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一回生~サッカー部入門~

 三月半ばの曇り空、風が強く吹く中、三上智也は、気の進まぬまま、福岡県郊外にある大学の門を叩こうとしていた。入学手続きの為である。智也は、空が嫌いだった。この日の様な曇り空はもちろん、青空も嫌いだった。理由は自分でも良く分からない。

 キャンパスは、智也の予想通り、閑散としていた。入学手続きの期間の最終日だったし、また、ぼちぼち、夕暮れになろうとしていたからだ。

 入学手続きはわずか五分程で終わってしまい、智也は、拍子抜けした。

 手続きと言っても、用意していた書類を出すだけだ。

 書類を受け取った女事務員が不愛想だったのも、智也をゲンナリとさせた。もちろん、その事が、自分の学生生活に何の影響もないと知りつつも。

 智也に選択肢はなかった。いずれにしろ、この大学に入学するしかなかったのだ。それも、昨日、今日、決めたことじゃない。三カ月も前に決めたことだ。智也は、受験勉強をしていなかった。

 学舎と学舎の間に差し掛かり、風が強くなったと思った瞬間、声がした。

「ああー、悪い、悪い」

 声のした方を見ると、小柄な、しかし、人懐っこい笑みを浮かべた男が立っていた。

 男は、智也と、そして、智也の足元の、たった今、智也が足の裏でピタリと止めたサッカーボールを見比べながら、驚いた様な声を挙げた。

「兄さん、今、ボールに視線をやらなかったやろ? それでも、ピタリとボール止めてる。大したもんや」

 智也は、ハハーンと思った。……そういうことか。

 智也は、少しだけ、意地悪な気持ちが起きた。足元のボールを、これ以上はない、というほどに強く、しかし、正確に、男の足元に、インサイドキックで押し出した。

 案の定、男は、アッ、というと、トラップミスをした。

 智也は、生真面目な顔のまま、その場を去ろうとした。

 すかさず、男が呼び止めた。

「ワイも、新入生や。経済学部一年、西山祥平。……いや、学部なんてどうでもええ。蹴球部に入る予定や」

 蹴球部と聞いて、やはり、と思うと同時に、顔をキッと引き締めた智也は、足を速めた。

「ちょっと、待てや!」

と、西山が呼び止める。

「兄さんも、蹴球部やろ。それも、スポーツ推薦の奨学生や」

 智也は、足を止めて考えた。

 西山の言う通りで、自分は、スポーツ推薦で、蹴球部に入る。西山は違うだろう。だが、悪戯に、敵を作ってもしょうがない。しかし、智也は、何処か、西山が好きになれなかった。

 智也は、西山の顔を、キッと睨みつけると、言った。

「その通りや。俺は、蹴球部に入る。でも、それは、他に選択肢が無かったからだ。君には関係ないだろう」

 西山は、智也の案に反して、ニッコリ、笑うと言った。

「そんなことは分かってる。兄さんが、どの程度、サッカー上手いのか分からん。でも、どっちかや。こんな三流大学でサッカーやる羽目になった、一流のサッカー選手か、或いは、この大学に相応しい、三流のサッカー選手かや」

 智也は、しばらく、押し黙ってから、言った。

「……俺は、三流や」

 すると、西山は、智也が驚く程の、きつい声で言った。

「そんなことは本人には分からんちゃうのか。……入学手続きは終わったんやろ? ちょっとワイに付き合えや」

 そう言って踵を返した西山には、何故か、智也を圧倒する迫力があって、智也は、不承不承、西山に従った。西山は、百m程歩き、ちょっとした広場に行くと、黙々と、智也に向かって、ボールを蹴り出した。

 西山は下手だった。

 智也がちょっと強く蹴り出したボールを満足にトラップすることも出来ない。西山が蹴り出すボールの質も安定してなかった。

 でも、偶に、それは本当に、偶々という感じなのだが、上手くトラップ出来ると、無邪気に笑う。そして、その笑顔を、智也は笑うことが出来なかった。むしろ、羨ましかった。

 すると、しばらくして、西山は、驚くことを言った。

「俺は、プロに成りたいんや」

 智也は、何と答えていいか分からず、何も返事をしなかった。

 すると、西山は、もう一度言った。

「俺は、プロに成りたいんや」

「……それは無理や」

「そんなことは分かっている。でもな……」

と言って、西山は、高校時代には、下手だと言われていたが、日本代表を支えることになった選手の名前を何人か、挙げた。

 智也は、ちょっとムッとして、言った。

「それは、日本代表になるには、下手だ、という話で、高校時代には、キャプテンをやってたりしてる。でも……」

「……俺は西山、西山祥平」

「西山君は違うだろう?」

 その言葉を聞いた西山は、智也がゾッとする程、きつく、智也を睨みつけると言った。

「そんなことは分かってる。でも、君は……」

「……三上、三上智也」

「三上君はどうなんや? 三流大学の奨学生になるほどには、サッカーが上手い。でも、プロになることもない。なんで、サッカーをするんや?」

「……」

 智也は、ちょうど、自分の足元に来たボールを、足のつま先で掬い上げると、リフティングをし出した。

 小学生の頃、自分が、他人よりサッカーが上手いと思った一つの理由は、リフティングだった。リフティングの回数、というか、安定感なら、ユースでも、上位だっただろう。それでも、トップチームには上がれないし、名門大学からの話があったわけでは無かった。

 西山は、黙々と、リフティングをする、智也を見つめていると、しばらくして、言った。智也を見つめる西山の視線は、智也には、温かく思えた。

「これから、飲みに行かへんか。スポンサーがおるんや」

「スポンサー?」

と、智也がちょっと驚いた様な声を出す。

 率直に言って、西山はサッカーが下手だ。スポンサーなんて付くはずがない……。

 西山は、智也の内心の呟きが聞こえたかのように、言葉を換えた。

「いや、スポンサーというより、オーナーか。いや待て。スポンサー兼オーナーみたいなもんか」

 智也は、ちょっと呆れて、言った。

「まるで、神様やな」

 西山は、智也の応えに、カラッと笑うと、言った。

「そうや、俺ら、星山大学蹴球部の神様や」

 西山が先程、電話したところによると、神様は、今日は来客予定があるらしく、家に来てくれ、ということだった。

 神様の家は、成るほど、神々しくは無かったが、大きな立派な屋敷だった。

 思わず、目を丸くした智也を見て、西山が言った。

「ああ、そうそう、神様言うても、俺たちと同じ、新入生や。……まあ、厳密に言えば、神様の子供、いや、孫、といったところだな」

 なんだ、そういうことか。

 要は、金持ちのボンボン、いや、孫ボンボン、というところか。

 そんな、智也の内心を見透かした様に、西山が言った。

「蛙の子、いや、蛙の孫は蛙やで」

 二人が、邸宅の呼び鈴を鳴らすと、直ぐに、なるほど、智也と同い年と思われる男が出てきた。男の身長は、智也と同じ位だが、智也より、ガッチリとしていて、服越しにも、筋肉質であることが窺えた。男は、西山と智也を、ジロッ、ジロッと見ると、智也を見つめて、意外な言葉を言った。

「三上智也君やな。星山大学蹴球部に入部してくれて、本当に有難う。我が蹴球部を強くして欲しい」

 男の、率直な真摯な言葉に、智也が戸惑うと、そんな智也を見て、西山が、ニヤニヤと笑っている。不愉快になった智也は、ちょっと、語気を荒くして、言った。

「そういう、僕の名前を知っている君は誰だ?」

 一瞬、きょとんとした男は、直ぐに、爽やかに笑って、言った。

「悪い、悪い。俺の名前は、結城大翔。後に、日本一、いや、世界一のGMになる男や」

 結城は、智也と西山を自分の部屋に通すと、一言、いや、二言、詫びを入れた。

「今日は、来客予定でな。それと、今日は、由美さんが、家政婦の由美さんが早上がりで」

 結城はそう言いながら、予め、用意してあったのだろう。ティーパックで、お茶を入れ、そして、ポテトチップスや柿の種を、机の上の皿に、拡げた。

 西山が、如才無く言う。

「何、言ってるんですか。僕は、結城さんのご高説を聞きたくて、来てるんですから」

 智也は、ご高説、という言葉に引っかかったが、結城も西山も、意に介さない様子だ。結城が、上機嫌で、言葉を発する。

「三上君」

 結城の気迫に押されて、智也が、力の抜けた声を出す。

「……はあ」

「今、日本サッカー界にとって、一番、必要な人材は誰だと思う?」

 智也は、結城の真摯な瞳に押されて、ちょっと、考えて言った。

「モウリーニョ、グアルディオラ?」

 結城は、フッと笑うと、言った。

「そうや、その通りや。……優秀な選手は、日本ぐらい競技人口がおれば、勝手に湧き出て来る。だから、それらの選手を束ねて、世界をアッと言わせる監督が必要や。これは代表でも、クラブチームでも同じ話だろう。でも、優秀な監督を呼ぶのは誰や?」

「……GM」

「そうや。だから、俺は、世界一のGMを目指す」

 智也は、ウーンと唸った。

 理屈はその通りだ。だが、何故、高校三年生が、いや、大学一年生が、選手でもない、監督でもない、GMを目指すのか? そこに、智也は、歪みを感じた。感じたが、それを言葉にはしなかった。

 少しの沈黙が流れた。

 それを、敏感に感じ取った西山が、声を高めた。

「結城さん、この三上君は、なかなかの選手やで。先程、ちょっと練習しましたが、なかなかのもんや」

 結城が満足げに言う。

「そりゃ、そうだ。俺が目を付けた選手だからな」

「流石、結城君や、お目が高い」

 智也が、不審げに、結城に言う。

「君が、GMを目指してるのは分かった。だが、今は違うだろう? 単なる大学生じゃないか」

 この質問に答えたのは、何故か、西山だった。

「三上君、星山大学の理事長かつ創設者の名前は知っているか?」

「そんなもん、知らんわ」

「結城慎之介様や」

「……結城」

「そう、結城君のお爺様や」

 智也は、思わず、結城の顔をしげしげと眺めた。

 体もいかついが、顔もいかつい。見ようによっては、男らしい。何よりも、黒々と光る瞳には、強い意志と、そして、自信のようなものを感じた。

 しかし、だ。

 だからといって、現在、既に、GMというのが良く分からない。

 続けて、口を開こうとした、西山を、制して、結城が、話し出した。

「俺は、高校三年の夏に、膝をやってな。それで、選手になるのは諦めた。……いや、それは、嘘だな。俺は、もともと、プロになれるほど、サッカーが上手くないと感じていたんだ。それで、怪我をきっかけに、スパッとプロになるのは、諦めた」

 結城の言葉は、智也にも身に染みた。

 そう、俺は、プロになるほど、上手くない。なのに、大学でサッカーをやってどうなるのか。

 結城は、智也の内心の呟きを知ってか知らずか、話を続けた。

「でも、サッカーは好きだ。サッカーに関係する仕事をしたい。それで考えた」

「……監督とか、コーチとかあるやろ」

「確かに、欧州だと、選手経験が無くても、そういう選択肢もある。だが、日本だと現実的でないというか、ほとんど例がないんじゃないか」

「それはそうやな」

「ところで、爺ちゃん、結城慎之介は、別に、教育者というわけではない。実業家や。ホテル、不動産、そういったものを仰山もってる。まあ、大学は、社会貢献やな」

「……はあ」

「だから、俺にも、実業家の才はあるのではないか、と思った。それで、GMや」

 分かった様な、分からない話だ。

 結城は、柿の種をざっと掴むと、口に放り込んだ。

 柿の種は、一粒一粒、味わうものではないのか? 自分でも、みみっちいと思うが、智也は、つい、そんな風に考えてしまう。

 結城は、カシャカシャと柿の種を噛み終わると、再び、口を開いた。

「それで、去年の秋に、爺ちゃんに相談したんだ。俺は、サッカーのGMになりたい。大学はどうしたらいいかと。爺ちゃんは、しばらく、考えて、ニコッと笑って、言った。丁度いい。今、星山大学の蹴球部は、不祥事を起こして、活動停止中だ。いっそのこと、廃部にしてしまおうと考えていたんだが、それを立て直してみないか。監督選び、選手選びから、やってみるといい」

「ええ話や」

と、西山が、如才無く、相鎚を打つ。

 智也は、何だか、羨ましいやら、馬鹿らしくなってきたが、でも、その話の流れで、今、自分は、こうして、ここにいる訳だ。

 結城は、お茶を一口飲んでから、言った。

「但し、条件がある、と爺ちゃんは続けた」

「条件?」

と、智也は、訊き返しながら、内心、喜んだ。そうや、そんな上手い話があってたまるものか。……流石は、結城慎之介様や。

「四年間で、つまり、俺らが大学四年の時だが、大学日本一になりなさい。なれなければ、サッカーのGMは諦めなさい」

 智也は、思わず黙り込んだ。

 今度は、一転して、智也は、結城に同情した。

「お爺ちゃんは、サッカーというか、日本サッカー界の事情は知らないのか?」

「そんなん、当たり前や。知らんに決まってる。昔の人や。野球好きや」

「そやろな。大学日本一なんて、無理ゲーじゃないか」

「ああ」

という、結城の答えに、智也は思わず、目を丸くした。

「ああ、って、じゃあ、GMになるのは諦めたのか?」

「もちろん、諦めてない。大学日本一になればええんや」

「そんな。……日本の大学はレベルが高い。ユニバーシアードがあれば、当たり前の様に、世界一になる。後に、日本代表になるような選手だって、敢えて、Jリーグじゃなくて、大学を選ぶ程じゃないか」

