6話:レオンハイムの主張。
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ヴァルティス神聖教の大聖堂の扉が開かれると、俺の耳に押し寄せてきたのは、人々の囁き声が重なり合う波のような音だった。
身廊に一歩足を踏み入れると、その囁きが一瞬で静寂へと変わる。
数多の目が、ルナリスと俺に向けられていた。
身廊の中央には審問の為の空間が設けられている。床に描かれた儀式の円環は、白い大理石の上で金箔が施され、光を浴びて輝いていた。その円環を取り囲むように、一段高い場所に聖職者達が半円を描くように並んでいる。彼らの白と金の装飾が施された法衣は、身廊に差し込む彩色ガラスからの光を受けて、まるで彼ら自身が発光しているかのように見える。
その左側にいた男に俺は驚いて息を呑んだ。十正官第一席ドミニク=ヴィルメーア。彼は七十近くになるだろうか、顔の皺と白髪は歳月の重みをそのまま表しているようだった。
そして半円の右側に立つのは、既に俺達よりも先に到着していたレオンハイム=エヴァンドール。紫紺の審査官制服を纏い、どこか余裕を感じさせる微笑みを浮かべていた。
頭上を見上げれば、大聖堂の高い天井から、細い銀の鎖で何十もの香炉が吊り下げられており、そこから立ち上る甘い香りが大聖堂全体を満たしていた。
ルナリスは俺の前を歩いていた。普段の姿とは違い、紫紺の審査官制服を身につけている。肩に施された金の刺繍が陽光を浴びて輝く。その背中は小さいながらも、一筋の曲がりもなく真っ直ぐだった。右手中指に四衡晶が象られた銀の指輪が嵌められている。女性用の審査官制服はタイトなロングスカートということもあって少し歩き辛そうだ。
円環の中央に到着する。上座から十正官のドミニクが立ち上がり、枯れた声で語り始めた。
「本日、ヴァルティス神聖教オルシスティア大聖堂において、特別審問会を開催する。議題は、黒竜討伐依頼に対する異議申し立てについて。申立人、依頼審査官ルナリス=ラ=サクレーシア。そして依頼書作成者、依頼審査官レオンハイム=エヴァンドール。共に握手を」
ドミニクの声が大聖堂内に響き渡る。審査官が行う審問には必ず最初に握手が交わされる。これは「喧嘩ではなく、公正な依頼書を共に作る為の議論である」という証だそうだ。
ルナリスとレオンハイムは同時に前に出ると握手を交わした。
「竜の所へ行くと聞いた時は心配したが生きて帰ってきたようで何よりだ。余程運が良かったらしい。今日も豪運が発揮されることを祈るのだな」
「心配ありがと。でも私が帰ってきたのは運ではなく必然よ。それを照明してあげるわ」
二人は共に不敵な笑みを浮かべた。
いきなり始まった舌戦に大聖堂内がどよめいた。ドミニクが杖を一度床に打ちつけると、たちまち静けさを取り戻した。
「では、ルナリス審査官、申し立て内容を読み上げなさい」
ドミニクの言葉に、ルナリスが姿勢を正した。深く呼吸をしているのが肩が上下に揺れる様子でわかる。彼女の琥珀色の瞳が、いつになく強い光を宿していた。
「私、依頼審査官ルナリス=ラ=サクレーシアは、マクルラズ森林に存在すると報告された黒竜に関する依頼書の内容に重大な誤りがあると判断し、異議を申し立てます」
その声は小柄な体から想像できないほど力強く、大聖堂の隅々まで届いた。
ルナリスの言葉が終わるや否や、審問会を見に来ていた観衆の中から声が上がる。
「てめえ何言ってんだ! 聖典を読んだことはあるのか!」
それを合図にまたも観衆が騒がしくなった。今日この場は俺達にとってアウェーだ。
野次を飛ばした声に聞き覚えがある。誰だったかは思い出せない。まあ同じ街に住んでる人だろうから声くらいはどこかで聞いたことくらいあるか。
ドミニクが再度杖を打ち付け、三度の静寂が訪れる。
レオンハイムが鼻で笑うような音を立てたのが聞こえた。
「私は啓悠派ではありますが、ヴァルティス神聖教でもありますので読んだことはあります。が、私の聖典に関する知識は、熱心な信者でもあるレオンハイム審査官には到底敵わないことは認めます。レオンハイム審査官、この若輩者に聖典について教えていただいても?」
ルナリスはレオンハイムに微笑みかけた。
