一回生~リーグ戦~
――六月第一週 第一節。
愈々、今日から、リーグ戦が始まる。
九州大学リーグ二部は、十二チームで、一回戦の総当たりで行われる。
一位は、一部に自動昇格し、二位、三位は、一部のチームと入れ替え戦を行うことになる。星山大学の目標としては、三位までに入ることが、最低限の目標だ。
延長戦やPKは無くて、五人まで交代出来る。
星山大学の第一節の相手は、去年二部八位の熊本大学だった。
◆星山大学システム 4ー4ー2
FW:深石(二年)、九条(一年)
MF:戸井田(二年)、追木(二年)、向坂(一年)、大黒(二年)
DF:西山(一年)、太田(一年)、毛内(一年)、久良(一年)
GK:検見崎(一年)
星山大学は、去年一部にいたのだが、秋の不祥事で、二部に落ちて来た。
部に残った二年は、去年、一年ながら、試合に出てたものがほとんどで、実力者といえる。
日内が、送り出したメンバーの特徴は、DFラインにある。
発表された、先発メンバーを見て、智也は、なるほどな、と感じていた。
オリエンテーションの日、日内は、絵にかいた餅、という表現を使ったが、日内のやりたいサッカーというものを、練習の時から、智也は、ある程度、感じていた。
太田、毛内、久良、向坂は、四人とも、高校時代は、CBで、身長は、一八〇前後という共通点がある。また、足元がしっかりしている。そして、GKの検見崎は、身長こそ、GKにしては低いが、彼もまた、足技に長けている。
無論、五人、全員とも、奨学生である。
スペインリーグの多くのチームは、丹念に、ビルドアップをする。日内は、二年、スペインにコーチ留学をしていたから、そういうサッカーをしたいのだろう。
また、四人とも、ボード練習を通して、MFやSBにも取り組んでいた。
日内の志向するサッカーに、煽りを受けた形なのが、二年のCBの内藤さんだろう。
内藤さんは、ファイタータイプのCBで、確かに、足元は、四人に比べて劣る。だが、空中戦には、身長こそ低いが、無類の強さを誇る。だから、内藤さんが、ベンチにいるのは、心強いともいえる。
そして、抜擢を受けたのが、西山だろう。
西山は、下から数えた方が早いほど、色々と、下手だった。
でも、部のメンバーは、皆、納得していた。
西山には、無尽蔵のスタミナがあり、SBに適任だ。また、左SBには、実力者がいなかった。西山に、経験を積んで貰おう、という、日内の狙いは、分かった。
よって、一年では、九条だけが、先ずは、ポジション争いに勝って、先発になったと言える。
そして、キャプテンマークは、太田がつけた。
「今日はー」
と、華やいではいるけど、スカッとした声がした。
胡桃さんだ。
胡桃さんは、すっかり、日内と仲良くなっていた。
練習にも、カメラを携えて、ちょくちょく来ていたし、今日は何と言っても、リーグ戦の初戦だ。来ない訳がない。
とは言っても、監督が、部外者と長い間、話す訳にはいかない。
胡桃さんの高校時代の同級生は、太田と楓太だ。太田が居る時は、太田が胡桃さんの相手をするけど、楓太は天才肌なとこがあって、太田が居ない時は、智也が、胡桃さんの相手をすることになっていた。
例によって、胡桃さんは、日内に挨拶すると、智也が座っているパイプ椅子の横に、腰を降ろした。
「愈々、初戦ですね」
「うん」
「今日は、勝てそうですか?」
ベンチに座っている人間からすると、難しい質問だ。
結城が、代わりに、応える。
「勝たないと、困ります」
困ります、というのは、世界一のGMになる、という、結城の立ち位置からで、部外者の胡桃さんには、伝わり辛いとこがある。
智也が、言葉を、補う。
「星山大学は、実力的には、去年、一部にいたわけですから」
「そうですよね」
と、胡桃さん。
しかも、相手は、去年は、二部八位のチームだ。
サクッ、と勝って貰わなければ、困る。
ところが、試合は、難航した。
試合開始から、星山大学が攻め立てる。しかし、シュートを打つものの、なかなか決まらない。そんな中、右MFの大黒先輩が、苦し紛れに挙げたクロスを、九条が、体を沈めながら、バイスクル気味に打ったシュートが、相手ゴール右隅に決まる。
この年、星山大学の公式戦、初ゴールは、九条となった。
九条も、前線では、一年では、自分だけが、井形などをベンチに置いやり、試合に出ているのは意識していたのだろう。
九条は、ベンチの日内の前に駆け寄ってくると、右手の握り拳を、振り上げた。
星山大学のベンチが、盛り上がる。
長い一年のリーグ戦。
初得点は、誰でもいい。
FWでも、エースでも、MFでも、相手のオウンゴールでも、何でもいい。
大切なことは、チーム全体で、喜びを分かち合うことだ。
俺たちの練習は、間違っていない。
きっと、今年のリーグ戦も、勝ち点を、積み上げていくことが出来る。
そういう予感を、確信を、チーム全体で、分かち合うことが必要だ。
胡桃さんが、思わず、呟く。
「九条君って、絵になりますよね」
「まあね」
と、智也は呟く。
絵になるのは、九条では無く、リーグ戦の初ゴールなんだけどね、と、心の中で、呟く。ところが、この試合、星山大学が、好調だったのは、ここまでだった。それまで、ボールポゼッションも取れていた、シュートも打てていた。
だが、いつの間にか、相手の熊本大学に、主導権が、どちらかと言えば、握られる様に、なっていた。
胡桃さんが、呟く。
「なんか、おかしいですね」
「うーむ」
と、智也も、思わず、呟く。
日内が、ツトツトと、歩み寄ってきて、胡桃さんに、言う。
「胡桃ちゃん、元気してる?」
「有難うございます。サッカーの試合、こんな間近で見れて、楽しいです」
「そう、良かった」
と、日内は、胡桃さんに、にこやかに言うと、智也に、厳しい顔つきをして、言った。
「我が星山大学は、何が駄目なの?」
智也は、ちょっと、考えて、言う。
「左サイドが機能してませんね。西山が、我を失ってる」
「私も、同じ考え。智也、左SBは、やったことがある?」
「試合ではありません」
「よし、後半頭から、行くよ。無難なプレイを、無難な選択を、してくれればいい。それで、今日は勝てる」
「了解しました」
横で聞いていた、胡桃さんが、ポカンとした顔をする。
確かに、サッカー経験の無い、胡桃さんからすると、チンプンカンな話だろう。
でも、SBとは、そういうポジションなのだ。
自チームが、戦力的に、相手チームを明らかに、上回っている場合には、無難なプレーに徹してればいい……のだが……。
前半終了のホイッスルが鳴った。
なんとか、星山大学は、一点差のリードで、前半を終えることが出来た。
なんとか、熊本大学は、一点差のビハインドで、前半を終えることが出来た。
両チームにとって、悪くない前半戦だ。
ハーフタイム。
ロッカールームで、日内が、選手交代を告げる。
「西山、開幕戦、お疲れ様。後半は、智也と交代」
西山が、自分でも覚悟していたのだろう。
「智也、後はよろしく」
「おう」
と、智也が答える、
日内が、前半はベンチにいた井形に声をかける。
「井形、必殺技はマスターした?」
「……未だっす」
ん? 井形の必殺技、結局、何になったんだっけ?
井形の返事に、日内は、意味も無く、頷くと、
「よし、井形も、後半頭から、行くよ。……大黒、お疲れ様」
井形が、吠える。
「任しとけや!」
日内は、蹴球部のメンバーを、サッカー馬鹿を、見回すと、言った。
「皆も、試合に出たければ、必殺技を、マスターすること」
「おう!」
と、ベンチのメンバーが、気勢を上げる。
智也は、内心、思う。
僕も、井形も、必殺技をマスターしてないけど……。
戦場では、何時からか、理性が崩壊する。
それは、サッカーのピッチにおいても、或いは、ベンチにおいてもそうだ。
智也も、それは、分かっていた。
皆が歩み寄り、円陣を作る。太田が、声を出す。
「後半、もう一点、取るぞ。……行くぞ、星山、ファイト!」
「星山、ファイト!」
智也は、何処か、冷めていた。ふと、結城と、目が合った。……こいつも、いや、俺以上に、冷めてやがる。
智也は、両隣になった、九条とGKの検見崎の肩を、ガシガシと叩く。
こういうのも、先手必勝だ、叩いたもの勝ちだ。
最後に、皆で、もう一度、気勢を上げてから、ピッチに向かう。
智也は、ピッチに入る時に、昂ぶる気持ちを抑えて、一礼した。
これは、ユースの鬼武監督の指導だ。
鬼武監督は、試合前に、必ず、言うセリフがあった。
「ピッチに入る時に、お辞儀をして、今日、ピッチに立てることを感謝しなさい。そして、冷静になりなさい」
ユースの時は、この言葉を生半可な気持ちで聞いていたが、智也は、マユミが自殺してしまってから、ピッチに入る時に、お辞儀をしながら、必ず、瞼に、マユミの面影を思い浮かべていた。
マユミ、死んでしまうなら、僕に、パスをくれればいいのに……。
だから、智也は、分かっていた。
高見が、日内が、自分が、ピッチにいる時、怖い顔をしている、というのは、このことを言っているのだろう……。
後半開始の笛が鳴ると、智也は、思わず、ベンチを見た、日内を見た。
日内と目が合い、日内が、智也に向かって、頷いたように、思えた。
智也は、日内の意図を、明確に、感じていた。
もちろん、日内は、智也が、ユース出身で基礎技術がしっかりしている、という理由だけで、適任者がいない左SBに送り込んだ訳ではない。
SBが無難にプレイすると言っても、少なくとも、三つのことを意識する必要がある。
一つ目は、CBと連動したDFラインの上げ下げを、細目にやることだ。
このDFラインの上げ下げは、それこそ、欧州のトップリーグでも、ミスというか、怠慢、或いは、集中力の欠如によって、味方がオフサイドを取ろうとしてるのに、自らの、唯一人のポジションニングのせいで、オフサイドが取れないで、失点することがある。
だから、アマチュアレベルでは、時として、割り切って、ゴール前にへばりつくことを選択した方が、失点の確率は下がる。
だが、元なでしこである日内は、もちろん、そういう選択をしてなかった。
ボード練習でも、DFラインの上げ下げの、メニューがあった。
チーム戦術に従いなさい。
攻撃時はリスクを取りなさい。
守備時は確率論を信じなさい。
それが、練習を通しての、日内のメッセージだった。
二つ目が、前線のフォローだ。
SBの本業が守備だからと言って、自陣に引きこもっていればいい、という訳ではもちろんない。前線の選手のフォローも、立派な仕事だ。
今回の場合、左SHの戸井田のフォローだ。
戸井田が攻めあがった時は、チームが攻めている時は、戸井田の後方十~十五mに、押し上げてやるのが基本だ。そして、自分がフォローする前線の選手の特徴にもよるが、外側をオーバーラップする機会を窺うのが基本だ。実際に、オーバーラップするかどうかは置いといて、少なくとも、相手DFに、警戒させなければならない。
そして、三つ目が、日内が、智也を、SBに送り込んだ、理由だ。
それは、智也が取り組んでいる必殺技が、ベルベット・パスだからだ。
GKから、ビルドアップする。
この時、ボールを受けたCBは、縦に付けることを先ず考える。つまり、最前線のFWにパスを供給するか、或いは、ショートパスで、ボランチにつける、ことを意識する。
最前線へのロングフィードは、成功率が低いので、チームの特徴にもよるが、九十分の中で、ファーストチョイスではあるが、実際にプレー選択されることは、あまりない。特に、日内の様に、パスサッカーをしているなら猶更だ。
先ずは、ボランチにつけることを考える。
ところが、そこは、相手チームも、やらせたくないことなので、相手FWが妨害するポジショニングを取ることになる。それで、CBは、次善の策として、SBにパスをすることになる。
つまり、ビルドアップの主役は、SBなのが、現代サッカーの特徴だ。
そこで、日々、前線へのフィードへの精度を磨いている、智也に、白羽の矢が立ったわけだ。
もちろん、SBがボールを受けて、常に、前線にフィードする訳ではなく、CBにリターンして、やり直すこともある。むしろ、こちらの方が多い。
この試合、後半頭から、智也と同時に、右SHとして、井形が投入された。
井形の武器がドリブルであることは、チーム全体で、理解している。
日内は、何も言わなかったが、井形に、ボールを集めなさい、ということだ。
だから、智也としては、左SHの戸井田とアイコンタクトがスムーズに出来た時は、もちろん、戸井田にボールを供給することを選択肢に入れるが、無難なプレーという意味では、CBにリターンするのが、ファーストチョイスであり、又、逆サイドの井形にロングフィードするのが、攻撃的選択だった。
後半五分、星山大学は、ビッグチャンスを迎える。
相手の熊本大学も、井形を、警戒はしていただろう。
だが、DFが一人なら、井形は、骨盤パニックで、相手を抜き去ることが出来る。
縦に突破した井形は、マイナスのゴロのパスを入れる。
この時、九条は、必ず、ニアに飛び込む、そして、潰れる。
これは、ボード練習の時から、徹底していた。九条の信念としてだ。
ある日、智也は、九条に訊いたことがある。
お前、必ず、ニアに飛び込むな。
九条は、言った。
岡ちゃんが、言ったんだよ、点を取りたければ、ニアに飛び込め、って。
岡ちゃんって岡田監督か?
