【第五章】
マンチェスターの夜を飲み込むような豪雨が、ペントハウスの全面ガラス窓を激しく叩き、外界の景色を銀色のカーテンの向こう側に隠していた。広いリビングには明かりが灯されず、時折走る雷光だけが、二人のシルエットを青白く鮮烈に浮かび上がらせている。
レオナルドは玄関のドアを閉めたその足で、サーラを壁に押し込んだ。彼の大きな掌が、彼女の細い手首を頭上で固定する。もう片方の手は、彼女の腰を引き寄せ、二人の間に一縷の隙間さえ許さない。
「……あいつが、言ったな」
レオナルドの声は、地を這うような低音で、ひどく掠れていた。
「図書室で、眼鏡を外した君を見ていたと。……あいつの記憶の中に、私の知らない君がいる。あいつの卑俗な言葉が、今この瞬間も君を汚し続けている。それが、狂いそうなほどに耐えられないんだ」
レオナルドの銀灰色の瞳が、暗闇の中で獣のようにギラついている。それは怒りというよりも、大切な宝物を奪われることを恐れる子供のような、切実な飢餓感だった。
「レオナルド、聞いて……。彼にとって私はただの遊戯の駒だった。でも、私にとってあの場所は、誰からも隠れて息をするための、暗い穴蔵でしかなかったの」
サーラは震える声で訴えた。けれど、レオナルドの指先は、彼女の首筋をなぞり、鎖骨のくぼみをなぞり、執拗にその存在を刻みつけていく。
「……関係ない。君を最初に見つけたのが私でなかったことが、これほどまでに私を絶望させる。サーラ。君の過去を、あの男の記憶を、今すぐこの手で引き裂いてやりたい。……君は、誰のものだ?」
強引な問いかけ。サーラは呼吸を忘れ、彼の熱い眼差しに射すくめられた。
「私は……私は……」
「言え、サーラ。ビジネスとしての契約ではない。君の魂は、誰の領土に属している?」
レオナルドの唇が、彼女の耳たぶをかすめ、吐息が肌を焼く。あまりの熱量に、サーラの目から一粒の涙がこぼれ落ちた。
「……あなたのものよ。レオナルド。三年前から、私はあなたという引力に抗えずにいた。……眼鏡で自分を隠していたのは、あなたに本当の私を見られるのが、怖かったからなの」
レオナルドの動きが、ぴたりと止まった。
「……怖い?なぜだ」
「あなたは、完璧すぎるから。……冷徹で、美しくて、誰にも心を開かない。そんなあなたの隣に、私のような空っぽの女性が立てるはずがないと思っていた。……契約という名の鎖がなければ、私は怖くてあなたの側に一秒だっていられなかった」
サーラの告白は、雨音に混じって切なく響いた。「完璧な秘書」という仮面の下で、彼女がどれほどの孤独と劣等感に耐えていたか。それを知ったレオナルドの瞳から、狂暴な色が少しずつ消えていく。
「……愚かな女だ」
レオナルドは呻くように呟くと、彼女の手首を縛っていた力を緩め、そのまま彼女を包み込むように抱きしめた。
「君が空っぽだというのなら、私の中に流れる血は何なのだ。君がいなければ、私はただの効率を追い求めるだけの機械に過ぎない。君のその脆さが、怯える瞳が、私の乾ききった心に唯一の潤いを与えてくれたんだ」
レオナルドは彼女の顎を持ち上げ、自分の視線から逃がさないように固定した。
「契約は、今この瞬間、失効した。……これからは、一人の男としての我儘を言わせてもらう」
彼の顔が近づく。サーラは瞼を閉じようとしたが、彼の指がそれを許さない。
「見ていろ、サーラ。……私がお前を、どれほど深く、醜いほどに欲しているかを」
二人の唇が、重なった。それは、今までのどの「演技」とも違う、魂の深部まで浸食してくるような、激しく、甘美な口づけだった。
酸素を奪い、思考を麻痺させる。レオナルドの舌先が、サーラの閉ざされた内側をこじ開け、自分という色で塗りつぶしていく。サーラの脳裏にこびりついていたジュリアンの冷笑も、大学時代の屈辱的な思い出も、レオナルドの熱い吐息がかかるたびに、霧のように消えていった。
レオナルドは一度唇を離し、息を切らすサーラの唇に、何度も、何度も、名残惜しそうに唇を寄せた。
「……まだだ。まだ足りない」
彼はサーラのまぶた、頬、首筋へと、祈るような、あるいは呪いをかけるような熱いキスを落としていく。
「あいつが知っている『図書室のサーラ』は、死んだ。……今、ここにいるのは、私の腕の中でしか呼吸のできない、私のサーラだ」
「レオ……ナルド。苦しい……っ、でも、もっと……」
サーラは自分でも驚くほど大胆に、彼の首に腕を回した。彼の高価なシャツを指先で掴み、その逞しい胸板に自分を押し付ける。
レオナルドは彼女を軽々と抱き上げると、リビングの大きなソファへと運んだ。彼は彼女の膝元に跪き、まるで聖遺物を扱うような手つきで、サーラの左手を取った。
「……サーラ。私は、君を一生この部屋に閉じ込めておきたいと本気で思っている」
彼の銀灰色の瞳が、真実の熱を帯びて潤んでいた。
「だが、君は外の世界で輝くべき女性だ。……だから、妥協案を提示しよう。外の世界では、君をヴァンス家という名の完璧な盾で守らせてくれ。そしてこの部屋では、君はただのサーラとして、私の愛に溺れていればいい」
レオナルドは、ポケットから小さなベルベットの箱を取り出した。中には、マンチェスターの霧を閉じ込めたような、幻想的な輝きを放つブルー・ダイヤモンドのリングが収められていた。
「これは、契約書ではない。……私の魂の、譲渡証明書だ」
レオナルドは、サーラの薬指にゆっくりと、儀式のようにリングを滑らせた。
「サーラ・ヴァンスになってくれ。君の未来のすべてを、私という名の上書き保存で満たしてほしい」
サーラの目から、堰を切ったように幸せな涙が溢れ出した。
「……はい。喜んで。……世界一わがままで、独占欲の強い王様」
レオナルドは満足そうに微笑み、彼女の薬指の付け根に、誓いのキスを落とした。外の雨は、いつの間にか小降りになり、都会の夜景を美しく滲ませていた。二人は夜が明けるまで、何度も名前を呼び合い、何度も唇を重ねた。肌を合わせるよりもずっと深く、ずっと濃密に、互いの孤独を埋め尽くすように。




