希望の光
中学生編
ついに希望がも持てる話がお話できるかと…。
中学は辛い思い出しかないが、
この期間がなければ私は今ごろ
この世に居ない もしくは、 精神崩壊を起こしながらどうにか生活をしている ギリギリの状態だったと思う。
辛かった日々の中で
変化としてあげられる事は
相談室登校 別室登校ができたことだった。
相談室は、当時整備され始めて運用開始した直後だったんじゃないか。と思う。
教室に行けない先輩が居たり 同級生の教室へ行けない子も居たり活気はあった。
休み時間に、その先輩の友達が来たり。
「一緒に授業出ようよ。」と誘いに来る同級生がいたり。
先生達も世間話をする程度で来たりと、
溜まり場的な要素もあった。
私も気が向いて精神的に安定していたら、誘ったクラスメイトと授業に出たし
クラスメイトと相談室で話したりもした。
だが、給食はほぼ別室や相談室で食べていた。
給食当番の時は
私の配膳する給食を取ってくれなかったり、
「自分で取るからいい!!」と配膳用具を取られるなんて
日常茶飯事だった。
箸とお盆のをみんなに渡す係の時は、
「箸触ったらそれ、使えなくなるだろ!!」とか
牛乳瓶の配膳をやった時も、牛乳瓶のケースを持って机に届けに行くはずが、
みんな勝手に私が持っているケースから牛乳を取っていく。
更に配膳係の生徒は他の生徒が代わりに給食を並んで用意してくれるのだが、
酷い時は、係をしている他の生徒の給食が揃っているのに
私だけ永遠と誰も準備してくれなかった。
そんな嫌な想いを小学校からしてきて、
さらに担任が部活顧問などで忙しい人だったから
いじめがおきるのは目に見えていた。
相談室登校をしていても別室登校していても、
教室に入って皆と給食が食べれなかった。
担任やクラス委員 小学校時代仲が比較的良かった子が届けに来てくれた。
優しくしてくれるクラスメイトも
教室に入るとものの見事に無視を決めこんでくる。
そのうちに
一時間でも学校に行けば
出席日数をくれるシステムに変更され、
一時間ほど、登校時間を送らせ
廊下に人気が無いことを確認してから、
職員室へ行きその場に居る先生に
出席チェックをしてもらって、別室なり相談室へ向かった。
その頃から学校で昼食を食べなくなった。
一時間だけでも出席日数が貰えるので
好きなテレビ番組を見ることをご褒美として、
日々1時間から2時間、学校へ行っては何をするわけでもなく
ただ他の同じような生徒と喋り帰ると言う生活を繰り返していた。
だが、
そんな私にも転機が訪れた。
母親がスクールカウンセラーから、学校の近くにある
"適応指導教室"と言うものを利用してみないか?と言われたらしく、
「制服を着なくていい」 「何時にきてもいい」 「勉強をしろ!とは言わない」と言うのが魅力だったのか、
適応指導教室に見学に行くことになった。
適応指導教室というのは
精神的 身体的な理由により、
学校へ不登校状態の小・中学生の生徒達が通って、
小人数や中人数のコミュニティを通して活動したり、勉強 コミュニケーションをとったりすることで
自分のやりたい事をみつけたり、
進学やクラス復帰を目指す特別学級である。
こんな施設を地域のどこかの課が運営しているらしい。
何千人と居る地域の対象年齢の生徒の中で定員は10~15人。
適応指導教室に在籍できたのは今改めて考えると
相当幸運であって、
その縁を無駄にしなくて本当に良かったと、実感する。
さっきの説明文も、物書きや人前で語る機会に恵まれたからこそ、
調べて改めて解った話であって、当時は詳しく知らなかった。
中学当時学校では、
相談室に居た同級生の女子生徒は私を含めて3人だった。
前話でも、言っていたが
相談室でも、奇数に悩まされ同じ不登校当事者からも仲間はずれにされていたので、
新しい場所に行けば一人じゃなくなる。
「仲間はずれにされない。」と思った記憶がうっすら残っている。
見学に行った時そこに居る生徒達を見て、
「私みたいな子が居る場所なんだ。…ここなら(自分を騙して過ごさずに)大丈夫かもしれない。」と
意味のわからない確信を獲た。
これが、私にとって1つ大きな変化であり
こうして物書きをしたり 人前で語れる様になった大切な場所で、
私にとって
中学は経歴的な母校だが、
適応指導教室の方が心身共に母校と呼べるし、
母校と表現するのは高校。そして 適応指導教室だけ。
もう少し、適応指導教室について書こうと思うのでお付き合い戴ければ嬉しい。
適応指導教室に居た生徒は、
自らなぜこの特別学級に在籍しているのかあまり話たがらなかった。
当時15人程在籍していたが
本人達の、ハッキリとした理由を聞いた覚えも無いし、
在籍当時は、私自身もちゃんと話した覚えが無い。
ただ、そんな状態でも解るのは
『ここに居るみんなは、学校に行けず 何かしらの悩みを持っている』と言うことだった。
精神安定剤を日々服用している子
コミュニケーションが苦手な子
ある一定の物事にはとても詳しい子
怒りやすく周囲を威嚇している子
無口な子
自傷行為をしている子
親との関係が上手くいっていない子
ここに挙げた以外にも
多くの“学校“という“社会“に馴染めなかった子供達がいた。
「自分だけじゃない。」と気付けたし、
「自分らしくいていいんだ。」
「自分をわかって、話を真剣に聞いてくれる大人もいるんだ。」と
当たり前かもしれないが“安心できる場所“がそこにはあった。
“居心地がいい“この感情はいい環境ではあるが
後に、この環境やこの後にある高校生活がいかに
自分に甘い“ぬるま湯“の状態だったのかを、
知ることとなるとはまだこの頃は考えもしなかった。
学校の近くだったので通学路もほぼ同じなのに、
適応指導教室に通い始めてから、
吐き気 腹痛 頭痛 に悩まされる事も無くなり、“楽しい“と思える日々を
学校で味わえなかった感情を、一個づつ取り戻していった。
私の当時住んでいた地域だけでなく、
適応指導教室は各地にあるそうです。
名前が違ったりもしますし。
後一話中学生編書いたら
そろそろ高校生編突入ですね。