意外だったのか、レオンハイムの片眉がピクリと動いたのがわかった。だが、それを断る理由も無いと判断したらしい。立ち上がり、中心にまで進むと観衆にも見えるよう片手に聖典を持ち高く掲げた。
「ここにいる皆が知っているとは思うが、小生が手に持っているのが聖典である」
レオンハイムは手を下ろし、聖典を開いて審問の為に開かれたスペースを左右にゆっくりと歩きながら語り出した。
「聖典は、多神の教えであるヴァルティス神聖教において、天井神ユーティリアを主とした神々のファクトを綴った書である。神は秩序に重きを置き、乱すものを許さない。今回、問題となっている竜であるが、この聖典において第六章第五節に登場する。先日、ルナリス審査官には聞かせたのだが、もう一度、竜について書かれた文言を抜粋して読み上げよう」
レオンハイムが聖典を閉じて動きを止める。そして、わざとらしい咳払いをした。
「彼の者は天より現れ、雷を纏いし翼を広げる。黄金の眼は人を射抜き、彼の咆哮は大地を揺るがす。竜は天の戒めを破り、火を吐きて神の民の家々を焦がし、その羽ばたきにより城塞をも倒す。竜は身を霧に溶かし、肉の眼には捉え難き。神は彼に言葉を投げかけた。『何ゆえこの世を焼き払わんとするか』と。されど、竜は笑みて応えり。『汝らの子は耐え難き。我はこのような秩序は認めぬ。もし神が我に打ち勝つならば、この世は神と子のものであろう』」
事務所で語ったときよりも更に仰々しい口ぶりだった。
「そう書かれている通り、竜は人にとってあまりに強大な力を持つ魔物だ! 存在そのものが混沌と言っても良い。今、その竜がここオルシスティアより半日ほど進んだ先にあるマクルラズ森林の奥に生息している。もちろん我々人間の安寧を脅かすものであり、早急に討たねばならないと小生は考える!」
レオンハイムのよく通る声が身廊に響き渡る。観衆に目を向けると当然とばかりに頷く人や、ドミニクに怒られない程度に小さな拍手をしている人が多くいた。
レオンハイムは微かな拍手の音が止むのを待ち、「しかし!」と更に大きな声を上げた。
「そこのルナリス審査官はその悪の権化であり怨恨の象徴ともいえる竜に対して『討伐するべきではない』そう主張しているのだ! 彼女と小生は宗派の違いはあれど共にヴァルティス神聖教である。小生を始めここにいるほとんどが典戒派であると思うが、典戒派では魔物は秩序を乱す象徴であり駆逐すべき存在と教えられている。さて、ルナリス審査官、啓悠派では魔物はどのような存在なのか教えて貰えるかな?」
レオンハイムの言葉にこの場にいる全員の目がルナリスに向けられた。憎悪でも込めているのか、睨み付けている者も少なくない。
「啓悠派でも、『基本的』には魔物は秩序を乱す存在とされているわ」
ルナリスは臆する様子もなく基本的という言葉を強調してそう口にした。その後に何か続くと思っているのかレオンハイムは待っていたが、ルナリスはそれ以上何も言わなかった。
それが拍子抜けだったのか。レオンハイムは「それだけか?」とルナリスにだけ語りかけるように小さな声で尋ねた。ルナリスは「ええ」とひと言返した。
レオンハイムが咳払いをして、再度口を開く。
「どうやら啓悠派でも魔物は秩序を乱す存在とされているとのことだ。その教えがありながら、彼女は先ほども言った通り竜の討伐に対して否定的である。これは由々しき事態だ! いつ竜がこの街を襲うかもわからない。竜の存在を知ってからの小生は毎日恐怖で夜もろくに眠れないというのに、先日彼女の事務所に赴いた際には始業時間ギリギリになっても悠々と寝ていた。恐怖心が欠如している。もしくは度を超えた呑気か」
レオンハイムが小馬鹿にするような口調でルナリスを貶す。観衆から失笑が起きる。それは審問には関係の無いことで、ドミニクに「慎みなさい」と注意されていた。レオンハイムは即座に「失礼」と頭を下げた。注意されることはわかっていて、ルナリス個人に口撃をしたのだろう。おそらく精神的に揺さぶる為に。
しかし、当のルナリス本人は全く動揺する様子も見せず、むしろ薄ら笑いを浮かべている。
「皆さんは竜による実被害がどのようなものかご存じか。文献や資料に残っているものに限られるが、そのいくつかの例を挙げよう。まずは六年前に起きたフローカ大陸の竜被害。件の竜とは別だが突如現れた赤竜が雷を落とし、都市に大きな損害を与え、小さな村に至っては壊滅した所もあると聞く。歴史書を紐解けば、百二十年前のカルディア王国の崩壊も竜の仕業であると記録が残っている。幾千もの命が一夜にして奪われ、栄華を誇った文明が灰燼に帰した事例は枚挙にいとまがない!」