「そんくらい、俺だって、知っている」

「だから、もちろん、大学日本一だって、名門校同士が鎬を削ってる状態じゃないか」

「そりゃそうやろ」

「……だったら」

 結城は、心持ち、居住まいを正して、言った。

「三上君。俺が成りたいのは、GMじゃない。世界一のGMや」

「……」

「結城慎之介の資産がどれだけあるか、知っているか。俺も正確には知らんが、俺たちからすれば、天文学的数字だ。だがな、サッカーで、世界一のGMになる、それだって、途方もないことだとは思わんか? たかが、東洋の島国の大学日本一になれないようじゃ、世界一のGMなんて無理や」

 結城の言葉には、不思議と説得力があった。いや、少なくとも、力があった。

 考えてみれば、もともと、星山大学が大学日本一を目指すのも、或いは、結城が世界一のGMを目指すのも、智也には、関係のない話だ。むしろ、結城がGMを目指すから、自分はこうして、学費を免除されて、大学に通うことが出来ているらしい……。

 智也は、お茶を、一口、飲んでから、言った。

「しかし、自分で言うのも何だが、僕が、大学日本一になれるような選手だと思うか?」

「勘違いして貰っては困る。三上君が、大学日本一になるんじゃない。星山大学蹴球部が大学日本一になるんや。大学日本一のチームにも、仰山おるで、プロになるわけでもない、普通のサラリーマンになる人間が。というか、むしろ、そっちがほとんどや」

「……それはそうだけど」

「心配せんでもええ。ちゃんと、選手として、大学日本一になるかもしれん選手も、入学してくれたで。もちろん、サッカーの三流大学に来るわけだから、訳ありやがな」

「訳ありか」

「それにな、勝負は、四年生の時の大会や。ところで、体を作るのに、どうしても一年はかかる。つまり、俺らが二年生の時の新入生へのスカウトが勝負や。その時に、後にそれこそ、日本代表になるような選手に、星山大学でサッカーをやってみたい、と思わせなければ駄目や。つまり、これからの二年間で、そういう実績を作りたい。三上君のミッションは、そう考えてくれや」

「ミッションか」

と、智也は呟きながら、西山をチラリと見た。

 西山は、腕を組みながら、結城の言葉に、ウンウンと頷いてる。

 結城は、智也の視線に気づいて、言った。

「心配せんでもええ。西山君は、奨学生じゃあらへん。何せ、サッカーが下手だからな」

と、サラリと言う。

 西山も、呆気らかんと答える。

「結城君は、厳しいや。でも、僕がサッカー下手なのは事実やからな」

 不意に、結城は、顔を引き締めて、智也を見つめて、言った。

「だがな、仮に、三上君と西山君、プロになれるとしたら、西山君やで。西山君には、無尽蔵なスタミナがあるんや」

「スタミナか」

「でも下手や。だから、奨学生にはしなかった。西山君本人に、勘違いして貰っては困るからな。西山君は、人の三倍、五倍、努力して貰わなければ、困る」

「分かってますって」

 西山が、飄々と答える。

 智也は、内心、呟く。

 そうだ、誰の目に見ても、明らかなのだ。自分がユースからトップチームに上がれなかった理由。プロとしてやってく武器、特徴がないのだ……。

「それとな」

と、結城が話を続ける。

「三上君は、ゴールデンエイジという言葉を知ってるやろ」

「もちろん。十歳から十二歳までの運動能力が急速に発達する期間、まさに育成のスイートスポットといわれる期間やろ」

「ああ。しかしな、俺は、あれ、嘘とは言わんが、言葉が足りないと思うんや」

「足りない?」

「まるで、十三歳からは、技術が身に着かないみたいじゃないか」

 智也は、内心、アッと唸った。

 そうだ、自分も無意識に、そう考えていた。だが、考えてみれば、違う。十五から入ったユースでも、色んな技術を身に着けたように思う。

「十代だけじゃない。長年、日本代表を支えてくれた選手だって、二十代で、素人目に見ても、技術的に上手くなった選手がゴロゴロいる」

 それは、智也にも思い当たるフシがあったので、何人かの選手の名前を挙げた。結城も、そうだ、そうだ、と頷く。

 西山が調子に乗って言う。

「そうや、ワイだって、プロになれるんや」

 智也は、話をしていて、段々、ゲンナリして来た。

 一体、自分は、どうして、ここにいるのか。星山大学蹴球部に入部したのか。

 結城が、そんな智也の内心を見透かした様に言う。

「三上君な、もちろん、俺は、君より、サッカーが下手だし、偉そうなこと言う立場じゃあらへん。だから、独り言として、一つ、言っていいか」

「未来の世界一のGM様の言葉やからな。是非、聞きたい」

「三上君は、確かに、プロになる為の武器がない。でもな、ユースで身に着けた、ボールを蹴る止めるの基本技術、そして、ユースの選手の中でも、オフザボールの動きが一段、上手やと思う。だから、スカウトしたんや」

「……お褒めの言葉、有難う」

「だから、仮に、三上君が西山君のスタミナを身に着けたら、プロになれると思う。勘違いしないで欲しいのは、スタミナを付けろ、と言ってるんじゃなくて、もっと、ガムシャラにプレイしてもいいんじゃないか、と思ったんや。七十分で、息切れしてもいいじゃないか。イエローカード貰ってもいいじゃないか。星山大学蹴球部は、そういうサッカーをしたいんや」

 智也は、結城の暑苦しい顔から視線を逸らす様にして、結城の部屋の中を見回した。

 全体的に奇麗に整頓されているが、それは、本棚の中もそうだった。未だ、受験参考書の類は、処分されてないようで、有名大学の赤本が奇麗に並んでいた。

 それを見て、智也は、結城に会ってから、初めて、親しみが沸いた。

 有名大学を受験するにはしたのだろう。でも、落ちた。だから、ここでこうしてる訳だ。

 智也は、結城に視線を止めると、言った。

「悪いな。部屋の中を不躾に見回して」

「気にしなくていい。誰だって、他人の部屋は物珍しいだろ」

「そうか。……ところで、結城君のポジションは何処だ?」

「FW」

「……FWか」

 サッカー選手で一番偉いのは、或いは、金を稼げるのは、FWだ。

 前線で、点を取る選手だ。

 そして、それは、数字に残る。

 大学一年生の時点で、過去の実績を元に、自信に満ち溢れているようでないと、間違いなく、FWとしては、プロになれないだろう。

 智也は、ちょっと、考えて、言った。

「結城君が、GM志望なのは分かったけど、今、現在、星山大学蹴球部のGMという訳ではないだろう?」

「そりゃそうだ」

と、案に反して、結城が、アッサリ、認める。

 その答えを聞いた、西山が、思わず、お茶を吹き出す。

 結城が、話を続ける。

「まあ、実質的なGMは、結城ホールディングスの高見さんだな」

「ホールディングス?」

と、西山が、素っ頓狂な声を出す。

「グループ会社の元締めというか、親玉みたいなもんだ」

「へえー」

「高見さんが、監督選びをして、監督と相談して、選手を集めたんや」

「監督は新しくなるの?」

「ああ。……そもそも、星山大学蹴球部は、去年の夏に不祥事起こして、休部中で、今年は、九州大学リーグの二部からや。……そんくらい、流石に知っているやろ?」

「……まあ」

 流石に、智也の記憶にもぼんやりとあるが、そうは言えない。

「高見さんは、サッカー経験はあるのか?」

「ない」

と、結城が即答する。

 智也と西山の顔に、不安げな表情が浮かんだのを読み取った、結城が、多少、早口で続ける。

「高見さんは、優秀な人やで」

「へえー」

「何せ、若干三十代で、結城ホールディングスの経営企画室の室長だからな」

「……」

「……」

 結城は、皿に残り少なくなった柿の種を、ガバッと口に放り込むと、かみ砕き、呑み込んでから、言った。

「それから、新監督は女、つーか、おばさんや。……だけど、俺も、この人選は、間違っていないと思う」


 入学式の前日に、蹴球部のオリエンテーションがあった。

 場所は視聴覚室で、集合時間の十分前に、智也が顔を出すと、三十人程の学生が、集まっていた。西山や結城の顔も在った。オリエンテーション自体の告知は、ビラでも行われていたから、智也の様な奨学生組だけでなく、一般入学で、蹴球部希望の者も集まっているのだろう。また、二学年以上の上級生もいる様に思えた。

 定刻になると、教室の前方のドアが開いて、小柄な女性が入って来た。

 女性は、教壇に立つと、自己紹介をした。

「今年から、蹴球部の監督に就任しました、日内奈緒子です」

 日内は、そう言うと、手に持っていたリモコンを操って、教室の前方の壁にあるスクリーンに、スライドを一枚、映した。そこには、日内の経歴が、編年体で記されていた。

 すると、何を思ったか、日内は、黙り込んでしまった。

 しばらくして、溜まりかねて、前列に座っていた学生が、声をかける。

「監督、どうしました?」

「……」

「どうしました?」

「年齢がバレちゃう……」

「監督の年齢は三十六才ですね」

と、結城が、声を挙げた。結城のことだから、日内の年齢など、事前に知っていたのだろう。智也も、スクリーンに映っている、高校入学時の年から計算してみると、日内の年齢は、確かに、三十六才だった。

「監督は独身ですか?」

と、西山が、無邪気に訊く。

「……独身です」

「でも、俺らからしたら、十歳以上も離れている訳で、どんなに俺らが監督のことを好きになっても、結婚は無理だと思います」

 智也は、例によって、西山の如才無さに、感心した。

 日内も、西山の発言に悪意は感じなかったのだろう。気を取り直したように、話を続けた。

「父親がサッカー好きでね、子供の頃、よく、Jリーグの試合に連れてってくれた。それで、サッカーを始めて、いつの間にか、なでしこリーグでプレーするようになった。なでしこ、代表キャップは、わずか、一、で、悔しいけど、そこでは、何も出来なかった。……まあ、細かなことは後でググって」

 日内は、言葉を切ると、

「それでは、ここで一本のビデオを見て貰います。十分ぐらいだし……はい」

 動画は、メッシとクリロナのスーパープレイ集だった。

 時代を代表する、文字通り、サッカーファンを二分したプレーヤーのプレイ集なので、見ていて、ため息しか出なかった。

 動画が終わると、日内が、言った。

「はい、感想をどうぞ。挙手して、希望ポジションと感想をどうぞ」

 学生が、パラパラと手を挙げる。

 日内は、前列二列目に座っている、小柄な学生を指名した。

「井形浩。希望ポジションは、サイドアタッカー。ワイは、クリロナ派や。レアルに移籍してからはともかく、マンチェスターユナイテッド時代は、サイドでブイブイ言わせてた。ワイの憧れや」

「私も、クリロナ派。……イケメンだし。あと、欧州や南米のトッププロには珍しく、刺青を入れてないのも、評価高いわ。……評価高いってのは、サッカー選手としてではなく、女目線だけど。……他にいないからしら?」

 次に指名されたのは、身長一八〇センチ位の、細身だが、服の上からも、筋肉質と分かる学生だった。

「太田隆。希望ポジションは、CB。……監督の意図が分からん。メッシもクリロナも、俺らとは別世界の人間やし、メッシ派とかクリロナ派とかバカ臭い。……そもそも俺とは別ポジションの選手やし。……どんな答えがお望みなんや?」

「私が期待してるのは、先程、言った通り、率直な感想よ。でも、太田君の言いたいことも分かる。……今日は、もう二本、見てもらいたいビデオがあるから、私の感想を言いましょう」

 先程の日内のプロフィールでは、コーチとして二年、スペイン留学の経験もある様で、智也は、そんな日内が、何を言うか、ちょっと楽しみだった。

 日内は、教室中の視線が、自分に集まっていることを、意識している感じで、思い入れたっぷりに言った。

「二人は、化物ね」

 あまりに当たり前の見解に、教室中がシーンとなった。

 すると、一人の学生が、手を挙げながら、スクッと立ち上がった。

「九条翔太。希望ポジションは、FW。……おい、ばばあ、何、当たり前のこと言ってるんねん」

 九条の身長は一八〇センチ程、だろうか。見るからに、勝ち気な性格が、顔つきに出ている。

 日内は、淡々と、受け応えた。

「一応、指名されてから、発言して。今日はそういうルール。普段のミーティングなら、ガンガン、言ってくれて、構わないけど。でも、名前と希望ポジションを言ったのは、ルール通り。でも、監督に向かって、ばばあ、は頂けないわ。訂正して下さい」