馬鹿、岡崎慎司だよ。
九条が、ニアで潰れることは、チーム全体の共通理解だった。
井形が、マイナスのクロスを挙げた時、相方のFWである、深石が、九条が空かしたスペースに走りこんでいた。深石が、利き足の右足のインステップで捉えたシュートは、惜しくも、ニアの左のゴールポストを捉える。
これで、星山大学に、失われたリズムが戻って来た。
ところが、同時に、井形が、徹底マークされることになった。
相手のSHが、常に、井形をケアするようになった。つまり、井形は、サイドライン沿いで、ボールを受けても、その時には、既に、二人を相手にするような状態となった。
星山大学は押し込むものの、決定的なチャンスを作ることが出来ない。
試合が膠着してしまって、後半二十分。
智也は、自分の前方を見やってから、ベンチを見る。
目が合った、日内が、頷く。
逆サイドの右SBの久良は、本職はCBだ。どうしても、攻め上がりを、井形を追い越す動きがない。
今、星山大学は、本職がCBの人間を、四人、ピッチに送り込んでいる。
CBの二人に右SBの久良を足せば、ここで三人のユニットが出来る。
CBの二人にボランチの向坂で、三人のユニットが出来る。
左SBの智也が、攻めあがるべき布陣とも言えた。
戸井田の利き足は、右足で、カットインからのシュートが、持ち味だった。
智也は、内心、よし、と呟いた。
智也は、次のビルドアップで、戸井田の足元につけると、加速して、戸井田の外側を駆け抜けていった。
戸井田の相手マーカーがどうしても、智也に、釣られる。
智也だって、後半頭から投入されたフレッシュな人間だ。
戸井田は、相手マーカーが、一瞬、智也に気を取られたのを、見逃さない。
右足でボールを跨ぐ様にして、智也に、パスを出す様な感じから、左足で前方に押し出し、カットインすると、二m程、ボールを運んでから、シュートを放った。
戸井田のシュートは、相手DFに当たったが、その跳ね返りは、追木の元に転がって来た。戸井田のカットインからのシュートを予想していた、智也は、既に、ポジションを取り直していた。
智也は、追木、と叫びながら、追木をルックアップした。
追木は、足元を見ていたので、アイコンタクトは出来なかったが、智也は、相手DFラインの裏に走りこんだ。
走りこんだ、智也の元に、追木から、ゴロのパスが送り込まれて来た。
智也は、左足のインサイドで、勢いを殺しながら、前方に押しやりながら、ゴール前を見る。
智也には、智也の方に駆け寄る様に、マイナスにポジションを取り直している、深沢の姿が目に入った。
そのちょっとマイナスの方向に、智也は、ボールを、強く転がしてやった。
そして、深沢が、左足のインサイドで、丁寧にミートしてやったボールは、相手GKの左肩の上をすり抜ける様にして、ゴールネットに吸い込まれた。
ボールの行方を見届けた深沢が、智也を指差しながら、智也に駆け寄って来る。
智也が深沢と、抱き合っていると、九条は、深沢を乱暴に押し倒してしまった。
その上に、追木や戸井田が、覆いかぶさる。
その後、熊本大学に攻め手が無く、リーグ戦の第一節を、星山大学は、二対〇の勝利で飾った。
この年のリーグ戦、星山大学は、順調に、勝利を積み重ねていくことになる。
GKは、検見崎が毎試合、務めた。
フィールドプレーヤー十人のうち、七人は、どんなシステムであれ、固定面子だった。
一年のCB四人衆、太田、毛内、久良、向坂は、DFラインと、中盤のポジションに入った。だから、例えば、4バックでも、中盤の配置によっては、二年CBの内藤さんも、CBとして、先発することが出来た。
また、一年のCB四人衆に加えて、二年のFW・深石、MF・戸井田、MF・大黒も必ず、先発した。もちろん、一年生の推薦組のうち、多くが、未だ体が完全に出来上がっていない、だとか、長い一年のリーグ戦を戦うには、頭数が足りないといった、編成上の理由もある。
だが、昨年の不祥事があって、そして、プロになるという可能性も実質的にないけど、それでも、部に残り、サッカーに時間を費やす彼らには、推薦組には無い、何かがあった。
これは、サッカーだけでないだろう。
体力、技術、戦術が同等のチーム同士が戦った場合、最後の、勝敗の分け目は、精神論になる。
どれだけ、勝ちたいか。
どれだけ、サッカーに時間を費やしたか。
どれだけ、その試合の為に、準備をしたか。
そして、お前は、本当に、心の底から、勝ちたいと思っているか。
幸か不幸か、この年、星山大学蹴球部は、魂を削る試合をすることが無かった。
また、監督である日内が、選手時代、そういう試合を、どれだけしたか分からない。
それでも、僅か一キャップとはいえ、元なでしこの日内の気持ちは、部員に伝わっていた。
そして、二年生も、その期待に応えるプレーを、試合で、練習で見せていた。
結果として、つまり、先発フィールドプレーヤーの空き枠が三つあって、更に、一試合の交代枠が五人まであり、そして、ほぼ全ての試合で、日内は、後半頭から、二~三人、選手交代をしていた。
先発では無いものの、部員にとって、多くの出場機会が、チャンスがあった。
その中で、先発組以外では、多くの時間、出場したのが、九条と西山だった。
九条は、勝ち気な性格がFW向けだが、と同時に、プレーは献身的という、不思議な奴だった。それは、尊敬する選手の影響なのだろう。だが、もちろん、それは、チームにとって、歓迎すべきことだった。
そして、この年、星山大学蹴球部のほぼ全ての者が、サッカーを楽しんでいただろう。
日々の練習で、上達するのが分かる。
試合には勝てる。
楽しくない訳がない。
その中で、恐らく、西山だけが、苦悩と共にあったのではないか。
誰よりも、下手なのに、試合には出れる。
そして、実際、試合ではミスをし、足を引っ張る。
本人が、一番、心苦しい。
それでも、チームの全員が、信じていた。来年度以降、いつか、西山の化物スタミナが、チームを救う時がある、と。
サッカーを始めた、小学生以来、これまで、厳しい練習を積み重ねて来た者程、分かっていた。スタミナもまた、才能である、と。
そして、特に、CB四人衆には、日内から、指示があったのだろう。
試合中、西山には、常に、コーチングがかかった。
これは、CB四人衆のコーチング力を磨くにも、役立っただろう。
智也は、今でも、思う。
日内は、何処まで、計算して、星山大学蹴球部監督の仕事に取り組んでいたのだろう、と。
もちろん、それは、分からない。
だが、結果として、この年、星山大学蹴球部は、九州大学二部リーグを、十勝一分の成績で駆け抜け、一部への自動昇格を果たした。
だから、チーム成績の上からは、リーグ戦に関して、これ以上、特筆するべきことは、もう、何もないのだけれど、どうしても、一つ、触れておかなければならないことがある。
それは、十月中旬に行われた、第七節のことだった。対戦相手は、下位に沈む、長崎大学だった。
その日も、西山は、左SBとして、先発していた。
星山大学は、前半三十分に、深石、後半十五分に、井形の得点で、二対〇と先制していた。
二点差をつけられた、対戦相手は、捨て鉢の攻撃を、繰り返すようになっていた。
試合に慣れた西山も、前半は、オーバーラップを自重するようになっていた。その分、リードして後半に入ると、積極的に、攻撃参加するようになっていた。自分達がリードしてしまえば、相手が前に出て来るので、逆に、裏を取れるシーンが増えるからだ。
後半二十五分。
CBの太田が、二m、三mとボールを持ち出す。
太田は、自然にルックアップして、そのままのリズムで、左アタッカーの戸井田につける。
戸井田が、カットインするぞ、と見せながら、ボールを溜める。
その外側を西山が、駆け上がる。
戸井田は、ノールック気味に、西山の前に、ボールを押し出してやった。
西山は、左足のインサイドで、トラップしようしたのか、ダブルタッチをイメージして、弾き出したのかは、分からない。
ただ、結果として、ボールは、西山の右足のインサイドに弾かれて来た。
あとは、練習の、反復練習の、ダブルタッチの練習の賜物だった。
西山の右足のインサイドが弾いたボールは、相手DFの股間を奇麗に抜けた。
体の小刻みな反復を利用するようにして、西山が、相手DFを抜き去る。
西山に、味方のFWを、深石と九条を、確認する余裕は無かっただろう。
西山は、抜け出たボールを、ちょうどステップのあった左足のインステップで蹴り抜いた。公平を期すれば、西山のシュートは、SBらしからぬ、思い切りのいいものだった。
ボールは、相手GKの左肩のやや上を抜け、ネットに吸い込まれる。
西山には、何故か、ボールの行方を確認する余裕は有った。
西山は、ネットに吸い込まれたボールを確認すると、味方ベンチに駆け寄って来た。そして、日内と抱き合ったかと思うと、ベンチメンバーが、西山を押し倒した。その上に、フィールドプレーヤーが駆け寄って来て、覆いかぶさる。
西山が、これから、どんなサッカー人生を歩むか分からない。
西山が、これから、どんな劇的なゴールを生み出すか分からない。
ただ、一つ、確かなことは、このゴールを、西山が、一生、忘れることはないだろう、ということだった。
その夜、西山は、もちろん、居酒屋で上機嫌だった。結城と智也と、西山の三人で、行きつけの居酒屋に来ていた。
西山は、自らのゴールシーンを、何度も繰り返して、語ってみせる。
ファーストタッチは、最初は、偶然だったと言っていたが、いつの間にか、天才・西山の、絶妙なタッチということになっていた。
智也は、半分、馬鹿らしい、と思いながらも、半分は、西山への羨望の想いがあった。
サッカーでは、点を取る人間が王様だ。
その王様に、今日、西山はなったのだ。
智也は、ボンヤリと考えていた。
僕が、最近、王様になったのはいつだろう、と。
結城は、結城で、西山に、話を合わせていた。
それは、西山が、何処まで意図的かは疑問だが、西山の今年の必殺技である、ダブルタッチを繰り出したからだ。結城自身は、後半残り、十五分、二十分という形で、試合には出ていた。
だが、そうそう、シュートチャンスがある訳じゃない。
そうそう、シュートが決まるわけじゃない。
ペナルティエリアの角からのシュートは、未だ、幻に終わっていた。
それは、智也の、ベルベット・ループも同様だった。
例えば、三十m距離があれば、それなりのスピードが出せて、相手DFラインの裏に、ボールを出せる。
だが、これが、十五mの距離感でやるとなると、難易度は、ガラリと変わる。
蹴り方を変えるしかない。
だが、その蹴り方を変える、というのが、正解なのか、智也には分からなかった、迷っていた。
西山が、締めの、杏仁豆腐を、店員に注文した。
杏仁豆腐を、注文した後、西山が、不意に、真顔になった。
「胡桃ちゃんに、告白しよう、と思う」
智也は、遂に来たか、と思った。
五月に、西山が胡桃さんに一目ぼれして、五カ月経つ。
西山としては、タイミングを見計らっていたのだろう。
だが、智也は、ボンヤリ、考える。
直人さんに言わせれば、恋の時間軸、と、サッカーの時間軸を、シンクロさせようとしてる時点で、恋に負けてるのだ。
平たく言えば、好きだ、と思えば、その時に、好きと言え、ということになる。
智也と、そして、結城も、下を向くと、大して残り量の無い味噌汁に、口を付けた。
西山が、そんな、二人の様子を見て、憮然として、言う。
「おい、結城。どう思う?」
結城が、ギョッ、として言う。
「俺は、そういうの分からないから。……まあ、結城家家訓、十人十色?」
……おい、結城、それは、本当に、結城家家訓なのか?
