-希望-
彼を表す<魔王>というのはただの称号であり、彼の名前ではない。さらに言うならば、周りが勝手にそう呼び始めただけで、彼は元々<魔王>ですらない。彼に与えられた本当の称号は<地を統べる者>だ。今ではもう、この地上でその称号を知るものは彼1人だけとなっているが。
一体いつから<魔王>と呼ばれ始めたのか。先代、先々代、その前……記憶をさかのぼれば答えを得られるだろう。彼はその努力をさっさと放棄し、かなり昔だ、で締めくくる。
この世に生を受けた者たちには、生まれた瞬間から名前がある。アベスタのやたらと長い名前にしても、あれは彼自身が決めたものではなく、生まれた瞬間についていた名前だ。中には「ダ」という短すぎる名前のものだっている。では彼の名は何なのか。
答えは「ない」だ。
そして、なくても困ることは何1つなかった。誰も彼に名前を尋ねない。必要ないのだ。<魔王>という存在が、この世に唯一無二であるがために。
しかしながら、彼ら歴代の<魔王>は密かに名前を持っていた。それは自身の好きなモノ(動植物・食べ物・色・季節・言葉)であったり、音を適当に並べただけであったり、何か深い意味を持たせたりと様々だった。結局、今まで役立ったものはないが、現<魔王>である彼もまた自分に名前をつけていた。もしかしたら必要になるかもしれない。そんな『もしも』がいつまでたっても捨てられないのだ。
考え込んでいた彼の形の良い真っ赤な唇が歪み、白い歯が顔を出す。この場に誰か魔族がいたならば、確実に卒倒していただろう。<魔王>の行動は、まばたき1つでもすべての生き物を魅了してしまうのだ。彼にとっては大変不本意なことに。
「<ロー・アスムウェル>。英雄たるもの、か」
口から漏れたのは、<勇者>に与えられる名前(記号)だった。
魔力の質(密度や量)が悪い人間の中で数百年に1度だけ生まれてくる、魔力の質が非常に高い突然変異。その存在を<勇者>という。<勇者>の魔力は<魔王>に次いで高く、この世で唯一<魔王>を倒せる可能性のある存在である。
そんな<勇者>がようやく生まれたと報告を受けてから、すでに12年が経っていた。これほど12年が長いと思った経験など、彼には覚えがない。
修行の一環なのか。《斜栓》付近までやって来た<勇者>を、彼は気晴らしに見に行った。首から五画星をぶら下げた少年は、まだ<勇者>と呼ぶには幼く、身に宿る巨大な魔力を持て余しているようだった。その意味で言えば、彼にとって期待はずれであった。倒されるまでもう少し待たなければいけないのか、と。
その時を思い出したのか。唇が再び動き、今度は綺麗な弧を描く。この場に運悪く誰かがいたのならば、その誰かは下手をすると死んでいたかもしれない。それはあまりにも珍しい、彼の純粋な笑みだった。
『我が名は<ロー・アスムウェル>。当代の<勇者>だ。お前が<魔王>だな』
『ああ、そうだ』
彼からしてみれば、今まで幾度となく繰り返してきたやり取りである。面白みも何もない。だが彼は楽しそうに思い出す。幼い顔が不機嫌そうに歪んだ様を。
『貴様っこちらが名乗ったというのに、名乗らないとはどういうつもりだ! 名前を言え』
『……カウクス。カウクス・ゴーリェ』
それは彼がようやく見つけた差異だった。
エラーがでたため、これだけ遅くなってしまいました。がく。