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微風の聖女は死神皇帝に拾われる

作者: くるり

ざまぁってすっきりしますよね。

眩い光が、王宮の拝謁の間を埋め尽くしていた。  

中心にいるのは、私の義理の妹であるリリア。


彼女が祈りを捧げれば、指先から黄金の光が溢れ出し、周囲には祝福の花びらが舞い散る。


「おお……! なんという神々しい光だ。これぞ真の聖女!」

「それに比べて、姉のエリス様は……」


貴族たちの称賛の声がリリアに降り注ぐ一方で、壁際に控える私には、冷ややかな視線だけが突き刺さる。  

私の祈りには、光もなければ花もない。

ただ、指先が微かに震え、全身を泥のような重苦しさが支配するだけ。

私の魔力測定の結果は、いつも「平民以下」。

文字通りの無能、空気、あるいは光を遮るだけの「影」だった。


「エリス様、また何も起きませんでしたわね。いい加減、聖女と名乗るのはおやめになったら?聖女はリリア様だけで充分でしてよ」


取り巻きの令嬢がクスクスと笑う。私はただ、深く頭を下げてその場をやり過ごすしかなかった。


――けれど、誰も気づいていない。  

リリアが光を放つたびに、その背後に渦巻く「淀み」を。  

この華やかな王宮の地下、そしてこの国の土壌に溜まった、数百年分の怨念や毒素を。


私は、誰に命じられたわけでもなく、毎日深夜まで一人で祈り続けていた。  

祈りとは、光を見せるためのパフォーマンスではない。

この世界に満ちた「汚れ」を引き受け、自分の体を通して浄化することだ

――幼い頃、亡き母からそう教わった。


私が祈るたび、王都の流行病は静まり、不作の村には緑が戻る。  

その代償として、私の指先はどす黒く汚れ、心臓は焼けるように痛む。  

それでも、「聖女」の役目だと思って耐えてきた。

誰も見ていなくても、この国が平和であればそれでいいのだと、自分に言い聞かせて。


しかし、そのささやかな献身は、最悪の形で裏切られることになる。


「エリス、君との婚約を破棄する」


冷徹な声が響いた。  

婚約者である第一王子・レナード様だ。彼はリリアの腰を抱き寄せ、ゴミを見るような目で私を見下ろしていた。


「リリアこそが、この国に光をもたらす真の聖女だ。お前のような、魔力も華もない女を王太子妃にするわけにはいかない」


「……殿下、ですが、私の『祈り』を止めてしまえば、この国のバランスが――」


「黙れ、無能が!」


レナード様が怒鳴り、一通の書面を私の足元に投げ捨てた。


「お前がこれまで王家に寄生してきた罪は重い。よって、国外追放を命じる。行き先は……そうだな。我が国の『ゴミ捨て場』がお似合いだ」


周囲から失笑が漏れる。 「ゴミ捨て場」

――それは、かつての魔王軍との戦場であり、今や毒霧が立ち込め、生きて帰った者はいないとされる【黄泉の森】のことだ。


「お姉様、可哀想に。でも大丈夫ですよ。私の光が、お姉様の分までこの国を照らしますから。ふふっ」


リリアの勝ち誇った笑顔。

その背後で、彼女が振りまいた「光」の代償である穢れが、ドロドロと王宮の壁を侵食し始めているのが、私にだけは見えていた。


(……ああ、もう、いいんだわ)