西山は、智也の期待に案反して、智也に、矛先を向けて来た。
「まあ、お坊ちゃまの結城には分からない、かもな。……智也はどう思う?」
智也は、唸った。
西山は、この一言で、結城の感情も、智也の感情も、逆撫でたことになる。
西山は、結城には、このボンボンが、と言い、
西山は、智也には、この下層階級が、と言っているのだ。
智也は、今日の西山に、何を言っても無駄だ、と内心呟いた。智也は、ちょっと考えてから、ラップした。
好きで好きと言えたら YO 苦労しないぜ YO
言えないから恋心 YO
智也のお茶らけに、西山と結城が黙り込む。
しばらくして、西山が、呟く。
「智也はなあ、なんか、分かっている気がするんだよなあ」
「俺もそう思う」
と、結城が、これ幸い、と無責任に、言う。
「……分かっているって、何を?」
「男女の機敏って奴?」
……いやいや、そんな話じゃあ……。
西山が、改まって、智也に訊く。
「俺は、どうしたら、いい?」
はあ? いいも何も、自分で、答えは、決めてるんだろうが。
智也が、飄々さを装って言う。
「いやあ、取り敢えず、胡桃ちゃんに、好きって言うしか無いんじゃないの?」
「そんなことは分かっている」
えっ? ……また、男らしい……。
「智也には、何か、アドバイスが欲しい。胡桃ちゃんが、OKと頷くための」
……面倒臭え――。
そんな訳で、智也は、西山に、直人さんを紹介することにした。
直人さんとは、マユミが亡くなって、一週間後に会って以来、連絡を取ってなかった。けれど、直人さんの電話番号は、秋津子さんから貰っている。
幸い、というか、今日は、土曜日が試合の為、明日は、オフだ。
直人さんも、午前中なら、時間は取れる、と言う。
智也は、西山に確認を取って、翌日、直人さんに会うことにした。
直人さんと会うのは、智也も、マユミが死んでから一週間後、あの日に、お風呂に入れて貰って以来だった。
翌日、待ち合わせのカフェに現れた直人さんは、幾らか年の離れた、智也と西山を、上から目線では無く、まるで小学生以来の友達であるかの様に、そして、爽やかに笑いながら、出迎えた。
「待たせて、ごめんね」
もちろん、約束の時間までは、未だ、五分ある。
この日の直人さんは、茶色の麻のジャケットに、臙脂の丸首のシャツを、さらりと着込んでいた。同性の智也からみても、惚れ惚れする感じのいい男だった。
でもな、西山、こんな直人さんでも、秋津子さんには、二度、振られてるんだぞ。
恋なんて、上手く行かないのが普通なんだ……恐らく。
胡桃さんは、太田か楓太のどっちかが、好きなんだろう、と、智也は、思っていた。
別に、昨日、西山が、点を取ったからじゃない。
CB四人衆のコーチングのおかげで、西山のSBも随分、サマになって来た。
試合経験を積んでいけば、間違いなく、西山は、星山大学蹴球部の戦力になると思われた。蹴球部としては、西山には、さっさとフラれて貰って、サッカーに打ち込んで欲しい、とこだった。
直人さんは、ウェイトレスにオーダーすると、西山に、問いかけた。
「どんなコが好きなの?」
考えて見ると、これは、結構、難しい質問だ。
マユミがどんなコ?
秋津子さんがどんな人?
日内さんはどんな女性?
……胡桃さんは?
西山が、ちょっと考えて言う。
「いつも瞳をキラキラさせていて、きっと、好奇心が旺盛なのかな。でも、きっと、頭もいいと思います」
恐らく、直人さんは、西山がどんな答えを言っても、同じセリフを言っただろう。
直人さんは、西山の視線を、真正面から受け止めると、言った。
「西山君は、本当に、彼女が好きなんだね。だから、僕は、一つだけ、約束するよ。西山君の恋が上手くいくかは分からない。でも、最高の状態で、西山君を、彼女の前に立たせて上げる」
西山は、直人さんの気迫に押されて、思わず、頷く。
直人さんが、話を続ける。
「女性が男性に、一番、求めるものは何だと思う? ……よく、考えて」
西山が、思わず、腕を組んで考える。
智也も、うーむ、と考える。
金?
地位?
イケメン?
優しさ?
才能?
……なんだって、正解なんじゃないか?
西山が、やがて、アッサリと白旗を挙げた。
「分かりません」
「答えは、色気。……男の色気ってやつ」
智也は、思わず、西山と顔を見合わせる。
……つまりは、西山に、色気を持てってこと?
うーむ。……智也も人のことは言えないが、西山に、男の色気かあ……。
西山本人も、思わず、黙り込んでしまう。
そんな西山をみて、直人さんは、クスッと笑って、手元の皮の肩掛けカバンから、何やら、カードの束を取り出した。
カードは、五枚で、それを机の上に拡げながら、直人さんは、言う。
「でも、安心して、今日は、初級者編だから」
「はあ」
机の上に拡げられたカードには、それぞれ、言葉が、記されていた。
安心感
信頼感
包容感
期待感
非日常感
続いて、直人さんは、五つの言葉を、ざっと説明した。
安心感は、この人なら大丈夫、という気持ち。
信頼感は、人間性が尊敬できる、という気持ち。
包容感は、器の広さや深みのこと。
期待感は、性的興奮の入口、のことを意味するらしい。
非日常感は、退屈からの解放。
次に、直人さんは、安心感と期待感のカードを、西山の方に、押し出した。
「それで、この二つの感情は、あることをすることによって、上げられるんだ」
「……なんでしょう?」
「その答えの前に、西山君は、どうだろう、ぶっちゃけ、その彼女とヤりたい、と思うだろう?」
「……そりゃあ、まあ」
と、西山が、照れながら、言う。
「逆もまた、真なり。女性が、男性を見る時、無意識に、自分の体内に入って来られるとこまで想定しているんだ。これは、人間もまた、動物だからね」
うーむ、そう言われれば、そんなものかと思ってしまう。
直人さんが、ようやく、コーヒーに口をつける。つけたと思ったら、ちょっと黙り込んでしまったので、西山が、問いかける。
「それで、安心感と期待感を上げるには、どうしたらいいんでしょうか?」
「ちょっとは考えてみた?」
「ええ。……でも、分かりません」
「それは、清潔感さ。先程言った点を、クリアしてくれるだろ?」
これまた、言われてみれば、確かにそうだ。それに、残りの三つは、正直、付け焼き刃で、どうこうなる、問題じゃないだろう。
それで、直人さんは、今日から出来ることを、幾つか、挙げた。
・毎晩、顔を洗うこと。
・三日に一度は、爪を切ること。
・保湿クリーム、リップクリームを使うこと。
・香水か、アロマオイルをつけること。匂いは、石鹸の匂いなどがいい。
・清潔な髪型にすること。
・ファッションに興味を持つこと。
思わず、西山も智也も、ゲンナリした顔をしたのだろう。
すると、直人さんは、真顔で付け加えた。
「でも、西山君も、智也君も、凄いアドバンテージを持っているんだよ」
「アドバンテージ?」
「スポーツ選手で、筋肉質の体を持っている。この利点は、グダグダ言わないでもいいだろう?」
「はあ」
「ところが、部活やってる男子ってのは、どうも汗臭くていけない」
智也は、蹴球部の面々を思い出した。
イケメンの九条や井形なんかも、言われてみれば、汗臭い。
直人さんが、話を続ける。
「だから、西山君が抜け出るのは、結構、簡単なんだ。自信を持って、清潔感を身に付ければいい」
それから、直人さんは、洋服屋さんと美容室に電話してくれた。
智也は、服と、清潔になるぞグッズの購入まで、西山に付き合い、その後、西山と別れた。
美容室に向かう西山の背中を見ながら、智也は、思った。
直人さんがアタックしても駄目な秋津子さんは、元気にしているのだろうか……。
その頃、ちょうど、智也が、西山の背中を見送った時、水城秋津子は、バンドメンバーと、バンドの方向性について話し合っていた。
秋津子は、RedFishという、ガールズバンドでドラムを叩いていた。
RedFishは、秋津子が、高校一年の時に、同級生と結成したバンドで、インディーズからデビューは出来たものの、メジャーデビューは出来ず、泣かず飛ばすのバンドだった。
かれこれ、もう、八年になる。
ボーカル兼ギターの、ミキが、いつもの様に、喧嘩腰で、言う。
「私達、このままでいいのかしら?」
その答えは、誰もが分かり切っていた。
八年、売れなかったのだから、売れることを目標にしたなら、駄目に決まっている。
しかし、高校一年生の夏、手持ち無沙汰に四人の女子高生が、私達は、メジャーになる為に、バンドを作る、と考えていただろうか。
恐らく、多くの女子高生バンドが、NOというだろう。
だが、メンバーのそれぞれが、二十四歳にもなると違う。
ベースのトモヨが、呟く様に、言う。
「今は、新しい音楽を耳にする機会が無いからねえ」
「何よ、ババ臭い」
「うん、母親が言っていた。昔は、街に音楽が溢れていたし、テレビで、音楽番組も毎週あったって」
「また、その話かよ。……米津元帥は、メガヒット、飛ばしてるだろ?」
「あれ、タイアップ曲でしょ?」
「それはそうだけど、米津はその前から、そこそこ売れてたんじゃないかしら。だから、逆に、タイアップの話が来た、とも言える」
「結局、最初は、実力で、口コミで、スマッシュヒット飛ばさないと駄目なんだよ」
四人が、ちょっと、黙り込んでしまう。
トモヨが、ボソリと呟く様に、言う。
「私たちの音楽って、中途半端なんじゃないの?」
「中途半端って何だよ?」
「ロックなの? ポップスなの?」
ミキ、カオリ、秋津子の三人が黙り込んだ。
この話題が出て、もう、半年になる。
自分達の楽曲が、ロックなのか、ポップスなんて、自分達で決めることじゃないだろう。
でも、何か、引っかかるものがある……。
この問題に、正面から、向き合わないうちは、前に進めないのではないか、それこそ、一歩も……。
ミキが、気を取り直した様に言う。
「また、その話かよ。……でも、まあ、トモヨの言いたいことはなんとなく、分かるよ。……それで、トモヨは、どうしたいんだよ?」
トモヨは、何度か、口を開きかけたが、口を閉ざしてしまう。
見かねたカオリが口を挟む。
カオリは、偶にしか発言しないので、その分、他の三人より重みがあった。
「そんなの、誰も分からない、というか、私達全員で決めることだもんねえ」
秋津子は、いや、恐らく四人全員が、内心、呟いていた。
……RedFishも、もう、終わりかな……。
結局、西山は、十二月二十三日の練習後、胡桃さんに告白して、振られた。
クリスマスイブの前日、というのが、西山らしいと言えば西山らしいが、それはもちろん、話の本筋ではないだろう。
その日の西山は、間違いなく、星山大学蹴球部の誰よりも、清潔感溢れる男子だった。約二か月、直人さんのレシピをこなした成果だった。西山は、練習後でも、シャワーを浴びた後は、いい匂いをしていた。仄かに香る匂いは、石鹸の匂いのようでもあるが、香水の匂いだったかもしれない。
智也が、西山から、胡桃さんに振られた、と聞いたのは、初詣に行った時だった。
智也は、西山の何処か、呆気らかんとした顔を見ながら、気になっていたことを訊いた。
「それで、胡桃さんは、太田と楓太とどっちが好きなんだ?」
「そんなこと、訊いてない。……カメラが恋人だって」
