第1章 魔王襲来
【章の主役】エリザベス・オールストン
【作者前書き】魔王に挑む彼女はオールストン家の次期当主で、主人公の元婚約者候補で、メインヒロインの元パートナーというキーパーソンです。
ただし、今後しばらく話題には上がっても再登場はかなり先のモブキャラ扱いになります。
1~2章は序章なのでしばらくお付き合いを。
ここでは世界観の説明と魔王の恐ろしさを語るにとどまります。
新暦417年3月2日正午ごろ、風光明媚な観光都市ローザス市にほど近い丘陵地帯に“それ”は突如として現れた。
それは一見すると陸ガメのようであった。
重量感があり黒曜石のごとき光沢を放つ甲羅からは、鱗におおわれた首と脚と尻尾が突き出ており、一歩また一歩とゆっくり移動する様はまさしく亀のそれである。
しかし、同時に亀らしからぬ特徴も顕著だ。
顔つきは爬虫類的でありながらもサメやワニといった捕食者を思わせる。
その殺気に満ちた黄色い瞳に正面から睨まれ、二列に並んだ鋸のような歯を向けられれば、どれほど勇猛果敢な者でも恐怖に足がすくみ、数日は悪夢にうなされ続けることだろう。
また、甲羅には小さな突起が生えており、その総数は100ほどもあろうか。
甲羅の大きさと比べるとかなり小ぶりで数も少ないため、ハリネズミを連想するほどではないが、まさしく針そのものの鋭利さで近づくものを拒絶している。
さらに尻尾が異常に細長い。体長を優に超える尻尾をときおりムチのように振り回し、周囲を威嚇している。
脚は左右3本ずつ計6本あり、短い足を一歩一歩進めているため、歩みは遅いと言えるが、それでも歩幅が5メートルもあれば普通の人間が歩くのよりはよっぽど早い。
そう、それは全高約15メートル、全長は優に30メートルを超える巨獣、“魔王”と呼ばれる最強の怪異<ストレンジ>であった――――。
「これが…魔王…。」
そうつぶやいたのは金髪碧眼の少女であった。
魔王の進路上に1キロほど距離をとって待ち構える集団の中に彼女はいた。
端正で気が強そうな顔立ちの彼女だが、その表情からは緊張が見てとれ、この曇り空のように陰っている。
しかし彼女は腹をくくり、すぐ後ろに控えたメイド服姿の黒髪の女性に呼びかけた。
「ハンナ。行きますわよ。」
「は、はい、お嬢様。」
メイドが上ずった声を上げながらも答える。
するとメイドの姿が淡い光に包まれると短い棒状の物体に形を変え、少女に引きよせられた。
光が消えた時、彼女の右手には短く幅の狭い両刃の直剣<マインゴーシュ>が握られていた。
そこへ彼女と同じ金髪碧眼の初老の男性が、薙刀に似た長い柄の太刀<青龍刀>を左手に携えて駆け寄ってくる。
「リジー、今ならまだ間に合う。おまえはこの場を離脱なさい。」
男の問いかけにリジーと呼ばれた少女――――エリザベス・オールストンは頭を振る。
「いいえ、お父さま。ここで引いては名門オールストン家の次期当主の名が泣きます。ここでわたくしたちが敗れればローザスの街は蹂躙されるでしょう。ですが勝利すれば当家に300年ぶりの剣帝が誕生します。逃げるなどという選択肢はありえません。」
そう、オールストン家はかつて魔王殲滅の勇者<剣帝>を輩出した名家である。
当時の権勢は失われて久しいものの、現代においても魔剣師の世界では重要な地位を占めている。
魔剣師――――それは、魔剣と剣士の総称である。
彼らはパートナーを組み、この世界をむしばむ怪異<ストレンジ>と戦う存在だ。
魔剣は、人でありながら特殊な魔術“刃の疑似魔法”によって剣の姿に変化し、並の魔術を凌ぐ超常の力となる。
