゃる案件――つまり我が国への攻撃ですが、これは温和に解決出来る問題でしょう」
「温和に解決? 一体どうやって……。いや、皆まで言うまい」東郷は言った。「一つだけ理解したよ。我が大日本帝国はアメリカという巨人を相手にせずに済んだということだ。これだけでも、私の人生で喜ばしいことはないだろうな」
そして一息吐いてから東郷は続けて言った。
「もう一つ聞きたいのだが。どうやってこの場所に侵入した?」
「……″魔法″です」少し悩んでからゼファーソンは告げた。「私や、我が国には魔術というものがありましてね。こうして貴方の前に立っていられるのも、その魔法を使ったからなのです」
「それは言葉の比喩ではなく?」
ゼファーソンは頷いた。「文字通り。幾千の歴史の中において、複数の世界を転移し続けてきた我が帝国には、古来より伝わる″万物を左右する術″として魔術があります。世界の離れた場所へと瞬時に到達したり、自然を操作したり……。こうして貴方と話せているのも、一種の意思疎通魔法なのです」
彼が話す意思疎通魔法とは、一種の幻覚魔法だった。魔法に掛かった人間は、行使した人間が自国の言語を話していると錯覚しているが、実際にはイグニア語――イグニア帝国の公用語――の言語情報を脳内にインプットさせ、魔法に掛けた相手に理解させているのだ。
「一つ知っておいて貰いたいのは、我々がこうして貴方がたと対話を早く望んでいる理由です」ゼファーソンは言った。「先に述べましたように、我が国は100年という年月を境に異世界への転移を繰り返す歴史を歩んできました。そしてその歴史の中では少なからず敵対的な国も少なくなかったのです」
「当然だろう。自宅の軒先に突然不審者が現れれば、そういう態度も取るものだ」
東郷の言った事に対し、ゼファーソンは静かに頷いた。
「確かに。ですが我々もまた、住み慣れていた地元から唐突に追い出され、右も左も分からない土地で暮らす身になってしまう――いわば″被害者″なのです。だからこそ隣人に助けを求めようとするのは、必然ではないでしょうか?」更に彼は続けた。「我々が望むべきはそこなのです。つまり、新たな世界に適応するため、隣人に理解を示して頂きたい。だから我が帝国はその昔から異世界に転移した際、世界の国々や集団に対して速やかに外交特使を送り込み、理解と協力、そして友好を結ぶべく努力を続けてきたのです」
「待て。では私の元だけでなく、貴国は様々な場所に特使を送り込んでいるのか?」東郷は顔をこわばらせて言った。「私は国の外交を担当する身だから無碍にはしなかった。だが、軍部は違う。最悪の場合、スパイと間違われて殺されてしまうかもしれんぞ?」
しかしゼファーソンは被りを振って答えた。
「我が国の外交特使は優秀な外交官であると同時に、優れた魔術師でもあります。その魔術によって瞬時に避難することも出来ますし、あらゆる物理的攻撃は我々には効きません。簡単にいえば、すぐに逃げられるし、絶対に死ぬことはないのです」
心配損か、と東郷は溜め息を吐いた。「なるほど用意周到なようだ。我々も見習いたいものだな」
「理解して頂いた所で、本日は失礼させて頂きたいと思います」ゼファーソンはそう言い、そこから徐に一歩下がる。そして次の言葉を続けた。
「……では外交テーブルの場で、またお会いしましょう」
刹那、閃光が迸る。東郷の視界は再び真っ白に染まった。次の瞬間には黒いローブを着た外交特使兼魔術師の姿は何処にもなく、彼が出現した空間の割れ目も無くなっていた。酔っていたのか……はたまた現実だったのか……。数分の沈黙の後、東郷はそう一人ごちると、陸軍参謀本部を目指して執務室を後にした。