「ふーん。……なんか、あっさりしてるな」
「いや、今日は、智也に礼を言いたくて」
「礼?」
「直人さんを紹介してくれて、有難う」
「いや、別に大したことじゃないし……」
「俺、胡桃さんには振られたけど、これからも、清潔男子でいるよ」
「……おう」
「なんか、サッカーと似てるんだよな」
「へえー」
「練習やるだけやって駄目なら、しょうがないじゃん」
……そう来たか。
確かに、西山は、この半年で、サッカーがかなり上手くなった。そして、その翌年、二年の夏に、かなり可愛い彼女が出来ることになる。その彼女は、見ようによっては、胡桃さんに似ているが、それはもう、誰にとっても、どうでもいいことだった。
いずれにしろ、直人さんは、星山大学蹴球部に、スタミナモンスターの、清潔感溢れる左SBをプレゼントしてくれたことになる。
話は、九月の第四週の週末に遡る。
星山大学蹴球部の部員は、例によって、視聴覚室に集められた。
そこで、日内に、二本のビデオを見せられた。
一本目は、二〇一四年ブラジルで行われたW杯の予選グループの第三戦で、日本は、コロンビアと対戦し、一対四で負けた。その時のダイジェストである。結局、この大会は、日本は、予選グループで敗退した。
二本目は、二〇一八年ロシアで行われたW杯の予選グループの第一戦で、日本は、コロンビアと対戦し、二対一で勝利を納める。その時のダイジェストである。この大会、日本は、見事、予選グループを突破したものの、決勝トーナメントの一回線でベルギーと対戦し、二対三で敗れることになる。この試合、日本は、二点を先制しながら、後半ロスタイムに逆転負けを喫した。
日内は、二本目が終わると、教室中を見回して、言った。
「はい、感想をどうぞ」
九条が、スッと立ち上がって、言った。
「ケッ。簡単だぜ。今日は、前プレの話だろ?」
「ご名答。……まあ、そういう編集だからね」
前プレとは、相手ボールの時に、前線からプレスをかけることである。
前プレを実施するには、難点が二つある。
一つは、前線の選手に、運動量が求められること。
一つは、チーム全体に連動性が求められること。
それ故、実績重視の選考をせざる得ない、つまり、経験のある、高齢な選手選考になりがちであり、また、活動期間の短い、代表チームでは、難しいとされていた。
日内が、話を続ける。
「ロシアW杯で、ベスト十六に行けて、ブラジルW杯では駄目だったのは、戦術的には、二つあると、私は考えている。もちろん、これは、あくまで戦術面の話で、実際は、アジアの予選で活躍していた選手の高齢化や怪我などの問題があるから、どの程度、ウェイトがあるかは分からないけど」
「んなことは、分かってるよ。二点って何だよ? 一つは、前プレがはまったことだろ。もう一つは?」
「高い位置で戦えたこと。……前プレがはまったって言っても、九十分やる訳にはいかないからね」
高い位置で戦う、これも、口で言うほど易くはない。
例えば、格上相手に、自分達は4ー4ブロックで、押し込まれるとしよう。
この時、自チームのDFラインを、ペナルティエリアラインまで後退させるか、或いは、十m高く保てるかで、天地の差がある。この十m高いことによって、カウンター攻撃の可能性が上がるからだ。
もちろん、十mとはいえ、ラインを高くすることは、失点の可能性が上がる。相手FWにスペースを与える可能性が上がるからだ。
日内が、言う。
「高い位置で戦うことは、いつも言ってるわね。失点してもいいから、高い位置で戦いなさい、って。今は、ほぼ全てのクラブが、そうしてる、そうしようとしてるって」
井形が言う。
「ああ、それは、俺も、欧州リーグの試合見てて、思うよ。……で、さっさと本題の前プレの話に行こうぜ」
「そうね。……一本目の動画見てて、気づいた人も多いだろうけど、ブラジル大会でも、前線の選手は前プレしてるのよ。でも、はまらなかった。何故だか、分かる?」
「……」
「そう、二人だけで、前プレしてたの。切れた糸の凧の様に」
日内が、話を続ける。
「でも、ロシアでは成功した。それは、三人が連動してたの」
智也も、最近、日内の言う、三人と言う意味が分かって来た。
日内は何も、三人でプレーしなさい、と言っているわけではない。
日内が言いたいのは、チームプレーの最低人数が三人、という意味である。と同時に、三人が意思疎通出来たなら、それは戦術になる、と言いたいのだ。
最低限の三人があって、そこに四人目が加わって、それが十人になり、十一人になる。
日内の話が続く。
「これから、4ー2ー3ー1や4ー3ー3に多くの時間を割いていくわ。それで、前プレする場合には、前線や中盤から、三人、これが、ミニマムユニットよ。それ以外の選手は、三人の動きを見て、連動するか、決めればいい。言い方変えると、前線の三人が孤立してしまってもいいわ。七人居れば、守れるでしょ」
何せ、三人いれば、守れるでしょ、と、アルゼンチン代表を引き合いに出して、言う監督だ。七人もいれば、十分か、と智也も、ぼんやり考えていた。
「逆に言うと、前の三人は、よく話し合ってね。ボード練習でも、試合中でも」
太田が言う。
「でもさ、なんで、4ー2ー3ー1や4ー3ー3なんですか? 4ー4ー2でもいいんじゃないですか?」
「それは、左右対称性を残したまま、MFを一枚、前プレの三人からは別に、同サイドか中央に、DFラインとの連携に残しておきたいから」
つまり、仮に4ー4ー2で、例えば、左サイドのFW一枚と左サイドのMF二枚で、三人組を作ると、右サイドのMFに、左サイドの守備も依存することになる。日内が言うのは、それを避けたい、ということだ。
因みに、4ー4ー2がサッカーの基本システムである。初めて集まったメンバーで、何も言わずにポジション割を考えたら、念頭には、4ー4ー2があることになる。これは、おおよそ、世界中でそうだ。
さて、前プレが、これから益々、重要になって来るのは、新型コロナの影響がある。
二〇二〇年、新型コロナウイルスの世界的な流行が発生し、選手の健康を守るために暫定的に、五人交代制が採用された。そして、二〇二二年六月、カタールのドーハで開かれた国際サッカー評議会(IAFB)の年次総会で「五人交代制」の恒久化が決まったのだ。
先述した通り、前プレは、前線の選手の消耗が激しい。だが、交代選手の枠が増えることによって、選手交代前提の戦術を、監督が取ることが出来るようになった。
これまで、前プレは、どうしても一点取らなければいけない時の、窮余の策的な意味合い、或いは、奇襲攻撃的な側面があった。ところが、交代枠五人制によって、趣が変わったといえる。
ミーティングの最後に、日内が、部員に発破をかけた。
「来年は一部で、もっと強い相手と戦う。……もちろん、優勝するよ」
日内の、そんな強気の言葉も、それまで、二部のリーグ戦を五戦全勝で突っ走っていた部員には、自然に聞こえた。
――十月の第四週、九州大学二部リーグ 第八節。
星山大学は、鹿児島大学と戦っていた。鹿児島大学は、現在、リーグ中位につけるが、現在、首位を走る星山大学の敵ではない。
案の定、前半二十分に、早くも、深石さんが、ゴールを決めていた。
サッカーの戦術論は、世界的に、この三十年で、物凄く進化している。
それは、欧州のチャンピオンズリーグの発展が、ベースにある。南米の有名選手がこぞって、欧州のビッグクラブに所属し、また、世界中のクラブが、欧州の五大リーグを、頂点に、ヒエラルキー化された。
そして、有名監督が、各リーグのビッグクラブを渡り歩く中で、戦術は、クラブによってその選択はあるにしても、画一化されたとも言える。
その戦術面の言語化の中で、重要なキーワードの一つに、「トランジション」がある。
いわゆる「切り替え」なのだが、この概念自体は、昔からあった。
ネガティブトランジションと言えば、攻撃をしていて、ボールを失った時のこと、つまり、攻撃から守備に転じることなのだが、ここでの選手のアクションに、変化が見られた。
チーム戦術によっては、ボールを失ったFWが、プレスをかけるのである。もちろん、一人で行っても意味がない。三~四人のグループで行うのである。
例えば、四十年前、このような戦術を取るチームがあっただろうか?
つまり、FWがプレスをする、というのは、前プレと同じになる。
そして、この日の星山大学は、4ー2ー3ー1で戦っていた。
1トップに、深石、右アタッカーに、九条、いわゆるトップ下の位置には、追木が入っていた。
前半、二十分、アタッキングサードの右サイドで、九条がしかけ、ボールをロストする。
この瞬間、トップ下の追木が、横から、ボールを奪った相手DFにプレッシャーをかける。
1トップの深石が、GKへの逃げ道を塞ぐ形で、動き出す。
そこに、右ボランチに入っていた毛内が、相手前方へのパスコースを切るように、猛然とプレッシャーをかけた。ここで、ボール保持者の相手DFが、次のプレーの選択を躊躇してしまい、態勢を立て直した九条が、相手DFの後ろから、左足を伸ばして、ボールを搔っ攫ってしまう。
日々のボード練習に意味があるのは、更に、この先だろう。
九条が、一m二mと、ボールを前に運んでいる間に、先程、相手GKへの逃げ道を防いでいた深石が、オフサイドにならないように、ポジションを取り直す。
追木は追木で、相手ペナルティエリア内のスペースを物色する。
因みに、星山大学のDF陣からすると、ボード練習で、日内に、さっさとサイドに逃げなさい、と口を酸っぱくして、言われている。だから、この様なロストが起きる確率は、星山大学のDFラインからすると、恐ろしく、低い。
しかし、ゴールを決めたのは、深石でもなく、追木でもなく、左サイドアタッカーの戸井田だった。
相手DFは、深石や追木に釣られ、どうしても、ボール保持者の九条からすると逆サイドから走りこんで来る戸井田へのマークが疎かになる、チェックが甘くなる。
しかし、だからこそ、戸井田が鮮やかなハーフボレーを決めた時に、思わず、派手なガッツボーズをしたのは、深石であり、追木であり、そして、毛内だった。
戸井田は戸井田で、照れくさそうな、しかし、満面の笑みを浮かべる。
そういった選手の表情を、胡桃さんが、丹念に、かつ、素早く、ファインダーに納めていく。
この時、西山は、未だ、胡桃さんに告白していない。が、清潔ボーイへの道を歩んでいる、という時期だった。
その西山は、この日も、元気に、左SBとして先発し、太田も、もちろん、先発。
という次第で、胡桃さんの周りには、智也と楓太、そして、今日はベンチからの井形が集まっていた。
ゴールのセレブレーションが終わり、試合再開のホイッスルが鳴ると、僕は、胡桃さんに聞いてみた。
「最近、西山って何か、変わってません?」
「変わってる?」
「何か、変化があったんじゃないかってこと」
「あっ、智也君もそう思う? 私も、感じてた。でも、それが何だか分からないのよねえ」
うーん、清潔感溢れる大作戦も、そんなものか。
まあ、考えてみれば、胡桃さんは、スポーツ青年の写真を撮りに来る様な人だ。そういうのは疎いのかもしれない。或いは、こうやって、日の下で会ってると、そんな、影響ないのかな?
