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完璧秘書の甘美な誤算  作者: Lucy M. Eden


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【第二章】

マンチェスターのビジネスの中心地、スピニングフィールズ。その一角に、看板さえ出していない完全会員制の高級メゾン『ル・シエル』はある。重厚なオーク材のドアが開くと、外界の雨音は遮断され、代わりに高価な香りと、磨き上げられた大理石の冷ややかな空気が漂ってきた。


レオナルド・ヴァンスは、迷いのない足取りでそのフロアを横切った。


「ヴァンス様、お待ちしておりました」


支配人が慇懃に頭を下げる。レオナルドはそれを片手で制し、背後に縮こまっている影を顎で示した。


「彼女を、一時間でヴァンス・グループのCEOに相応しい婚約者に仕立てろ。……完璧にな」


支配人の視線が、サーラへと注がれた。その瞬間、サーラは自分が汚れた石ころにでもなったかのような錯覚に陥った。事務服は雨でわずかに湿り、野暮ったい眼鏡は曇っている。この贅を尽くした空間で、彼女の存在はあまりにも異質だった。


「ミスター・ヴァンス……レオナルド。やはり、私には無理です。こんな場所、私のような者が……」


サーラの震える声が、静かな店内に響く。レオナルドは立ち止まり、ゆっくりと彼女に向き直った。彼は彼女の耳元に顔を寄せ、周囲には聞こえないほど低い、だが逃げ場のない声で囁いた。


「言ったはずだ、サーラ。これはビジネスだ。君という資産を、私が最大のリターンを生む形に再構築する。……君に拒否権はない。分かったら、その眼鏡を直せ。怯える秘書を演じるのは、今日で終わりだ」


レオナルドの指先が、彼女の冷え切った頬を掠める。その一瞬の接触に、サーラの心臓は激しく跳ねた。彼女は支配人に促され、まるで断頭台へ向かう罪人のような足取りで更衣室へと消えていった。


レオナルドはラウンジのソファに深く腰を下ろし、差し出されたエスプレッソを啜った。本来なら、今ここに座っているのはエレノア・ペンドルトンだったはずだ。彼女は美しく、社交界のルールを熟知していた。だが、彼女の瞳にレオナルドという「男」が映ることはなかった。彼女が見ていたのは、ヴァンス家の資産と称号だけだ。


だが、サーラはどうだ。三年間、彼女は完璧な「背景」だった。有能で、献身的で、それでいて決して自分の領域に踏み込んでこない。レオナルドにとって、彼女は無機質なAIよりも便利な道具だった。……はずだった。


先ほど、耳元で彼女の震えを感じた時、自分の中に得体の知れない衝動が走った。彼女を守りたいのか、それとも、その臆病な魂を徹底的に支配したいのか。レオナルドは不機嫌そうにカップを置いた。投資家として、予測不能な感情の揺れは最も忌むべきものだ。


「……お待たせいたしました、ヴァンス様」


支配人の声に、レオナルドは視線を上げた。更衣室の重厚なカーテンが、静かに開かれる。


そこには、一人の「女神」が立っていた。


レオナルドは息を呑み、手に持っていたソーサーを落としそうになった。サーラが纏っているのは、夜の闇を溶かしたような深いミッドナイトブルーのシルクドレス。デコルテを大胆に見せたカットは、彼女の肌がどれほど白く、きめ細やかであるかを残酷なまでに強調していた。細い鎖骨、しなやかな肩のライン。


だが、レオナルドの理性を最も激しく揺さぶったのは、彼女の顔だった。


ひっつめられていた髪は解かれ、柔らかなウェーブを描いて豊かな胸元にこぼれている。そして、あの厚い眼鏡が、外されていた。


「……サーラ?」


レオナルドは無意識に立ち上がっていた。


眼鏡の奥に隠されていた瞳は、吸い込まれるほどに澄んだヘーゼルだった。長い睫毛が不安げに瞬き、焦点の合わない瞳が、潤んだように光っている。地味な秘書という仮面の下に、これほどまでの毒を秘めた美しさが隠されていたとは。


「レオナルド……?」


サーラが、おぼつかない足取りで一歩踏み出した。視力が弱いため、彼女は周囲の状況を把握できず、ただ目の前にいるレオナルドという存在の輪郭を必死に追っている。


「やはり、変でしょう?眼鏡がないと、自分が自分でないようで……世界がぼやけて、怖いんです」


レオナルドは無言で彼女に歩み寄った。彼の靴音が大理石に響くたび、サーラの肩が微かに跳ねる。至近距離まで近づくと、彼女の甘いジャスミンのような香りがレオナルドの鼻腔を突き、脳を痺れさせた。


「……変なものか」


レオナルドの声は、自分でも驚くほど掠れていた。彼は大きな掌で彼女の頬を包み込み、親指でその唇をなぞった。驚きに開かれた彼女の唇からは、熱い吐息が漏れる。


「君は、今まで何をしていたんだ。……これほどの美しさを、あの忌々しい眼鏡の下に閉じ込め、私を欺いていたのか?」


「欺いてなど……私は、ただ……」


「見ろ、サーラ。鏡を見るんだ」


レオナルドは彼女を抱き寄せるようにして、壁一面の鏡の前に立たせた。鏡の中には、冷徹な王と、彼に囚われた美しい妖精のような二人が映っている。


「これが君だ。私の婚約者となる女だ」


レオナルドの腕が、彼女の細い腰を強く引き寄せた。密着した体温が、ドレス越しに伝わってくる。


「……誰にも見せたくない」


不意に漏れた本音に、レオナルド自身が驚愕した。ビジネス。これはビジネスのはずだ。なのに、今この瞬間、自分の中にあるのは、この美しさを今すぐヴェールで覆い隠し、自分だけの秘密の部屋に閉じ込めてしまいたいという、狂気的な独占欲だった。


「レオナルド……?あなたの、鼓動が……」


サーラが彼の胸に手を当てた。手のひらを通じて、レオナルドの激しい心音が彼女に伝わってしまう。レオナルドは彼女の手を掴み、その指先一つ一つに唇を寄せた。


「君の誤算だ、サーラ。……私をただのビジネスパートナーだと思っていたのなら、それは大きな間違いだ」


レオナルドは、彼女の額に、深く、刻印を刻むような熱いキスを落とした。外界では、マンチェスターの雨が激しさを増し、都会のビル群を深い霧の中に沈めようとしていた。二人の間に交わされた契約は、もはや後戻りのできない、甘美で危険な依存へと姿を変え始めていた。

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