張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。  

私がこの指を汚してまで守ってきたものは、こんなにも脆く、そして私を必要としていなかった。    私は静かに頭を下げ、泥に汚れたドレスの裾を握りしめた。


「承知いたしました。レナード殿下。……どうか、皆様お健やかに。リリア、あなたの『光』がいつまでも続くことを祈っています」


嫌味でも何でもなく、私は最後の慈悲を言葉にした。  

けれど、彼らはそれを負け惜しみだと受け取り、さらに高く笑った。


私が城を去る。  

それは、この国を支えていた唯一の「浄化の柱」が抜けることを意味しているとも知らずに。


――こうして私は、着の身着のままで馬車に押し込められ、死の森へと打ち捨てられたのだった。





視界を埋め尽くすのは、不気味に蠢く紫色の毒霧だった。  

ガタガタと揺れる粗末な荷馬車から放り出され、背後で走り去る車輪の音を聞きながら、私は立ち尽くした。


ここが【黄泉の森】。  

草木は枯れ果て、大気には魔物の腐臭と、肺を焼くような毒が混じっている。

普通の人間なら、数分も呼吸をすれば内臓を侵され、死に至るだろう。


「……静か、ね」


けれど、私は不思議と恐怖を感じていなかった。  

むしろ、これまで四六時中私を苛んでいた「他人の穢れ」が、ここにはない。

この森にあるのは純粋な毒と死であり、人間のドロドロとした悪意に比べれば、驚くほど清々しくさえ感じられた。


私はゆっくりと歩き出した。  

不思議なことに、私が一歩踏み出すごとに、足元の毒霧がサァと左右に割れていく。  

私の身体が、これまで貯め込んできた穢れを排出しようとするかのように、周囲の毒を無意識に喰らい、浄化してしまっているのだ。


(ああ……これまで、私はどれほど無理をしていたのかしら)


王宮にいた頃の、鉛を飲んだような重苦しさが消えていく。  

ふと、森の奥から冷ややかな風が吹いた。  

その瞬間、私の本能が警鐘を鳴らす。


――そこには、絶望そのものが立っていた。


漆黒の甲冑を纏い、夜を切り取ったような外套を翻す一人の男。  

その背後には、巨大な黒龍の影が揺らめいている。  

彼が放つ魔圧だけで、周囲の空間がミシミシと軋みを上げ、強力な魔物さえもが影に怯えて逃げ出していく。


隣国ディストピアの皇帝、ヴィルフリート・フォン・ディストピア。  

戦場に一歩降り立てば数万の兵を絶望に沈めるという、「死神皇帝」その人だ。


「……何だ、貴様は」


地響きのような低い声が、私の鼓膜を震わせた。  

彼は鋭い眼光で私を射抜く。

その瞳は、あまりにも強すぎる魔力を抑えきれず、禍々しい紫色の光を放っていた。


「人間か。いや、この死の森で、結界も持たずに立っていられるはずがない。……魔物の化けの皮か?」


彼が一歩、近づく。  

凄まじい殺気が肌を刺す。普通の令嬢なら、その威圧感だけで失神していただろう。  


けれど私は、彼の瞳の奥に、かつての自分と同じ「色」を見た。


それは、あまりに強すぎる力を持ち、誰にも理解されず、ただ世界を蝕む呪いを一人で背負い続けてきた者の、深い孤独の色だ。


「お逃げください、陛下」


気がつくと、私は言葉を発していた。  

ヴィルフリート様は、予想だにしない私の反応に、眉を微かに動かした。


「……何だと言った?」


「あなたの魔力……。あまりに強すぎて、ご自身の魂を削っています。この森の毒と共鳴して、もう限界のはずです。今の私なら、それを……」


死を司る皇帝に、無能と蔑まれた聖女が、その指を伸ばす。  


彼の周囲を覆う黒い魔力の奔流が、私の指先に触れた瞬間――。


 ――キィィィィィン!


