天然系幼馴染の逆襲
リア充イベントもう嫌だ^q^
「なぁ、今年のバレンタインは飲むチョコレートが流行る――そう思わないか?」
白髪をオールバックにした渋い壮年の男が言った。彼は俺の雇い主で、このカフェのマスターだ。つまりバレンタインに向けて、新しい商品の開発を目論でいるのだろう。
俺ははっきり言って、流行には疎い方だ。だから何とも言わず、ただ眉をひそめて頭を掻いた。
「どうなんですかねぇ」
「いや、流行らせてみせる」
お前がか――思わずつっこみそうになった言葉を飲み込んで、愛想笑いを顔に張り付けた。そんな俺の無言をどう取ったのか、マスターは満足そうに頷く。
「――流行ってほしいな」
「願望かよ!」
今度こそ遠慮のないつっこみが噴き出してしまった。
「いや、でもまぁカフェだからね、うちは」
このカフェは飲み物――主にコーヒーを推している。だから、飲み物関連で新しい商品を考えたのだろう。
「それでも甘いケーキとかパフェもあるんですから、今まで通りで勝負――やるなら、チョコレートのケーキやパフェを期間限定で仕入れるとかでいいんじゃないでしょうか?」
そうすれば、マスターの推すコーヒーの売り上げも伸びるのではないかと、俺は真面目に答えた。
「うーん、その通りかもね……いや、しかし、飲むチョコレート、流行らせたいなぁ」
一体どんな思惑なのか知らないが、このマスターはどうしても飲むチョコレートをやりたいらしい。俺はそれ以上は何も言うまいと口を噤んだ。
「まぁ――」
マスターが再び口を開いた刹那、フロアから破砕音が響きわたった。ガラスの砕ける音が凛と鳴り、背筋に鉄棒を差し込まれたかのように身が強ばった。
「……またか」
「またですね」
俺が小さく呟くと、マスターも苦笑混じりに応じる。やれやれと目頭を指で摘んで、揉みたくなってきた。
「俺、見てきますね」
「ああ、頼む。通ってるオーダーができたら、僕も行こう」
注文をマスターに任せ、俺は早足で現場へと向かった。
案の定と言うべきか、お客様の苦笑顔と、頭を下げるウエイトレスの後ろ姿が映る。バレない程度に小さく息を吐いた。
「申し訳ございません、お怪我はございませんか?」
必死に謝り続けるウエイトレスの隣に並び、俺も頭を下げ、お客様に伺う。
「いや、俺らは大丈夫だから」
男女のカップルは寛大で、苦笑を滲ませながらも声を荒らげる様子もない。俺は胸を撫で下ろし、僅かに顔を上げた。男性の足下には、散らばったグラスと中に入っていたであろう液体が床に広がっていた。
「代わりの品を――」
そこまで言って、俺ははっとする。男性のジーンズの裾にシミがあったのだ。
「――っ、すみません。失礼します」
俺は駆け足でカウンターに戻る。そこで新しいお絞りを一つ取り出して、再び男性の下に戻る。シミを拭っている間、男性は「気にしなくていい」と何度も言ったが、俺は謝罪の言葉を返すばかりだった。
それでもシミは取れなかった。俺は諦めて、ただただ謝罪のために頭を下げる。
「代えの品をお持ちしますので、もう少々お待ちくださいませ」
再び頭を下げ、伝票から注文の品を確認する。
「……詩乃、チリトリでガラス集めてから、モップで水分を吸い取って」
「ご、ごめんなさい」
おろおろとするウエイトレス――詩乃の肩を叩いて、「落ち着け」と静かに告げる。びくりと肩を震わせる詩乃に笑みを向け、再び片付けを頼んだ。
その間に俺はカウンターに戻る。そこでマスターとすれ違い様に声をかける。
「ジーンズの裾、クリーニングです」
それだけ言うと、納得したようにマスターは頷く。お客様の対応はマスターに任せ、その間に代えの品を準備する。メニューの調理法は一通り教わっているので、問題なく仕上がった。それを提供に向かう際、帰ってくるマスターとすれ違った。