 九条は、チッと舌打ちすると、

「監督、当たり前のことを当たり前に、言わないで下さい」

「そうね、私も言葉が足りなかった。……二人は化け物。でも、違うタイプの化物だと思わない?」

「なんだそりゃ」

と、九条は、舌打ちすると、席に座った。

「はい、井形君」

と、日内は、指名した。

 見ると、井形が、再び、手を挙げていた。

 井形は立ち上がると、多少、早口で、言った。

「俺は、監督の言うこと分かるわ。……メッシって、バイタル中央で、平然とドリブルを仕掛けるんだよな。高校時代、真似して、何度、監督に怒られたことか」

「ふーん、井形君は、そこまで、ドリブルに自信があるんだ?」

「自信がある、つーか、俺がやってやる、みたいな」

「高校の監督は、バイタル中央でのドリブル禁止の理由を説明してくれたの?」

「そりゃ、してくれたさ。要は、失敗してカットされた時に、カウンターのリスクがでかい。ドリブルはサイドで仕掛けろ、って」

「その通り、それがセオリー。そのセオリー破りを許されているのがメッシ、或いは、バルセロナでのメッシね。彼の化物たる所以ね」

「ああ、じゃあ、ウチの大学も、バイタル中央でのドリブル禁止?」

「あら、私は、そんなケチなことはしないわ。でも、条件をつけさせて貰う」

「条件?」

「それはまた、後日、練習の時に説明するわ」

「ふーん」

と、井形は、ちょっと嬉しそうに、席に座った。

 日内は、教室中を見回すと、言った。

「それじゃ、クリロナの化物たる所以は何?」

 日内は、スッと手を挙げた太田を再び、指名した。

「はい、太田君」

 先程、CB希望だと言った、太田が再び、立ち上がった。

「クリロナって、ストイックというか、俺が言うのもおこがましいですけど、二十代後半は、努力型すっよね」

「ふーん、どうしてそう思うの?」

 太田は、ちょっと考えて言った。

「うーん、考えてみれば、メッシはもちろん、他の欧州クラブのトッププロが努力してないとは、思えないし。……ごめんなさい、分からんないや」

 太田は、そう言うと席に座った。

「太田君、有難う。……皆も、これから、考えなんてまとまっていなくていいから、どんどん発言してね。チームってのは、そうやって、出来上がっていくの。監督の私だって、未だ、このチームがどういうメンバーで、どういう戦術で戦ったらいいかの、最適解は持ってない。……もちろん、イメージはあるけどね」

 日内は、続けた。

「私ね、一時期、クリロナのファンで、色んな記事を読み漁ったの。そして、出した結論は一つ」

 教室中が、息を呑んだ。

「彼は、一日二十四時間、サッカーのことを考えてる。もちろん、レアルマドリードに移籍してからも」

 智也には、耳の痛い話だった。

「それから、直々、分かることだから、最初に言っとくけど、この中には、スポーツ推薦の奨学生と、一般入学の学生といます。もちろん、奨学生は、学費はタダです。でも、一般入学の学生も、学年末の終わりに、私が推薦すれば、スポーツ奨学生となり、翌年度からは、学費がタダになります」

 教室から、ちょっとした歓声が上がる。

 智也は、スッと手を挙げた。

 日内が、智也を指差してくれたので、智也は立ち上がった。

「三上智也。希望ポジションは、中盤かな。そのー、奨学生で入学して、取り消しなんてことはありますか?」

 日内は、苦笑いしながら、応えた。

「安心して。それはないわ」

 ……でも、奨学生が不甲斐ないプレーをしていたら、部に居辛くなるだろう。一般入学の学生を、プレー如何で奨学生にする、というのは、上手い仕組みだと思った。

 日内は、手元のリモコンを操りながら、言った。

「今日は、もう一本、ビデオを見て貰います。今日の本題は、こっちです」

 動画は、キャプテン翼のアニメのクリップ集だった。オープニングテーマが軽快に流れ出す。

 日内は、何か、ダサいけど、聞いているうちに、カッコよくなるよねえ、と呟いてる。動画は、翼君が、ドライブシュートを、何本か、決めてみせ、次に、日向小次郎が、タイガーショットを何本か、決めてみせた。そして、立花兄弟が、スカイラブハリケーンを決めてみせる。

 次に、実際のサッカーの試合のクリップ集になった。

 スキンヘッドの選手が、フリーキックを何本も決めていく映像になった。

 時に、白や紺のレアルマドリードのユニフォームを身にまとい、ガンガン決めていく。まあ、クリップ集なので、不思議なことはない。或いは、セレソンのユニフォームを身にまとい、これも、ガンガン決めていく、まあ、クリップ集なので、不思議はない。

 動画が終わると、日内が、解説を入れる。

「ロベルト・カルロス。ポジションは、左サイドバック。一九九六年から二〇〇七年までレアル・マドリードに所属、その強力なキックは悪魔の左足と呼ばれた」

 日内は、一旦、言葉を切って、続けた。

「これって、タイガーショットよね。……強く蹴ってるだけ」

 教室中が、笑いに包まれる。

 日内も、ちょっと笑ってから、真顔に戻って言った。

「皆さんも、一年間で一つ、何か、必殺技を身に付けて下さい。これは、監督命令です」


 マユミが死んでしまってから、一週間後、すっかり自分の部屋に引きこもってしまった僕の部屋のドアを叩く音がし、次いで、見知らぬ女性の声がした。

「入っていいかしら?」

 僕は、何も答えることが出来ない。

「返事が無いなら入るわよ」

 声の主は、躊躇することなく、ドアを開けてしまうと、僕の部屋に入って来た。

 二人連れだった。

 声の主と思われる、それは、先頭に立っていたのと、後ろにいる人が男性だったので、声の主であることは、間違いない。

 僕は、彼女の姿を、一目見ただけで分かった。

 彼女は、マユミのお姉さんだ。或いは、少なくとも、従妹とかそういう存在だ。

 年齢は、二十代半ばだろうか。姉妹にしては、ちょっと、歳が離れている気もする。

 彼女は、優しく、そして、ちょっと、冗談めかして、言った。

「うわー、男の子の部屋。……ちょっと、臭いし」

「男子高校生の部屋なんて、こんなもんですよ。秋津子さんは、男子高校生や、男子大学生の部屋にお邪魔したことないんですか?」

と、連れの男性が言った。

「失礼ね。流石に、男子高校生の部屋は無いけど、男子大学生の部屋ぐらい、あるわよ」

「どうだか」

と、男性がサラッと笑う。

 女性が、僕に視線を戻して、言う。

「ごめんね。自己紹介が遅くなって。マユミの姉で、水城秋津子です。よろしくね。……お母さんから、電話貰ったの。智也君が籠城してますって」

「……はあ、すみません」

「ううん、まあ、私も似たようなものだから」

 僕は、似たようなもの、というのは、マユミの死を哀しんでいる、という意味なのだろう、と考えた。

 秋津子さんは、僕が、拒絶しないことを確認すると、男性を紹介した。

「こちら、真岡直人さん。私のお友達。職業は……えーと、何だっけ?」

と、隣の直人さんに視線をやる。

「もう、いい加減、覚えて下さいよ。男性専門のQOLトレーナーです」

「ああ、それそれ。QOLってのは、Quality Of Lifeの略だったわね。……男性専門ってのは、ようは、モテる秘訣を教えてくれるってこと」

「ちょっと、待って下さい。その言い方は、語弊があるなあ。先ず、第一に、別にモテる秘訣を教えてるだけじゃないですから。第二に……」

と、直人さんは、敢えて、言葉を切って、

「はあー」

と、大袈裟に、ため息をついて、みせた。

「そりゃあ、秋津子さんみたいに、美人で、子供の頃からモテル女性には分からないだろうけど、男であれ女であれ、異性にモテルかどうかって、人生における最大関心事の一つじゃないですか」

 僕が、二人のそんなやり取りに、辟易してるのを、秋津子さんは、感じ取ったのだろう。秋津子さんは、そんな直人さんの言葉を受け流し、僕に更に歩みより、僕の瞳を覗き込むと、言った。


「智也君、先ずは、今を、生き延びよう」


 やがて、僕は、自分の瞳から涙が溢れ出ていることが分かった。

 そうだ、秋津子さんは、そうやって、生き延びて来たのだ。

 そして、僕は、マユミから感じていた厭世観みたいなものの正体を見た気がした。

 マユミは、生き延びるのを止めただけなのだ。或いは、僕と出会う前から、生き延びようとすることを止めてしまっていたのかもしれない。

 五分だろうか、十分だろうか。

 秋津子さんは、僕が泣き止むのを見届けると、言った。

「智也君、お風呂に入りましょう。直人さん、よろしく」

「はい、了解」

と、応える直人さんは、いつの間にか、僕の下着とスウェットの上下を手にしていた。

 秋津子さんと直人さんは、我が家に来て、直ぐに、蛇口を捻って、湯を張っていたのだろう。僕と直人さんが、風呂場にいくと、湯船にちょうど、湯が張られていた。

 蛇口からは、お湯が出てないから、母さんが、頃合いを見計らって、止めてくれたのだろう。服を、自分で脱いだのか、直人さんが脱がしてくれたのかは、覚えていない。僕は、いつの間にか、裸になると、浴室に送り込まれて、とりあえず、プラスチックの風呂椅子に座った。

 ぼーと、していると、直ぐに、直人さんが、トランクス一丁で入って来た。

 直人さんは、プラスチックの手桶で、浴槽から、お湯を、僕の肩から、そっとかけると、言った。

「お湯も熱くないし、とりあえず、湯船に入ろうか。体洗わないで、入るって、気持ちいいよね」

 僕は、はあ、と頷くと、左足から、そっと湯船に身を浸した。

「智也君は、サッカーやってるんだっけ?」

「ええ」

「利き足は、左足なんだ」

「はい。……よくわかりますね」

「うん。今、左足から、湯船に入ったからね。軸足が、右足ってことでしょ?」

「……よく見てますね」

「水だけで、一週間でしょ。お風呂も、結構、危いんだ」

「そうですか」

「でも、智也君なら、高校生なら、大丈夫かな、と思って。でも、危険だから、ちょっと見てた」

「……有難うございます」

「うん。これが、今日の僕のメインの仕事かな」

 一週間ぶりに入る、お風呂は気持ち良かった。

 月並みな感想だけど、そうとしか、いいようがない。

 もっと、早く入れば、良かったとも思うし、一週間ぶりだから、ここまで入らなかったから、気持ちいいのか。

 僕は、ちょっと、気になっていたことを、直人さんに、聞いてみた。

「ビキニじゃないんですか?」

「ビキニ?」

「パンツですよ。モテル奴って、ビキニだと思ってました」

「それは偏見だなあ。……でも、正解。僕も、今日は、このコとエッチするぞ、って時は、ビキニかなあ」

「今日は違うんですか?……秋津子さんは、恋人じゃないんですか?」

 すると、意外なことに、直人さんは、哀し気に、首を振った。

「ううん。先程、秋津子さんの紹介に在った通り、文字通りの友達」

「へえー」

「もっとも、秋津子さんには、二回振られてるけどね。流石に、二回振られたら、それ以上、って感じ。それにね……」

「それに?」

「秋津子さんが、確かに、僕のことを信頼してくれてるのは分かるし、ある程度は、好いてくれているとも思う。でも、秋津子さんが、男性に、生涯の伴侶に求めてるのは、僕みたいなタイプの人間じゃない気がする」

「信頼されていて、好かれていても駄目ですか?」

「駄目ってわけじゃないんだけどね。なんか違う、んだろうね」

「……哀しい、虚しい、切ない。……なんじゃそりゃ、ですね」

「うん。そして、マユミちゃんも同じだったと思うよ。僕は、マユミちゃんとは二度あっただけだけど、秋津子さんとは長いから」

「……そんなものですか」

「多分、そんなもの」

「多分、多分、そんなもの」

と、僕が、ぼんやり、応えると、直人さんは、ちょっと慌てた様に、言った。

「ちょっと、頭洗おうか。湯舟から出て」

「はい」

と、僕は、言われるままに、湯船から出る。

 直人さんは、風呂椅子に、僕を、座らせると、僕の頭を洗い出した。

 シャンプーを二度がけして、サッと洗ってしまうと、今度は、頭皮を、マッサージし出す。

 ちょっと痛いぐらいだけど、それが気持ちいい。

「こんなの、何処で、習うんですか?」

と、僕が、尋ねると、

「友達に、美容師がいてね」

「女性ですか、男性ですか?」

「美容師」

「へえー」

 頭皮をマッサージされると、脳味噌も活性化されるのか、僕は、直人さんに、質問を投げた。

「なんでまた、QOLトレーナーなんて、やってるんですか?」

「QOLトレーナーと言っても、男性専門だけどね」

「……なんでまた?」

 直人さんは、僕に、もう一度、湯船に入る? と、優しく、聞いた。僕は、どうしようか、と考えてから、ちょっとだけ入ります、と応えた。直人さんは、じゃあ、ちょっとだけね、と言って、僕を再び、湯船に入らせた。

 直人さんは、僕が、湯船に、安全に浸るのを見届けると、先程の質問に答えてくれた。

「二十一の時かな。今から、五、六年前。当時、付き合っていた彼女を、四十過ぎの親父に寝取られてね」

「……寝取られたってよく分かりましたね?」

「うん。……ある日、いつも、陽気な彼女が沈みがちで、なんか、おかしいと思っていたら、突然、お腹に子供がいるの、って言い出してね」

「……」

「それも、僕の子供じゃない、という」

「二度、ビックリですね」

「ビックリというか、青天の霹靂が二度だね」

「神様も大忙しですね」

「うん。……僕は、彼女を好きだったし、大事にしていた、大事に出来ていた、とも思う。実際、彼女も、僕といる時には、よく笑っていたし、愛情の籠ったセックスもしていた」