耳鳴りのような高い音と共に、眩いばかりの「透明な光」が弾けた。  

リリアのような派手な黄金ではない。水底に差し込む陽光のような、どこまでも透き通った輝き。


「なっ……魔力が、静まる……?」


ヴィルフリート様の目が見開かれた。  


彼を苛んでいた暴走寸前の魔力が、私の手に吸い込まれるようにして、柔らかな静寂へと変わっていく。    


彼は荒い呼吸を整え、信じられないものを見る目で、私の細い手首を掴んだ。


「貴様……この私の『呪い』を、ただの接触で抑え込んだというのか? どこの国の回し者だ。名を名乗れ」


掴まれた手首が熱い。彼は今にも私を握り潰しそうなほど強く、けれど同時に、溺れる者が藁を掴むような切実さで私を求めていた。


「……エリス、と申します。王都から、捨てられた者です」


「捨てられた?」


「はい。癒やしの光が弱く、代わりに人の呪いや感情を引き受ける力しかありませんでした。

そばにいると気分が悪くなると、皆に避けられて」


一瞬の沈黙の後、ヴィルフリート様は鼻で笑った。


「なるほど。自分たちの穢れを映す存在が、鬱陶しかっただけか」


彼の指に力がこもる。


「愚か者共だ。そんな力、檻の中で腐らせるには惜しすぎる。

エリスと言ったか。フン、捨てられただと? 愚か者共が。これほどの宝を、ゴミ捨て場に放るとはな」


彼は不敵な笑みを浮かべ、私の腰に手を回した。  

そのまま強引に引き寄せられ、彼の硬い甲冑と私の胸が重なる。  


「良い香りがする。貴様の魂……これまで見てきたどの人間よりも、甘く、清らかに輝いているぞ」


彼の喉が鳴る。  

その瞳に宿ったのは、殺気ではなく、獲物を執拗に追い詰める「捕食者」の、そして「略奪者」の熱だった。


「決めたぞ。エリス。今日から貴様は、私のものだ」

「え……? あの、陛下?」

「拒否は許さん。私の呪いを鎮められるのは、お前だけだ。ならば、死ぬまで私の隣で、その光を捧げ続けろ。……その代わり、お前を捨てた世界など、私が跡形もなく焼き尽くしてやろう」


死神と呼ばれた皇帝が、私の首筋に深く顔を埋める。  

それは救済の抱擁か、あるいは、二度と逃がさないという呪縛の誓いか。


かつて私を「空気」と呼んだ国に、もう戻ることはない。  


私は、自分を見出した最強の「死神」の腕の中で、初めて自分の存在が激しく求められる熱を感じていた。






ディストピア帝国の皇宮は、私がいた王国のそれとは全く異なっていた。  


黒真珠のように艶やかな黒大理石の床、夜空を模した天井画。

そして何より、私に与えられた部屋は、かつての私の部屋が十個は入るほど広大で、最高級の香香シャンシャンが焚きしめられていた。


「……夢、なのかしら」


私は、鏡に映る自分を見つめた。  

くすんでいた髪は、帝国の魔導士たちが調合した薬湯で洗われ、白銀の絹のように輝いている。身に纏っているのは、ヴィルフリート様が「お前の瞳の色に合う」と用意させた、深い群青色のドレスだ。


あの森で拾われてから一週間。  

私は、文字通り「蝶よ花よ」と甘やかされていた。


「エリス、そこにいたか」


背後から響いた低い声に、肩が震える。  

振り返ると、公務を終えたばかりのヴィルフリート様が立っていた。

彼は入室するなり、控えていた侍女たちを無言で下がらせる。


「陛下、お仕事はお疲れではありませんか?」

「お前の顔を見れば、疲れなど霧散する。……こっちへ来い」


彼はソファに深く腰を下ろすと、当然のように自分の膝を叩いた。  

戸惑いながらも近寄ると、逞しい腕が私の腰を抱き寄せ、そのまま膝の上へと引き上げる。


「あ……あの、陛下、重くありませんか?」

「お前は羽よりも軽い。もっと食べろと言っているだろう。……ああ、この冷たさが心地いい」


彼は私のうなじに顔を埋め、深く息を吐いた。  

彼の内側に渦巻く強大な魔力――それは放っておけば彼自身の精神を焼き切る猛毒だが、私の肌が触れている間だけは、穏やかななぎの状態になる。


「陛下……私は、ただの『中和剤』としてここにいるのでしょうか」


ふと、胸の奥に溜まっていた不安が言葉になって漏れた。  

あんなに「無能」と蔑まれてきた私が、こんなに特別扱いされる理由。

それは私の人格ではなく、この「体質」にあるのではないか。


ヴィルフリート様の身体が、ピクリと強張った。  

彼は私の肩を掴み、自分の方を向かせる。その瞳は、暗い紫の炎を宿して私を射抜いた。


「中和剤……? 貴様、本気でそんなことを思っているのか」

「だって、私の力がなければ、陛下は私など……」


言葉の途中で、彼の大きな手が私の頬を包み込んだ。  

逃げ場を塞ぐような、強引で、けれどどこか震えるような手つき。


「……勘違いするな。お前の力が必要なだけなら、魔石にでも封じて持っておけば済む話だ。なぜ私が、激務の合間を縫ってまでお前を抱きしめに来ると思っている」


彼の顔が、鼻の先が触れるほど近づく。


「お前の魂が、私を呼ぶのだ。その無欲さ、その清らかさ……お前がこの宮殿のどこにいるか、目を閉じていても魔力の波紋でわかる。お前がいない世界など、もはや私にはただの暗闇だ」


彼の顔が、鼻の先が触れるほど近づく。


「――なぜ、私がお前をここまで愛しく扱うか、分かるか?」


低く囁く声が、心地よく脳に響いた。


「私の魔力は猛毒だ。触れれば焼き、近づけば狂わせる。

それでも私は皇帝として生きるために、その毒を抑え込み、恐れながら歩いてきた」


彼の額が、そっと私の額に触れる。


「だが、お前に触れた瞬間……初めて知った。

痛みでも、暴力でもない“体温”というものを」


指先に、あの時と同じ、静かな熱が宿る。


「お前は私を癒やしたのではない。

地獄の底から、引き上げたのだ。――光そのものとしてな」


その紫の瞳が、逃がさぬと告げる色に染まる。


「一度それを知って、どうして手放せる?

