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9 宿る祈り

 日が経つにつれ、彩月は次第に落ち着きを取り戻した。

 屋敷にも徐々に活気が戻る。

 明は以前のように下働きをさせられなくなった。片腕で役に立たないというのもあるかもしれないが、何より彩月が明を傍らから離したがらなかったからだ。

 奴隷が侍女へ格上げされるなど破格のことであり、しかもろくに仕事もしない。だが、誰もそれへ不満を言うことはなかった。むしろ、明へ対する態度は丁寧な物だった。

 明が捕らわれる前を思えば、その態度の変化は驚くほどのものだ。それほど、明のいない間の彩月はひどい有様だったのだろう。明一人を彩月の元において彩月が落ち着くのなら、いくらでもいてくれといった様子だった。

 忙しかった毎日から、突如暇な日々に変わってしまった。

 仕事といえば、せいぜい彩月の身支度や配膳、遊び相手くらいである。

 今ではすっかり片付いた部屋の中で、明は立ち上がって扉に手を伸ばした。

「明、どこに行くの?」

 すかさず彩月の声が聞こえる。読書をしていた手を止め、明に駆け寄ってきた。

 彩月も今では貴族の子女らしく、しっかりと髪を結いかんざしを挿している。華やかな赤い絹の着物に身を包み、紫の帯がいっそう彩月の美しさを際だたせていた。

 侍女とは言っても彩月の傍らにいる明は、侍女の服でもなく、ましてや奴隷の着る粗末な服も着ることはなかった。彩月と同じように絹の着物を着せられ、彩月も明に自分の服を着せて楽しんだりしていた。初めは馴染めなかった冷たい絹の生地だったが、今ではそれを心地よいと思えるほどに慣れた。

 明の着物は薄緑の生地に、桃の模様が描かれている。もうすぐ春になるからと、彩月がお気に入りの着物を明に着せたのである。明はあまり派手にしたくはないからと、帯も襟元もいつも黒で統一させてもらっていた。せめてそのあたりは侍女らしく分別をつけたいと思ったからだ。髪も複雑には結わず、ただ一つに丸めて飾りのない銀の簪を指しただけだった。

 不安そうな表情で明の腕をつかんでくる彩月に、明は落ち着かせるように柔らかく笑った。できれば手を添えたいが、左腕を捕まれていて自由がきかない。

「すみません、お邪魔をして。読書に熱心のご様子でしたで、声をおかけしづらくて。お茶を入れに行って参りますね」

「すぐ戻る?」

「はい、すぐに戻ります。お待ちください」

「わかったわ」

 明は頭を下げてから部屋を出た。

 部屋を出てしばらく歩きながら、短い溜息が出る。

 まだ、ましになった方だ。

 明が帰ってきた数日は、彩月は決して明を離そうとはしなかった。身を清めるからと言っても、つかず離れず、四六時中そばにいなければ気が済まない。こうして用事で離れられるようになったのは、大進歩だと思う。

 だが、やはり気が重くなる。

 ここまで自分に依存されてしまっては彩月の将来が不安である。黄家は趙の中でも名門の貴族。いずれはどこか立派な家柄に嫁いでゆくはずなのに。

 考え事をしながら廊下を曲がったせいだろうか。曲がった瞬間に、人とぶつかった。衝撃で右へよろめき手をつこうとして、しまった、と思った瞬間、ふわりとその腕に支えられる。

 アスドラの腕とは違い、たくましくはないがしっかりと明を支えてくれる。衣擦れの音と共にすっと高貴な香の香りが漂う。その香りに覚えがあり、明ははっと身を固くした。

「大事ないか」

 声を聞き、ますます身の縮む思いがする。そのまま跪こうとしても、支えられたままのためそれも出来ない。

「は、はい」

「急いでいたせいで、前を見ていなかった。お前も気をつけなさい」

「申し訳ありません、若様」

 会うのはかなり久しぶりである。というのも、たった一人のこの黄家の跡取り公子は現在勉強のためにと都で政府の職に就いており、領地には年に数度しか帰っては来ていなかったからだ。

 すごい人だ、というのが明の印象である。

 今年で確か二十四になる。長く館にいないというのに家臣からの信頼が厚く、話が上ればいつも、ほめ言葉である。幼い頃から勉学を良くし、武芸にも秀で、麒麟児と呼ばれていた。

 物腰は柔らかく明はこの公子の怒った姿を見たことはないが、決して優しいわけではないことも知っている。家の事を何よりも重視し、家を守るために常に何が必要か選択している、そんな様子だった。それが黄家のためであれば、冷徹な決断もこの公子ならするだろう。