井形が、口を挟む。
「智也、その言い方は、お前、何か、心当たりあるのか?」
井形は、こういうのは、変に鋭い。
智也は、しどろもどろに成りながら、応える。
「ほら、この前、西山、ダブルタッチ、必殺技のダブルタッチから、ゴール決めたじゃん。何か、影響あるのかな、と思って」
「ケッ、あんなの偶然だろ。つーか、ダブルタッチぐらい出来ねーのかよ、って話」
「まあ、そりゃそうだけどさ。……西山にとっては特別だろ」
すると、井形が、思い出した様に、言う。
「そういや、智也、お前の必殺技って、なんだよ?」
横で聞いていた、胡桃さんが、興味深々と言った感じで、口を挟む。
「なーに、必殺技って?」
智也が、日内の指令を説明してあげる。
「へえー、日内さんって面白い監督だよね」
智也と井形、楓太が、コクリと頷く。
井形が、話を戻す。
「それで、智也お前の……」
智也は、ため息をまじえて、言う。
「ベルベット・ループ」
「うわー、なんだか、必殺技っぽい」
と、胡桃さんが、無邪気な声を出す。「でも、何それ?」
智也は、小野伸二の話と、十mから三十mで、ループを出す、話をする。
井形が、ちょっと、考えて、言う。
「でも、それ難しくないか?」
「うん。長い距離はいいんだよ。ボールを切る様に、バックスピンかける感じで、インフロントで押し出してやればいいから」
「だよなあ」
「でも、短いのが、どうしても、つま先で、掬い上げる様になる、というか」
「そうだよなあ」
と井形。「楓太、出来るか?」
楓太が、ちょっと考えて、言う。
「うーん、やってみないと分からないけど……」
えっ、その言い方は、出来るの?
「多分、出来ると思うけど、でも、相手DFの身長が高いと、どうしても……」
智也より、井形が、食って掛かる。
「どうやんだよ?」
楓太が、飄々と、応える。
「足を振るスピードだよ。……ゆっくり、ゆっくり振る。とはいっても、太腿までは、いつも通り振って、膝から下を、ちょっとブレーキをかけて、惰性で振る感じ」
智也と井形は、思わず、顔を見合わせる。
これで、出来るかもしれない……。
井形が、ボソリと呟く。
「それ、出来たら、フウタループにしようぜ?」
「でも、ベルベットは、日内さんの命名だからなあ」
「日内さんって、そういうとこあるわよね」
と、胡桃さんも、頷く。
智也は、気になっていたことを、言う。
「楓太の必殺技は?」
楓太が、ちょっと、遠くを見て、言う。
「ミドルシュート」
「ロベカルなみの?」
「それは無理」
「だよなあ」
確かに、と、智也は、内心思う。
楓太は、相手バイタルでボールを持って、相手を見ながら、次のプレイを選択する、移行することが出来る。相手ゴールを揺さぶるミドルシュートが打てたら、心強いことこの上ない。
井形が、ちょっと、考えて言う。
「でも、そういう基礎的なのって、時間かかるよなあ」
「うん。だから二年、三年で、焦らず、じっくりやりなさい、って日内さんは言ってた」
へえー、そういう二年モノ、三年モノもあるのか……。
胡桃さんが、井形に、言う。
「井形君のは?」
井形が、口ごもる。
「なんだよ、井形、この流れで、それはないだろ」
井形が、舌打ちをしながら、意を決めた様に、言う。
「モーゼ・ブレイク」
智也は、思わず、ニヤニヤしながら、言う。
「なんだ、それ?」
普段は無表情な楓太も、苦笑いし、胡桃さんも、きょとんとした感じで、目を見開く。井形が、苦虫を嚙み潰したような感じで言う。
「日内さんの命名だよ。ドリブルしてて相手DFが二枚来た時に、その中央を割って入るドリブルあるだろうが、あれだよ、あれ」
「ああ、あれか。あれ、確かに、何て言うんだろう?」
「ブラジルとかスペインだと、言葉、ありそうだけどね」
と、楓太が、相槌を打つ。
モーゼは、旧約聖書に出て来る人物で、ファラオの軍勢に追い詰められ時に、モーゼが手にもっていた杖を振り上げると、葦の海の水が割れたため、彼に率いられたイスラエル人は、海を渡ることが出来たが、しかし後を追って葦の海を渡ろうとしたファラオの軍勢は海に沈んだ、とされる。
智也は、井形の話を、聞いて、なるほど、と、思った。
試合に出場した、星山大学のメンバーは、時々、ミスというか、なんだそりゃ、というプレイをする時があった。だが、それは、必殺技を試しているのだろう、というのが、暗黙の了解だった。
井形の場合は、サイドでドリブルを仕掛ける時に、強引さが目立ったが、そういうことか、と思った。
結局、この試合、智也は、後半から左ボランチとして出場し、試合は、二対〇で勝った。二点目は、同じく、後半から出場した楓太が、1トップにいた深石さんとのワンツーで、中央を抜け出し、ゴールを決めた。
これまで、全勝で、順風満帆としか言いようのない星山大学だが、指揮官には、指揮官の苦悩があるようで、それを、智也は、次節、知ることになる。
――十一月の第一週、九州大学二部リーグ 第九節。
この日の対戦相手は、久留米大学だった。久留米大学は、去年は、星山大学と同じ様に、一部だったが、入れ替え戦で負け、二部に落ちて来た。守備は堅いが、点が取れないのが特徴のチームだった。
星山大学は、この試合を含めて、残り三試合。勝ち点四を取れば、一位で、つまり、入れ替え戦無しで、一部昇格が決まる。
余裕、いや、油断が無かったとは、言えなかった。
しかし、相手の守備が硬かったのも事実だった。
この試合は、結果として、〇対〇の引き分けで終わる。
◆星山大学システム 4ー4ー2
FW:戸井田(二年)、深石(二年)、九条(一年)
MF:大黒(二年)、向坂(一年)、追木(二年)、
DF:西山(一年)、太田(一年)、毛内(一年)、久良(一年)
GK:検見崎(一年)
試合序盤から、星山大学が、ポゼッションを握るものも、シュートまでなかなかいけてなかった。久留米大学が、自陣に引いた時は、五バックになるのを、崩せないでいた。そして、試合開始前の予想と違って、久留米大学に、ペースを握られる時間帯もあった。だが、久留米大学も、シュートが決まらない。
ところで、日内は、試合中に、よく、ベンチにいる選手と話し合っていた。それは、監督として、選手が、どの程度、試合状況を把握出来ているか、また、選手が、どの程度、戦術理解しているかを、探る目的もあったろう。だが、智也は、単に、お喋りしたいだけだろう、とも考えていた。そして、智也も、日内と、サッカー談義をするのが好きだった。
今日は、胡桃さんも来ず、若干、手持ち無沙汰だった智也は、ベンチの前で立って、戦況を見つめている日内の横顔を覗き見た。
この日の日内は、智也が、ちょっと、驚く程に、怖い顔をしていた。
智也が、内心、今日は声かけるの止めとこう、と呟いていると、前半三十分頃だろうか、ふと、智也と視線が会った日内が、手招きする。これ自体も、珍しいことではない。
試合は膠着しがちで、スコアレスのままだ。
智也は、サッと、日内の元に駆け寄った。
日内は、視線をピッチに置いたままで、問いかける。
「どう?」
戦況を、どう見てるか、という意味だ。
「相手が引いてますからねえ。五バックで引かれちゃうと、崩すのは難しいですよ」
「……それは、そうなんだけどさ」
どうも、日内が求めてる答えとは違うようだ。
すると、不意に、日内が声を出した。
「あっ、見て見て」
ん? 誰かミスでもしたか、と思って、智也がピッチに視線を移すと、ちょうど、GKの検見崎が、CBの太田に、ボールを出す。太田が、左右を伺いながら、三m四mとボールを持ち出す。この持ち出しが、今年の太田の必殺技だ。そして、最前線にいる深石に、ロングフィードする。星山大学は、丹念にビルドアップするのが基本だが、偶に、こうやって、リズムを変えるのは有効だと、智也にも思えた。
それに、何より、太田のロングフィードは正確だ。
智也は、思わず、呟く。
「ナイス、フィード」
ボールは、深石の頭に吸い込まれる様に、飛んで行ったが、相手DFにヘディングでクリアされてしまった。
「納まらないなあ」
と、日内が呟く。
「しょうがないですよ。……1トップですから」
この辺から、智也は、俺は何を当たり前のこと言ってるんだ?
と考え出した。
日内だって、そんなことは、百も承知だろう。
サッカーで究極の攻撃、手間入らずの攻撃とは何だろうか?
それは、GKが前線に放り込んで、CFWが、競り勝ち、自身で、或いは、走りこんできた味方が、シュートを決めることだろう。つまり、最前線で、CFWがボールを納める、ポストプレーを成功させるということは、それだけ、価値が高い。
無論、相手に押し込まれている時ほど、その価値は高いが、どんな試合でも、攻守の入れ替え、味方GKからのリスタートはある。また、実力が拮抗している場合、例えば短期決戦で、どうしても負けたくない試合、特に代表戦などは、お互いに、細かなビルドアップからのボールをカットされてからの失点が怖いので、蹴りっこになる場合が多い。
ところで、CFWの立場からすると、1トップでポストプレーを成功させるのと、2トップの一人として成功させるのとでは、難易度がガラリと違う。
1トップの場合には、空中戦の強い相手CBにガチガチに、――中央にいれば、それも二人に――マークされるが、2トップの場合には、相手CBとの対峙を避けるのであれば、サイドに逃げて行けばいい。SBは、運動量が必要とされるため、小柄な選手がなることが多い。つまり、ミスマッチを作ることが出来る。これは、プロの試合でも、他に、攻め手が無い時、或いは、試合序盤等でお互いに、縦に蹴りっこしてる場合には、取られる作戦である。
日内が、呟く様に言う。
「それが、居るのよねえ」
智也がちょっと考えて言う。
「1トップが務まる選手が、今のメンバー以外に、星山大学に居るってことですか?」
「ご名答。流石、智也、話が早い」
「……休部してるとか?」
「違うわ。……退部してる。大学には在籍してる」
……どうも、ややこしい話のようだ。
日内は、智也に、軽く微笑すると、言った。
「智也、今日、試合後、時間ある?」
智也は、嫌な予感をしながらも、頷くしかなかった。
結局、久留米大学との試合は、スコアレスで終わり、つまり、今シーズン、初めて勝てなかった、勝ち点一で終わったことになる。蹴球部員の顔には、どんよりとした表情が浮かんだ。
ところが、試合後のミーティングでは、日内の表情は穏やかものだった。
控室で、日内が、言う。
「皆、今日、心の底から勝ちたいと思った? 点を取りたいと思った?」
一同が、沈黙する。
「皆がどうだったか、分からない。でも、私には足りて無かった気がする。実際、久留米大学の分析、ゲームプランの予測も甘いものだったと思う」
「……」
「でもね、長いリーグ戦、こういう試合もある。これは、来年への糧としましょう。皆は、どうして点を取れなかったか、どうしたらいいかを、今週末、或いは、来週の練習で考えて下さい。これは、攻撃陣だけじゃない、守備陣もそう。攻撃に関するアイデア、或いは、要望、そういったものも、守備陣は言ってください。もちろん、逆もそう。直接言い辛かったら、私に、言ってね。今日は、お疲れ様。……以上」
試合が引き分けで終わったからか、飯を喰いに行こう、という話も出なかった。
現地解散が終わると、日内が、智也の元に、ツトツトと寄ってきて、言った。
「ファミレスで、いいかな」
「お任せします」
ファミレスに着くと、日内が秋刀魚定食を頼み、智也はかつ丼を頼んだ。
日内が、水を一口飲んでから、言う。
「ベルベット・ループの方はどう?」
智也は、長い距離は目途が立ったが、短い距離が未だであること。しかし、楓太からアドバイスを貰ったことを話した。
