追放されたい令嬢、積み上げた徳が邪魔をする
貴族の舞踏会は、よく磨かれた床に“ため息”を滑らせる場所だと思う。
音楽、挨拶、笑顔。笑顔。笑顔。笑顔の裏に隠した「本音は別」で、脚がつりそうになる。
私の名はオーレリア・フェルン侯爵令嬢。領地の用水路を通し、孤児院の台所を暖め、疫病の年には薬草畑を広げた。——褒められることは多い。けれど、貴族社会が好きかと訊かれたら、答えは簡単だ。
(……嫌い。無理)
嫌い、と声に出したことはない。いつも飲み込んで、飲み込んで、器用に笑ってきた。だから今、器の底が抜けたのだと思う。父の政略で第二王子ルネとの婚約が決まり、社交はさらに濃密になった。吐き気と礼儀を天秤にかける日々。
(もう、追放されたい。全部降りたい。婚約も、爵位も、社交も。)
心の底からそう思ってしまったので、私はついにノートを開いた。表紙に『悪行計画』と書いた。中身は白紙。ペン先が震える。生まれて初めて、自分のためだけに使う勇気だ。
◇
最初の一手は、遅刻だった。ドレスではなく、乗馬用のブーツで現れ、広間の真ん中で立ち止まる。マナー違反の見本。これで十分——のはずだった。
「オーレリア嬢!」
伯爵夫人が駆け寄ってきた。怒り、ではなく、感激の目。
「避難訓練のご提案をありがとうございますわ! 昨年の洪水で学ばれたご配慮よね? ブーツでの移動——真似いたします!」
(……ちがう)
次の一手は、失言だった。侯爵家の長テーブルで、私がわざと紅茶を少しこぼし、こう言ったのだ。
「貴族の杯は、溢れています。誰かの杯は、乾いているのに」
場が凍る。やった、と思ったのも束の間——
「……耳が痛い。痛いからこそ正しい」と、頑固で有名な大伯母が小さく頷いた。続いて周囲も頷く。
「フェルン嬢の言葉は箴言だ」「反省会を」「献金の再配分を」
(いや、私、ただの悪行のつもりだったのに)
第三の一手は、無礼。王城の庭園に羊を放した。薔薇園の真ん中で、もこもこの軍団がもぐもぐする。これはさすがに——
「……土が、喜んでおる」園丁長が目を細めた。「緑肥だ。痩せた箇所を選んで食べておる。目利きの羊だのう」
周囲から拍手。王妃まで微笑む。「オーレリアさん、生態系のご配慮、素晴らしいわ」
(お願い、誰か、私を怒って)
私は悪行ノートに『失敗』と書き連ねた。ページが埋まっていく。全部、良い解釈に変換されるのだ。原因はわかっている。今までの私の所作が、積み上げた徳と功績でできているからだ。人は、見たいものを見る。私に「良い人」を見たいのだ。
執事のバートラムが、廊下の隅で私に囁いた。
「お嬢様、どうしても追放をご所望で?」
「ええ。息ができないの。礼儀を守るために息を止めるの、もう無理」
「では……“手続き”で参りましょう。感情は理解されないことがあるが、手続きは通ることがある」
バートラムはいつだって現実的だ。悪行ノートの次ページに、私は新しい見出しを書いた。『降爵の手順』。
◇
降爵には王の許可がいる。私は王城の書記に面会を申し込み、必要書類を揃え、理由書を書いた。
『礼儀の名のもとに、息が止まるように感じています。私は貴族に向かない気質です。領地と民には、別の形で役立ちたい。』
書記は困った顔をした。けれど、書類は受理された。私は待った。噂は広がった。
そして、婚約者の第二王子ルネに呼ばれた。金の瞳が苦く笑っている。
「オーレリア。……本気なのだな」
「はい」
「君は、僕に不満が?」
「あります」
私は丁寧に並べた。夜会の数、社交の礼の形式、挨拶状の過剰な修辞、貧民街への目配りの優先順位。全部、今まで飲み込んできたものだ。口に出すのは、震えるほど怖かったけれど。
ルネは黙って聞き、最後に一度だけ頷いた。
「ありがとう。君が言葉にしてくれた。——僕にも、不満がある」
「殿下にも?」
「あるよ。僕だって、人間だ。『王族は黙って笑っていればいい』という空気に、僕も息がつまる。……だが、それを道具にしてはいけない」
「道具?」
「君の降爵を、王家の改革の錦の御旗にしたくない。君の苦しさは君のもので、僕の道具ではないから」
彼はそう言って、懐から一枚の紙を出した。細長い、白い紙。端に王家の金の箔押し。
「これは『社交休暇状』。王の署名入り。君に五年間、すべての社交を断る権利を与える。出席を求められても、この札を見せれば誰も文句を言えない」
「……降爵は?」
「同時には認めない。——君がこの札を使っても息ができないと言うなら、その時にもう一度、君の言葉で申請してほしい」
(降りられない、の?)