「大変お待たせしました」
謝罪の言葉をいくつか並べ、俺はお客様に商品を提供する。お客様も笑顔で「ありがとう」と返してくれて、内心で大きく息を吐いた。
*
「実際どうなんですか?」
既に閉店して、後片づけに勤しむ詩乃の後ろ姿を眺めながら、マスターに尋ねた。俺はと言うと、洗い物を片付けていた。
「心配は要らないよ、黒字だから」
ただ、とマスターは続けて言う。
「グラスを割られると、ちょっと痛いかな。けれど、それ以上に詩乃ちゃんのおかげで集客できてるんだから、それぐらいは妥協できるよ」
まるでマスコットのようだ――俺が小さく呟くと、マスターも笑みを零して同意した。
「でも、本当に詩乃ちゃんが来てくれて良かったと思うよ。彼女がいなかったら、今の繁盛なんて考えられなかったと――」
がちゃーんとお客様のいないフロアから破砕音が響きわたった。俺とマスター、そしてもう一人のバイトの三人が無言で視線を交わした。
しばらくして、詩乃が「ごめんなさーい!」と叫んだ。
*
詩乃の散らかしたテーブルセットを片付けて、ようやく俺らは帰路についた。
俺らと言ったのは、隣に詩乃がいたからだ。店を出た途端に吹き付ける寒風に、身を縮ませながら、並んで歩いた。マフラーに手袋までしても、風は隙間を探しだし、冷気を服の内側へと流し込む。俺はポケットに手を突っ込んで、冷気の侵入を妨げた。
その横にはいかにも寒そうな格好でぶるぶると震える詩乃の姿があった。このクソ寒い時期にホットパンツに黒いタイツ。ブーツを履いていても、膝のあたりの装備が薄すぎる。見ている側にまで寒気を誘うような格好だった。
まだ上着はマシだったが、手袋をしていないようで、上着の袖を必死に引っ張り、息を吐きかけている。
「うー、寒いよう」
「当然だろ」
今年一番の寒気が流れ込んでいる日本。あちらこちらで雪が降り、それは太平洋側にまで及んでいる。凄まじい積雪が連日報道され、雪崩などの被害もあったらしい。
そんな酷い天候らしいのだが、俺らの住んでいる周辺は雪も降らず、昼間はからっとした青空が広がっていた。ただ、風は強く、町行く人は皆、顔をしかめ、目を伏せ、路面を睨みつけていた。
既に日は沈み、寒さは増す一方だった。早く帰りたい一心でついつい早足になりそうになるも、隣の詩乃を放ってはおけない。渋々、寒さと戦うことを覚悟して、俺は詩乃のペースに歩調を合わせた。
「うー……寒いよう、蓮くん」
「そんな格好してるお前が悪い」
吐き出す息が白くなり、向かい風のせいで自らの頬を撫でて行く。詩乃のメガネは、いつしか真っ白になっていた。
黒く綺麗な長髪、肌は透き通るように白く、まるで人形のようなルックスだ。それは幼い頃から変わらない。変わったのは目を悪くして、メガネをかけたことだろうか。細い銀縁のメガネのおかげで、少し知的に見えるようにはなったが、おっちょこちょいな性
格はそのままだった。
簡単に言えば、俺と詩乃は幼なじみだった。年の差は一つで、家は隣だった。そのため、おっとりとした詩乃の面倒をよく見た。その結果か、詩乃に懐かれ、どこに行くにしても、後を追ってくるようになった。
妹――俺にとっての詩乃は、そんな存在だった。確かに可愛いけれど、恋愛対象として見ることはできなかった。周りには勿体無いと、よく言われる。けれど、どう頭を捻っても、俺が詩乃と付き合っている光景を思い浮かべることができなかった。何かやらか
した詩乃の尻拭いを俺がやっている光景だけが脳裏に浮かび、白目を剥いていた。