日内が、目を丸くして、言う。
「へえー、楓太君、そんなこと考えてるんだ」
「考えてるっていうか、井形に訊かれて、その場で考えたっていうか……」
「違うわよ。足のフリの速さのことよ。楓太君は、今、ミドルシュートに取り組んでるじゃない」
智也は、あっと、内心、呟く。
そうだ、強烈なミドル。
高校の物理の授業で習った、運動量=質量m×速度v。
これは、ボールに与えるインパクトに対してもあてはまるだろう。
日内が、ちょっと、考えながら、言う。
「でも、太腿より上と膝から下を切り分けるのが面白いわね。流石、ファンタジスタというか、バイタルでプレーしてるというか。……まあ、シュートフェイントと同じかな」
「シュートフェイント?」
「私みたいなへっぽこだと、シュートフェイントって、よし、シュートフェイントするぞ、って考えてから、シュートフェイントするのよね。でも、上手い人ってのは、実際に、シュートを打ちに行くのよ。でも、DFが、足を出してくるから、じゃあ、フェイントにさせて貰います、みたいな」
「ああ、それ、ちょっと、分かります」
「ベルベット・ループも、そういうことなのかなあ……」
日内の、うんうんと頷くさまを見ながら、智也は思った。
この人は、自分でも答えを持ってない課題を、選手に与えたのか……。
店員が、秋刀魚定食とかつ丼を、運んで来たので、しばらく、二人とも、箸を進める。
日内は、秋刀魚定食の主役は、大根おろしよねえ、と分かった様な分からないことを言いながら、箸を進める。智也としては、色々、ツッコミたいとこだが、智也は智也で、やっぱかつ丼は、ご飯の上にかつを乗っけて出して欲しい、と、これも、分かった様な分からないことを思っていたので、黙々と食べていた。
秋刀魚を、半分程、食べた、日内が、言う。
「でもさ、智也。ループ、相手DFラインの裏に落とすなんて、七面倒なことしないで、パンと蹴って、パンと、味方FWの頭に合わせる方が簡単じゃない?」
「それはそうですけど……」
いきなり、日内は、それを言っちゃあ、お終いよ、的なことを言い出した。そんなターゲットになるFWがいるなら、ベルベット・ループを習得する意味なんて……・
……居るんだっけ? そういうFWが、星山大学にも……。
日内が、箸を止めて、智也の瞳を覗き込んで、言う。
「宇城京介、商学部二年。去年、一年ながら、リーグ戦で六点取った。身長は一八五ぐらいかな……」
そういう人が、どうして、退部してしまったのか、智也は、無言で、日内に、問いかける。
日内が、話を続ける。
「二部に落ちた、というか、落とされた、不祥事を起こした張本人なのよ」
……うーむ。
やはり、そこか。ある程度は予想はしていたが、日内の口から、ハッキリ告げられると、思わず、唸ってしまう。日内は、つまりは、その宇城さんを、再入部させよう、というのだろう。
智也が、ちょっと、考えて、言う。
「それで、つまり、その宇城さんを、僕に、勧誘して来い、と?」
「ご名答」
「でも、先輩達は、深石さんとかは、どう考えているんですか?」
「もちろん、深石君、戸井田君、大黒君、追木君、内藤君とは、それぞれ、個別に話し合ったわ。皆、宇城君に戻ってきて欲しいって」
「深石先輩なんて、ポジションが被るんじゃ……」
「智也君」と、日内は、改まって言う。「深石君達、二年の先輩がどうして、サッカーを続けてると思う?」
「……」
「それは、勝ちたいから。このチームならいいサッカーが出来るんじゃないか、と去年、蹴球部にいて、試合に出て感じていたから、チームに残った。宇城君がいれば、戦力アップは間違いない。だから、宇城君が再入部することは、皆、賛成」
「でも、そういう、可能性のあるチームを、二部に落としたのが、宇城さんな訳でしょ?」
日内が、言葉を選びながら、言う。
「その件は、宇城君の言い分も分かるし、厳しい処分をした側の言い分も分かるのよ」
去年の秋に起きた、不祥事とはこうだ。
ある日、深夜のクラブで、十数名が逮捕された。違法薬物の所持でだ。ドラッグパーティをしていたからだ。その場に、宇城さんもいたが、薬物反応などは見られず、また、ドラッグを所持していた訳でもなかったので、起訴は免れた。
だが、その場にいた、ということ自体が問題なのだ、という理屈は、教育機関である大学としては、当然のことだろう。むしろ、退学処分にならなかっただけ、寛大とも言える。
智也は、日内の話を聞いてから、尋ねる。
「でも、それ、結城慎之介はOKなんですか?」
「結城さんのOKは、今年の二月に、既に、私が取ってあるわ」
智也は、怪訝な顔をして、言う。
「それだったら、日内さんが、宇城さんを誘えばいいじゃないですか?」
「もちろん、誘ったわよ。今年の二月に。でも、断られたの」
「当時と今とじゃ、状況、違うんじゃないですか?」
「うーん、それはそうだけど、宇城君に入部して貰ったからって、監督である私が、ポジション約束する訳にはいかないし。……チームの規律がね」
この辺から、日内の口調が、弱くなった。
「だったら、深石さんや追木さんが誘ったらどうですか?」
「それは、既に、してるみたい」
そこまで聞いて、僕は、素朴な質問をした。
「でも、なんで僕に?」
日内は、そこで、何故か、ニヤッと笑って、応えた。
「西山君に聞いたわよ」
……西山?
「清潔感溢れるようにって、アドバイスしたらしいじゃない? 私も、それ、正解だと思う」
西山、言葉が足りないにも程があるぞ!
「いや……」
アドバイスしたのは、僕じゃなくて、直人さんで……。
……って直人さんと僕の関係は、西山には説明してなかったことを、智也は思い出した。直人さんの関係を説明するには、マユミのことを、説明せざる得なくなるだろう。もちろん、智也は、そういう心境では、未だ、なかった。
智也は、内心、ため息をつきながら、言葉を重ねた。
「仮に、僕が西山にそのアドバイスをしたとしても、宇城さんを誘うのはまた、別の話というか……」
「それがそうでもないのよ」
と、日内は、再び、確信めいた感じで喋り出した。
「監督に誘われても駄目、同級生から誘われても駄目。残りは、可愛い後輩じゃない?……僕のパスを受け取ってください、とか、なんとか、言って来てよ」
……うーむ。……全くもって、自信、無い。
日内は、僕の陰惨たる表情を覗き込むと、言った。
「あっ、でも、まあ、ダメモトだから。宇城君が居ないなら居ないで、もちろん、そういう戦術は考えているから」
日内なら、その点は、そうだろう。
最後に、日内は、にこやかに付け加えた。
「それに、いつまでって話でもないし、よろしく」
――十一月の第三週 リーグ最終節 大分大学戦。
星山大学は、第十節の長崎大学を、三対一で破り、一部自動昇格を決めた。
迎えた第十一節の最終戦、大分大学相手に、日内は、先発全員を一年生で固めた。もちろん、昇格が決まっていたこともあるが、対戦相手の大分大学が、リーグ戦で十位に沈んでいる相手だったこともある。
◆星山大学システム 4ー4ー2
FW:結城(一年)、九条(一年)
MF:斎藤(一年)、三上(一年)、太田(一年)、井形(一年)
DF:西山(一年)、向坂(一年)、毛内(一年)、久良(一年)
GK:検見崎(一年)
試合は、序盤から、両サイドの井形と楓太を中心に、星山大学が攻め立てていく。井形は、これまで、出場時間が多かったこともあって、徹底マークされた。その為、逆サイドの楓太にボールが集まった。それは、智也と太田のダブルボランチのうち、智也の方が攻撃に積極的なこともあった。
しかし、シュートチャンスに恵まれた結城が、立て続けに外していく。
智也は、シュートを力んで外す結城を見ながら、ふと、思い当たった。
相手ゴール前で接触があって、相手DFが傷んでいる時に、智也は、結城と楓太の元に、駆け寄る。
智也は、結城に言う。
「結城、必殺技はどう?」
結城の必殺技は、ペナルティエリア角からのシュートだ。日内からは、ゴールの位置を確認しないでも、そのスポットに来たら、決めれる様に、と言われている。
結城が、顔を上気させながら、言う。
「あれは少なくとも、三年モノだろう」
三年はかかる、という意味だ。
智也も、苦笑しながら、言う。
「俺も、そう思う。でもやって見ろよ。結城は、楓太が縦に抜けた時に、ペナ角に戻って来いよ。タイミング見て、俺がペナ内に侵入して、相手マーク釣れば、少しは隙が出来るだろ。楓太は、結城が打てそうだったら、マイナスつーか、直角気味のマイナスパスで、結城に」
言いながら、楓太の必殺技は、ミドルだったなと思う。
まあ、それはそれでそういうタイミングを、楓太が自分で見つけるだろう。
結城と楓太が、頷くと、ちょうど、痛んでいた相手DFが立ち上がって、体を動かしているところだった。
チャンスは、前半三十分にやって来た。
ライン際を縦に抜けていく、楓太に、智也がパスを送ってやる。結城がそのパスに連動して、スルスルとマイナス気味にペナ角を目指す。その結城の動きを確認した智也は、ペナ内に侵入する。当然、相手DFは、智也をケアする。もちろん、人数的には結城の分まで、足りているのだが、どうしても、若干、マークがずれてしまう。
ゴール前が、九条を中心に混戦になったと思ったら、楓太が、ノールック気味に、ペナ角に、結城の元に、ゴロの速いパスを送ってやる。
結城が、ペナ角まで来ると、急激にターンしたかと思ったら、ちょうど、ボールがやって来るとこだった。
楓太は、結城がトラップする必要がない場所に、パスを出したのだろう。
ターンした、結城は、迷うことなく、右足を振り抜いた。
この半年、何千回と練習したシュートだ。
肩から力が抜けているのが、結城を見た智也の眼にも映った。
結城の右足のインフロントは、ボールを、若干、こすり上げるようにしていた。狙いは、ファーサイドになる右上の角だった。
これは、決まった、と智也は思ったし、結城本人も思ったことだろう。
しかし、コースが甘かったからなのか、相手GKが渾身のパンチングで弾いてしまう。
ところで、九条のことを、本当にいいFWだと、智也は、試合を重ねる毎に、実感していた。九条は、性格は俺様だが、プレイは献身的だ。そして、無駄走りも絶対に怠らない。
結城がシュートを打った瞬間、智也の眼には、九条がニヤリと笑った様に、思えた。もちろん、本人に聞けば否定するだろう。
例によって、こぼれ球を狙っていた九条の元に、ボールがこぼれて来た。実際に、ボールがこぼれてくる確率はかなり低い。だが、確実に、一定の確率ではあるのだ。
九条は強烈なインステップで、既に体制を立て直していた相手GKの股間を抜いた。
星山大学のベンチから歓声が上がる。
九条は、結城の元に駆け寄ってくると、結城の肩を叩く様にして、褒めたたえた。
確かに、得点の五割以上は、結城のものだろう。
結局、前半戦は、一対〇で終わった。後半頭から、二年生の、戸井田、深石、大黒、追木、内藤が投入され、深石と追木が一点ずつ得点し、星山大学は、三対〇で勝利した。考えて見れば、後半頭の五人換えなんて、消化試合ならではだろう。だが、ピッチでは、この半年、勝てば勝つほど試合に飢えるメンバーが、強い相手に飢えるメンバーが、縦横無尽に、死に物狂いで、走り回っていた。
試合後、ロッカールーム。
約八ヶ月の付き合いで、智也は、日内が何かを企んでいる時の表情、話し方が、分かる様になって来た。どうも畏まって大人ぶった話し方をする時が怪しい。
そして、この日もそうだった。
日内は、いずれも自分より大きな部員を見回しながら、笑みを浮かべる。
「優勝、そして、一部昇格、おめでとう。……来年は、九州制覇だ!」