「直人さんなら、そうでしょう」

「うん、有難う。……もちろん、彼女にそう告げられた日は、怒りやなんやらで、頭が真っ白になったけど、でも、時間が経てば経つほど、やっぱり、とも思ったんだ」

「……ああ、それもなんとなく分かります」

「へえー、そりゃ凄いや。なんで分かるの?」

「サッカーのポジション争いも同じ話ですよ。ビッグクラブなんて、毎年、活躍していても、特に、FWなんか、年齢が行くと、ある日、というか、ある年、お払い箱になる。前線は、最後は、結局、一瞬のキレが必要で、それは、どうしても、歳を取ると共に、衰えていくわけです」

 ここで、直人さんは、しばらく、考え込んでしまった。

「うーん、僕の場合、というか、恋愛と同じような、違うような」

「そうですか。……今の話は忘れてしまって貰っても構いません。いずれにしろ、僕は未だ、何も知らない、高校生ですから」

「いや、直観的には、智也君の言ってることは、正しい気がするんだけど……。まあ、智也君がのぼせても、アレだから、話を進めると、そういう、僕自身には、とてつもなくショックなことで、異性にモテル、モテル為にはどうすればいいか、ってことを考え出した訳」

「効果はありました?」

「そりゃ、あるから、職業にしてるんだけどね」

 直人さんが、女性からモテルのは、そりゃ、分かる。なんというか、色気があるんだ。問題は、それを、他人に伝授出来るか、ってことなんだけど。

 でもまあいいや、頭がボーとしてきた僕は、目を瞑った。

 直人さんが、目ざとく、声をかける。

「よし、湯船から上がろう。次は、食事だ」

 僕は、直人さんが用意してくれた、スエットに着替え、直人さんは、再び、今日着て来た、シャツとチノパンをまとった。

 二人が、リビングに行くと、秋津子さんが、声を掛けて来た。

「智也君、ちょうどいい。今、出来たところ」

「僕の分、ありますか?」

と、直人さんが、口を挟む。

 秋津子さんが、微笑んで、言う。

「もちろん、あるわよ。私の分もあるし。私も、おかゆは久しぶり」

「……おかゆですか」

 僕は、思わず、不満気な声を出す。

「何、言っているの。そりゃ、お肉とか食べたいだろうけど、一週間、何も食べてないんでしょ?」

「ええ」

「それとも、コンビニで買い食いしてた?」

「……それはないです」

「そう、じゃいいの。いきなり消化が悪いもの食べたら、胃が驚いちゃうわ。それに、おかゆだけど、鯛のあらでダシ取ったから、美味しいわよ。……私も、このおかゆは初めてだけど……。美味しいはず」

 ……うーん、初めてか。

 ふと、秋津子さんの背後に立っている、母さんに、目をやると、憔悴しきった顔に、安堵の顔が浮かんでいる。今回の件で、母さんは、もちろん、悪くない。いや、本当に、誰も、悪くない。僕も、そして、マユミも。母さんへの申し訳無さから、僕は、少しだけ、機敏に動いて、食卓に向かった。

 四人が、席に座ると、秋津子さんが言った。

「一応、わさびとしょうがを用意してるけど、といっても、チューブだけど、塩気はつけてあるので、先ずは、食べて見て」

 四人の前には、鯛おかゆが入った小いさ目のどんぶりと、お味噌汁が用意されていた。何せ、一週間ぶりの固形物なので、僕も、意味も分からず、緊張する。僕は、木製のスプーンで、そっと、おかゆを掬うと、口に入れた。

 口中に、ふわっとした甘さが広がる。これが、鯛のダシだろう。もちろん、ちょっと魚っぽいが、それが、またいい。でも、塩気がしっかりあって、無学な僕でも、体が求めているのが分かる。

 僕は、思わず、小さなどんぶりの鯛おかゆを、一息に食べてしまった。

 ちょっと食べたりなかった僕は、続いて、お味噌汁に口をつける。

 これは、いつも通りの我が家の味で、今日は、具は、豆腐だけだった。

 でも、美味しい。

 僕の食べっぷりを見た、秋津子さんが、自信満々に訊く。

「どう、美味しかった?」

「美味しかったです」

 僕は、そう答えるしかなった。

「まあ、空きっ腹、それも、一週間の空きっ腹だから、何食べても、美味しいんだけどね」

と、秋津子さんが、満足そうに、言う。

 直人さんが、口を挟む。

「いやあ、美味しいですよ、この鯛おかゆ。僕は、今日も、朝昼、しっかり食べてきましたけどね、それでも、美味しい」

 秋津子さんが、直人さんを見て、言う。

「そう、有難う。……でも、直人さんは口が上手いからなあ」

「何、言ってるんですか。僕は口下手ですよ」

と、直人さんは、ちょっと怒った様に言ったが、それは、僕も、嘘なんじゃないか、と思った。

 だが、未だ高校生の僕も、忙しい社会人の二人が、こうして、僕の為に、時間を作ってくれたことには、きちんと、お礼を言わないといけないことが分かった。

 それで、僕が、居住まいを正して、

「秋津子さん、直人さん、今日は……」

と、言いかけたら、秋津子さんが、

「智也君、ストップ!」

と、多少、大袈裟に、右手の掌を、僕に向けて、言った。

「明日は、午前十時に迎えに来るから、お礼は、明日にして」

「……はあ」

 秋津子さんは、ちょっと、居住まいを正して、母親に向き直ると、

「お母さま、よろしいかしら?」

「……ええ」

 無論、母は頷くしかない。

 僕は、心中、ぼんやり考えた。

 明日は、木曜日で学校があるが、まあいいか、今更……。

 

「必殺技を身に付けて下さい」

という、日内の言葉に、教室中がざわついた。

 必殺技、胸躍る言葉だが……。

 無論、キャプテン翼とロベカルの動画を見せられて、日内の言いたいことは分からなくもないが……。

 日内は、リモコンを操作しながら、

「もう一本、ビデオを見て貰います」

 動画は、サッカーの基本技術のクリップ集だった。

 最初は、トラップだった。

 先ずは、足元にピタっと止める。ショートパスなら難しくないが、サイドチェンジのロングボール、或いは、相手DFラインの裏に抜け出したFWが、斜め後ろから来たボールを、ピタっと止めて、シュートを決める。

 その流れで、相手バイタルでのシーンが続く。

 先ず、止めて、次に、シュートを打つ、或いは、パスをする。つまり、二タッチで、プレーが完結する。次のプレイを考えて、ボールの止める場所を決めているのだ。

 FWだけじゃない。

 ディフェンスラインの自陣でのボール回しも多くて二タッチ、ダイレクトといった、プレーが続く。かと思えば、相手DFを背にしたサイドの選手が、一m先、二m先にトラップして、次のプレーに移っていく。

「Jリーグとラリーガから拾ったわ」

と、日内が、解説を入れる。

 ラリーガとは、スペインリーグのことだ。

 トラップの次は、ごっつあんゴール集だった。

 それも、混戦の中、相手GKが弾いたボールをダイレクトで決めるシーンが多かった。いわゆる、ゴール前の嗅覚ってやつだ。もちろん、単なる偶然ではなくて、数限りない経験、味方のシュートの角度、強さ、そういったものを、瞬時に判断して、いるべき場所にいるから、ゴールが決まるのだ。

 そして、ロングフィードやサイドからのクロスといった、或いは、コーナーキックからのヘディンシュートといった、プレー集が続く……。

 次いで、ターンだった。

「さあ、これで最後よ」

 ターンと言っても、色々ある。自陣で、ボランチが、ボールを受けて、ターンする。或いは、FWが中盤に降りてきて、ターンする。ペナ内では、シュートフェイントと一体化したターンがある。

 そして、ターンの仕方も、足元を見ると、色んなターンがある。

 ほとんどボールに触らないような感じでするターン。

 止めて、ボールが来た方向に足裏で転がす様に見せて、キュッと逆方向に、アウトサイドでボールを弾き出すターン。

 こうして、動画は終わった。

 日内は、リモコンを操ってから、教室中を見回した。

「君たちは、高校時代、サッカーをしてきた?」

 教室が、ざわつく。

 何を当たり前のことを……。

「サッカーのことを、本当に、真剣に、二十四時間、考えてきた?」

 ……ちと、心もとない。

「心の底から、プロになりたいと思ってた?」

 ……これは、NOだ。でもさ……。

「ちゃんと、プレー中、考えた? ……やみくもに走って来ただけじゃないの?」

 ……これは、オシムかな。

「食事には、気を付けてきた? ジャンクフードばかり食べてるんじゃないの?」

 ……うー、すみません。

 教室中が、静まり返ってしまった。

 日内は、熱を持って、しかし、淡々と、続ける。 

「私が言いたいのは、君たちは、もっと出来る、サッカーが上手くなれる、って言いたいの。そして、大学で四年間、サッカーをやるなら、何か、目標を持って欲しいの。そして、その目標から逃げない。片時も目を離さない。そうやって、大学四年間を過ごして欲しい」

 教室中を静寂が支配した。

 すると、教室の静寂を破る様に、九条が舌打ちをしたかと思うと、言った。

「ケッ、ババアが偉そうに。目標たって、この教室の中の全員が、プロになる訳じゃねーだろうが」

「あら、九条君は、頑張れば、プロになれるんじゃないの?」

「俺が成れないとは言ってない。そうじゃない、雑魚の奴らがどうすんだって話だよ」

 言葉は悪いが、九条の言いたいことも分かる。

「その他人を捕まえて、ババアとか、雑魚とか言うの止めなさい。それじゃ、サッカーは上手くなれないわよ」

「はあ? 関係ないだろうが。……マラドーナなんて薬中だろうが」

「疑惑は、現役時代の後半でしょ」

「……どうだか」

 おい、九条、レジェンドに向かって、なんてことを。

 日内が、言葉を選んでいると、太田が口を挟んだ。

 いるんだよね、いかにも、キャプテンって感じの奴が。太田はそういうタイプだった。

「監督、九条の言うことも、一理あると思います。全員が全員、プロになるわけじゃない。むしろ、一人出るかどうかでしょう。それが僕らの立ち位置だってことは、理解しているつもりです」

 日内は、わざと気に、ため息をついてから、言った。

「太田君も、悲観的ね。……でもまあ、君たちの言わんとすることも分かる」

 日内は、案に反して、アッサリ、認めてから、言葉を続けた。

「そうね。この中には、大学二年生、三年生もいるでしょう。その君たちには悪いんだけど……」

と、日内は、前置きを置いた。

「星山大学蹴球部は、今年の新入生が四年生の時に、大学日本一になります」

 大学日本一と聞いて、教室中がざわつく。

 すっかり、喧嘩モードの九条が、口を挟む。

「そんな、絵にかいた餅のような目標、やってられっか」

「絵にかいた餅、とは、言い得て妙ね。プランはあるわ。それに、私の今回の契約は二年で、二年後、ある程度の結果を出してないとお払い箱になります」

 あらま、厳しい。

 日内は、ちょっと、間を置くと、何故か、右拳を突きあげながら、言った。

「目標が無くて困るという諸君は、一緒に、大学日本一を目指しましょう」

 ……拳を突き上げるのは何だか、政治家みたいで、ちょっとダサいんじゃないでしょうか。

 ところが、拳を突き上げたことの是非は、置いといて、教室中が、なんとなく、大学日本一も悪くないなあ、という、ふわっとした空気になっていた。プロになるのよりかは、幾らかはリアリティがあるからだろうか。冷静に考えれば、どっちも、無理ゲーなのだが……。

 そこで、智也は、アッと思った。

 智也は、事前に、結城から、大学日本一と聞いている。

 智也は、ちょっと待てよ、と思った。

 今までの会話、監督と九条、太田とのやり取りだが、全部、監督の計算通りなんじゃないか? 口を挟むのは、九条や太田じゃなくて、違う人間だったかもしれない。或いは、誰も、口を挟まなければ、星山大学蹴球部には、目標があります、とかなんとか、言えばいいだけの話だ。

 智也は、教壇で、しれっと拳を突き上げてる、日内を見つめながら、ぼんやり考えた。

 この監督、結構、イケルんじゃないか……。

 すると、智也は、ふと、日内と目が合った気がした。

 拳を突き上げていた日内は、拳を降ろすと、言った。

「ごめん、大切なこと忘れてた。必殺技は、五月中に申請、五月末までに、私に言いに来て下さい。でも、少なくとも四月の一カ月の練習に参加してからにしてね。もちろん、相談にも乗ります」


 翌朝、うどんを食べて、部屋で、ぼんやりしていると、母親の呼ぶ声がした。

 十時きっかりに、秋津子さんがやって来た。

 玄関で待っていた、今日の秋津子さんは、ラフな格好で、紺のデニムに、オレンジのストライプの入ったセーターを着ていた。考えてみれば、昨日、秋津子さんや直人さんが、どんな服を着ていたか、覚えていない。

 秋津子さんは、お早う、と言うと、それ以上何も言わず、駅に向かって、歩き出した。

 しばらく、歩いて、僕は、聞いた。

「お忙しいところ、すみません」

「いいのよ、今週は暇だし。……と言っても、付き合って上げれるのは、午前中だけだけど……」

「そう言えば……。訊いてもいいですか?」

「もちろん、いいわよ」

「秋津子さんって、何してる人なんですか? 職業は?」

「……そうよね。今日は、木曜日だもんね」

「別に、木曜日だからって訳じゃないですけど……。色んな職業あるし」

「バンドやってる、ドラマー。もちろん、メジャーデビューは出来てない。だから、アルバイトって奴?」

「……ってことは、インディーズデビューはしたとか?」

「そんなとこ。それが良くないのよね、ズルズルと。だから、そろそろ、止めようと思ってる」

「……へえー」

と、言って、思わず、口をつぐんでしまった。

 サッカーだと、どんな感じだろう?