胸がきゅっとなる。でも、白い札は、喉に空気を通す形にも見えた。
「ありがとうございます。使います。遠慮なく」
「うん。遠慮なく」
ルネは笑った。目の下の疲れは消えなかったけれど、笑みは嘘ではないと思った。
◇
私は白い札をオモチャみたいに使った。招待状が届くたび、返信用の封にそっと入れる。『オーレリアは本件、社交休暇中につき辞退いたします』。たった一文。
最初はざわつき、次第に静まった。札は王家の印。誰も逆らえない。私は息を吸った。胸が痛いほど、空気が入る。
でも、社会は空白を嫌う。私の“空席”が増えるほど、「オーレリアは何をしているのか」と根掘り葉掘りが始まった。嫌気は再び顔を出す。
(私は休んでるだけ。——それじゃダメ?)
羊を薔薇園に放したとき、園丁長が言った。「土が喜んでおる」。休むことが土壌を豊かにするなら、休みは仕事だ。私は新しい札を作ることを思いついた。
『白旗の午後』と名前をつけた。午後の二時間、どんな身分の人も白い旗を手に、社交から降りるために集まるのだ。お茶とパンと、読書と、睡眠。——ただの休憩。
第一回はひっそり始めた。来たのは、侍女、書記、若い貴族、老いた園丁、兵士、そして——ルネ。王子が白旗を持って入ってきた時、誰も声を出さなかった。声を出さないことが、こんなに愉快だとは。
「……寝てもいい?」
「どうぞ。いびきも可」
ルネは椅子に座り、三分で寝た。金の瞳は、寝るとただの人になる。私は毛布をかけた。白旗の午後は、毎週、満席になった。噂は広がった。休む権利が、貴族社会の中に小さな穴を開けた。
◇
もちろん、反発も来た。
伯爵令嬢リネットが先頭に立ち、新聞もどきの紙にこう書いたのだ。
『フェルン嬢、社交をサボる。王子の庇護でわがままを通す。なにが白旗か、怠け旗だ』
私は深呼吸して、バートラムに言った。「反論、出すわ」
「お嬢様の文は強い。敵を増やします。手続きで参りましょう」
手続き。私はリネットの主催する慈善舞踏会の招待状を見て、白い札——ではなく、一通の書簡を返した。
『貴舞踏会、終演時刻記載なし。給仕の休憩表未添付。寄付金の配分先、第三者監査不在。——これらが整えば、白旗の午後で周知の上、参加者を募ります。』
翌日、リネットから震える文字で返事が来た。
『……整えました。監査も入れます。終演は二十一時。給仕の休憩は一時間ごとに十五分。どうか、白旗の周知を』
私は白旗の板に、舞踏会の新ルールを掲示した。噂は、批判から称賛へと変わった。
「フェルン嬢が怠けたふりで、最低限の人権を通してくれた」
(ふりじゃない。怠けたいの)
でも、結果はよかった。白旗の午後は、ただの休みであり続け、周辺の催しは少しずつ優しくなった。
◇
そんなある日。王城から召しが来た。降爵申請の件——ではなく、白旗制度についての諮問だと言う。
謁見の間。王は穏やかに笑い、言葉を選んだ。
「オーレリア嬢。君の札は、面白い」
「面白い、だけですか?」
「いや。必要だ。——だが、王家が“休め”と命じたら、それは休みではなくなる」
「……はい」
「だから、命じない。代わりに、許す。もう少し大きい札を作り、広く許可を貼って回ってくれぬか」
王はそう言って、金の枠の札を差し出した。白旗の親玉みたいな、重たい権利。私は受け取って、頭を下げた。
(追放どころか、任務が増えた)
帰り道、私は笑った。笑うしかない。バートラムが横で咳払いをする。