お前がいない世界など、もはや私にはただの暗闇だ」



「陛下……」


「エリス、お前は私の『薬』ではない。私の『命』そのものだ。……二度と、自分を道具のように貶めるな。さもなくば――」


彼は私の耳たぶを、威嚇するように、けれど愛おしそうに甘噛みした。


「お前を閉じ込めるための、氷の檻を作らせることになるぞ」


その言葉に含まれた重すぎる独占欲に、私の心臓は跳ねた。  

それは恐怖ではなく、生まれて初めて「自分という存在を丸ごと肯定された」ことへの、痺れるような歓喜だった。


けれど、その幸福な時間は、届いた一通の書状によって遮られる。


「陛下、失礼いたします。隣国……エリス様の母国より、親書が届きました」


側近が持ってきたのは、王太子の紋章が押された派手な封筒。  


ヴィルフリート様はそれを一瞥し、冷酷な笑みを浮かべた。


「ほう……。捨てたゴミを、今さら返せと言ってきたか。面白い」


彼の腕の中にある私の身体に、さらに力がこもる。  

それは、獲物を決して渡さないと誓う、黒龍の抱擁だった。





帝都の迎賓館。

そこには、数ヶ月前までの私が見たら震え上がっていたであろう光景が広がっていた。


「……信じられん。これが、あの『ゴミ捨て場』へ送ったはずの女か?」


目の前に立つレナード王子は、呆然と私を凝視していました。  

かつての自信満々な面影はどこへやら。

彼の顔色は土色で、豪華なはずの正装も、どこか着古したような煤けた匂いがします。


隣にいるリリアにいたっては、見る影もありません。

自慢の金髪はパサつき、必死に魔力で咲かせようとしている足元の花は、芽吹いた瞬間に黒く萎んでいきます。


「エリス……お前、どうしてそんなに輝いているんだ? そのドレス、その宝石……。いや、それより、今すぐ我が国へ戻るんだ!」


レナード様が、縋るように私の手へ伸ばしてきました。  

しかし、その指が私の肌に触れる寸前――。


――ドォォォォン!


空気が爆ぜるような衝撃音と共に、レナード様は床に叩きつけられました。  

私の前に、漆黒の外套が壁のように立ちはだかります。


「……私の許しなく、これに触れるなと言ったはずだ。害虫」


ヴィルフリート様の冷徹な声。  

彼から溢れ出す黒龍の魔力が、部屋全体の酸素を奪うかのように重く沈殿します。


「ひ、ひぃっ……! し、死神皇帝……!」

「レナード王子。貴国が今、深刻な疫病と不作に見舞われていることは聞き及んでいる。それを解決するために、我が国の妃を連れ戻したいだと? 笑わせるな」


ヴィルフリート様は、這いつくばるレナード様の頭を、冷たい靴の先で見下ろしました。


「エリスは、貴様らが『いらない』と捨てたゴミなのだろう? ならば、それを拾い、磨き、愛でているのは私だ。今さら返せなどと……その厚顔無知さには感服するな」


「ち、違うんだ! エリスには義務がある! 聖女として国を守る義務が――」


「義務、ですか?」


私は、ヴィルフリート様の背中から一歩、前に踏み出しました。  

かつての私なら、彼の怒声に縮こまっていたでしょう。

でも今は、背中に触れる陛下の魔力が、私に勇気を与えてくれます。


「レナード殿下。私が毎日、指を黒く汚して祈っていた時、あなたは『無能の暇つぶしだ』とお笑いになりましたね。リリア、あなたが私の祈りを『不吉な儀式』だと罵ったあの日から、この結果は決まっていたのです」


