【第四章】
マンチェスターの夜景を地上二百メートルから一望する、会員制のプライベート・ダイニング『ジ・エクリプス』。磨き上げられた黒大理石のフロアには、選び抜かれたヴィンテージワインの香りと、高価な香水の残香が重苦しく漂っている。クリスタルのシャンデリアが放つ光は、鋭利な刃物のようにカトラリーの上で跳ねていた。
サーラは、隣を歩くレオナルドの逞しい腕に指を添えながら、自分の心臓がドレスを突き破らんばかりに脈打つのを感じていた。眼鏡のない世界は、まだどこか現実味を欠いている。ぼやけた光の粒の中に、社交界の有力者たちの好奇の視線が突き刺さる。彼らにとって、突如としてレオナルドの隣に現れた「謎の美女」は、格好の餌食だった。
「顔を上げろ、サーラ。君は今、この街で最も価値のある男の隣に立っている。誰に対しても卑屈になる必要はない」
レオナルドの低い囁きが、彼女の耳たぶをかすめる。彼の掌が、サーラの腰を引き寄せた。その熱が、薄いシルクのドレス越しに彼女の肌を焦がす。
円卓の主賓席には、ヴァンス・グループの絶対的君主、アーサー・ヴァンスが座っていた。
「……レオナルド。エレノアとの一件を不問に付す条件は、家柄の確かな相手を連れてくることだと言ったはずだが」
アーサーの冷徹な声が、テーブルの空気を凍らせる。
「この女性……ミス・サーラ、だったか。彼女がどこの誰なのか、私の調査網には一切引っかからなかったぞ。まさか、その場しのぎの『偽物』を連れてきたわけではあるまいな」
「叔父様、彼女は私の秘書として三年間、ヴァンス家のすべての機密を分かち合ってきたパートナーです」
レオナルドは優雅に椅子を引き、サーラを座らせた。彼自身も隣に腰を下ろすと、挑戦的な微笑を浮かべる。
「血筋という不確かな指標よりも、私は彼女の知性と、私の隣に立つに相応しい気高さを選んだ。彼女こそが、新生ヴァンス・グループのミューズとなる女性です」
レオナルドの言葉は、まるで全宇宙を敵に回しても彼女を守り抜くという宣戦布告のように響いた。サーラは彼に合わせて、凛とした微笑みを浮かべる。
「会長。私は、レオナルド……いえ、夫となる彼を心からお支えする覚悟でおります」
その時だった。
「――おやおや。これは見ものだ。あの『石ころ』が、磨けばこれほどの輝きを放つとはね」
背後から響いた、粘つくような軽薄な声。サーラの全身から血の気が引いた。その声、その抑揚。記憶の底に封じ込めていた、あの雨の日の嘲笑が蘇る。
振り返ると、そこにはシャンパングラスを手にした男が立っていた。ジュリアン・ミラー。マンチェスターの不動産王の長男であり、かつて大学でサーラの心を無慈悲に踏みにじった男。
「ジュリアン。知り合いか?」
アーサーが不審げに眉をひそめる。ジュリアンは皮肉な笑みを浮かべ、獲物を見つけた蛇のような視線でサーラを舐めるように見た。
「知り合いどころか、会長。僕たちは彼女の『真実の姿』をよく知っている。大学時代、このサーラは常に図書館の隅で眼鏡の奥に震えていた。僕たちは彼女を『図書室の灰かぶり』と呼んで可愛がっていたんですよ。……そうだろう、サーラ?君を泣かせるのに、僕がどれだけの賭け金を積んだか、まだ覚えているかい?」
テーブルを囲む招待客の間に、ざわめきが広がった。サーラの手が、テーブルクロスの下で小刻みに震え始める。
「……やめて、ジュリアン」
「やめて、だって?相変わらず可愛い声を出す。あの雨の日の放課後、僕が君の眼鏡を取り上げて、泣きじゃくる君の顔を覗き込んだ時のことを思い出すよ。……実はね、あの時から君のその瞳には、僕を狂わせる何かがあった。仲間にバレるのが恥ずかしくて、わざと酷いことをしたけれど……本当はね、君をあんな汚い図書館から奪って、僕だけのものにしたかったんだ」