「そうだ、蓮くん。手を繋ご!」
思考を遮るように、詩乃が俺の目の前に手を差し出した。俺は返事に戸惑うことなく、手袋を外すと、詩乃の手を握った。言うまでもないけれど、幼い妹の相手をしているような心地だ。恋愛感情のような物が湧いてくることは無かった。
昔から、こんな感じだった。詩乃の言うことは大抵聞き入れてやった。そのせいなのかな、とも思う。これほどの酷いおっちょこちょいに育ってしまったのは、俺が甘やかしすぎたからかなと時折責任を感じる。
でも、俺の手を握って嬉しそうに頬を緩める詩乃を見ると、もやもやとした感情は雪解けのように、さらさらと流れ、消えていった。
「蓮くんの手、温かい」
「詩乃のは冷たいな」
手袋をしていた俺の手が冷たい詩乃の手を包み込んでやると、嬉しそうに目を細めた。
やがて詩乃の家が見えてきた。やっと寒さから解放されると思うと、俺はすぐにでも駆けだした衝動にかられた。けれど、詩乃は対照的に頬を膨らませて、足取りは妙に重くなった。
「蓮くんは明日、朝から?」
おそらく学校の予定のことだろう。明日は昼からなので、俺はそれを正直に答えた。すると、詩乃はがっくりと肩を落とす。
「起こしに行っちゃ、ダメだよね?」
捨てられた子犬のように潤んだ瞳で見上げられる。少し悩みながらも、俺は首を横に振った。
「授業も無い俺が朝から学校に行って、どうしろと言うんだよ?」
「隣で座ってるといいよ!」
「俺がいたら、お前は喋ってばっかだろうが……ちゃんと勉強しろ」
人のことを言えるほど、真面目に授業を受けているわけではないけれど、詩乃はもっと酷い。そのせいで教授の逆鱗に触れ、何度教室を追い出されたことか――てか、俺は関係無いのにね。
「むー……分かった」
頬を膨らませ、玄関に向かって行く詩乃の後ろ姿は不機嫌なオーラがにじみ出ていた。
玄関の施錠音が聞こえるまで、詩乃を見送って、そっと息を吐く。目の前が真っ白になり、やがて暗い夜道が再び現れた。
「……寒い」
誰もいない夜道で小さく呟いて、俺はそそくさと隣家――つまり自分の家へと向かう。
明日の学校は昼からだ。ゆっくり休もう。湯船にのんびり浸かりたいなーと零しながら、俺も玄関をくぐった。
*
講義前の教室はうるさい。耳障りな音をシャットアウトするためにイヤホンを両耳に差し込んで、ボリュームを上げる。どうしても眉間にシワが寄ってしまうのを指でほぐし、講義の開始を待つ。
その時、不意に肩が叩かれた。慌てて振り返ると、見知った顔が並んでいた。しかし音は聞こえない。口パクする友人の顔に、しばし首を傾げ、思い出す。イヤホンを乱雑に引き抜いて、謝罪の言葉を口にする。
「悪い、全然聞こえなかった」
「ああ、気にすんな、挨拶程度さ。奥に詰めてもらっていいか?」
俺は頷いて、五人ほど並んで座れる長机の隅の席に寄る。友人の三人は遠慮なく座り、何やら話し始めた。
「相変わらず怖い顔してんなー、蓮は」
すぐ隣の友人が言い、残りの二人が軽く笑った。俺は肩を竦めて、喧噪に向けてため息をつく。
「雑音は苦手なんだ」
「だからってイヤホン両耳にさして、あんな怖い顔してたら、誰も寄ってこねーぞ?」
「お前らは?」
「そうやって孤立しそうな蓮くんを気遣ってる、優しい友達じゃないか!」
そうだそうだ、と残る二人もイタズラっぽく微笑んで頷く。
「はいはい、親友殿のお陰で一人ぼっちにならずに済んでますよ」
不貞腐れることもなく、苦笑混じりで応じると、先ほどまでと違って心が落ち着いた。騒音も気にならなくなり、ついつい言葉が流れ出る。
「そう言えば、詩乃ちゃん、どうしてる?」
「……ん、あいつ?」
「そうそう。いつも一緒じゃん?」
