-憂鬱-
彼はついに諦め、抵抗を投げ捨てた。
途端、まるで激流に飲まれたかのような衝撃が彼へ襲いかかってくる。痛くて苦しいと彼は思った。思ったが、できればこのままずっと流され続けたいと願った。どれだけ苦しくとも流され続けた方が幸せだと、彼は知っていた。同時に、それが叶わない願いだとも知っていた。流れは彼を押しやっていく。意志を持っているかのように、とある方向へと。
流されていると、彼の手が何かに当たった。本能で伸ばされた腕は、その何かを勝手に掻き分けていく。何かは、とても硬かった。しかし彼の爪は簡単に何かを切り裂いていった。時間稼ぎにもならないか。と、彼は笑った。
意思とは関係なく背中を押され、彼の爪はついに『皮』を突き破った。
初めて肌に感じた空気を、彼は懐かしく思いながら吸い込んだ。どこからか、音ではない歓声を聞いた。彼は目を閉じ、その歓声に耳を傾ける。薄い唇が少しだけ曲げられた。歪な形になった唇は、彼の心を如実に表していた。
しかし残念ながら、その心を読み取れる者はこの世のどこにもいなかった。
再び目を空けた彼は身体を起こし、台座から降りた。彼が寝ていたその台座は、灰色の空間にぽつんとあった。どこかの室内らしい。壁に設置された2本のロウソクが、異様なほど明るく部屋を照らしていた。
その部屋は石造りでかなり広かったが、柱がまったく存在しない摩訶不思議な構造をしていた。装飾らしい装飾はなく、床に敷かれた赤い絨毯が殺風景な部屋を彩る唯一のものだった。
彼は振り返る。
台座の上には引き裂かれた器があり、元は白色だったのだろう台座を赤黒く染めていた。ひたりひたりと石床に落ちる体液が、器の新鮮さを物語っている。かつてはすべてのものを魅了していた前の器も、今は醜い肉の塊としてそこに転がっていた。もちろん動くことはない。
しばらくその器を見下ろしていた彼は、不機嫌そうに眉を中央に寄せた。瞬時に器が跡形もなく消えうせ、台座が本来の白い輝きを取り戻す。最初から台座の上に何もなかったかのように。
それきり台座に興味をなくした彼は、柔らかい絨毯の上を素足で歩き出す。すると、どこからともなく白い布が現れ、彼が一歩足を動かすたびに彼の浅黒い肌を覆っていった。白い布はすぐ赤く染まり、斑な文様を浮かび上がらせていく。
「お、お待ちしておりました」
しわがれた声がした。声は随分と震えていた。彼は足を止め、声の主へ目を向ける。随分小さい男がいた。禿げた頭に少し残った髪や眉は銀色、肌は声同様しわくちゃで、手足が異様に細い。片膝を床につけている男の背中には、様々な大きさの羽が5つ、好き勝手に生えていた。
しわだらけの顔に埋まっている小さな瞳は透けるような水色の瞳で、安堵に震えていた。彼は微笑を浮かべる。そこには申し訳なさと、また出会えた喜びが混じっていた。男はそのことに気づいただろうか。5つの羽が不規則に動いた。
「【アベスタ】。すまない。世話をかけた」
「いえ」
男、アベスタは首を横に振る。アベスタにとって彼がそこにいるのなら、他のことはどうでも良かった。言葉を失って頭をたれたアベスタを見て、彼は息を吐き出す。
罪悪感に、押しつぶされてしまいそうだった。
アベスタが顔を上げた。彼は何も言わずに歩き出した。少し首をかしげた後、アベスタは彼の後ろにつき従った。
「みな、この時を待っておりました。<魔王>様」
彼、<魔王>は、諦めたように笑った。
以前予告版としてあげていたものをちょっと修正したものです。
< >【 】を付け加えてみました。こういう書き方もありですよね。初めての試みです。
【 】はその話で初めて出てくる人名(一話に使っても二話目にも使います)。< >は役職? 《 》はその他この世界特有の言葉に使います。