レオンハイムは聖典を胸に抱え、悲痛な表情で頭を振った。
「我々の祖先は、代々この脅威と戦い、多くの犠牲を払いながら今の平和を築いてきてくれた。そのおかげで、今ここに小生達は立っているのだ。そして今、その危険が近くに居る。自らの命を犠牲にしながらも、この世界を残してくれた祖先のように、我々は後生を生きる子孫の為に立ち上がらなくてはいけない! 竜の討伐が正式に決まれば、小生は審査官という立場ではあるがこの手にペンではなく剣を持つつもりである!」
「そうだ!」という声と共に拍手が起きた。レオンハイムは観衆に向かって頭を下げた後、人差し指を立てて自分の口元に持って行った。拍手が鳴り止む。
「今、聖典を持っている方がいれば開いて欲しい。聖典第十一章第七節だ」
俺が座っている位置からは前列の方の観衆しか見えないが、何人かが聖典を開いたのがわかった。レオンハイムはそれを待ってから続ける。
「ここでは後の大賢者として現在でも語り継がれているソリス=アストラムと神が問答を行った話が書かれている。その中でソリスが神にこう尋ねた。私なりに口語訳するが『最も秩序を乱した者はなんですか』『竜であった』『もしまた、そのような者が現れた場合、我々人間はどうすれば良いですか』『必ず討たねばならぬ。どのような被害が出ようとも後を考えれば微々たるものだ』わかるか、神ははっきりと竜は討つべきだと申しているのだ!」
レオンハイムが射るような鋭い視線をルナリスに向けた。ルナリスは気にも留めない様子だ。レオンハイムは憂いを帯びた表情を浮かべて観衆に体ごと向いた。
「そして決して忘れてはいけないのが、竜と共にいるとされる少女の存在だ。小生は常々、この少女の安全を願っている」
レオンハイムの声は低く沈み、観衆の感情を揺さぶるように語りかけた。
「ルナリス審査官は先日、実際に竜を見に行ったようだ。その際に少女の姿はあったのだろうか? それをお聞かせ願えるかな」
「少女は生きていたわ」
「それならば!」
レオンハイムの悲痛を演出したような声が響く。
「それならば、なぜすぐに救出しなかった」
一瞬の沈黙の後、彼は再び声を上げた。
「我々には弱き者を守る義務がある。討伐と救出、それを今すぐにでも実行に移すべきだ!」
レオンハイムは観衆に向かって手を大きく振り、感情を込めて語りかけた。
「オルシスティアの民よ、考えてみて欲しい。たった半日の距離に、恐ろしい竜が潜んでいるのです。あなたに子供が居れば晴れた日に家族で森の中腹にある湖へピクニックに行くこともあるだろう。この街で使われる木材の採集の為に、林へ出掛ける者もいるだろう。その森林の奥に、あまりに強大な脅威が存在している」
その静かでありながら脅すような口ぶりに、身廊内の空気が張り詰めて緊張感が高まるのを感じる。観衆全員が息をするのも忘れたように固唾を呑んでレオンハイムを見つめている。レオンハイムは一人一人の目を見るように、ゆっくりと視線を移していった。
「それを知って今夜、安心して眠りにつけるだろうか? 明日、家族を安心して送り出せるだろうか? 竜には翼があり、瞬く間にオルシスティアに到達することもできるだろう。我々が眠る間に、街が炎に包まれることもあり得る。フローカ大陸のように雷が落ちる可能性もある。その翼によって起こされた暴風で家屋がなぎ倒されるかもしれない! そんな恐怖と共に生きることを選べるだろうか」
さらに声を荒げ、レオンハイムは結論へと導いた。
「小生は選べない! 我々には武器を持ち行動する義務がある! 子供たちの未来のために、家族の安全のために、子孫の為に。今この場で決断を下すべきなのだ!」
レオンハイムの声が身廊に響き渡った。そして、ルナリスを真っ直ぐ見つめ、声のトーンを落とし「以上」と短く口にした。
前に座っていた観衆から大きな拍手が起こる。それがどんどん後列へと波及していき、最終的には割れんばかりの歓声が身廊全体を包み込んだ。
ドミニクもこの歓声をすぐに止めるのは無粋とでも考えたのか動かなかった。