ああ、と俺は頷く。大学においても、かなりの時間を詩乃と一緒に過ごしている――と言うか、俺を見つけるなり、叫んで走ってくるのだ。それだけでなく、一緒に登校する日もあるし、空いている時間は、ほぼ詩乃と一緒にいると言っても過言ではなかった。
「あいつだって授業あるだろーよ」
確かに、と親友殿は呟く。
「でも、詩乃ちゃん可愛いよなー」
ぴくん、とこめかみの辺りが引きつった。それを表に出すまいと、俺は曖昧な笑みを作る。
「冗談だって、怒るなよー」
……顔に出てたらしい。
やがて、始業の鈴がなる。授業が始まっても、教室は静まらない――まぁいつものことだ。今日は一週間で、俺が最も苛つく日だった。
*
店内に凛と一際高い音が響きわたった。
またか、と俺は店長と目を合わせ、覚悟を決める。
「申し訳ございません、お客様。お怪我はございませんか?」
さらりと噛むことなく出てくる謝罪の言葉に呆れを覚えつつ、ひとまず詩乃と並んで頭を下げる。
やはりと言うべきか、このお客様も寛大で、「気にしなくていい」と柔らかく微笑んでくれた。とは言え、早急に代えの品を用意しなければならない。伝票を確認して、マスターに通す。
そして片づけを詩乃に頼もうとしたところで気づく。
「あれ、詩乃……お前、メガネは?」
「……あ、あれ?」
詩乃は、はっとして手探りでメガネを探すも、床はガラスが飛び散っていて危ない。俺は慌てて、詩乃を引っ張り起こす。制服のカッターシャツはコーヒーで汚れ、酷い有様だった。
「火傷は無いか?」
オーダーはホットコーヒーだったため、俺は慌てて詩乃に尋ねた。
「う、うん、大丈夫だと思う」
とは言え、気が動転していて、痛みが鈍っているだけかもしれない――お客様に再び頭を下げて、俺は詩乃をカウンターまで引っ張っていった。
「すみません、ちょっとお願いします」
マスターともう一人の後輩に店を頼んで、裏にある休憩室へと向かった。そこに備え付けてある冷凍庫から氷を掴んで、ビニール袋に詰め込む。更に薄いタオルを巻いて、簡単な氷嚢を作り上げた。
「カッター脱げ」
「えっ!?」
「いいから脱げ」
早口になっていることを自覚しつつも、俺は目の前で詩乃にカッターを脱がせた。赤面しているが、こいつは何を考えてるんだ。詩乃の白いはずの肌が、やはりと言うべきか、腹部のところだけ赤くなっていた。
「馬鹿、やっぱり火傷してるじゃねえか」
「ひゃん!」
俺が氷嚢を押し当てると、詩乃は色気の欠片もない声を上げ、目を剥いた。
「しばらく、じっとしてろ」
「でも、片づけないと――」
「いい、俺がやる」
ぶっきらぼうに言い放つと、俺は休憩室の扉を乱暴に閉めた。
店内へと戻ると、マスターが心配そうに俺を見つめてきた。
「たぶん、大丈夫です」
そう言うと、マスターの固い表情が緩み、そっと息を吐いた。
「片づけしてきます」
チリトリと箒、そして雑巾を手に、先ほどのお客様の下へと小走りで向かう。再び謝罪の言葉を口にして、片づけに入った。既に代わりに品は届いているようで、カップに注がれた黒い液体が湯気を立てていた。
「……あ」
思わず声が漏れた。お客様の足下に僅かにきらめく物体があったのだ。銀のフレーム――詩乃のメガネだ。
「申し訳ございませんが、足下、失礼します」
断りを入れて、そっと手を伸ばす。壊さないように優しく手のひらで包み込んで、メガネの救出をはかった。
しかし、その気遣いは無駄に終わる。開いた手のひらにあったのは、レンズに大きな傷とヒビの入った無惨な姿のメガネだったのだ。
お客様も俺の手にあるメガネをのぞき込み、小さくため息をつく。
「でも、あの子……メガネ無いと凄く綺麗だね」