 J3の選手は、仕事とサッカーが掛け持ちの場合もあるし、トータルで考えると、社会人リーグの選手の方が、J3の選手より、サッカーに集中出来てるかもしれない。

 秋津子さんは、インディーズとはいえ、デビュー出来てるんだから、凄いんだろうが、先行きはどうかなあ、という気もする。

 黙り込んだ、僕を見て、秋津子さんが、クスッと笑う。

「マユミの話してた通りね。……智也君のことは、マユミからよく聞かされたわ。私とマユミって仲良かったのよ。もっとも、年が離れてるから、なんというか、友達ってわけでもないし、もちろん、母親ってわけでもない。でも、仲は良かったのよ」

 そんな妹に自殺されてしまったのはどんな気持ちなのだろうか。

 考えてみれば、僕は、マユミと出会って、一年しか経ってない。

 秋津子さんは、十八年だ……。

「マユミが死ぬ前、ビルから飛び降りる前、何か、連絡は来たんですか? 電話とか、そういうの」

「ううん、何も。……智也君は?」

「僕には、何も」

「そう」

 駅に付き、なんとなく、二人は黙り込んだ。

 少ないとはいえ、人前で、マユミのことを話すのは、憚られる気がしたし、かといって、それ以外の話題が、適切だとも思えなかった。

 電車に乗って、数駅目の大きな駅で、秋津子さんは、僕を促して、降りた。

 僕が、訊く。

「それで、何処に行くんですか?」

 秋津子さんは、何故か、ちょっと、はにかんだ。そういう秋津子さんは、とても可愛らしかった。

「今から、言うセリフは、私が言うんじゃないわよ。直人さんの言葉」

「どうぞ」

「女を忘れるには女しかない」

「男を忘れるには男しかない……ってことですか?」

「まあ、そうね」

「そういう恥ずかしいセリフ、直人さんって、似合ってますよね」

「それが彼のいいトコというか、職業だし」

「……ああ。……男性専門のQOLトレーナー」

「そう、それね」

「そういう職業があるの、僕は、初めて、知りました」

「私も、直人さん以外には知らない」

「儲かってるんですか?」

「分からない。でも、金の無心はされたことはないわ」

「それで、今日は、何処に?」

「服を買いにね」

「服?」

「そう、これから女の子を口説くのに、一張羅が必要でしょ?」

「……はあ。お洒落は苦手というか、したことなくて」

「だから、いいのよ。ちょっとの努力で、智也君なら、群を抜く、わ」

「群を抜く、か、いいですね」

「でしょ。軍資金は豊富よ。智也君のお母様にも貰って来たし、ウチの父親も出してくれたし」

 僕は、目を丸くして、言った。

「それは、余りにも……」

「いいのよ。ウチの父親も、智也君のこと、マユミから聞いていて、会いたがってたし、申し訳なく思ってたわ」

 智也は、怪訝に思った。

 会いたがる、というのは、まあ、分かるにしても、申し訳なく、ってのは、どういう意味だろう。

 駅から幾らか歩いて、角を曲がると、秋津子さんは、付いたわ、と言って、割かし、大きめの洋服屋さんに入って行った。秋津子さんと僕が、お店に入ると、秋津子さんと顔なじみと思われる、女性店員が駆け寄って来た。

「あら、秋津子さん、今日は。今日は、どんな服を?」

「今日は、アサミさん。今日は、私じゃなくて、こっちの彼」

 アサミさんは、柔らかだけど、遠慮なく、僕を値踏みして、言った。

「大学生? 高校生?」

「未だ、高校生よ」

「あら、秋津子さんの彼氏にしては、若いわね」

「やーね。……親戚よ。彼、これから好きな子に告白するの」

「わーお」

 わーお。

 それから、秋津子さんとアサミさんと二人で、紺と深草色のジャケットを二着、白と紺のデザインの凝ったシャツと、淡いベージュのチノパンを、三十分程で、見繕ってしまった。

 レジで、会計をする時に、秋津子さんが、アサミさんに、冗談めかして、言う。

「お洒落デビューの彼に、一言、貰える?」

 すると、アサミさんは、何を思ったか、辺りをキョロキョロと見回して、言った。

「高校生でしょ? 若い時は、こういう店に来ないで、安い店で、色んな色の服を買うこと」

「そりゃ、失礼しました」

と、秋津子さんが、謝る。

「今日は、特別よ」

と、アサミさんが、満足げに言う。

 秋津子さんと僕は、腰を折ったアサミさんに見送られて、店を出た。

 店を出て、しばらく、黙々と歩いたが、やがて、オープンテラスのあるカフェで、秋津子さんは足を止めると、言った。

「ちょっと、休憩しようか」

「はあ」

 ウェイトレスにオーダーすると、秋津子さんが、多少、口ごもりながら、言った。

「智也君に、言っておかなかれば、いけないことがあるの」

 新しい服を買うことは、気分を高揚させる。洒落っ気のない僕にも、それは分かった。だから、多少、華やいだ気分で、僕は、聞き返した。

「何でしょう?」

 そして、秋津子さんは、戸惑いを呑み込みながら、言った。

「ウチの母親、自殺してるの。四十の時かな。その母方のお母さん、つまり、私の祖母も自殺してる。これは、二十台後半かな」

「……」

 しばらく、僕は黙り込んだ。

 そして、秋津子さんは、ボソッ、と呟く様に言った。

「結局、だから、そういうことなのよ」

 僕は、ちょっと考えて、言った。

「でも、秋津子さんは、こうやって、今日も、生きているじゃないですか?」

 これは、ひどく残酷な質問だけど、でも、この時は、そう言うのがひどく自然な気がしたんだ。

「私には音楽があったから。……別に、音楽の才能があるとかそういうんじゃなくて、気晴らしが出来たって意味だけど」

「……マユミには、そういうものが無かった?」

「うん」

「でも、そんな単純な話じゃ……」

「分かっている。……でも、今は、そう考えている。だから……」

「だから?」

「だから、智也君も、何か、迷うことがあるなら、サッカーをして、ボールを蹴って」

「それは、大きなお世話です」

 この時、どうして、僕は、こんなひどい言葉を言ってしまったのか、今でも分からない。

 秋津子さんは、哀しそうに、顔を歪めると、言った。

「うん、分かってる。でも、今日はこれを言いに来たの」

 そうして、秋津子さんと僕は、再び、黙り込んでしまった。

 やがて、秋津子さんは、ハンドバックから、一枚のメモを取り出すと、僕に押しやった。

「私と直人さんの携帯の番号。何かあったら、電話して」

 その時、ちょうど、ウェイトレスがやってきて、コーヒーを二つ、置いて行った。

 秋津子さんと僕は、黙々とコーヒーを飲むと、その店を後にした。

 それが、高校時代、僕が、秋津子さんに会った、最後だった。


 星山大学蹴球部の練習は四部構成だった。

 一部は、トラップやロングフィードなど、オリエンテーションで見た動画、個人基礎技術の練習で、ウォームアップを兼ねている。必殺技は、ここから、選んでいくわけだ。と言っても、プロの試合を見ることを推奨している日内は、もちろん、そこで気になったプレーでもいい、と注釈している。

 二部は、ビブス練習で、三部は、グループ戦術練習。この二つは、後から、もう少し、詳しく説明する。

 四部は、エキストラタイムで、曜日によって、メニューが違う。インターバール走などの走り込みや筋トレ、或いは、ミニゲームやビブス練習やグループ戦術練習など。ミニゲームの時は、やはり、この時間が一番、部員は楽しそうにプレーする。でも、ミニゲームは、多くて、週に一度なので、緊張感も伴う。もちろん、チーム分けやポジションは、日内が決める。

 筋トレといえば、星山大学にも、今年から、筋トレルームが出来た。

 真新しいフローリングに、器具のオイルの匂いが、鼻を突く。

 成り行きで、星山大学に入学した訳だけど、初めて、筋トレルームに入った時は、智也は、星山大学蹴球部に入って、本当に良かった、と思った。自分では草食系で、体育会系の人間だとは思ってなかったが、自分も、実は、体育会系なのだろうか、と思う程だった。同じような顔をしている、結城に、そう呟いてみせると、結城は、いや、プラモ系だろう、と、意味不明な言葉を呟いた。

 そう、この筋トレルームも、結城財閥の寄贈だ。創立者兼理事長の結城慎之介、つまりは、結城のお爺さんのお金によるものだ。このお金も、元をたどれば、世界一のGMになりたい、という結城の一言から、始まっているのだから、金持ちの考えることは、本当に、分からない。

 筋トレルームには、外部から、トレーナーが二人来ている。それで、月に一度、選手本人と日内、それに、トレーナーの方とで、筋トレメニューを考えることになっていた。

 さて、二部のビブス練習だが、日本だと、元日本代表監督のイビチャ・オシムの有名な言葉、考えるサッカーの為のトレーニングだ。

 どうして、ビブス練習と言うかと言うと、ビブスの色が、三色だったり、四色だったりするからだ。試合であれば、味方チームと敵チームの二色あればいい。それが、トレーニングでは、三色になる。

 例えば、三色ビブスのボール回し、という練習方法がある。文字通り三~四人ずつ、三色のビブスを着て、ボール回しをする。敵方はいない。

 基本ルールは一つで、例えば、ビブスの色が、オレンジ色、黄色、青色だったら、オレンジ色のビブスを着た選手は、ボールを受けたら、次は、黄色か青色の選手にパスしなければならない。最初は、ボールを三個で初めて、二個、一個と減らしていく。ボールの多寡によって、ルールも変わっていく。一個の時は、オレンジ色の選手は、次に、黄色の選手にパスしなければならない、といった具合だ。

 日内は、にこやかに笑う。

「オシムのトレーニングは、本やDVDが出ていて、もちろん、ここにもあるので、勉強してね」

 九条などは、舌打ちするし、智也も、うーむ、と唸ってしまう。

 日内が、問いかける。

「オシムのトレーニングの狙いは何?」

「そりゃ、状況判断でしょう。持って回った言い方しないでも」

 太田が答える。日内には、話しかけやすい。礼節を重んじるタイプであろう、太田も、くだけた感じで答える。

「はい、私も、そう思う。考える、というより、状況判断よねえ。……でも、もっと深い意味もある気もするけど。この中には、私より、頭いい人もいるでしょ。ちょっと考えてみて」

と、日内は、結構、無責任なことを言う。

 そうして、週末に、必ず、言う。

「一部も二部も三部も、練習メニュー募集中だからね。君たちは、一年目なんだから、どんどん出して下さい」

 次に、三部は、グループ戦術練習になる。

 実は、三部練習が始まったのは、四月の第三週からで、四月の第一週と第二週は、二部錬までだった。そもそも、初めてやる練習内容を理解する為には、結構、時間がかかる。特に、二部のビブス練習に関しては、同じ内容は、二日連続までだった。一日、二つずつ、消化していったので、二週間で、十個のメニューをこなしたことになる。かつて、オシムに日本代表に呼ばれた選手達が、つまりは、星山大学蹴球部の面々からすると雲の上の様な人達なのだが、その代表選手たちが、口々に言ったように、確かに、頭がクタクタになる毎日だった。オリエンテーションで、日内とやり合った九条などは、すっかり、大人しくなってしまい、こっちが心配する程だった。

 さて、四月の第二週の週末、蹴球部の面々は、再び、視聴覚室に集められた。

 教壇に立った、日内が、教室中を見回して、言う。

「どう、二週間、練習して見て。あっ、今日は、立ち上がってくれて、そのまま発言してくれていいわ」

 井形が、スッと立ち上がって、言った。

「俺は、結構、気に入っている。……必殺技を磨くのに、ちょうどいい」

「そう、有難う。……でも、必殺技の申請は、来月に入ってからだからね。一年間のことだから、よく、考えて。……他には?」

 次に、西山が、立ち上がって、言った。

「俺は、毎日が必死や。……成長出来てると思う」

「そうね、西山君に関しては、何も、心配してない。……他には?」

 次に、九条が立ち上がった。

 智也は、内心、ホッとした。……九条から、空元気を取ったら、何も残らない。

「まあ、アンタが……」

「ハイ、ストップ。アンタはやめて、アンタは。ババアよりかは進化した。でも、いずれにしろ、アンタはやめて」

「……監督が、アンタなりに、いや、監督なりに、あれこれ考えてるのは、分かった。でも、ミニゲームというか、紅白戦やらないか? 試合で、何が出来るかが、選手にとって、重要だろう?」