「お嬢様。嫌気は、どれほど軽くなりましたか」
「半分くらい。……もう半分は、私の中の問題」
「ならば、続けて手を動かすほかありません」
「そうね」
◇
白旗が広がるほど、困る人も出る。リネットの取り巻きが店で騒ぎ、配下の給仕に休憩を与えず、紙面でまた私を責めた。
『白旗は弱者のふりをした強者の遊び。社交の“義務”を果たさない者は去れ』
私は深呼吸した。去れと言うのなら、私は行く。でも、行き方は選ぶ。
王城の小広間に、彼女たちを招いた。彼女たちは不満を並べ立て、テーブルの水さえも怒らせそうな勢いだ。私は一度だけ頷き、出席簿を出した。
「こちらはあなた方の主催した行事の開始と終了時刻、給仕の休憩、寄付の配分先、招待状の返事の締切。全部、抜けています。——白旗は“逃げ”ではありません。“整える”ための時間です」
「言いがかりですわ!」
「いいえ。手続きです」
私は白旗の親玉札——『許可板』をテーブルに置いた。王家の印が光る。
「王家は許す。だから、私は断る。——整っていない場には、白旗の周知はしません」
沈黙。彼女たちの顔が赤くなり、白くなった。私は席を立った。ざまぁ、は言わない。言わなくても、伝わる。
数日後、彼女たちの舞踏会は整った。終演は早まり、給仕は笑い、寄付は透明になった。批判記事は消え、代わりに「新しい礼儀」の欄が増えた。
◇
息は、できている。白旗の午後は賑わい、私の机には「休む許可証」の申請が積まれた。領地からの手紙も届く。用水路が水を運び、畑の緑が戻った。羊は元気。
ルネがふらりと白旗に現れ、椅子にどさっと座った。
「ねえ、オーレリア。降爵の申請、どうする?」
ああ、そうだ。私は、追放されたいのだった。白旗に夢中で、忘れかけていた。
「……白旗を貼れる場所がここまで増えて、まだ息ができない日があるなら、その時にもう一度、申請する」
「今は?」
「今は、息ができる」
ルネが笑った。金の瞳は眠たそうだ。私は笑い返し、机の上の書類を片付けた。
白旗の札の裏に、小さく文字を書く。
『今日の私は、休む。明日の私は、たぶん働く』
人は、見たいものを見る。ならば、私が見たいものを、私の目の前に置く。私の手で。
◇
夜の庭を歩く。薔薇の根本に、羊が一匹、黙って草を噛んでいる。あの子は、私にとっての象徴だ。無邪気に、役に立つ。誰の顔色も読まず、土に良いことだけをする。
足音。バートラムが灯りを持って近づいた。
「お嬢様。降爵の継続審査の期日が参りました。どういたします」
「書類は出す。——でも、空欄にする」
「空欄?」
「理由欄に、何も書かない。『今日の私は、休む。明日の私は、働くかもしれない』。それが私の理由」
バートラムは小さく笑った。「王家は、困ります」
「困らせるの、たまにはいいじゃない」
「たまに、でお願いします」
私も笑った。笑いは、息みたいに出入りする。
羊がもぐ、と草を噛む。夜風が白旗を揺らす。旗の布は、逃げではない。選ぶための合図だ。
追放されたい令嬢は、追放されなかった。
代わりに、自分で出入り口を作った。誰も私を見離してくれないなら、私が私を見離さない。それで十分、世界は少しだけ住みやすい。
悪行ノートの最後のページに、私は新しい見出しを書いた。
『手順:息をする → 手を動かす → 片づける → 眠る』
そして、眠る前に白旗をひと振り。明日の私が、どちらを選んでもいいように。