何のフォローだ、と思いつつも、俺は愛想笑いで返す。
とは言え、詩乃の許可無く捨ててしまうのも、どうかと思う。俺はメガネをポケットにそっと押し込んで、清掃活動に戻った。
*
終業。
結局、詩乃はその後も仕事に戻らなかった――いや正確に言うなら、戻らせなかった。
「服が擦れて、ひりひりするよ……」
涙目の詩乃が腹部をかばうような変な歩き方をしながら、俺の横を行く。
普段より更に遅いペースで歩く詩乃に、少しだけ苛立つ。
「仕方ないだろ」
それは詩乃に向け、そして自身にも向けた言葉だった。苛立っても仕方ない。どうせ、俺は詩乃を放っていけないのだから。
メガネが無く、裸眼の詩乃は目尻に涙を溜めて、俺を見上げる。
――綺麗だね。
不意に、あのお客様の言葉を思い出した。確かに言われてみると、幼さは薄くなり、綺麗になっていた。
いつの間に……と口から零れそうになるのを、寸前で堪える。そっと目を伏せて、詩乃から視線を逸らした。
「蓮くん、今日もごめんね」
「いつものことだし」
「うん……だから、ごめんね」
不意に腕に重みがかかった。腕を引かれたのだと気づき、俺が振り返ると、じとーと言う擬音が似合いそうなぐらいに目を凝らした詩乃の顔が、すぐ傍にあった。
「こ、こえーよ!」
俺は思わず顔を背けた。
「あ、ご、ごめん」
慌てて離れる詩乃。俺は激しく鳴り続ける心臓を何とか落ち着けようと、冷たい夜気を吸い込んだ。
「メガネ無いから、蓮くんの顔も見えなくて……」
「お前、そんなに目、悪かったのか?」
うん、と頷く詩乃は聞いてもいないのに、説明を始める。
「大学受験の時に、頑張って勉強してたら、一気に落ちちゃったんだー」
「……いや、目の良し悪しって、ほとんど遺伝で決まるんだぞ?」
うそっ! と目を丸くして叫ぶ詩乃は本当に知らなかったようだ。今日となっては常識になっているだろう、と俺は白い息を吐いた。
それにしても意外だった。詩乃が受験勉強を頑張っていただなんて。おっとりのおっちょこちょいで、進学なんぞ興味なさそうだったため、大学に入ってきたことも驚きだったが、まさか大学に入るために勉強まで頑張っていたとは……これまた詩乃の知らない一面を垣間見て、驚きを隠しきれなかった。
「かなり頑張ったんだよ、蓮くんと同じ大学に行きたかったから」
刹那、言葉を失う。屈託のない笑みを浮かべ続ける詩乃をまじまじと見つめたまま、俺は硬直する。
大学を選んだ理由が近かったから、ではない――俺と同じだからと大学を選んだのだとしたら――俺は甘やかせすぎたのかもしれない。思わず頭を抱えたくなった。
「ど、どうしたの、蓮くん?」
顔が怖い――詩乃はそう言うも、お前も同じぐらい怖えよ。そう返したくなるのを堪えて、俺は息を吐く。やり場のない自らへの怒りや悲しみが、そっと抜けていく。空気の抜けて行く風船のように、俺の心も萎んでいった。
衝動的に謝りたくなった。でも、突然謝られたら、詩乃は困惑するだろう。自らの罪悪感を軽くするためだけに、謝罪の言葉を口にするのは嫌だった。
「……もう、俺の後に付いてくるな。バイト先も変えろ。お前には向いてない」
不本意だ。俺の言っていることは全て不本意だった。しかし、これ以上、俺の近くに詩乃を置いていては、彼女をダメにしてしまう――大学の件だって、俺がもっと早くに詩乃を突き放さなかったからこそ、軽率な選択をさせてしまった。悔いても悔やみきれない。
だから今だ。もう今、この瞬間に突き放すしかない。俺は唇を噛み締めながら、詩乃の腕を優しく引き剥がす。