「うーん、気持ちは分かるけど……」

 日内が言葉を濁していると、太田が、スッと立ち上がった。

「監督、リーグ戦はいつからですか?」

「六月の頭から」

「俺も、九条の意見に賛成です。紅白戦というか、フォーメーション練習というか、そういうのも取り入れた方が、いいんじゃないでしょうか?」

 九条に太田が同調する形になって、日内は、困惑するかと思えば、案に反して、ニコッと笑った。

「太田君、率直に言ってくれて、有難う」

 ん? 九条と反応が違くないか……。

「私が今日、したいのもその話。来週から、三部錬になります。でも、三部錬で、紅白戦も、フォーメーション練習もやりません」

 教室が、ちょっと、ざわつく。

 日内が言う。

「先ず、一試合で、九十分で、選手がボールに触れている時間ぐらい、皆、分かっているわよね?」

 部員の間から、三分だっけ、五分ぐらいじゃね? といった呟きが漏れる。

「そう、もちろん、ポジションや選手の特徴によって違うけど、概ね、三~五分と言われているわ。ボールタッチ数にすると、四十~八十回くらいかしら」

 流石に、この時点で、日内が、何を言いたいか、皆、察した様に思う。

「確かに、試合からしか、学べないものもある。……でも、日々の練習で、その五分の為に、八十五分を無駄にするわけ?」

 うーむ、と皆、唸ってしまった。

「三部練の内容を説明する前に、伝えたいことが二つあります。……でも、その前に、先ず、動画を見て貰います。最初のは短いから、すぐ終わる」

 日内は、手元のリモコンを操ると、スクリーンに、動画が再生されだした。

 ピッチには、白と水色のユニフォームを着た選手が、三人立っていた。

 日内が、動画を止めて、解説を入れる。

「二〇一八年、ロシアワールドカップ。アルゼンチンは、ラウンド十六で、この大会、優勝することとなるフランスと激突。試合は、フランスが先行する形になった。先ず、六十四分、六十八分、エムバペのゴールで、フランスがリードを奪う。アルゼンチンは、二点のビハインドを追うことになる」

 日内は、再び、動画を再生し出した。

「攻めるしかなくなったアルゼンチンは、総攻撃をしかける。……そう、DFの三人を残して。しかし、カウンターを喰らう」

 スクリーンでは、カウンターを喰らったアルゼンチンが、しかし、跳ね返すシーンが二度、続いた。

 日内は、再び、動画を止めた。

「結構、三人で守れるものなのよねえ」

「そりゃ、相手も速攻だからだろ。数的にそう差があるわけじゃない」

「まあね。……でもさ、守備の基本って三人なんじゃないかなあ。三バックであれば、CB三枚。四バックであれば、CB二枚+ボランチ一枚。ううん、中央だけじゃない。サイドだって、CBにボランチ、に、SBの三枚で、チャレンジカバーを行う」

 太田が、ボソリと言う。

「そう言われれば、そうですね」

 日内は、リモコンを動作しながら、言う。

「次は、ちょっと、長いよ。十五分ぐらいかな」

 次も、プレー集だったが、先ずは、DFラインのパス回しにはじまって、サイド攻撃、或いは、ボランチがGKやCBからのボールを受けるシーンなどが、それぞれ、集められたものだった。

 動画が終わると、日内が言った。

「よく、三人目の動きって言われるけど、サッカーを局面で取り出すと、三~四人の意思疎通で、プレイしてるのよね。もちろん、サイドチャンジや、ロングフィードなどは、また、ちょっと、意味合いが違うけど。でも、プレイそのものを取り出すと、出し手と受け手と、それをフォローする動き。フォローというか、いわゆる、結果としての無駄走りで、走ってる選手としては、出し手に、選択肢を提供しているに過ぎない訳だけど」

 日内は、自分の言葉を、学生が理解していることを確認して、話を続けた。

「今日、伝えたい、もう一つのことは、君たちも、子供のころから、良く言われてること」

と言って、スライドをスクリーンに表示した。

 スクリーンには、いわゆる、サード・オブ・ザ・ピッチの図が現れた。

 サード・オブ・ザ・ピッチとは、コートを三等分するピッチゾーンの考え方のことで、相手ゴールに近い三分の一をアタッキングサード(ファイナルサード)、ハーフライン近辺の真ん中のゾーンをミドルサード、自陣ゴール近辺の三分の一をディフェンシブサードという考え方だ。

「更に、ドン」

と、日内が、言った。

 スライドは、先程の図に、今度は、縦方向に、線が二本入っていた。つまり、縦に三分割することになる。既に横に三分割されていた先程と併せて、コートを九分割したことになる。

「自分が今、ピッチの何処でプレイしているか、考えなさい。……これまで、君たちも、耳にタコが出来る程、言われただろうけど、これ、やっぱ重要なのよねえ。三部練では、常に、このことを意識して下さい」

 日内は、再び、スクリーンにスライドを映した。

「三部錬では、コートを四分割して使います。それで、練習メニュー毎に、ボードがあります……」

と言って、次のスライドに行く。

 スライドには、下記の様にあった。

  「導入」:スローイン

「場所」:アタッキングサード、サイド

  [攻撃]SB、ボランチ、サイドハーフ、FW

  [守備]SB、ボランチ、サイドハーフ

  [攻撃目標]クロス、カットインシュート、CKゲット

  [守備目標]クリア

 日内が、それぞれの項目の意味を、具体的な練習方法を、説明していく。

 それで、最後に、付け足す様に、言った。

「このボードの場合、攻撃目標として、クロスとあるけど、フィニッシャー役は、攻撃側の四人の中の一人である必要はありません。あくまで、四人の目標として、クロスを挙げる、ってことね。実際の練習では、私やコーチや、或いは、他の選手が、立っていることになります」

 それから、日内は、約十枚ほどのボード、練習メニューを説明した。

 いつしか、皆、九条も太田も、睨みつける様にして、スクリーンに映ったボードを見ながら、日内の説明に、耳を傾けていた。


 四月の第四週の半ば、智也は、風邪を引いてしまった。

 後から思えば、前日の夕方、大学からの帰り道、ちょっと寒気がしたのだが、風呂に入って、いつも通り、すごしていたら、夜半、熱が出た。これは、まずい、と置き薬を飲んだ。

 すると、翌朝には、熱が引いていたのだが、どうも、体がだるく、大学に行く気がしない。それで、蹴球部のSNSに、今日は部活を休む旨を書き込んだ。特に、理由を書き込め、という指示はなかったが、皆、一言、添えるようにしていた。

 午前中は、母親が用意してくれたご飯と味噌汁と納豆の朝食を無理やり食べると、眠気が襲ってきて、眠ってしまった。目が覚めたのは、昼過ぎで、自分でも、すっかり、良くなっているのが分かった。

 さて、どうしようか、と智也は、思った。

 蹴球部の練習に、出れないこともなさそうだ。

 出れないこともなさそうだが、今日、一日、休んだ方がいい気もする。

 映画でも、見に行くかと思ったが、取り敢えず、グランドに行ってみるか、と、着たらちょっと厚くなる感じのカーディガンを羽織って、大学に行くことにした。

 蹴球部のグランドは、大学の学舎から、歩いて、十五分程のとこにある。

 蹴球部は、昨年、部員が、不祥事を起こし、活動が停止となり、今年は二部からのスタートだ。智也にも適用されているスポーツ奨学生制度は、今年からの制度らしいが、昨年は、一部リーグに所属していた。名門とまでは言えないが、創立以来の部だ。

 三月末のオリエンテーションで、日内は、今は、奨学生で無い者も、私の推薦で、奨学生になれます、と、にこやかに言っていたが、あれは、ポジション争いをして下さい、という発破掛けでもある、と智也は、受け止めた。特に、今年の二年生は、あの一言で、やる気が湧いて来ただろう。

 また、本当に、大学日本一になるなら、特に、これからの二年間で、ある程度結果を出すなら、二年生の奮起が無いと、それもまた、無理に思えるから、日内の言葉は、当然とも言える。

 そして、必殺技、の件も、なんだか、人を喰った様な話だが、実際、一部の個人技術練習に取り組む、皆の目つきが違う。

 日内は、言葉にしてないが、いつ、各々の目標とする必殺技が、一般公開されるか分からない。一年後、誰それが申請した必殺技は、××です、例えば、トラップでーす、なんて、日内なら、シレッと言いそうだ。その時、別に、世界一とは言わない、星山大学蹴球部に於いては、一番か二番になっていたい、と思うのが人情だ。

 そして、それは、必殺技申請した技術の練習だけじゃない。

 個人技術練習全体が、何というか、切るか切られるか、というか、真剣なものになっていた。そりゃそうだ、個人技術と言っても、一人で練習するわけじゃない。二人、三人で練習するわけだから、誰か一人が、必死こいてたら、そのグループは必死こくことになる。そして、必死にならざる得ない事情を、皆が、理解している。

 智也は、不思議だった。

 もちろん、ユースの時だって、皆、プロに成りたくて、死に物狂いで、練習していた……筈だ。そして、レベルは間違いなく、星山大学蹴球部より、ユースの方が高い。それでも、今の自分の方が、成長出来ている気がする。

 智也が、家を出て、取り留めもなく、そんなことを考えていると、いつの間にか、グランドに着いた。

 いざ、グランドに着いてみると、どうも、練習に参加する気がしない。

 やっぱり、体が何処か、疲れているんだろうか。

 かといって、日内に、挨拶しに行くのも変な話だ。

 智也は、ちょっと、考えた。コート全体はフェンスで囲まれてる。その中の、ゴール裏の軽く土手になっている部分で、見学することにした。考えて見れば、練習を、距離を取って、見学したことはない。

 コートでは、二部錬のビブス練習が行われていた。

 ビブス練習では、状況判断能力と、止めて・蹴る、の基本中の基本が問われる。

 そこは、腐ってもユースで、智也は、適宜、メニューをこなすことが出来ていた。メニューの中には、ユースでやっていた似たような練習もあった。智也だけでなく、ユース出身の連中はそんな感じだった。

 一方、九条や西山などは、四苦八苦していた。

 九条は、基礎技術はあるのだが、ポジションがFWということもあって、左程、周囲全体を確認するという、習慣がなかったのだろう、プレイ判断というか、その前の認知に課題があった。

 西山は、止めて蹴るの基礎技術が覚束ないので、しょっちゅう、ミスをしていた。それでも、めげずに、陽気に、練習に取り組んでいた。周囲も、脳みそが疲れているので、そんな西山を温かく、受け入れていた。智也の目には、西山は、半年、この練習についてこれたなら、一段、上手くなるのではないかと思われた。

 苦笑いしながら、ビブス練習をしている仲間を見ると、自分も練習に参加したくなる。智也が、うーん、どうしようか、と考えていると、智也は、十m程離れたとこに、人の気配を感じた。

 彼女は、ちょっと高そうなカメラを構えて、蹴球部の練習を見つめていた。

 智也と同い年ぐらいだろうか。

 彼女は、黒髪を、三つ編みにして、サイドに垂らしていた。紺のパンツに、水色のシャツをラフに羽織っていた。黒縁眼鏡をしていて、今は、ファインダーを覗き込んでる。

 レンズの先には、どう考えても、蹴球部しかない。

 グランドでは、九条がミスしたのかなんだか、ウォーと叫び声を挙げている。

 智也は、意を決して、彼女に歩み寄って、声を掛けた。

「あのー」

 彼女は、ビクッとして、カメラこそ取り落とさななかったものの、狼狽してるのが智也にも分かった。

 彼女は、智也を仰ぎ見る様にして、言う。

「ごめんなさい。怪しいものじゃないです」

「怪しい人じゃないのは分かりますけど……。レンズの向こうには何が映ってるんですか?」

 彼女は、智也の柔らかな物腰に安心した様で、グランドに目をやりながら、呟く様に言う。

「そりゃあ、蹴球部の練習です」

「ですよね」

「そうですよ」

「サッカーが好きなんですか?」

 彼女は、ちょっと考えてから、言った。

「……あんまり」

「じゃあ、なんで? ……星山大学の新聞部か何かですか?」

 彼女は、ちょっと、もじもじしてから、意を決した様に言った。

「私は、近江胡桃といいます。太田君と斎藤君の高校の同級生です」

 ああ、そういうことか、と、智也は腑に落ちた。

 太田と斎藤が、よく、連れ立っているのは、そういうことか、と思った。

 斎藤楓太は、今は未だ、華奢な体だが、ボールタッチの柔らかさは、恐らく、星山大学で一番だろう。井形も、もちろん、天才的なものがあるが、ボールタッチは弾くような感じで、斎藤とは異質なものだった。

 斎藤は、ポジションで言えば、いわゆるトップ下なのだろうが、現代サッカーでは、トップ下というポジションをこなすのは本当に難しい。何故ならば、予め、バイタル中央にいることによって、相手のマークがきつくなるからだ。

 恐らく、このポジションを成り立たせる為には、予め、そのスペースにいるのではなく、機を見て、そのスペースに入り込む、といったチーム戦術じゃないと、成り立ちはしないだろう、と智也は考えていた。