しかし、魔剣は剣の姿をとると自律行動ができなくなるうえ、魔力をすぐに使い果たしてしまう。
そこで膨大な魔力を蓄えられる“鞘の疑似魔法”を有する剣士がパートナーとなる。
剣士が魔剣をふるい、魔力の供給を行うことで、非常に効率的に異形の獣と戦うことができるのだ。
そんな魔剣師たち、その中でも名門中の名門とされるオールストン家の者であっても“魔王”は命を賭して挑まなければならない相手だ。
しかし、魔王討伐に成功した際の恩恵は絶大だ。
魔剣師たちの持つ疑似魔法には、魔王を殺めた剣士と魔剣をさらなる高み――――剣帝と聖剣に引き上げる機能がある。
もしも、ひとたび魔王殺しの剣帝もしくは聖剣となった暁には、容易に魔王を撃破できるほどの力が得られる。
それはこの場に集うオールストン家の精鋭魔剣師13組のうち12組を失ってもなお、お釣りがくるほどの栄誉と権勢が得られるのだ。
しかし、血気にはやる娘のエリザベスに対して、彼女の父でオールストン家の現当主であるブレンダンには、自分たちが全滅するビジョンしか見えてこない。
5年ほど前、新興の魔剣師の家々が共同で魔王討伐を計画し、実行に移したことがあった。
最高クラスの魔剣師16組が参加したが、結果は6組12名もの死者を出して敗走するという散々なものであった。
現状のオールストン家の戦力は彼らと大差ないように思う。
ちなみに、その時の魔王は剣帝の手によって簡単に討伐されたという。
今この場に剣帝が颯爽と現れ、魔王を倒してくれはしまいか、そう願わずにはいられない。
むろん当家から再び剣帝を輩出できればとは思う。
だが、その代償に愛娘エリザベスを失いでもしようものなら、彼はその悲しみに耐えられる自信がない。
すでに50歳を過ぎたブレンダンは自身の老いと涙腺の緩みを自覚し始めていた。
昨年は長女レイネシアを亡くした。
非常に優秀な魔剣であったが、晩年は体を壊し次期当主候補から外さざるを得なかった。
それでも彼女は大切な家族であり、親の自分よりも先に子供が死ぬことの無念さを思い知らされたことで、この1年は気分がふさぐことも多かった。
今隣に立っている次女のエリザベスはオールストン家の次期当主にふさわしい才覚の持ち主だが、多少プライドが高すぎるきらいがある。
もっとも、自ら破談にした元婚約者候補に半年前の剣技大会で敗れたことは彼女の心情に変化を与えたようだ。
そんなこともあって彼女を正式に次期当主とすることを最近決定したばかりだ。
彼女には絶対にこの場を生き延びてもらわなければならない。
末娘のセシルは10歳の誕生日を迎えたばかりだ。
昨日は彼女の誕生日パーティーを行ったが、招待客のほとんどはすでに帰っている。
残ってるのは長女レイネシアの一周忌の法要に参列すべく滞在を続けている一組だけだ。
彼らとセシルは他の非戦闘要員とともに屋敷から退避してもらっている――――。
「あなた!来ます!」
不意に声がかかる。
手にした青龍刀(ブレンダンの相棒たる魔剣にして妻のカサンドラ)が注意を促したのだ。
まだ距離があると油断して思考の迷路に囚われていた自分に心の中で悪態をつく。
魔王とはいまだ数百メートルの間があるのだが、たしかに様子が妙だ。
大きく息を吸い込み頬を膨らませている。
「よけろ!」
左右の魔剣師達に向かって声を張り上げる。
みな左右にはじかれたように飛び出し、魔王の正面から散り散りに逃れる。
具体的に何が来るかは分からなかったが、口からブレスでも吐くであろうことは予想できた。
グアアアアアアーーーーー!