私は、窓の外を指差しました。  

そこには、私の「浄化」の守りが消えたことで、一気に噴出した数年分の穢れが、黒い雲となって王国の空を覆っているのが見えます。


「私が引き受けていたのは、あなたたちの身勝手な欲望が生んだ毒です。それを『光』という見せかけで隠し続けたのは、リリア、あなたでしょう?」


「う、嘘よ! 私の光は本物よ! お姉様が、お姉様が何か呪いをかけたんでしょう!?」


リリアが叫びますが、その指先からはもはや光すら出ず、ただ黒い煤が舞うだけでした。


「残念ですが、もう戻りません。私を必要としたのは、国というシステムですか? それとも、私という一人の人間ですか?」


私の問いに、レナード様は答えられませんでした。  

彼はただ、自分の保身と、失った「便利な道具」への執着で、顔を歪めているだけ。


「答えが出ないようですので、お引き取りください。……陛下、もう十分です」


「……ああ。お前の慈悲も、この屑には勿体ないほどだ」


ヴィルフリート様が軽く指を鳴らすと、帝国の近衛兵たちが、抵抗する二人を引きずり出していきました。

「離せ! 私は王子だぞ!」

「お姉様のいけず! 泥棒!」という見苦しい叫びが遠ざかっていきます。


静寂が戻った部屋で、ヴィルフリート様は深いため息をつき、私を背後から抱きしめました。


「……よく言った。だが、あんな男のためにその綺麗な唇を動かすのは、これきりにしてくれ。私の気分が悪い」


首筋に押し付けられる彼の額。  

その体温は少しだけ熱く、私を独占したいという狂おしいほどの感情が伝わってきました。


「エリス。お前はもう、誰の汚れも引き受けなくていい。……お前はただ、私の隣で、私の愛だけに溺れていればいいんだ」


私は、彼の逞しい腕に自分の手を重ねました。  

かつての「空気」だった私はもういません。私は今、世界で一番執着心の強い男の、たった一人の「光」になったのですから。





レナード王子たちが追い返されてから数日。

王国の空を覆っていた黒雲は、帝国の国境線を前にして、進むことを許されなかった。

まるで「ここから先は死神の領域だ」と告げられたかのように、それは静かに消えていった。


それと時を同じくして、王国では原因不明の不調が相次いだ。

癒やしの奇跡は鈍り、聖女たちは力を発揮できず、重ねていた祈りは空を切るばかり。


人々はまだ気づいていなかった。

かつて、何も言わずに穢れを引き受けていた存在が、もうどこにもいないということに。



そんな中、私はヴィルフリート様に連れられ、帝都を一望できる「星詠みの塔」の頂上に立っていました。  

夜風が私の白銀の髪を揺らし、眼下には魔石の灯火が宝石を撒いたように輝いています。


「……エリス。今日、貴国との『聖女に関する契約』を、私の権限ですべて白紙に戻した」


隣に立つヴィルフリート様の声は、どこか硬く、そして寂しげでした。

彼は私を見ようとせず、遠くの地平線を見つめています。


「契約がない以上、お前をここに留める法的な拘束力はない。お前は自由だ。……あの国へ戻る必要はないが、もし、この帝国の窮屈な暮らしが嫌だというなら、別の国へ行く手配もさせよう」


私は、息を呑みました。  

あんなに「私のものだ」と執着し、片時も離そうとしなかった陛下が、自ら門を開けようとしている。


「どうした。……早く行け。私の気が変わって、本当にお前を檻に閉じ込めてしまう前にな」


彼の握りしめられた拳が、微かに震えているのが見えました。  

それは支配ではなく、彼なりの、不器用で剥き出しの「愛」でした。

私が「道具」としてではなく、一人の人間として、自分の人生を選べるようにと、彼は自分の欲望を押し殺しているのです。


「陛下」


私は一歩、彼に近づきました。  

そして、その大きな背中に、後ろからそっと抱きつきました。


「……何をしている。憐れみならいらんと言ったはずだ」


「憐れみではありません。……私は、自分の意志でここにいます」


彼の背中に顔を埋めると、心地よい漆黒の魔力の香りが鼻をくすぐります。


「陛下は以前、私を『命そのものだ』と言ってくださいました。……私も同じです。私を『空気』ではなく『エリス』として見つけ、必要としてくれたのは、あなただけでした」


私は彼の腰に回した腕に、ぎゅっと力を込めました。


「外の世界は広くて自由かもしれません。でも、陛下の腕の中よりも温かい場所を、私は知りません。……私を、一生閉じ込めてくださるのでしょう? その約束、破ったら許しませんから」


