半分を知る存在
中学編というか
適応指導教室編
今回が最後です。
"適応指導教室"に通学してから、
めったに学校へは行かなくなった。
辛い現実が待っている場所に出向くより、
現実逃避かもしれないが
楽しい場所の方が出ていこうという気になる。
そうして私は人と関わる事が
少しだけ怖くなくなってきた。
そうして、
中学最後の年はよほどの用事がなければ
中学の制服に袖を通して学校へ向かうことは無くなり、
修学旅行も行かず卒業式すら出席していない。
他の相談室に居た学校の生徒達は出席したらしいが…なんの楽しい思い出がない中学の卒業式に出る気にはなれなかった。
卒業証書は卒業式が終わったあと学年担当の先生 お世話になった先生
校長が見守る中校長室で受け取った。
卒業の記念品や卒業アルバムも受け取って、その報告をしっかり適応指導教室にして家に帰った。
少なからず、適応指導教室にいる生徒達とスタッフと呼ばれる先生達には、
心を開いていた。
当時のスタッフ 在籍していた生徒達の中には、
『友達』という言葉がわからなくなった私にも『友達』と呼べる『仲間』ができていた。
「友達といったら仲間といったら"重い"と思われるんじゃないか。」
「仲間や友達と思ってるのは私だけなんじゃないか。」とも思っていた。
だから、自然と友達や仲間という言葉を使えなかった。
いや、使わなかった。
「せっかく仲良くなったのに、
誰かの機嫌を損ねたら嫌われて
ひとりぼっちになる。
ひとりぼっちにりたくない。」
そう考えていた。
小学校の頃から今もそうだが、
"自己犠牲"という精神が私には
深く深く染み付いている。
自己犠牲という言葉が存在するかはよくわからないが…
「自分が何か我慢をして物事が上手くいくなら…」と思って
大なり小なり色んなことを、我慢したり
受け入れてきた。
「自分を出せる!」と思っていた適応指導教室での生活だったが、
結局は、周りに気を使って 周りの思う通りの私を演じていた。
そうすると、
途端に自分が何者なのか。
本当の自分は誰なのか…それがわからなくなる。
心に壁を作って鍵をかける。
それをずーっと心が元気になってもやっていた。
心を自分を誰かに開示した思ったとき
また別の違う壁と鍵が現れる。
そんなことを繰り返しているが、
当時を知っている友達たちは恐らく理解しているんだろう。
でも、何も言わない。
現在でも「辛い。どうしよう。」と思ったとき
SNSでぽっりと想いを吐き出したとき
しっかりと受け止めてくれている。
大抵、SNSなんかで当時からの友達が悩んでいるとき、
「大丈夫かー?話聞くよ!」と返信すると
「ありがとう!無理しないでね。」と、私が心配しているのに
逆に心配されてしまう。
人に弱音を言うのが苦手だし、
弱ってるときに助けを求められなくて、いっぱいいっぱいになってしまうのも
理解してくれているからこそ、
お互い声をかけ合える。
素直になれる。
人生の半分以上を知っている人間は
家族以外に適応指導教室で出会って
いまだに連絡を取り合っている仲間だけだ。
今現在
その仲間の中には、ぽっかり1つ穴が空いている。
いつも仲良くしていたグループの女子一人が
その中にいない。
精神的な状態が思わしくないらしく、
ここ数年会っていない。
連絡も取れる状態にもない。
だが、
「いつでも席は空けてある」とその子の話になると、私はよくいっている。
みんなで集まっても一人足りない。
それは、みんなが気にしているが
過去心に傷を負った人間だからわかるが、
周りがどうやってフォローした所で
こういうときは、プレッシャーにしかならない。
だから、彼女が元気になって
私たちの前に現れるその日まで
私は待ち続けようと思う。
私も、家庭の事情が色々ありその仲間から
欠けていた時期がある。
「嫌われても仕方ない」とまで思ったが、笑顔で迎え入れてくれた。
私のときの様に
欠けたピースが揃って
いつか笑顔で会える日は必ずくる。
そう信じて、悩みながらも笑って過ごしていた
あの時代に あの瞬間に
想いをはせて、集まったときは
「またねー!」と軽い挨拶で別れて
みんなが、それぞれ別の道を今
自分で歩いている。
次回は、私が元気になったもうひとつの
ターニングポイントを語りたいと思います。