「おう!」
「よっしゃー」
部員が、歓声や雄叫びを上げる。
少し、静まるのを待って、日内が話を続ける。
「試合が始れば、監督が出来ることは何もありません。この約八カ月、皆、よく練習してくれたと思う。幸い、大きな怪我人も出ませんでした。星山大学蹴球部は、少なくとも、今年の星山大学蹴球部は、サッカーの神様に愛されていたと思います。でも、結局は、皆さんの頑張りがあってこそ、のことだと思います。……そこで」
……来た来た。
「皆さんにプレゼントがあります」
「おー」
「サンクス!」
日内が、真顔になり、話を続ける。
「年が明けた、冬休み明け、福岡帝国大学と練習試合を組んできました」
一同が思わず、息を呑む。
福岡帝国大学蹴球部。
九州に君臨する九州大学サッカー界における常勝チームである。
九州の大学でサッカーをしようと考える高校生なら、先ず、一番最初に、その門を叩く大学である。
静まり返った部員を見回しながら、日内が、真顔になり、話を続ける。
「皆とは、言わない。多くの者が勝てない、と思ったでしょう?」
「ケッ」
と、いつもは強気な九条が、日内から視線を外し、ソッポを向く。
「でも、二つの意味で、次の練習試合、我々、星山大学は、勝たないといけません」
「監督、気持ちは分かりますが、そう簡単には……」
と、太田が、言う。
日内は、視線で太田を黙らすと、話を続ける。
「一つ目。九州の大学は、全国大会で苦戦しています。我々の目標はあくまで、全国制覇です」
大学日本一の称号を得るには、二つの大会があった。
一つ目は、夏に行われる総理大臣杯全日本大学サッカートーナメントで優勝すること。
二つ目は、冬に行われる全日本大学サッカー選手権大会、インカレで優勝すること。
長い歴史がある両大会で、九州勢が優勝したのは、福岡帝国大学が、夏の総理大臣杯で、約十年ほど前に、一度きりである。つまり、インカレでは優勝したことがない。
「二つ目。次の試合、福岡帝国だけど、私達と同じ、一年生二年生が中心です」
「なんだ、監督、それを先に言ってくれや」
と、井形が言う。
井形の発言に、賛同するかの様に、数名の部員が頷く。
智也は内心、思う。
その同じ一年、二年でも、簡単に行くかどうか。
福岡帝国と聞いて、智也は、一つの顔を思い浮かべていた。
日内が、再び、笑みを浮かべて、言う。
「よし、井形君。その勝利宣言、しかと聞きました」
「いや、別に、勝てるとは……」
「何よ、男の子、煮え切らないわね」
「チェッ。……よし、やってやろうぜ!」
と、井形が、ヤケクソ気味な声を上げる。
井形は、九州の高校でやっていたので、福岡帝国大学の強さは分かっているのだろう。日内は、満足げに頷くと、言った。
「そういう訳で、皆、冬休みも、走り込みはしといてね」
「九州は思ったより寒いんだよなあ」
と、今は東京で働いている叔父さんが、正月に、帰省する度に言う。
智也は、九州から出たことがないので、叔父さんの言う言葉の意味は、正確には分からない。
しかし、年が明けて、福岡帝国との練習試合の日、今日は寒いな、と思ったのは事実だ。
冬休み明けに、いきなり練習試合というのは、流石に無くて、部活が再開してから、一週間、経っていた。
練習内容は、いつも通りの四部構成で、流動的なメニューの四部も別段、何か、特別なことをやる、という訳では無かった。
智也が、福岡帝国のキャンパスがある、最寄り駅のコンビニで、買い物を済ませ、信号待ちをしていると、宣伝トラックが通りかかった。
中里舞の宣伝カーだった。
中里舞は、ご当地アイドルで、半年前にデビューしたばかりだった。西山などは、ポスターを見るだけで、顔をホクホクさせるが、智也は、中里舞を見ると、胸が痛くなる。マユミに似ているからだ。
「よっ」
と、智也の肩を叩く者がいた。西山だった。
西山が、おちゃらかす様にして、言う。
「どうした、怖い顔をして?……舞ちゃんを、親の仇の様な眼で見てたで」
「……んなアホな。……今日の試合のこと考えてたんや」
西山が真顔になって、言う。
「どうなんだ? 今日は勝てるのか?……俺は、サッカーエリートのことは分からん」
西山から見れば、確かに、ユース出身で、スポーツ奨学金を得ている智也も、サッカーエリートになるだろう。そして、九州の常勝軍団と言われる福岡帝国で試合に出場するような選手、例えそれが、一、二年生中心のチームであっても、サッカーエリートに間違いなかった。
智也は、内心、負けるだろうな、というのが本音だった。
だが、そうは言えない。
「五分五分じゃねーの」
「へえー、星山大学も結構、やるじゃないかい」
「ウチラは、一、二年生が、今年度のリーグ戦で、試合経験を積んだからな。そのアドバンテージはあると思う」
と、智也は、自分に言い聞かせる様に、言った。
「それは、そやろな」
と、西山も、元気になる。
……だが、そんな簡単な問題だろうか。
実は、プロでも、アマでも強いチームを作るのは簡単である。
例えば、ラリーガのレアルマドリード。
このチームから、声を掛けられて、入団を断るサッカー選手は、世界中を見渡しても、ほとんどいない。
例えば、ブンデスリーグのバイエルンミュンヘン。
このチームから、声を掛けられて、入団を断るドイツ人サッカー選手は、ほとんどいないだろう。
そして、福岡帝国大学蹴球部。
大学生で、九州でサッカーをしようと思うものなら……。
つまり、NO.1チームの称号を得たチームは、常勝軍団のサイクルに乗り、それが、伝統となり、名門チームとして、サッカー界に君臨するのだ。
そして、更に、福岡帝国には、今年は……。
西山が、思い出した様に、智也に聞いた。
「そう言えば、智也は、ダイスケ、って聞いたか?」
「ああ。……今年の福岡帝国には、凄い一年が、ダイスケが入ったっていう噂だろ」
「それそれ。一年ながら、公式戦にも結構、出場してるって話やないか。……凄い奴もおるんやなあ」
ダイスケとユウジ。智也が、ユースの時に、つるんでいた友達だ。
マユミが自殺してしまい、おおよそ、他人のことに興味が無くなってしまった智也は、ダイスケに、トップチームへの昇格オファーがあったこと、悩みに悩んで、出場経験を求めて、福岡帝国を選んだこと、そう言ったことを、当時は、全然、知らなかった。
これらのことを知ったのは、去年の冬に、福岡帝国との練習試合が決まり、ダイスケの噂を聞いていた智也は、もしかして、と思い、ダイスケに連絡を取った時のことだ。
飯でも食わないか、という智也の誘いに、昨年末、ダイスケは、気軽に応じてくれた。
居酒屋に現れたダイスケを見て、智也は、目を見張った。
ユースの時は、智也より、頭一つ分、低かったダイスケだが、今は、智也と同じぐらいか、ちょっと、高いぐらいに、身長が伸びていた。
そんな智也の反応に、ダイスケは慣れっこらしく、苦笑いしながら、説明してくれた。
「ウチさ、ウチってのは、親父と母親だけど、離婚したんだ。今年の二月に」
今年の二月ってのは、高校卒業する前の二月ってことだ。
ダイスケが、呆気らかんと、話を続ける。
「元々、ここ数年、仲悪かったんだけどさ、母親が、俺が高校卒業するまでは、って決めてたらしい。もちろん、今の大学の学費は、親父が払ってくれてる」
「ふーん」
と、智也は頷きながら、「でもそれと、ダイスケの身長とどんな関係があるんだ?」
ダイスケは、照れ臭そうに、しかし、ニヤッと不敵な笑みを浮かべて、言った。
「寝る子は育つ」
「……」
「俺、高校時代、慢性的寝不足だったんだよ。だって、家に帰ると、夜通し中、親父と母親が、喧嘩してるんだもん。喧嘩は、本当、家の外でやって欲しいわ。ひどい時なんて、母親の服とか、食器とか、朝起きると、床一面に、散らばってるんだぜ」
「……それは、凄いな」
「……でもさ、それも、親父の最低限のルールだってことは、今になって分かるけど」
「どういうことだよ?」
「親父は、母親を殴ったことはないんだよ。……だから、まあ、怒りは、モノにってことなんだろうな」
ダイスケの父親は、大きな会社で、エンジニアをしてる、と聞いていた。
ダイスケが、話を続けた。
「それで、三月に、母親と俺が、家を出て、というか、アパートを借りた訳。で、夜なんて、静かで静かで、本当、よく眠れる。母親も、昼間は、パートでさ、なんだか、疲れてるみたいで、寝ちゃう感じ」
それは、良かったな、と、言うのも、何だか変で、智也はちょっと、考えた。
智也は、やがて、ハッと気が付いて、言った。
「ってことは、お前さ、ユースの時は、その寝不足の状態で、練習して、ポジション争いしてたわけ?」
「まあな」
……待てよ、待てよ、と智也は、考えた。
俺は、そんなダイスケのテクニックに驚愕し、ユウジはユウジで、ダイスケに、お前もっと、気合入れて走れよ、とか言ってた訳か……。
黙り込んでしまった智也を見て、ダイスケが言う。
「智也は、その、大きなお世話だけど、マユミちゃんのことは、もう、大丈夫なのか?」
智也は、かなり、言葉を選んで、言った。
「分からない」
「……そうか。でも、智也が、大学でもサッカーを続けてくれてて、良かったよ」
「まあ、成り行きさ」
「ふーん」
最後に、智也は、その日、聞かなければいけないことを訊いた。
「それで、福岡帝国は、一、二年のチームは、強いの?」
ダイスケは、圧倒的な自信に満ちた表情で、答えた。
「強いよ。俺が居ようが居まいが、間違いなく、強いよ。そんなチームで、自分がプレイすることによって、チームにどんなプラスアルファを加えられるかを考えて、プレイしてる。そして、俺らの代で、全国制覇も出来ると思ってる。だから、俺は、今、凄いサッカーしてて楽しい」
ダイスケのそんな言葉は、ユースの時には、聞いたことのない言葉だった。それが、智也には、とても、嬉しく感じると同時に、福岡帝国に、恐怖を感じた。
サッカー界には、そして、恐らく、どんなスポーツでも同様の話はあると思うが、よく言われることがある。それは、優れた選手は、ユニフォーム姿が良く似合う、と。更に、サッカーの場合には、足元にボールを置けば、どの程度の選手か分かると。
試合中は更に、これはもう、そういうものだとしか言いようがないのだが、自分がDFで、相手にボールを持たれた時に、飛び込めない選手、飛び込めば間違いなく、かわされてしまう、と感じる、いや、分かる選手がいるものだ。
試合前、ウォーミングアップの福岡帝国の練習が始まって、その風景を、横目で見ていた、星山大学の面々の顔つきは、直ぐに厳しいものになった。
ロッカールームで、既に、先発メンバーは、日内から発表されていた。
◆星山大学システム 4ー4ー2
FW:深石(二年)、九条(一年)
MF:戸井田(二年)、追木(二年)、向坂(一年)、大黒(二年)
DF:西山(一年)、太田(一年)、毛内(一年)、久良(一年)
GK:検見崎(一年)
これは、第一節と、同じメンバーだ。
日内としては、一年の成長を、確認したいのだろう。
試合開始五分程は、ボールが落ち着かない展開だった。だが、やがて、徐々に、福岡帝国が押し込んでいく。それぞれが、それぞれのポジションで、福岡帝国が、一枚上手なのだから、そういう展開になるのは必然だ。
星山大学のベンチからは、いつからか、「ナイスキー」という言葉が、連呼された。智也は、この日、初めて、チームメイトの検見崎が、実は、凄いキーパーなんじゃないかと、実感した。
CB四人衆に併せて、検見崎は、もちろん、足元のテクニックもある。
だが、ハイボールの処理はどうだ?
だが、相手シュートへの反応はどうだ?
だが、パントキックの質はどうだ?
いずれも、トップレベルではないのか?
