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完璧秘書の甘美な誤算  作者: Lucy M. Eden


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【第一章】

マンチェスターの空は、今日も分厚い鉛色の雲に覆われていた。この街特有の、細かな、それでいて容赦なく体温を奪う雨が、スピニングフィールズの洗練された超高層ビルのガラス面を絶え間なく叩いている。地上を走る車のヘッドライトが雨粒に反射し、光の川のように都会の闇を流れていく。


ヴァンス・インベストメント・グループ本社、最上階のCEOオフィス。そこは、外界の喧騒を完全に遮断した、静謐で冷徹な真空地帯だった。


サーラは、自分の足音さえもカーペットに吸い込ませるように静かに歩き、デスクの上に淹れたてのコーヒーを置いた。湯気と共に立ち上るのは、レオナルドが好む特注の深煎り豆の香り。その香りにさえ、彼女はどこか威圧感を感じてしまう。


「ミスター・ヴァンス、十五分後に香港とのオンライン会議です。資料はタブレットのトップに配置してあります」


デスクの向こう側に座るレオナルド・ヴァンスは、窓の外を見つめたまま動かなかった。完璧な仕立てのネイビーのスーツ。寸分の乱れもないダークブラウンの髪。そして、彫刻のように整った横顔。彼はマンチェスターの経済を掌握する「氷の王」であり、その冷徹な決断一つで数千人の運命を変えてきた。


「……サーラ」


低く、地響きのように心地よい、それでいて神経を逆なでするような声が響いた。


「今朝のゴシップ誌は見たか」


サーラは眼鏡のブリッジをそっと押し上げた。


「見ておりません。必要があれば要約いたしますが」


「不要だ。どうせ、私が先週末に正体不明の令嬢とヨットの上でシャンパンを浴びていたとか、そんな出鱈目だろう」


レオナルドがゆっくりと振り返る。その銀灰色の瞳は、鋭い知性と、同時に底知れぬ退屈を湛えていた。


「叔父が……会長が激怒している。この不名誉な噂を打ち消すために、一週間後の合併記念パーティーまでに『家柄も品位も申し分ない、真面目な婚約者』を公式に紹介しろとな」


「エレノア様との一件がございましたものね……」


サーラは慎重に言葉を選んだ。エレノア・ペンドルトン。家柄、美貌、申し分ない相手だったが、彼女はレオナルドの冷淡さに耐えかね、別の男と姿を消した。レオナルドにとっては「有能な駒」を失った程度の出来事だったかもしれないが、保守的な会長にとってはヴァンス家の名誉に関わる大事件だった。


「代わりの令嬢はエージェントが探しておりますが、会長を納得させるほどの清廉潔白な女性は、そう簡単には……」


「清廉潔白、か。そんなものは、このビジネス界には存在しない。だが――」


レオナルドの視線が、サーラの顔に固定された。サーラは無意識に肩をすくめた。度数の合わない、わざと野暮ったく見せるための厚い眼鏡。首元までボタンを留めた地味な事務服。ひっつめられた髪。彼女は三年間、完璧な「無」を演じてきた。大学時代、美しいというだけで男たちの悪辣な賭けの対象にされ、衆人環視の中で「誰が最初に彼女を泣かせるか」という遊戯の駒にされたあの日。彼女の心は死に、それ以来、自分を隠すことだけが平穏を得る唯一の方法になった。


「君はどうだ、サーラ。君ほど清廉潔白で、私のビジネスを邪魔しない女はいない」


「……冗談をおっしゃらないでください、ミスター・ヴァンス」


その時、サーラのポケットが震えた。シスター・マーガレットからの着信。サーラは一瞬ためらったが、レオナルドの黙認を得て、部屋の隅で電話を取った。


『サーラ……?ああ、元気そうでよかった。実は、主治医から話があったの。私の心臓、もうあまり長くはないみたい』


受話器から漏れる声に、サーラは目の前が暗くなるのを感じた。


「そんな……シスター、嘘でしょう?」


『いいのよ、私は幸せ。でもね、あなたが話してくれた素敵な婚約者さんに、一度でいいから会いたいの。あなたを一生守ってくれる人がいるって、この目で確かめられたら、私は安心して天国へ行けるわ』


サーラは唇を噛んだ。孤独な自分を心配させまいと、つい吐いてしまった嘘。「私には、私を世界で一番大切にしてくれる、素晴らしい人がいるの」という、一生縁のないはずの幻想。


「ええ……。ええ、シスター。分かったわ。彼も、あなたに会いたがっているの。すぐに……すぐに連れていくわ」


電話を切ったサーラの指先は、小刻みに震えていた。嘘が、自分を絞め殺そうとしている。シスターを絶望させることだけはできない。けれど、恋人の代わりなど、どこに――。


「……素敵な婚約者、か。君のような女でも、そんな夢物語を語るのだな」


いつの間にか、レオナルドが背後に立っていた。彼の高い体温と、高価なサンダルウッドの香りが鼻腔をくすぐる。サーラは逃げ場を失い、冷たい窓ガラスと彼の広い胸の間に閉じ込められた。


「盗み聞きは趣味ではないが、聞こえてしまったものは仕方がない。……サーラ、君には、シスターとやらを安心させるための『完璧な男』が必要だ」


「…………」


「そして私には、叔父を黙らせるための『完璧な女』が必要だ」


レオナルドが、サーラの顎を長い指でくいと持ち上げた。眼鏡の奥で、サーラのヘーゼルの瞳が激しく揺れる。至近距離で見るレオナルドの瞳は、吸い込まれるほどに美しく、そして残酷なほど冷静だった。


「取引だ。一週間の期間限定で、私の婚約者になれ。その代わり、私も君の恋人を演じてやろう。シスターの前で、この世で最も彼女を愛している男をな」


「そんな……無理です!私はただの秘書で……それに、あなたのような方を、シスターに……」


「これはビジネスだと言っている。感情など不要だ。君の演技力が、私の投資に見合うかどうかを試しているだけだ」


レオナルドの指先が、彼女の顎をなぞり、耳元へと滑る。


「ルールを教えよう。今日から、私の前でも、誰の前でも、私を『レオナルド』と呼べ。敬語も禁止だ。……さあ、練習だ。呼んでみろ」


マンチェスターの雨が、ガラスを激しく叩く。サーラは、かつて男たちに弄ばれた恐怖を思い出し、体が強張るのを感じた。けれど、シスターの命の灯火を消すわけにはいかない。地味な秘書の、甘美で危険な誤算が、ここから始まった。


「……レオ……ナルド」


震える声でその名を呼んだ瞬間、レオナルドの銀灰色の瞳に、一瞬だけ、捕食者のような歪んだ悦びが宿った。

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