【第三章】
マンチェスターの市街地を抜け、車は緩やかな丘を登っていく。窓の外には、都会のコンクリートジャングルとは対照的な、古き良きイギリスの田園風景が広がり始めていた。夕刻の陽光が雲の切れ間から差し込み、雨上がりの濡れた路面をオレンジ色に焼き付けている。
最高級セダンの後部座席。サーラは、膝の上で組んだ自分の指が白くなるほど強く握りしめていた。隣に座るレオナルドとの距離は、わずか数十センチ。だが、その空間には、物理的な距離を遥かに超えた濃密な緊張感が漂っている。
視界の端に映る彼は、先ほどまでの「冷徹なCEO」の鎧を一枚脱いだかのように、どこかリラックスした様子でタブレットに目を落としていた。しかし、その端正な横顔からは一切の感情が読み取れない。
「……ミスター・ヴァンス」
「ルールを忘れたか、サーラ」
レオナルドが顔を上げず、低く滑らかな声で遮った。
「……レオナルド。本当に、よろしいのですか?シスターはとても聡明な方です。あなたの……その、あまりに完璧すぎる佇まいは、かえって不自然に映るかもしれません」
レオナルドがようやく視線を上げた。銀灰色の瞳が、品定めするようにサーラを射抜く。
「不自然?私が君を愛しているという事実が、それほど信じがたいか?」
「事実、ではありません。契約……です」
その言葉を口にした瞬間、レオナルドの瞳に微かな陰り、あるいは愉悦のような色が混じった。彼はタブレットを閉じると、不意に身を乗り出し、サーラの震える手をその大きな掌で包み込んだ。
「ならば、その契約を完璧に遂行しろ。恋人同士が、車内で互いの体温を確かめ合うのは、マンチェスターではごくありふれた光景だ」
彼の指先が、サーラの指の間を割るように滑り込み、深く指を絡め合わせる。恋人繋ぎ。秘書として三年間、書類の受け渡しでさえ指先を触れさせないよう細心の注意を払ってきた彼女にとって、それは心臓を直接掴まれるような衝撃だった。
車が止まった。そこは、赤レンガの壁を蔦が覆う、歴史あるホスピスだった。庭園にはバラが咲き誇り、その甘い香りが雨上がりの湿った空気と混じり合って、どこかノスタルジックな雰囲気を醸し出している。
病室のドアの前で、サーラは足が竦むのを感じた。
「……大丈夫だ。私の腕を掴んでいろ。逃げ出したくなっても、離してはやらない」
レオナルドの囁きは、脅迫のようでありながら、不思議と彼女を支える力を持っていた。
ドアが開くと、そこには夕刻の光に包まれたシスター・マーガレットの姿があった。かつて孤児院で子供たちを厳しく、しかし誰よりも温かく見守ってくれた彼女は、今やベッドの上で驚くほど小さく、脆い存在に見えた。
「シスター……ただいま戻りました」
サーラの声に、シスターがゆっくりと顔を向けた。その曇りのない瞳に、サーラを伴って現れた長身の紳士が映る。
「……ああ、サーラ。そして、あなたが……」
「はじめまして、シスター。レオナルド・ヴァンスです。彼女から、いつもあなたの素晴らしいお話を聞いていました」
レオナルドが一歩前に出た。その瞬間、サーラは自分の隣にいる男が、別人に変貌したのを感じて息を呑んだ。冷徹な氷の王はどこへ行ったのか。そこにいたのは、愛する女性を慈しみ、彼女を育てた恩人に対して心からの敬意を払う、洗練された理想的な紳士だった。
レオナルドはシスターの枕元に膝を折ると、彼女の痩せた手を取り、恭しく唇を寄せた。
「遅くなって申し訳ありません。サーラという最高の女性を私に授けてくださったあなたに、どうしても直接お礼を申し上げたかったのです」
「まあ……なんて誠実そうな方。サーラ、あなたが自慢したくなる気持ちが分かったわ」
シスターの顔に、少女のような喜びが広がる。サーラは、レオナルドの完璧な「演技」に呆然と立ち尽くしていた。彼の微笑み、言葉の抑揚、シスターを気遣うその眼差し――そのすべてに一点の曇りもない。
「シスター。彼女は自分を地味な秘書だと思い込んでいますが、私にとっては違います。彼女の誠実さ、内に秘めたダイヤモンドのような強さ……そのすべてが、私の孤独な人生を照らしてくれたのです。彼女を一生かけて守り抜くことが、私の唯一の使命だと考えています」
レオナルドがサーラを振り返り、優しく手招きした。サーラは吸い寄せられるように彼の隣へ歩み寄った。レオナルドは彼女の肩を抱き寄せ、自分の胸元へと引き寄せる。彼の心音が、彼女の耳に響く。規則正しく、しかし力強いその鼓動は、嘘をついている男のものとは思えないほど落ち着いていた。
シスターは満足そうに微笑み、二人の重なった手を、自分の手で包んだ。
「よかった……。サーラ、あなたはいつも他人のために自分を犠牲にしてきたけれど、ようやく自分を一番に愛してくれる人に出会えたのね。……レオナルドさん、あの子は少し臆病ですが、どうか見捨てないであげてください」
「約束します、シスター。彼女の恐怖は、すべて私が預かりましょう」
ホスピスを後にしたとき、空は深い藍色に染まり、一番星が瞬き始めていた。帰りの車内。静寂が訪れると同時に、レオナルドはサーラの肩から腕を退けた。
「……完璧でしたね。驚きました」
サーラは、胸の奥に残る温かな残像を振り払うように、窓の外を見つめた。
「シスター、あんなに幸せそうな顔をして……。レオナルド、本当にありがとうございます。あなたの『演技力』のおかげで、彼女の最後の心残りを消すことができました」
「……演技、か」
レオナルドの声は、先ほどまでの温かさを失い、元の低い冷徹なトーンに戻っていた。
「君にとっては、今の時間がすべて虚構なのだな」
「え……?だって、これは契約ですから」
「ならば、その契約を徹底させろと言ったはずだ」
信号待ちで車が止まった。レオナルドが、唐突にサーラの方へ体を向けた。車内の暗がりに、彼の銀灰色の瞳が野獣のような鋭さで光る。
「……何を?」
「呼び方だ。まだ私の名を呼ぶとき、君の声には迷いがある。……もっと、心の底から求めているように呼べ」
彼はサーラの髪を掬い上げ、首筋をなぞるように指を滑らせた。
「レオ……ナルド」
名前を呼んだ瞬間、レオナルドが彼女の唇を塞ぐように、深く、強引な口づけを落とした。それはシスターの前で見せた優雅なキスとは異なり、支配と独占を主張するような、熱く、荒々しいものだった。
サーラの脳裏で、過去の男たちの嘲笑がフラッシュバックする。――これは演技よ。彼は、仕事をしているだけ。そう言い聞かせようとするのに、レオナルドの唇から伝わる熱量と、自分を求めるような切実な吐息に、彼女の理性が崩壊していく。
レオナルドは一度唇を離し、息を乱すサーラのまぶたを見つめた。
「……ビジネスだと言い聞かせているのは、君のほうだろう、サーラ。私ではない」
マンチェスターの夜が再び雨を呼び、窓を濡らし始める。二人の境界線は、嘘という名の闇の中で、もはや誰にも見えないほどに曖昧になっていた。