「――明、だな。よく戻った」

「はい」

 ゆっくりと身を起こし、明はその場に膝をついた。左手一つで床に手をつく。

「長くお嬢様の側を離れ、申し訳ありませんでした。今後は今まで以上にお仕えいたします」

「顔を上げて立ちなさい、明」

 明はゆっくりと公子を見上げた。

 自分を見下ろす公子の顔は、年より少し若く見える。名を()、字は瑛峻(えいしゅん)と言う。側室も子もいるが、まだ正室はいない。貴族らしく、彩月に似て整った顔をしていた。あまり日の元にいることはないのだろう、白い肌に控えめな黒の着物がよく映える。涼しげな目元は以前と変わりない。

「話は聞いた。――見違えたな」

 当然明の着物が彩月のものと気づいたはずだ。明は身の置き場がないような思いにまた下を向く。

 その様子を見て瑛峻はふっと笑った。雰囲気が一気に和む。

「恥じることはない。お前の功績に足る報償だ。――明、腕を失ったと聞いた」

「――はい」

 そっと肩に手が置かれた。はっとして見上げると、そこには今まで見たこともないほど優しい顔の瑛峻があった。

「お前ほど忠義に篤い者を持ち、誇りに思う。明、お前は黄家のまたとない財産だな」

 そんなことはない。明は心から首を振った。

「もったいないお言葉です」

「今回は彩月に会いに戻ったんだ。――お前を傍らに置いて放さぬと聞いたぞ」

「………は」

「困ったものだな」

 短く、吐き捨てるように瑛峻は言った。聞き逃しそうになって、明は思わず聞き返す。

 瑛峻は自嘲に似たような複雑な笑みを漏らした。

「早くに母を亡くし、私も側にいてやることが出来ず、年近い友も持たず……。彩月は人と距離を取るのが下手だからな。お前に対するそれはまるで犬猫を愛でるもののようだ」

「……………」

 分かっていた。彩月の自分への愛情は、あくまで彩月の所有物としてのものだと。だが、それがなんだというのだ。もとより彩月の所有物であった自分だ。今更、悲しむことなどない。

「私は奴隷です。奴隷は人ではございません」

 明のはっきりとした返答に、瑛峻は笑みを浮かべた。感情の読み取れない笑みだった。

「そうか」

 それだけ言って、瑛峻は視線を明の先にやった。明もつられて後ろを振り返る。そこには、なかなか戻らない明を案じて出てきたのだろう、彩月がゆっくりと部屋から出てきたのだった。

「お兄様!」

 彩月は瑛峻の姿を見つけると嬉しそうに笑みを浮かべて駆け寄ってきた。

「いつお戻りになったの?お懐かしいわ。ねえ、いつまでいられるの?」

「此度は長く滞在するつもりだ。匈奴の一件も気になるしね。領地を守るのが何より大切だから」

「お兄様がいれば安心だわ。お父様じゃ当てにならないもの。ねえ、明?」

「え?あ、あの……」

「こら、明に同意を求めるんじゃない」

「あら、どうして?」

 彩月は言いながら明に腕を回してきた。

「明は私の味方だもの。ねえ、明?」

 明は笑って答える。

「はい、明はいつでもお嬢様の味方です」

 その答えに満足げな彩月を見て少し安心する。

 瑛峻はそのやりとりを身ながら、肩をすくめた。

「やれやれ、父上の言うとおりだね。――それはそうと、彩月、紹介しておこう。新しく私に仕えることになった者だ。都では有名な医師に師事して学んだ者で陶専(とうせん)と言う。明を診てもらいなさい」

