-懐古-
彼を表す<勇者>はただの称号であり、<ロー・アスムウェル>という名前はただの記号だった。
先代、先々代の勇者達から引き継いだ名は、人々の間では大きな意味を持っている。彼もこの名を持つことが凄いことだとは理解していた。理解していたが、何度口ずさんでも、何度その名で呼ばれても、彼にはただの記号にしか聞こえなかった。気がつけばそう呼ばれていたから、それを口に出されると自然と身体が反応する。それだけ。
本来、名前は親が子につけるものだが、彼の場合は違う。――もしも自分が青い瞳を持って生まれなければ、両親は自分にどんな名前をつけただろう。
彼は時折、そんなことを考える。日々の中にある、彼が唯一楽しみにしている時間だ。
名前を想像している間だけ、彼は<勇者>以外の何かになれた気がした。
「<勇者>様、メイマーギです」
しかし、楽しい時間と言うものはあっという間に過ぎてしまう。そもそも、彼に自由な時間と言うのは少ないのだが。
「入れ」
部屋の外から聞こえた声に、淡々と応える。偉そうな声だ。彼は胸の中で自分を笑う。
入ってきたのは、もう10年の付き合いになる従者だ。【メイマーギ・デイ】という名の女性は、淡い茶色の髪と、髪とは反対に強烈な光を放つ赤い瞳の持ち主で、彼はデイの目が苦手だった。デイはほとんど表情を変えないが、その赤い目が雄弁に心を語るのだ。
デイの目は、他の人間達よりも、<勇者>しか見ていない。自分の<勇者>像を、目に宿そうとしているかのように、彼と目を合わせない。自分の<勇者>像以外など、見る価値がない。と、言わんばかりに。
だから初めてデイと会った時、彼はすぐに視線を逸らした。そんな目は、もううんざりだった。
冷め切った食事がテーブルの上に置かれる。温かい料理というものを1度食べてみたいとも思うが、まさかそんな贅沢が言えるわけもない。黙ったままデイを見下ろし、
「朝食はもう食べたのか?」
気がつけば、彼はそんなことを口に出していた。しまったと思っても、口に出してしまったのは仕方ない。
「はい。もうすませております」
「そう、か」
驚いたように彼を見ていた赤い目が、一瞬だけ逸らされた。デイが食事を取っているはずがなかった。まず<勇者>の食事を届ける方が先だ。
彼は何も言わずにデイの嘘を受け止めた。
閉じられた戸をしばしの間見つめ、彼は目を閉じる。なぜあんなことを言ってしまったのか。彼には心当たりがあった。
――なあ、朝食まだだろ? 一緒に食べないか?
――何を言ってるのですか。あなたは< >なのですからそのようなことできるわけが……。
聞いたことのない会話が頭に浮かぶ。見たことのない顔が頭に浮かぶ。今朝見た夢だ。
「僕は病気にでもなったのか?」
目を開けると、浮かんでいたものは消える。跡形もなく。無性にそのことが悲しいと彼は感じてしまう。
「<魔王>、君は一体僕に何をした」
初めて<魔王>と出会ってから、おかしなものが彼の頭に浮かぶことがあった。夢に見ることもあった。知らないはずなのに、知っていると思う情景が。
その減少が激しくなったのは、前回の《魔族狩り》からだ。またもや<魔王>によって阻まれたわけだが、あの時はいつもとは違い。もう1人いた。
いや、1人といっていいのだろうか。現れた小さな老人の背には、コウモリの様な羽が5つも生えていた。手のひらほどのサイズから本人よりも大きな羽まであり、飛行に適している形とは思えない。作り物でないことは、好き勝手に動くのを見ていれば分かる。そして異様に細い手足、しわくちゃの顔。特徴のありすぎるその存在は、あまりに有名だった。
『<魔王>様。こんなところにおられましたか』
『アベスタか』
アベスタ。人間から<魔王>の次に恐れられている存在。<魔大臣>アベスタ。
一見ただの老人だが、<魔王>と<勇者>を前にして平然としていることから見ても、その魔力の高さを窺える。実際、彼はアベスタから凄まじい威圧を感じた。
『無闇に人間と接触するのはお控えくださいと、いつも申し上げているかと思いますが?』
『何を言っている。たまたまだ』
ため息混じりのアベスタの言葉に、<魔王>は堂々と答えるが、そんなわけがはずない。いくら抑えようとも、<勇者>ほどの魔力は隠せない。その魔力に<魔王>が気づかないなど、ありえなかった。
胸を張った<魔王>に、それ以上何か言うのを諦めたアベスタは、ここで初めて<勇者>を見た。肌と眉に埋もれた水色の瞳は、姿からは想像できないほど若々しい輝きを帯びている。
――どうしてあなただけがこんな目にあわなければならないのですか!
知らない声が聞こえた。その声はアベスタのものでも、<魔王>のものでも<勇者>のものでもなかった。幻聴だ。彼は思ったが、なぜだか胸が苦しくなった。
そしてその苦しみは……アベスタも同じだったらしい。細い腕を伸ばして自分の胸元を掴んでいた。
『落ち着け』
心の底まで浸透するような声に、彼は我に帰る。青の瞳を瞬いた。胸の苦しさがなくなっていた。
同時に、声も聞こえなくなった。
『さて。そろそろ休憩は終わりにするか。帰るぞ、アベスタ』
『は。はい』
翼なく宙へと浮き上がった<魔王>の言葉に、アベスタはやや呆然とした顔で頷き、背中の羽を広げた。5つの向きも大きさも違う羽がめちゃくちゃに動き出す。優雅と言いがたい羽の動きとは反対に、アベスタはゆったりとその身を浮き上がらせた。
『ではまた会おう。ロー』
笑顔で去っていく<魔王>に付き従っていたアベスタが、1度だけ振り返った。水色の瞳と、青い瞳が交差する。
彼の心臓が、震えた。苦しさからか。恐怖からか。それとも――。
勇者編終了。
段々、辞める! というタイトルとの関係性がなくなってきた気がする。……いや、気のせいだ(開き直り)。