-絶望-
彼は生まれた瞬間絶望した。
なぜなのかは彼にも分からない。醜い姿だったからだろうか。羽が『5』つだったからだろうか。そうかもしれない。けど、彼は違うと感じた。そんな単純な話ではない。
――もう_したくないのに。
聞き覚えのない自分の声が、魂の中で響く。
胸の痛みを彼は覚える。胸の苦しみを彼は感じる。あまりの痛みと苦しみに、彼は胸へと爪を立てようとし、
『ほお、《士族》か。久しいな』
美しい声に動きを止めた。彼のではない、その高い声が彼の身体に染み渡ると、胸の痛みと苦しみがどこかへ霧散した。
顔を上げた先にいたのは、赤い髪の女。濃紺のドレスに身を包んだ女が、豊かな髪を揺らしながら彼を見下ろしていた。真っ赤な唇が楽しげに曲げられ、吐息と共に笑い声が漏れ出ている。
彼は言葉をなくした。女は、美しい存在だった。この世で一番尊い存在だった。そんな存在が目の前にいる。彼は嬉しくて、嬉しくて
――もう_したくないのに。
魂が何かを叫んだ。
『よいよい。そう苦しむな。お前のせいではない』
女……<魔王>が少し悲しげな顔をして言い、彼は自分が呼吸を止めていたことに気づいた。息を吸い込む。ぼうっとしていた頭が目覚め、声は消えていった。
『しかしちょうどよかった。新しいおも……大臣を探しておったのだ。ということで、おぬしをわらわのぺ、利大臣に任じる』
無邪気な笑顔で命じた<魔王>に、彼は驚いて、
彼は目を開けた。そして苦笑を浮かべた。
「私としたことが眠ってしまうとは」
机に積まれた書類を目にし、呟く。書類はたくさんあるが、ほとんど処理済だ。現<魔王>が真面目なおかげで彼の仕事量は大分減った。先代もひどかったが、先々代……初めて出会った<魔王>など、ひどいの言葉では足りない。どれだけ苦労したことか。
「ずいぶんと懐かしい夢を」
昔を思い出して彼は微笑んだ。破天荒な先々代には振り回された彼だが、最も楽しい思い出でもあった。水色の目が懐かしげに細められ、微笑みが消える。水色が暗く淀んでいく。
先々代はもうどこにもいない。<勇者>に殺された。彼の、目の前で。
乾いた音が部屋に響く。彼が手に持っていたペンが折れたのだ。細い腕から想像できないほどの力がペンに加わっている。ペンは折れ曲がるだけでなく、粉々になった。文字通りの粉に。
「今度こそ私がお守りせねば」
吐き出された声は、元ペンであった粉に触れて青い炎となった。炎に彼の姿が映りこむ。<魔王>を守ることは彼にしか出来ない。軍隊は存在するが、彼らは<魔王>を守らない。いや、その時が来るまでは守るだろう。しかしその時が来れば、喜んで<勇者>を出迎えるのだ。
彼は理解している。魔族として、この世界に生きるものとして、自身の方が可笑しいことを。
魔族は<魔王>を守ろうとしない。<魔王>に守ってもらうだけで、守ろうなどとは思わない。それが普通であり、<魔王>を守ろうとしている彼が異常で、<裏切り者>なのだ。
それでも構わない、と彼は思う。
あの時、絶望から救ってくれたのは<魔王>だった。ならば、今度は自分が<魔王>を絶望から助ける番だ。
彼は手を動かし、引き出しから何かを取り出した。古い本だ。全体が黄ばみ、あちこち虫に食われ、ページも破損しているその本を、彼は今だ燃え続ける青い炎にくべた。
炎に、燃える本に向かって、彼は語りかける。
「だからあなたは、《名》を捨て、人間になったのでしょう? ロー・アベスタ」
――できるなら、知りたくはありませんでしたが。
そうして彼、アベスタは顔をシワで覆った。泣いたのか、笑ったのか。アベスタにも分からなかった。
最終章。