 瑛峻の背後にいた何人かの内、一人が小さく頭を下げる。

 表情の変わらない、暗い印象の男だった。無口そうだが、わざわざ瑛峻が連れてくるのだ、優秀なのだろう。

「あ、あの、私は……」

 遠慮しようとしたが、彩月がぐっと身を乗り出した。

「それはいいわ!陶専とやら、明の腕を治してちょうだい」

「お嬢様……」

 気遣いは嬉しいが、そこまでしてもらうわけにはいかないと、言おうとしたときだった。ぬっと陶専の手が伸び、明の右手を取った。

「いつから?」

「――え?」

 急な事で身が固まる。

 陶専は低くくぐもった声で、また同じ言葉を繰り返した。

「いつから、腕は動かない」

「あ、あの……五月前くらい、です」

 陶専は腕を動かせ、と言いながら腕のあちこちを確かめるように触れた。動かそうと努力しても、明の右腕はぴくりとも動かなかった。

「原因は」

「毒矢が肩に、と聞いています」

 憎らしい、と彩月が横で吐き捨てるのが聞こえる。

「――駄目だな」

「お前でも治せないのか」

「大きな神経が死んでいる。腕を動かす筋はどれ一つ収縮しない」

 陶専は明の腕から手を放すと、無感情な声で続けた。

「匈奴の毒は強い。高熱を発し、放っておけば死ぬ。その毒を受けて生きているのだから、誰かに手厚く看病されたのだろう」

「――はい」

 多くを語れば、目が熱くなりそうだった。

 もう会えない、愛しいアスドラ。

 努めて明も無感情に返事しただけだった。

「仕方がないな。陶専で無理なら、誰に見せても同じ答えだろう」

「お手を煩わせて、申し訳ありませんでした」

 早くこの場から去りたくて、明は頭を下げる。だが、陶専の目が何か引っかかるように明を見つめたまま離れなかった。

「陶専、どうした」

 瑛峻の問いに陶専は難しい顔で明を見ると全身を上から下まで見た。

「心当たりがあるか、明とやら。お主、腹に子がおるな」

 瞬間、その場にいた者全員が凍り付いた。

「今……何と?陶専」

「おそらく間違いはないだろう。そろそろ腹も出てくるはずだ。月のものが止まっているのではないか。――体の変調は、本人が誰より詳しい」

 視線が集中し、明はまさか、と左手でお腹に触れた。思わず首を振る。

「まさか……そんな」

 ここに?この中に、今、アスドラの子が?

「吐き気を感じたことはないか。嗜好は変わらないか?体がだるい、眠気が取れない――そんなことは?」

 確かに最近、疲れがたまっている気はした。月のものも、ない。どれも急な環境の変化のせいだと思っていた。

 すぐには信じられない。今更、このお腹に子供がいるなんて言われても。

 でも、もし本当なら。

 決別したはずなのに。はっきりと、別れを決意したはずなのに。

 こんな形で、また離れられなくなるなんて……。

 力なくその場に座り込んだ明を、周囲の人がどう勘違いしたのか。

「とにかく、休ませてやりなさい」

 瑛峻に頷いて彩月は明を部屋へ促した。

「大丈夫よ、明。こんな悪夢、すぐに覚めるわ。私が覚ましてあげるから。こんな恐ろしいこと……。私が、私が取り去ってあげるから」

 気も遠くなるほどの混乱の中で、彩月のその言葉が何度も頭に響いた。

 嫌だ。

 突如、激しい拒絶が胸からわき上がる。今まで一度も彩月に感じたことのない拒絶。

 この子だけは。この子だけは、奪われたくはない――。




 詳しい診察のため、陶専は明の居室へ通された。

「三月、と言ったところか。間違いないな」

 診察を終えて言う陶専は終始事務的だった。

 部屋には明と二人だけである。明は衣類を整えながら、息の詰まる思いで胸を押さえた。

「顔が青い」

 労りとは無縁の、無感動な声である。

「蛮人の子を孕んだとあれば無理も無かろうが――体を大事に」

 先生らしいことを言って、陶専は立ち上がった。明は慌ててその袖を掴む。

「と、陶専様!」

「――何か?」

「あの……このお腹に」

 まだ信じられない気持ちで、自分の腹に手を当てる。

「子がいるのは事実だ」

 確かめるように何度も手でさする姿を見て、陶専は言った。

「先のことは公子に相談するのだな。悪いようにはされまい。早まった真似はせぬ事だ」

「先の、事――」

「その子をどうするかだ。――流すというのなら私は力は貸せぬが」

「私は――」

 言い淀む明を見て、陶専はやんわりと自分の袖を掴む手をほどいた。

「ゆっくり考えるといい」

「陶専様!」

 明は慌ててその手を掴んだ。

「私……私は、産みたいのです」

 陶専の顔が驚きの表情へと変わる。

「何と」

「産みたいのです。……お願いします」

「……………」

 匈奴の子など、蔑まれ疎まれるだけ。場合によっては殺されても誰も不思議と思わないだろう。それほど、匈奴は忌み嫌われている。彩月も瑛峻も、子は堕ろすものと初めから思っているだろう。