 智也は、胡桃の瞳が、ひどく、つぶらで輝いてることに気が付きながら、尋ねた。

「斎藤の凄さが分かりますか?」

「どの程度、凄いかは分かりませんが、私の高校では一番、凄かったです。……今日、見た感じでは、今、グランドにいる中では一番じゃないですか」

と、胡桃は、井形や九条が聞いたら、怒鳴り散らしそうなことを、言った。

「そうかもしれませんね。……サッカー選手には、色んなタイプがあっていいんです」

「はあ。……蹴球部の方ですか?」

「はい。……三上智也、と言います。同じく一年生です」

「練習には、参加しないんですか?」

 ……うーむ、答えるのが面倒だ。

「今日は、僕は、オフです」

「オフですか。……ちょっと、格好いいですね」

「まあ、大学生ですから」

 智也が答えて、しばらく、二人で、蹴球部の練習を見守った。

 やがて、胡桃が、口を開いた。

「確かに、高校時代、斎藤君のプレイを見るのが好きで、写真を撮る様になりました。でも、段々、特に、試合中は、太田君の写真を撮る様になりました」

「太田の?」

「太田君、凄いんです。……あのー、長いパスを、斎藤君に、ピタッピタッ、とつけるんです」

「ロングフィードですか?」

「ああ、それです。……斎藤君が、相手のGKの前に走りこむ。そこに、いつの間にか、太田君から、パスが出ていて、それで、斎藤君がシュートを決めるんです。オフサイドにならずに」

 うーむ、太田にそんな必殺技があるとは……。

「でも、その、ロング、ロング……」

「ロングフィード」

「でも、太田君のロングフィードは、斎藤君にしか、届かないんです」

 ホットラインか。

「それは、太田君と斎藤君が、凄いんですよ」

「ええ。きっと、そうなのでしょう。……私が撮りたいのは、それです」

 智也は、軽く目を瞑って、想像する。

 CBの太田が、自陣で、味方のDFラインとボールを回す。単調とも思えるリズムの中で、不意に、太田が、前方に蹴り出す。

 そのボールの先には、相手CBとの駆け引きに、一歩、抜けだした斎藤が居て、ピタリとボールを止める。斎藤は、二m三m、ボールを運ぶと、飛び出て来たGKの脇を抜く様にして、シュートを決める。

 ……なんて、想像しやすいんだ。

「そのパターンで、斎藤は、一杯、ゴールを決めたでしょう?」

「それは、もう」

 うーむ、必殺技には、コンビプレーも有りなんだろうか?

 智也が、取り留めもない想像をしていると、不意に、声がした。

「おい、智也」

 西山の声だった。

「おい、智也」

「……おお、西山」

「おお、じゃねーよ。お前、今日、風邪じゃねーのかよ」

「風邪は治った」

「じゃあ、練習に出ろよ」

「練習には出れない程度に、治った」

「なんだ、そりゃ」

と、西山は、呟きながら、胡桃に目を留める。

 西山の怪訝な顔に、胡桃が、応える。

「三上君に、蹴球部の練習を説明して貰っていました」

 どうも、違う気がするが、まあ、この際、いいか。

 その時、胡桃を見つめる、ちょっと驚いた様な西山の顔を、智也は、一生、忘れることはないだろう。

 こいつ、恋、しやがった。

 自分も、初めて、マユミに出会った時に、こんな顔をしていたのだろうか。

 でも、西山、止めとけ。

 胡桃さんは、太田か斎藤か分からない。でも、多分、どっちかに、恋してる。

 西山は、しどろもどろに成りながら、智也に尋ねた。

「おい、智也。……こちらは、どなた様だ?」

 どなた様?

 智也は、内心、ため息をつきながら、言った。

「太田と斎藤の高校時代の同級生で、近江胡桃さん」

 胡桃が、慌てて、言う。

「近江胡桃です、よろしく」

「西山祥平です、こちらこそ」

 胡桃と西山が、それっきり、黙り込んでしまったので、思いついたように、智也は言った。

「そうだ、胡桃さん。写真を撮るのに、フェンスが無い方がいいでしょう?」

「……それは、そうですけど」

「監督に、紹介しますよ」

「監督様に、紹介だなんて……」

「ウチの監督、女性なんですよ」

「そうなんですか!」

「そう、ムサイ男ばかりなんで、きっと、胡桃さんのこと歓迎しますよ」

 胡桃には、なおも躊躇いがあったようだが、女性監督という点に、興味が引かれたのだろう。智也が、先頭に立って歩き出すと、その後に、ものも言わず、ついて来た。

 その後を、西山が、何故か、辺りをキョロキョロ見回しながら、ついていく……。


 五月の第三週。

 三部錬のボード練習を、皆がスムーズにこなせるようになってきた、五月の第二週から、練習は、四部構成になった。

 一部が、必殺技を磨く、個人基本技術練習。

 二部が、状況判断を磨く、ビブス練習。

 三部が、グループ戦術を磨く、ボード練習。

 そして、四部が、アディショナルな感じの練習で、練習内容は定まっていなく、筋トレ、紅白戦、或いは、ビブス練習やボード練習、走り込み、といった感じだった。もちろん、筋トレは、週二回は、行う様になっていた。

 一~三部錬で、二時間は使うので、四部練は、自主参加の趣があった。最新の一般論としては、日々の練習時間は、一時間半~二時間が妥当とされている。

 でも、それは、トッププロの話だろう、と、智也は感じていた。

 下手は、結局、練習するしかないのだ。

 もちろん、これを声高に言えば、やれ、オーバーワークだ、練習が効率的でないからだ、等といった批判を受けることになる。しかし、星山大学の面々は、一日二時間の練習で、プロになれるとは、誰一人、考えていなかった。また、仮に、オーバーワークで、身体が壊れても、サムライブルーに、何か影響がある訳じゃない。或いは、Jクラブに、影響がある訳じゃない。それで、皆、自主的に、四部練に取り組んでいた。

 それで、いつからか、もちろん、毎日という訳ではないが、遅くまで、残った者で、飯を喰うようになっていた。

 そんなある日、九条、太田、井形、結城、西山、智也で、部活後、連れ立って、飯を食うことなった。星山大学蹴球部の行きつけの店は、夜でも、定食メニューを提供し、また、お通し代のかからない、居酒屋だった。

 思い思いのオーダーをし、一息つくと、話は自然と、今月末までに、申請しなければならない、必殺技の話になる。皆、チームメイトが、何を申請したか、興味深々だった。

 結城が、先ずは、西山に、話を振る。

「西山君は、何にしたんだ?」

「西山はなあ……」

と、何故か、井形が呟く。

 約二か月の練習を通して、西山のスタミナが化物であること、しかし、下手であることは、皆が理解していた。つまり、西山の必殺技はスタミナで、チームメイトからすると、後は、ちょっとでも、全般的に、上手くなってくれ、という感じだった。

 ところが、西山は、何故か、ニヤリとして言う。

「シザース」

 シザースとは、ドリブルフェイントの一種で、ボールをまたくフェイントだ。ハサミを動かすかのようなフォームで繰り出されるため、そのように名付けられている。

「へえー」

「なんか、カッコイイやないか。俺はドリブルしてるぞって感じで」

「まあ、分からなくはない」

「でも、シザース、と、監督に申請したら、監督は、ちょっと、考えて、ダブルタッチにしなさい、って言い出した」

「ふーん」

「まあ、監督にそう言われたらな。そんな訳で、俺の必殺技は、ダブルタッチや。……でも、なんでやろ?」

 結城が、苦笑いして、応える。

「そういうのは、日内さんに訊けよ」

「もちろん、訊いたさ。そしたら、自分で考えなさい、って。……井形、なんでや?」

と、西山は、ドリブルが得意の井形に訊く。

 井形が、大して、考えもせずに答える。

「そりゃ、お前がSBだからだろ」

 ボード練習には、例えば、SB、CB、MFと想定ポジションが指定されているのだが、各自がどのポジをやるかは、組み合わせになったその場で、選手達で決めていた。それで、ボード練習を通して、チームメイトが、どのポジションを希望しているか、分かるようになっていた。

 もちろん、日内も、選手それぞれが、高校時代、どのポジションをやっているかは、把握しているだろう。

 西山が、ちょっと、悔しそうに、再度、訊く。

「だから、なんでだよ?」

「そりゃ、最近は、インナーラップだなんだ、とあるが、結局、SBは縦に走ってればいいんだよ。いやまあ、先ずは、といれとくか。カットインしてくる高度なSBもおるからな」

「そんくらい、俺だって、分かるよ」

と、西山が、不満げな声を出す。

 智也が、助け船を出してやる。

「西山の考えているシザースって、二度、三度、クリロナみたいに、派手にかます奴だろ?」

「そりゃ、もちろん」

「だったら、ダブルタッチの方が、直線的というか、短時間で済むじゃねーか」

「うーむ」

と、ようやく、西山にも、皆の言わんとすることが分かったらしい。

 井形が、焼肉丼に集中していた、九条に声をかけた。

「九条は、何にしたんだ?」

 九条が、箸を止めて、顔を上げる。

「俺は、先週、決まった」

「何に?」

「鈴木優磨」

「なんだ、それ」

と、井形が、呆気に取られた様な、バカにしたような声を出す。

 九条が、ムッとして、言う。

「お前、鈴木優磨、知らねーの?」

「知ってるよ、アントラーズだろ」

「そりゃ、知ってるか。先週さ、俺、奈緒子ちゃんに呼ばれたんだよ」

 奈緒子ちゃん?……日内のファーストネームだが……。これまで、ババアだ、アイツだ、散々、言い放ってたのに、奈緒子ちゃんとは、やたらめたら、変わったものだ。声の感じも、親愛の情が感じられる。……九条は、いつ、手なずけられたんだ?

「もちろん、必殺技は、何にするの? ってな」

 日内も、問題児は、早目に、片付けとこう、という腹だろう。

 九条が、したり顔で、話を続ける。

「それで、俺が、鈴木優磨、と答えたわけだ。そしたら、奈緒美ちゃんは、感動して、九条君、それは素晴らしいわ、と言ったわけ」

 実は、智也も、鈴木優磨と聞いて、ああ、九条に合っている、と思った。

 鈴木優磨は、鹿島アントラーズの選手で、九条と同じくガッチリした体格のFWだ。身長も同じ、一八〇ちょっとだろう。性格が、勝ち気、というか、俺様なとこも似ている。ところが、プレイスタイルは、非常に献身的だ。

 この位、身長があるFWだと、中央に構える、いわゆるセンターフォワードのプレイスタイルになる選手が多い。ところが、鈴木優磨は、サイドに流れてのクロスなど、ピッチを縦横無尽に動き回るプレイも持ち味だった。

 智也が、九条に、訊く。

「それだけじゃないんじゃねーの。その後があるんじゃないか?」

 九条が、ニヤリとして、応える。

「ふーん、良く分かるな。奈緒美ちゃんは、一しきり、俺を褒めた後、でも、具体的なプレーを挙げてね、と懇願して来た」

 別に、懇願はしてないだろう。

 日内は、監督としての立場を常に、意識している様に見える。

「それで、俺は、サイドからのクロスの精度、サイドで一人ぐらいかわす、と応えたら、奈緒美ちゃんは、目に涙を貯めて、今にも、泣きそうになってしまったわけよ」

 色々、話は盛っているだろうが、正直、智也も、九条を見直した。こいつ、結構、考えてやがる。

 九条は、ついで、井形に、訊き返した。

「お前は、どうすんだよ?」

 井形は、九条と対照的に、苦虫を嚙み潰したような感じで、言った。

「未だ、決まってない」

「へえー」

と、太田が、ちょっと意外そうな声を出す。

 井形は、ドリブルかシュートでいいだろう、と智也も思っていたし、本人も、一部連では、そんな感じだった。

 井形が、話を続ける。

「俺は、監督に、骨盤パニック、で申請したんだ」

 骨盤パニックとは、ドリブルのテクニックで、相手DFの骨盤を右に左に旋回させるようにドリブルのコース取りを変えるというテクニックだ。

「骨盤パニック、いいじゃん。いかにも、必殺技っぽい、ネーミングで」

と、九条が言う。

「だろ。俺もそう思って、監督に言ったら、監督は、でも、井形君、今でも、それ出来てるじゃん、って」

「自慢してるのか?」と九条。

「別にしてねーよ。……それで、考え直しだって」

「まあ、俺も、監督の気持ち分かるな。あと十ヶ月あるんだもんな」と太田。

「やべ、何にしよう」

と、井形が頭を抱える。

「結城は何にしたんだ?」

 FWつながりで、智也が、結城に訊く。

 結城のポジションは、FWだが、正直、特徴のない選手だった。特徴のない、という意味では、智也も同じで、結城が、何に取り組むか、興味があった。

「俺は、シュート、で、申請したんだ」

「シュートか、また、えらく、漠然としてるな」

「まあな。ただ、やっぱり、得点に直結するからな」

「ふーん、それで、日内さんは、何て言ったんだ?」

「結城君は、シュートか。……いいかもしれない。……そうね、ペナルティエリアの角からのシュートは、目を瞑っていても、ゴールやGKの位置を確認しないでも、決められるようにして。監督としては、左右どちらの角からでも、それをやってくれると助かるわ」