魔王の口から吐きだされたものは“死”そのものであった。
おぞましい怨嗟の咆哮と瘴気の霧が、彼らの元いた場所を覆い隠した。
魂ごと刈り取るような轟音が収まり、毒々しい霧が晴れるとおぞましい光景が広がっていた。
横幅数十メートル、縦にはもっと長い範囲で地面が白化して干からびていた。
青々としていた草も褐色の土も色を失い、すべてが枯れて風化したかのようである。
後ろを振り返ると白い大地は遥か彼方まで続き、広大な敷地にポツンと建つ豪邸を貫いて、ローザス市街の少し手前まで届いていた。
被害を受けた豪邸はオールストン家の屋敷だ。
本館はまるで火事のあと何年も放置されていたかのように白化して骨組みの一部を残すのみとなり、渡り廊下でつながっていた新館も三分の一ほどが同様のあり様であった。
少し離れた別館は無傷のようだが、本館にあったブレンダンやエリザベスの部屋は直撃を受けて無くなってしまった。
屋敷からは全員が避難していたため、誰も巻き込まれていないだろうことはせめてもの救いか。
魔王に視線を戻そうとする途中、生と死の境界線になっているところで苦痛にうめく男がいるのが目に付いた。
その身体は境界線の生側、命が息づく草の上でうつ伏せに倒れている。
男は両足の膝から下が爛れており、もがきながら横に転がり仰向けになったことで顔が見えるようになった。
彼はオールストン家の分家の跡取り息子だった。
普段は本家にいないのだが当主の娘の誕生日に合わせて1週間ほど前からこちらに滞在していた。
ブレスに巻き込まれながらも一命をとりとめたかに見えたが、エリザベスはすぐに異変に気付いた。
死が彼の上半身に向かって這い寄っているのだ。
「あ、あ、あ、あ、あ、ヤダ!、ヤダ!!、ヤダ!!!、ヤダーーーー!!!!。」
まだ自由に動く両手で太ももや腹をはたくような動作をするが、すぐに胸を押さえて苦しみだす。
その手が急速に萎びて頬がこけ、一瞬の硬直の後、糸が切れた操り人形のように倒れた。
死後何年も経過したミイラのような遺体はボロボロと崩れ去っていった。
あまりの惨劇に誰もが言葉を失う中、1人が声を張り上げる。
「側面に回り込め!真銘解放用意!前足を狙え!」
ブレンダンの声に全員が我に返る。
その指示は的確だった。
あのブレスは正面にしか来ない。
亀のような魔王の首はあまりに太く短く甲羅も邪魔なため、真横を向けるかどうかも怪しい。
さらに体の向きをターンさせるのも非常に遅いはずだ。
あえて真後ろまで回り込まないのは尻尾を警戒してのことだ。
唯一愚鈍でない動きを見せる長い尻尾があるため近接戦闘も厳禁だろう。
真銘解放とは魔剣の“銘”を支配することで、真の力を解き放つ最大最強の奥義のことである。
おそらく魔王に生半可な攻撃は無意味であろう。
前足を狙うのは、たとえ真銘解放でも甲羅にはダメージが通らないであろうという懸念と、街へと向かって進む魔王の足をつぶす狙いがある。
バランスを崩してブレスも封じられればなお良しといったところか。
残った12組の魔剣師たちが左右に均等に分かれる。
剣士が丹田に力を込めると鞘の疑似魔法が魔力をため込み増幅させる。
溢れんばかりの魔力を魔剣に受け渡すと、刃の疑似魔法が活性化する。
剣士のエリザベスにとって魔剣のハンナは暫定パートナーだ。
エリザベスは全寮制のリンストン高等魔剣師学院に通う学生であり、春休みで帰省中の身だ。
新学期から3年生になる彼女は、入学から何度かパートナーを変えた後、この半年間は1年後輩の魔剣との関係を維持している。
オールストン家の分家の出身で、本家付きのメイドでもあるハンナとは帰省中だけの仮のパートナーというわけだ。
それでも年が近く幼いころから自分につき従っているハンナには全幅の信頼を置いている。
自分の周りの4人の魔剣師が発動体制に入ったのを確認し、魔剣ハンナを上段に構えて振り下ろすと同時に真名を告げる。
「レイジング――――セイバー!」
ハンナの魔剣の刃は赤い光を発する巨大な斬撃となり、魔王の右前脚に向かって伸びていく。
同時に他の魔剣の真銘解放による攻撃が殺到し折り重なる。
すさまじい閃光に対して一瞬遅れてきた轟音と衝撃は、魔王の巨体が大地を踏みしめるときのそれを遥かに上回った。
ウオオォォォーーーン!
魔王がうめき声をあげて頭を垂れる。
そのリアクションからするとそれなりのダメージを受けたのだろう。
光が収まり爆煙が晴れると魔王の前足の様子が視認できるようになった。
一枚一枚がエリザベスの顔ほどもある大きな鱗がはがれ、内側の肉が露わになり青い血が滴っている。
だがそれは、大樹のごとき足のほんの一部分だけであり、傷の深さも肉をえぐるほどではなかった。
「そんな…こんなのどうすれば…」
ハンナが驚愕の言葉を漏らす。
ここにいるのは全員どこに出しても恥ずかしくない一流の魔剣師だ。
その集中攻撃を受けてこの程度しか傷をつけられないのか。
真銘解放は膨大な魔力を消費するため通常は2~4発しか放つことができない。
それでは足を奪うこともできない。
この魔王は倒せない。
歩みを止めて街の住民が逃げる時間を稼ぐこともできない。
あとは注意をひきつけて進行方法を変えさせるぐらいしかできないだろう。
いや、それすらできないかもしれない――――。