プロローグ
私は落ちこぼれだ。
歌が好きってだけで音大を選んで、まだ演じていたいってだけで大学院まで行った。
音大を受験する時のピアノの先生の慌てようが凄かった。
「ほんとに?!え?!彩音ちゃん音大受けるの?!?!」
当たり前だ。幼少期は5分で良いからピアノの前に座ってと言われ、たまたま優しい先生方に恵まれたから続けられただけ。声楽で受験すると言った時のほっとした顔。
それでも、AO受験に落ちたらピアノも必要だからと初めて「ハノン」と「チェルニー」を開いた。全然弾けるようにはならなかったけれど。
大学生活はそれなりに充実していたと思う。クラシックだけじゃなくて、ミュージカルに関わったり、仲間もできた。一回だけど演奏会に参加することも出来た。だからどうというものでもないのだが。
あっという間に最後の年で、来年はどうするのかとなった。舞台に立つ人間になりたくて、でも今の実力も何もかも出来ていない状態で外にでて何になるのかと思った。ある意味、逃げの院だった。
行っていた大学は楽しかったし、安心感はあったけれど、学部の内容で量が増えるだけだと聞いていたから外部院への進学を決めた。甘えてしまうとも思ったから。
大学院は思ってた以上に大変だった。楽しくて忙しくて苦しくて。わけが分からないほど勉強した。論文を書かずに学部を出た事を後悔する日が来るとは思わなかった。
それは、論文の資料を借りるため外部の大学図書館に向かっている途中だった。ジリジリと照りつける太陽の下、馴染みの無い道を歩いているとストリートピアノが置いてあった。少し前に流行っていたから置かれたのだろうが、手入れがされておらずペイントが剥げてしまっていた。
「調律はしてあるのかな」
ピアノなんて全然弾けないから、普段は素通りする癖に何故か気になってしまった。ボロボロの椅子を引いてピアノの前に座る。鍵盤は何とか無事のようだ。Cdurのスケールを弾く。
「あれ、あんま気持ち悪くない…?」
大した耳なんて持ってないから、感覚だけれど違和感なくドレミファソラシドと鳴っているように聞こえる。
「んーーー」
学部時代にテストのために覚えた曲は、指が覚えていた。ショパンの「ワルツ19番イ短調」。遺作のワルツっていえばわかるらしい。弾き出してしまえば、その頃言われた事が甦ってくる。
この音は重たく、歌の人なんだからメロディは歌えばいいの、ワルツのリズムを崩さない。夢中になって弾いていると、風が頬を撫でる。花の香りを運んできたようだ。鍵盤を飛ぼうとして気がつく。
自分の影が手元に無い。暗くなって見にくくなっていたはずなのに。
「え」
視線をあげたその先には、コンクリートの道もよくある街路樹もなく、ボロボロの剥げたストリートピアノは白く細かい細工の施されたグランドピアノに変わっていた。
「いや、え?」
吉田彩音23才。
気づいたら迷子でした…?