案の定、詩乃は鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸くしていた。目の端には照明の明かりを綺麗に反射するほどの涙が溜まっていた。
「何で……そんなこと言うの?」
詩乃の声は震え、今にも壊れそうな堤防を思わせた。今、ここで追いつめたら、詩乃の感情の全てが決壊し、俺に向けられるだろう。でも、それでいい。悪いのは俺なのだ。
「私は、私は蓮くんのことが、ずっと好きで――」
「それは違う。俺は詩乃にとって、ただ身近なだけの存在だったはずだ」
その好きは恋愛感情じゃないはずだ。俺はゆるゆると首を振る。詩乃の顔は見ない。見たら、針で突くよりも、心が痛むことは分かっていたから。
何度も言うが、不本意なのだ。詩乃を――妹のように可愛がってきた彼女を悲しませることは、俺にとって最も嫌悪する行動と言っても過言ではない。大げさだけれど、それぐらい詩乃が大切だった。幸せになってもらいたかった。
なのに、今、俺がやっていることは詩乃を傷つける行為以外の何物でもない。ただただ胸が痛む。これなら今すぐ辻斬りに遭って、殺された方がマシだと思えるぐらいに辛かった。
もはや町の喧噪も耳に届かない。ただ、心臓の音がうるさいほど、響きわたっていた。奥歯が痛い。いつの間にか力が入って、強く噛みしめてたようだ。
俺は詩乃に背を向け、家路を急ごうとした。しかし、今までにない力で腕を引かれる。倒れそうになるのを何とか堪え、俺は反転する。すぐ目の前にあったのは、顔をぐしゃぐしゃにしながらも、意志の強い光で俺を射抜く詩乃の瞳だった。
「……何で?」
すん、と鼻をすすりながら、詩乃は強く問う。
綺麗な顔が台無しだ――答えを探すこともせず、俺はそんなことを思った。
「私は蓮くんが好き、ずっと好きだったの。ちっさい頃から、ずっと……ずっと」
そして、と詩乃は続ける。
「今もそれは変わらないんだよ。蓮くんのことが好きなの。なのに何で私の気持ちを否定するの?」
俺の中にあった詩乃のイメージが崩れて行く。改めて見る詩乃の顔は、本当に綺麗だった。いつの間に、ここまで大きく、そして綺麗になっていたのだろうか。
――ずるい。
俺は小さく零す。ここまで強く言われたら、俺は断れない。詩乃の言うことは断れない。それに今までにない詩乃の姿が、俺を揺さぶる。妹としてのイメージが崩れ、ようやく詩乃を一人の女性として見えるようになりつつあった。
「すまん、俺が悪かった」
だから、もう泣くな――俺はそっと詩乃を抱く。詩乃の身体は小さく、驚くほど華奢だった。それでも服を越えて伝わってくる温もりは確かだった。
「……ごめん、蓮くん」
やがて、詩乃が耳元で呟く。俺は、はっとして詩乃を解放した。やってしまったと言う後悔と恐怖が同時に押し寄せ、嫌な汗が噴き出す。
「ごめんね、これ治ったら、もっとぎゅーっとしていいから」
そう言って、詩乃は今日火傷したお腹を指さす。
「……あ、すまん」
後悔、恐怖、焦りは一瞬にして霧散する。嫌な汗が、一転して安堵の物へと変わる。手のひらは、じっとりと濡れていた。
「寒いし、帰ろ?」
詩乃は手を差し出す。俺はジーンズで汗を拭い、それを握る。やっぱり詩乃の手は冷たかった。
「あったかい」
詩乃は無邪気に微笑む。綺麗な顔も今だけは幼く見えた。だけど、もう昔のようには――と言っても、つい数分前までのことなんだけど、妹として見ることはできなくなっていた。
愛しい。そして温かい。
自らを愛してくれる詩乃の全力が胸に沁みた。
帰り道――詩乃は何を言うでもなく、ただただ嬉しそうに俺の隣で微笑み続けた。
……明日、あの三馬鹿トリオは驚くだろうな。詩乃に手を出すなよ、と釘を刺すことも忘れないようにしなければ。