しかし、GKが目立つ、ということは、それだけ、押されている、ということでもある。
星山大学の失点は、思ったより、早い時間に来た。
前半二十分のことだった。
ボックスの角から、ダイスケが、ワンツーで抜け出し、マイナスで折り返して、一歩抜け出した相手FWが、なんなく決める。
いくら、検見崎といえども、近距離で、ゴールエリアに差し掛かろうか、差し掛かるまいか、という位置で、シュートを打たれたら、どうしようもない。
しかし、一般論として、多くの試合で、自分達が失点すると、大抵の場合、それから五分は、自分達の時間が来る。
そして、この時間帯に、追いつくかどうかが、試合を左右する分岐点だ。
しかし、この試合、星山大学には、この五分の時間帯が、チャンスが、来なかった。
それだけ、実力差があった。
ベンチに座る智也が、言葉を、声援を、無くしてると、肩を、ポンポンと叩かれた。
日内だった。
「厳しい戦いだねえ」
と、日内は、何故か、嬉しそうに、言う。
智也は、半分、ムッとしながら、言う。
「相手は、テーコクですから……」
日内は、目をきょとんとして、言う。
「テーコクねえ。例年のテーコクの一、二年なら、ウチもいい勝負になる筈なんだけどねえ」
それは、智也も感じていた。
「ダイスケ、ですか?」
「そう、三浦大輔。こんないい選手だったとはねえ」
「……ダイスケにオファーは出したんですか?」
「出すも何も、鬼武さんが、ダイスケはトップ昇格ですから、って言うからさあ」
「……」
「鬼武さんに騙されたのかなあ」
「別に、騙されちゃいないですよ。ダイスケが、テーコクを選んだだけですから」
「ふーん」
と、日内が、怪訝に言う。「なんか、身長も伸びたよねえ」
智也さんは、チラッと日内を見て、視線を外す。
両親の離婚、だとか、寝不足解消、だとかは、自分が言うべきことではないだろう。
日内は、笑みを絶やさずに、言う。
「三上智也、後半はどうする?」
智也は、ちょっと、考えて言う。
「どうしようもないですよ。自分達より、明らかに、地力の勝る相手に、先制点を奪われたら、おおよそ、勝てませんよ」
日内が苦笑する。
「それは、そう」
「監督の采配ミスじゃないですか」
「まあ、ねえ」
「……しかし、監督、嬉しそうですねえ」
日内が、照れ笑いを、浮かべる。
「なんかさ、私達、……一サッカーファンとして、凄いものを、凄い選手の登場を見てるんじゃないかしら?」
「そんなことは分かってます。……でも、星山大学の監督としては、それでいいんですか?」
この質問に、日内は、大人の笑みを見せた。
「うん。私のミッションは、今から三年後、つまり、智也が四年の時に、大学日本一になること。ダイスケ君を、打倒することじゃない」
智也は、ははーんと思った。
「そうですね。ダイスケは星山大学の大学日本一の壁にはならないかもしれない、というか、多分そうでしょ。四年の時は強化指定選手としてjリーグでプレーしてるでしょうから」
日内は、我が意を得たり、と笑う。
「だよねえ。……私はラッキーだわ」
智也は、しかし、厳しい目つきをして、言った。
「でもね、それはそれ。僕は今年のリーグ戦で、ダイスケのいるテーコクに勝ちたいですね」
「……よし、男の子だねえ」
「茶化さないで、下さい」
「後半、投入するから、体、あっためて」
「分かりました」
しかし、後半開始から、智也など三選手が、投入されたが、ダイスケは、後半のピッチに姿を見せることは無かった。もちろん、これは当然で、テーコクの方が、星山大学より、一、二年生に限っても、選手の数は多い。
結局、前半を、〇対二で折り返し、後半、投入された井形の得点で、一点を返すものも、テーコクにも一点を追加され、星山大学は、一対三のスコアで敗れた。
智也の実感では、一対三のスコアどころか、一対五ぐらいの感触だった。
智也は、思った。
今年の一部のリーグ戦はどうなるんだろう、やるべきことをやらないと……。
智也は、その夜、宇城京介に、連絡を取った。電話番号は、昨年に、日内から聞いてある。宇城は、むべもなく、断って来るかと思ったが、案に反して、会うことを承諾してくれた。
約束の夜に、智也が、宇城のアパートのドアを叩くと、ぶっきらぼうな声がした。そして直ぐに、ヤクザと見間違える男が出来てきた。
智也は、逃げ出したくなる気持ちを抑えて、思わず、訊いた。
「宇城京介さんですか?」
男は、しげしげと、智也をみつめながら、しかし、慣れっこなのだろう、アッサリと応えた。
「俺が、宇城京介だ」
「星山大学の三上智也です」
「ああ」
宇城は、智也を、部屋に案内してから、言った。
「水でいいか?」
「……有難うございます」
と、智也は、畏まって応えた。
智也が座り、宇城が座り、沈黙が流れ、口を開いたのは、宇城だった。
「結構、時間がかかったな」
「時間?」
「去年の十一月か、日内監督から連絡があってから……」
「日内さんから?」
「可愛い後輩が行くから、話を聞いてくれ、と」
つまり、日内が、智也とファミレスで話した後に、宇城に、一言、電話を入れてくれていたのだろう。
「しかし、時間もかかったし、ちっとも、可愛くない」
「……すみません」
「気にするな。……そこは、別に期待してない」
「……」
「……」
「今日、会ってくれたのは、どうしてでしょうか?」
智也のこの質問に、宇城は居住まいを正すと、誠実に応えた。
「部に、迷惑をかけたことは悪いと思ってる。別に、俺が悪いとも思ってないが、そのなんだ、誰が悪いかと言えば、俺が悪いのだろう、という理屈ぐらい分かる」
「……」
「それで、部に再入部する気持ちがないことは、面と向かって、言うべきだと思ってた」
「……」
「……」
……ん? 交渉決裂?
智也は、水垢のついたグラスの水を飲みながら、上目遣いに、宇城を見た。
宇城は、本当に微塵もサッカーに未練がないのだろうか?
仮に、本当に、未練がないのなら、今日、こうやって、僕に会っているだろうか?
無論、答えは、NOだ。
宇城も、サッカーに未練がある筈だ。
宇城は、身長一八五センチぐらいだろうか。見れば、上半身もがっちりしてる。
長袖の綿シャツの上からも、その両腕が、鍛えられていることが分かる。
智也は、雑談をするように、言った。
「宇城さんって、上半身を、鍛えてますよね?」
すると、宇城は、天真爛漫の笑顔を見せて、言った。
「分かるか? 俺、ドラム、やってるんだよ」
「ドラム、ですか?」
「そう、不健康なイメージがあるロックバンドも、ドラムだけは健康的、マッチョだろ?」
ドラムのことも音楽のことも、智也には、分からない。
智也は、ヤケクソで、言った。
「ドラムは、サッカーのポジションで例えると、何処ですか?」
その質問に、宇城は、その日初めて、クスリと笑った。
「いい質問だね。……ボランチであり、GKであり、監督であり、FWかな」
……分からん。
智也は、話を切り上げる様に、訊いた。
「蹴球部に、戻って来てくれませんか?」
「断る」
「どうしでですか?」
「バンドに集中したいから」
「……」
「……」
智也は、内心、白旗を上げた。
ぼんやりと、智也は、部屋を見回すと、一枚のポスターに目を留めた。
その頃、秋津子は、自分の部屋で、MP3プレーヤーに、耳を澄ましていた。
自分達のバンド、RedFishのセカンドツアーの音源で、もう、五年前になるだろうか。
この時、自分達がしていた音楽が、ロックなのか、ポップスなのか、分からない。
でも、このライブでは、間違いなく、音楽していた。
秋津子が、今日まで、バンドを続けていたのは、このライブの感覚があるからだ。
RedFishは、鳴かず飛ばずで、今日まで、まがりなりにも、バンド活動を続けて来れたのは、奇跡に近い。だが、秋津子が、今日まで続けて来たのは、この時のライブが、音源があるからだ。
不思議なもので、インディーズとはいえ、正式リリースされたアルバムより、このライブの音源の方が、秋津子は好きだった。
会場が、地元の九州だからだろうか。でも、もちろん、九州では、何度もライブをやっている。
もちろん、ミキにも、トモヨにも、カオリにも、この音源は、聞かせている。
三人の反応は様々だが、秋津子程には、ピンと来てないようだった。
秋津子の中には、自分が、四人の中で一番、音楽が分かる、とか、そういった気持ちはない。それで、この音源も、メンバーの中では、この頃の私達は、ガムシャラだったからじゃないの、という話になっている。
秋津子が、再び、目を閉じて、RedFishのサウンドに身を任せていると、携帯が鳴った。
ポスターには、RedFishの文字が踊っていた。四人組のガールズバンドだった。
RedFish?
ん? 聞いたことあるぞ。
智也は、内心、呟きながら、ポスターを凝視すると、アッと思わず、声を発した。
ポスターの中の四人は、いずれも、赤色の革ジャンを着ているが、そのうちの一人が、秋津子さんだ……。
智也の反応を見た、宇城が、ちょっと声を高くして、言う。
「お前、RedFish、知ってるのか?」
「知っているというか、確か、ドラムが……」
「ドラムが?」
「秋津子さん?」
宇城が、気色ばんで言う。
「そうだ、そうだ、水城秋津子。……知り合い?」
智也は唸った。
「知り合いと言えば、知り合いです」
「なんだ、紹介しろよ」
「いや、紹介するほどの知り合いでもないんですが……。宇城さんは、RedFishのファンですか?」
すると、何故か、宇城は、暗い顔をしながら、応えた。
「俺は、別にファンじゃないんだがな。……姉貴がファンなんだよ」
「はあ」
智也が、何と答えようかと考えていると、不意に、宇城が、質問をした。
「深石とかは元気にやってるのか?」
「ええ」
智也は、深石、追木、大黒、戸井田がレギュラーであること、内藤もレギュラーという訳ではないが、練習から闘志を見せてくれていて、励みになることなどを伝えた。そして、恐らく、新学年からは、奨学生になるであろう、ことも伝えた。
宇城は、ちょっと、考えると、言った。
「内藤は、いいCBだぜ。身長じゃない。俺とゴール前でやり合えるのは、九州でもそんないない」
「分かってます、内藤さんの実力は、恐らく、日内さんも」
「ふーん。あと、なんだ、その奨学生ってのは?」
「今年の一年生は、何人か、スポーツ推薦で、学費が免除なんです。それで、年度末に、日内さんが推薦すれば、それまで、一般入学だった者も、スポーツ奨学生になって、学費が免除になるんですよ」
「……ウチの大学ってそういう大学だったっけ?」
元は、結城が世界一のGMになると結城慎之介に相談したことから端を発した訳だが、今この場で、宇城に、そういう話をしてもしょうがないだろう。
「何だか、創立者兼理事長の人が、サッカーに目覚めたらしいです」
「創立者って、爺さんだろう?」
「ええ。……でもまあ、今は、そういう時代ですよ」
と、智也も、自分でも、ふわっとした答えをしているな、と思った。
宇城は、ちょっと、考えると、話を戻した。
「姉貴、入院してるんだよ、ずっと。でも、というか、それで、高校の時に行ったRedFishのライブが忘れられないらしい」
「なんだ、そういうことなら、秋津子さんにも、電話し易いです」
「悪いな。そんな訳で、水城さんに、病院に来て欲しい」
「はい、そう頼んでみます」
「それと、この件と俺が蹴球部に戻る話は別だ」
「はい、分かってます」
智也がそう答えると、宇城は、拍子抜けした様に、言った。
「なんだ、やけに、アッサリしてるな」
「ええ」と、智也。「僕も、何で、サッカーしてるのか、時々、分からなくなるタイプの人間ですから。宇城さんは、その上、音楽がしたいんでしょう? 僕に、説得する言葉はありません」
「フン。言うじゃねえか。でも、じゃあ、なんで今日は来たんだ?」
この日、智也は、初めて、真正面から、宇城を見つめると、言った。
「僕たちは、大学日本一になるんですよ、四年生の時に。だから、やれることは、なんでもやろうと思って」
「お前らが大学四年生の時には、俺は卒業してるじゃねえか」
「ええ。……今日来たのは、僕の心の中のルールの問題です。ルールを決めた、それに従う、そういうことです」
「なんだか、理屈っぽい奴だな。……それはそれとして、水城さんの件、頼むわ」
智也は、宇城に断ると、部屋を出て、秋津子さんに電話した。智也が、秋津子さんに、初めてかける電話だった。
二週間後、智也の元に、宇城から電話があった。
「有難う。RedFishのメンバーが四人とも来てくれてさ。……姉貴、とても、喜んでた」