「……それ出来たら、マジで、必殺技だな」

と、九条が、ぼんやりと、声を出す。

 結城も、ちょっと暗い顔で、応える。

「うーむ。俺もそう思った。……必殺技の申請は、具体的にした方が良かった、と後悔してる」

 智也は、内心、焦りながら、今度は、太田に訊く。

「太田は?」

「ああ、俺はスンナリ、監督には、OK貰ったよ」

「で、何よ?」と九条。

「ボールの持ち出し」

 ボールの持ち出し、とは、太田の様なCBの場合、ボールを持っている時に、例えば、相手のFWがコースを切りにくる。或いは、プレッシャーをかけに来る。その時に、パスで逃げるだけでなく、違うプレーを狙う為に、ボールをグッと持ち出して、相手FWとMFのラインの間に入ってしまう、ことだ。要は、短いドリブルのことだ。

 智也は、太田の答えを聞いて、なるほど、と思った。

 太田は、斎藤へのパスを、ロングフィードを、増やしたいのだ。

 CBの太田が、斎藤や、MFやFWに高精度で、パスを通すことが出来たなら、それはチームとして、確かに必殺技だ。日内も、二つ返事で、OKだろう。

 西山が、ふと思いついたように、言う。

「でも、何の練習するんだ?……短い距離ドリブルするのって、別に……」

「その為の、ボード練習だろ。ボード練習は、サッカーの試合の、よくある局面を、切り取ってるんだよ。監督、よく言うじゃん、練習メニュー、練習内容は募集してます、って」

「ああ、そういうことか」と井形。

「六月からは、監督の方で、メニューに取り入れてくれる気もするし、或いは……」と太田。

「太田が、提案するのを待っているか……」と智也。

 太田が、ニヤリとして笑う。

「監督って、そういうとこあるよな」

 智也も、苦笑いする。

 日内は、太田が提案するのを待っている、絶対。

 今度は、太田が、智也に振る。

「智也は?」

「……未だ、決まってない。アイデアが湧かない」

「智也は、万能型だもんなあ。ある意味、何でも出来ちゃうからなあ」

「ケッ、そういうの、器用貧乏っていうんだよ」と九条。

 この場合、九条の評価が正しいだろう。

 特徴の無い選手であることは、ユースの時から、智也本人が何よりも、自覚していた。

「監督には、相談したのか?」

と、太田が、心配してくれる。

「してない。……さっきの結城の話聞いたら、何か、具体案持って、行った方が良さそうだよなあ」

「ま、凡人どもは、色々、大変だな」

と、九条が、機嫌よく、言う。

 智也としては、言い返す言葉がない。

 智也が、ヤケクソ気味に、ミックスフライ定食のエビフライに、かぶりつくと、西山が、声を出した。

「そう言えば、去年の不祥事って何だったんだ、というか、先輩達、何したんだ?」

 星山大学蹴球部は、今年は、二部リーグにいるが、去年までは、一部リーグにいた。

 去年の秋に、蹴球部員が不祥事を起こし、二部リーグに降格した。

 しかし、結城財閥、結城慎之介の力で、新聞やテレビには、その詳細が、一切、報道されなかった。

 九条が、言う。

「俺も、去年、星山大学から、スカウトが来てよう……」

 スカウトとは、結城ホールディングスの高見さんのことだろう。

「でも、二部リーグじゃなあ、と、正直、迷った」

「じゃあ、一部でも、Jクラブでも行けばよかったじゃん」

と、井形が、飄々と言う。

「馬鹿。……ここしか、スカウト無かったんだよ。……一体、日本サッカー界のスカウトはどうなってるのかねえ。先が、思いやられるよ。……そう言えば、井形。お前は、どうなんだよ? 他に、話は無かったのかよ?」

「ああ、俺は、不祥事、起こした側だから」

 ん?……何気に、今、凄い発言してないか?

「おお、そうか、お前は、見どころの有る奴だと思ってたんだよ!」

と、何故か、九条が、上機嫌になる。

 九条と井形以外が、当然、困惑と共に、沈黙してしまう。

 不祥事? 井形の起こした不祥事って何だ?

 聞くべきか?

 いや、止そう。……井形だって、更生したに違いない。過去をほじくり返すのは良くない。

 智也は、沈黙を振り払うかの様に、言った。

「まあでも、本当にヤバイ奴だと、無期限活動停止とか、そういうのじゃねーの? 二部降格、実質、半年の活動停止で済んだんだから、大したことないんじゃねーの?」

「そうそう、そう考えとこう」

と、太田も、同調する。

 今更、自分達には関係のないことだ。

 だが、智也は、自分が間違っていることを、そして、智也にも、今の星山大学蹴球部にも、大いに、関係のあることを、直ぐに、思い知らされることになる……。

 すると、何故か、結城が、荒い声を出す。

「結城財閥の力をなめるな!」

 九条が、ギョッとして、言う。

「別に、なめちゃいねーよ。……筋トレルームだって、お前の爺さんが作ってくれたんだろ。……まあ、俺には必要ないが、なんか、士気上がって、いいんじゃねーの」

「そういうことを言ってるんじゃない。……去年、起きた不祥事を矮小化する為に、結城財閥が、どれだけ、尽力したか……」

 ……それって、尽力、って言うの? ……。もみ消しに尽力、矮小化に尽力……。

 すると、西山は、そもそも的に、自ら、振ったネタに後悔したらしい。

 西山は、唐突に、奇声を、いや、気勢を上げた。

「大学日本一になるぞー」

「当然だ。俺様がいるんだ。そんくらい楽勝だぜ」

と、今晩は、上機嫌な九条が言う。

「まあ、そんくらいしないと、俺もプロになれないしな」

と、井形が、淡々と言う。

 井形、お前の起こした不祥事って何だ? 話はそこからだ。

「俺はプロになれないけど、四年間、(斎藤)楓太に、パスを出せれば、それでいい」

と、太田が、星山大学蹴球部に来た動機を明かす。

 智也は、お味噌汁をすすりながら、ボンヤリ、考える。

 やべ、必殺技、何にしよう……。

 

 翌日、智也は、練習後、日内に、声を掛けられた。

「智也君、今日、これから、時間ある?」

 来たな、と智也は思った。

 必殺技の話だ。

 ところが、日内が、ファミレスで話し出したのは、必殺技の話では無かった。

「何でも、食べて。今日は、私の奢り」

 日内は、先程、ウェイトレスが置いて行った水を一口飲むと、言った。

「智也君を奨学生に推薦した人が、私以外に、というか、私の前に、二人いるの」

「二人、ですか?」

「そう」

「先ずは、鬼武さん。……鬼武さんって覚えてる?」

「そりゃ、覚えてますよ、ユースの監督ですから」

「そうよね。……私がね、星山大学の監督のオファーを受けて、最初にしたことが、J1、J2のユースの監督行脚」

「へえー」

「文字通り、北海道から沖縄までだから、なんだか、笑っちゃうよね。……Jリーグって浸食してるなあって」

「浸食っていうか、拡大ですね」

「まあ、そうかな」

 ……拡大じゃない……普及か。

 そして、日内は、話を続けた。

「私ね、いつも思うの。テレビや新聞で、Jチームの春の新入団会見で、ユースからも、一~三名、入団するじゃない?」

「……はあ」

「本当は、少なくとも、十一人じゃなきゃ、おかしいって」

「……」

「だって、ピッチに立つのは十一人なんだもの。その年代のそのクラブのベストイレブンが、トップに上がらなきゃおかしいって」

「……」

「もちろん、絵空物語だってことは分かってる。だから、私、ユース監督行脚した時に、聞いたの。トップ昇格はさせなかったけど、この年代で、十一人選ぶとしたら、誰ですかって」

 智也は、鬼武監督の、名前の通り、厳めしい顔つきを思い出していた。

 日内が、続ける。

「そしたら、もちろん、智也君の名前もあった。鬼武さん、言っていた。こいつは、絶対、ピッチに、十一人の中に、必要な奴ですって」

 智也さんは、鬼武監督が、そんなことを考えているなんて、想像すらしていなかった。

「そして、もう一人、智也君を推薦したのが、結城ホールディングスの高見さん」

「高見さんですか」

「高見さんは知っている?」

「ええ、結城から、名前だけは知っています」

「高見さんが、色んなビデオを、候補の選手の、智也君とかの試合のビデオを集めてくれたの。それで、高見さんが言うには、この三上って選手は、サッカーをしている目つきじゃない。もっと怖い目をしてる。社会人にもいるんですって。何年かに一人、こういう目付をした人が。で、そういう人は、間違いなく、出世するか、或いは、起業したりするって。私も、智也君の動画を見て、なんとなく、高見さんが言っていることが分かった」

「それは、いつ頃の動画ですか?」

「……去年の冬ごろかな」

 智也は、マユミが死んでから、結局、丸々一か月、ユースの練習を休んだ。

 その後、練習に復帰した智也を、鬼武監督は、ちょくちょく試合に出してくれたから、その時の試合のビデオだろう。

 智也は思う。

 あの時、僕は、サッカーをしていたんじゃない。

 もっと違う何かをしていただけだ。

 智也は、マユミのことを、思い浮かべながら、訊いた。

「今の僕も、その頃と変わっていませんか?」

 日内は、ちょっと、考えると、言った。

「どうだろう、多分、それは、試合になってみないと分からない」

「……そうかもしれませんね」

「試合で、死に物狂いの他の選手と比べて、それでも、違う何かがあるかどうかだから」

 その夜の、日内は、饒舌だった。

 日内は、ナポリタンを、ちょっと食べてから、再び、話し始めた。

「私がどうして、男子の、大学男子の蹴球部の監督を受けたか、分かる?」

「……分かりません」

「私ね、女子でも、小柄なの。女子って、蹴るボールも、ゴールマウスの大きさも、ピッチの広さも、男子と同じでしょ。別に、全ての女子にとって、条件は同じだから、競技としては成立してる。でもね、女子にとって、やっぱり、今の大きさのピッチやゴールマウスは、ちょっと大きいと思う」

「……それは、僕もそう思います」

「でも、サッカーって、そのちょっとの争いじゃない? あと、三十センチ足が届けば、クリア出来た、あとボール一個分、内側なら、ゴールが決まった。世界のトッププロだったら、この三十センチが、文字通り、五センチ、十センチの争いをしてる……」

「……そう思います」

「つまり、男子と女子で、サッカーという言葉でくくれば、同じだけど、似て非なるスポーツを、競技を、してるのよ」

「ですね」

「でも、世界は、世界に溢れるサッカーの言説は、男子に基づいてる。……それで、男子サッカーの監督をしてみたかった訳」

 智也は、ちょっと、考えて言った。

「日内さんって、理屈っぽいですね」

 日内は、おかしそうに笑うと、あっさりと否定した。

「全然」

「……全然、ですか」

「私は、直感派よ。でも、最近、ブームじゃない? サッカーのプレイを言語化しましょう、って。監督やコーチも同じかなって」

「……はあ」

 日内が、喋っている間、智也は、ステーキ定食を、ペロリと食べてしまった。日内も、お腹が空いてたらしく、ナポリタンに集中し出した。

 手持ち無沙汰になった、智也は、日内に、訊いた。

「あのー、必殺技ですけど、どうしましょうか?」

 日内は、ナポリタンを巻き付けるフォークの手を止めて、ちょっと、考えて、言った。

「智也君は、オールマィティーを目指して」

「器用貧乏、ですか?」

「オールマィティーと、器用貧乏は違うよ」

「違いましたっけ?」

「器用貧乏ってのは、どれもこれもが中途半端で、大成しないことだから」

「オールマイティは?」

「あらゆる能力が高いこと」

「違いは?」

「オールマイティが、オール四で、器用貧乏がオール二、かな?」

「じゃあ、オール三は?」

 日内は、一瞬、口を開きかけたが、結局、この質問には答えなかった。

 ……確かに、直感派かもしれない。

 智也が黙り込んでしまうと、日内は、再び、口を開いた。

「何かないの? これやりたい、っての。そりゃ、必殺技って言うくらいだから、努力しなきゃ駄目だよ。でも、人間、努力しようと思って、出来るもんじゃない。自分がやりたい、こうなりたい、って思うから、結果として、他人から見たら、努力してる、ってことになるんだから。……何より、本人の希望が大切」

「その理屈は分かりますが……」

 やがて、日内は、しげしげと、智也を見つめると、言った。

「じゃあ、私から、リクエストを出していい?」

「ええ、そりゃ、もう」

 日内は、よし、と呟くと、言った。

「小野伸二は知ってる?」

「ええ、そりゃ、名前ぐらい」

「じゃあ、あとで、プレイの動画も見てね」

「はあ」

「小野のパスは、布のようになめらかで優しいパスだったことから、ベルベット・パス、と言われたわ」

「……聞いたことあります。……じゃあ、僕も、その、ベルベット・パスを?」

 日内は、意外なことに、首をしっかり、横に振ると、言った。

「ベルベット・ループ・パス。……これが、智也の必殺技」

「……ベルベット・ループ・パス」

「相手のDFラインの裏に、ループでポトリと落とす、もちろん、スピードは、出来るだけ、速くね」

 ……うーむ、確かに、日内さん、無茶、言い出した。

「そうね、距離は、十m~三十mを、五m刻みで、意識すること」

「……相手DFラインの裏にポトリと落とす、と」

「そうそう、流石、智也君、話が早いわ。……大丈夫、あと、十カ月もある、楽勝、楽勝」

 智也は、昨晩の結城のアドバイスに、対応しなかった自分を、心底、後悔した……。

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