ジュリアンは酔った勢いも手伝って、サーラの方へと一歩踏み出した。
「おい、サーラ。レオナルドのような冷血漢の隣にいるより、君を昔から『愛して』いた僕のところへ来ないか?君の脆いところも、怯えるところも、僕が一番よく知っている……」
パリン、と。静寂を切り裂くような鋭い音が響いた。レオナルドの手の中で、最高級のクリスタルグラスが粉々に砕け散っていた。破片がテーブルに散らばり、赤いワインがまるで供犠の血のように広がっていく。
「……言葉を慎め、ミラー」
レオナルドの声は、これまでに聞いたこともないほど静かで、それゆえに狂暴な怒りを孕んでいた。彼はゆっくりと立ち上がると、ジュリアンの視界からサーラを完全に遮るように、彼女の前に立ちはだかった。
「レオナルド、やめて!彼はただ……」
サーラが彼の袖を掴むが、レオナルドの体は鋼のように強張っていた。
「ミラー。貴様のその薄汚い口から『愛』という言葉が出るたびに、反吐が出る。貴様が彼女にしたことは、愛でも執着でもない。己の臆病さを隠すための、卑劣な暴力だ」
レオナルドはジュリアンの胸ぐらを掴み、その顔を極限まで近づけた。レオナルドの銀灰色の瞳には、冷徹な殺意と、理性を焼き尽くすほどの独占欲が渦巻いている。
「貴様の目は語っている。かつて彼女を手に入れられなかった後悔と、今の彼女に対する卑しい渇望を。……だが、遅すぎたな。今の彼女を見ろ。かつての君が知っている『灰かぶり』はもうどこにもいない。彼女のすべては、私の手によって再定義された」
レオナルドの指先が、ジュリアンの喉元を締め上げる。「彼女の過去の記憶から、貴様の存在を完全に抹消してやる。貴様の父親の会社は、明日には私の傘下だ。そして貴様は、マンチェスターから永久に追放する。彼女が歩く街に、二度とその薄汚い視線を存在させるな」
「レオナルド、控えなさい!社交の場だぞ!」
アーサーが声を荒らげるが、レオナルドは意に介さない。彼はジュリアンをゴミのように床に突き飛ばすと、血の滲む自分の手でサーラの震える頬を包み込んだ。
「……帰るぞ、サーラ。ここには君が見るべきものは何もない」
二人は騒然とするダイニングを後にし、地下駐車場へと向かった。レオナルドの高級車の前で、彼はサーラを車体に押し付けるようにして、両腕で彼女を閉じ込めた。
「……あいつに、何をされた」
レオナルドの声は、暗い熱情を帯びて掠れていた。
「レオナルド……もういいわ。あれは、昔のこと……」
「良くない!君があの男の記憶の中に存在していることさえ、我慢ができないんだ。あいつが君を泣かせたというその事実を、私の手ですべて塗りつぶさなければ、気が済まない」
レオナルドは、彼女の首筋に深く顔を埋めた。荒い吐息が、サーラの肌を焼き尽くす。
「……契約なんて、もうどうでもいい。あいつが君を見たその瞬間、私はすべてを捨ててあいつを殺したいと思った。……サーラ。私は、君をただの『秘書』だと思っていた自分を呪いたい」
彼はサーラの顔を両手で挟み込み、逃げ場のない視線で彼女を射抜いた。
「これは、ビジネスではない。……君という存在が、私の理性をすべて破壊してしまったんだ。……サーラ、私の名を呼べ。あいつの名前を、私の名前で、今すぐ上書きしろ!」
サーラは、自分を縛り付けていた恐怖の鎖が、レオナルドの激しすぎる愛によって熱く溶かされていくのを感じていた。
「レオ……ナルド。私の、私のレオナルド……っ」
その呼び声に応えるように、レオナルドは彼女の唇を貪欲に奪った。マンチェスターの激しい雨が、二人の世界を外界から遮断する。それはもはや「演技」などではなく、二人の魂が、互いの領土を奪い合うための、真実の戦いの始まりだった。