沈黙が流れました。  

やがて、ヴィルフリート様が大きなため息をつき、私の腕を解いて振り返りました。


その瞳には、隠しきれない歓喜と、底知れないほどの独占欲が渦巻いていました。


「……後悔しても遅いぞ。もう二度と、日の当たる場所へは返してやらない」


彼は私の顎を掬い上げると、吸い付くような深い口づけを落としました。  

これまでの優しさとは違う、貪るような、熱い熱い接吻。  

私の心臓は早鐘を打ち、全身が彼の体温に溶かされていくような錯覚に陥ります。


「ああ……やはり、お前の魂は世界で一番美味うまそうだ。死ぬまで、一滴も残さず私が食らってやろう」


彼は私を横抱きにすると、星空の下、情熱的な瞳で私を見つめました。


「明日、建国記念祭の場で宣言する。お前がこの帝国の、そして私の、唯一無二の皇后になると」


私は彼の首に腕を回し、幸せな微笑みを浮かべました。


かつて世界に捨てられた聖女は、  今、世界で一番執着深い皇帝に、  自分から囚われにいくことを選んだのです。


――もう、二度と解けない、愛という名の美しい呪いに導かれて。




【後日談】


帝国に身を置いてからも、エリスの心には、微かなおりが残っていた。  


自分を捨てた王家に未練はない。

けれど、自分が去ったことで疫病や不作に喘ぐ民の叫びを、彼女の清らかな魂は無視しきれなかったのだ。


「……遠くにいても、浄化できる方法があれば」


彼女は華やかな宮廷生活の合間を縫い、皇宮の研究室に籠もった。  

かつてのように自分の身を削る「祈り」ではなく、誰もが使える知恵として。

人の感情が引き寄せる「呪い」に直接作用する、新たな浄化の結晶――。


数週間後、完成したのは一滴で泥水を水晶へと変える、静かで確実な効果を持つ「浄化水」だった。


「王国へ売ろう」


成果を見たヴィルフリートは、エリスを抱き寄せ、その冷徹な双眸に不敵な笑みを浮かべて即断した。


「慈善はしない。エリス、お前の慈愛を安売りさせるつもりはない。必要とする者には、相応の対価を払わせるのが帝国のやり方だ」


その浄化水は、帝国の独占契約品として王国へと渡った。  

かつてエリスを「無能」と断じて放逐した国は、今や彼女が作り出した成果を、国家予算を傾けるほどの莫大な代償を支払って買い取ることになったのだ。


ある日、エリスはヴィルフリートの執務室で、一通の報告書を目にした。  

そこには、価格や供給量と並んで、取引の全権責任者の名が記されている。


――レナード・フォン・王太子。


かつて彼女を「役目を終えたゴミ」と呼び、死の森へと追放した張本人だ。  

その男が今、枯れゆく国の命脈を繋ぐため、帝国の門前で屈辱に耐えながら、エリスの名を伏せた成果を求めて深々と頭を下げている。


(皮肉、なのね……)


込み上げるのは嘲笑ではなく、静かな理解だった。  

自分がいなくても国は回ると、自惚れていた王子。

けれど結局のところ、彼はエリスが残した「光の残滓」に縋らなければ、民を守ることさえできなかった。  

彼が守りたかったのは国ではなく、王族としての自分のプライドだったのだ。


エリスは報告書を閉じ、そっと窓の外へ視線を向けた。  

視界に広がるのは、かつての澱んだ空ではなく、帝国のどこまでも透き通った青空。


「エリス、そんな報告書よりも私を見ろ。……お前の作った水のおかげで、あの王子は一生、帝国の、いや『お前の足元』に跪き続けることになる」


背後から伸びてきた逞しい腕が、彼女を独占するように抱きしめる。  

エリスは愛おしい皇帝の温もりに身を預け、穏やかに微笑んだ。


「はい、陛下。……もう、あの方の顔を思い出すこともなさそうです」


空に舞う白銀の髪は、もう二度と汚れを知ることはない。  


彼女は今、自分を真に必要とする人の隣で、本当の意味での聖女

――一人の幸せな女性としての時間を刻み始めていた。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

エリスには自己肯定感爆上がりで過ごしてほしいな。

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