 陶専ですら、明は早く子を殺してくれと言うと思っていた。

「――子は何もしなくても育つ」

 しばらく間をおいて、陶専は重い口を開いた。

「産みたくば、良いものを食べ、無理をせず、健康でいることだ」

 それだけ言って、陶専は出て行ってしまった。

 明が今言ったことを、瑛峻や彩月に伝えるだろうか。蛮族の子を産みたいと答えた明を、二人はどう思うのだろう。

 陶専が扉を開けた瞬間、彩月が駆け込むようにして入ってきた。

 寝台に起きあがっている明を見て、泣きそうな顔でその体に抱きついてくる。

「明!」

「お嬢様……」

 扉の外でずっと待っていてくれたのか。明よりずっと青い顔をして、自分のことのように思ってくれている。

「お嬢様、私は大丈夫です」

「大丈夫なものですか!」

 抱きついたまま、苦しいくらいしがみつきながら彩月は叫んだ。その声音から、泣いているのだと分かる。

「何と惨いこと。あの蛮族どもは、本当に豺狼の如き者どもだわ。そんなところに幾月もいて、よく無事で帰ってきてくれて、明……ごめんなさい。ごめんなさい」

「お嬢様……謝らないでください」

 この体に子があると知って、心の何処かで本当に喜んでいるのだ。愛しいアスドラの子を持てたことを、本当に嬉しく思っている。ここでこの子を産んでしまっては、この子に限りない苦難の道を歩かせることになると分かっている。それでも、どうしてもこの子を産んでやりたい。そして出来るなら、あの広い草原に、自分は無理だから、せめてこの子だけは帰してやりたい。

 そんな馬鹿なことを考えている自分なんかに、謝る必要なんて無い。

 胸が締め付けられそうになって、明は彩月から身をひいた。

 涙で濡れた顔で、彩月は明をじっと見ていた。

「明。心配いらないわ」

 彩月は懐から一つの瓶を取り出した。透明の液体が入っているそれを、しっかりと明の手に握らせる。

「早く終わらせてしまいましょう。終わらせて、以前の、何もなかった頃に早く戻りましょう……もう、こんな事、耐えられないわ」

「お、お嬢様」

 その目は余裕無く底光りしていて、有無を言わせない迫力があった。無理矢理明の手にその瓶を握らせる力は、驚くほど強い。

「明。これさえ飲めば子供なんて無かったことにできるわ。全て元通りよ。さあ、安心して、一気に飲み干してしまいなさい」

 嫌だ。

 気持ちでは全身で拒絶しているのに、彩月の必死の様に逆らえない。彩月は素早く瓶の蓋を取った。嗅いだこともない薬草の香り。明が診察してもらっている間に素早く調合してもらったのだろうか。

 早く飲めと、彩月の手が促す。行き場を無くして、明は視線を走らせた。

 部屋にいつの間にか入ってきていた瑛峻も、何も言わずただ見守っているだけだった。

 この場で産みたいなどと、言えるはずがない。自分は仕えている身であることも忘れ、北の地で愛されて暮らしていたなどと。だからこの子も産みたいなど。

 いや、いっそ言ってしまった方がいいのだろうか。あちらでは少しもつらくなかったのだと。その方が、アスドラの一族への誹りなど聞かずに済む。自分が蔑まれれば済むことなら――。

 そう思い、ごくり唾を飲み込み、口を開きかけた瞬間だった。

 力強い手が、間から割り込んできて薬瓶を奪い取った。

「何をするの!」

 陶専だった。今まで傍観していたのに、いつの間にか近くに来ていた。彩月の批難の声も気迫も意に介さず、飄々とした顔で薬瓶を眺めていた。

「私の患者に勝手なことをしては困る」

「私の、ですって?」

 彩月の怒りがわき上がる前に、陶専は冷たく言い捨てた。

「こんなものを飲ませて、明の体まで殺すことになるぞ」

「そんな……そんなはずはないわ。それは黄家でよく使われている――」

「そもそも妊娠自体、負担の大きいものだ。三月も経っていれば子も大きくなっている。その子を堕ろすとなれば、母体への影響は多大。その危険を考えた上で、それでも飲むというなら私は何も言わないが」

「これを飲めば、明は死ぬというの……?」

「親子共に死ぬ可能性が大きいだろう」

 彩月は考え込むように黙り込んだ。

 陶専は庇ってくれたのだろうか。しかし、それにしてはあまり協力的に思えない。陶専の表情を見てみても、目も合わさない無表情からは何も読み取れない。

「彩月」

 離れたところから、瑛峻が沈黙を破った。

「陶専の目は確かだから、信じなさい。今は明の体が第一だろう」

「それは、分かっているけど……」

「彩月。そう思うのなら、そんな薬瓶じゃなく、なにか明に精のあるものを持ってきてやったらどうだ?」

「いいえ、私は……」

 慌てて立ち上がろうとして、瑛峻の物言いたげな目に押しとどめられる。何か自分に話があるらしい。彩月が素直に頷いて部屋を出て行くのを、黙って見送った。

 彩月は昔から兄には素直に従う。

 部屋に残されて、明は恐縮して瑛峻の次の言葉を待った。

「たとえ使用人であろうと、黄家より蛮人の血を持つ子を出すことになるのは何よりの不名誉だ」

 それは、はっとするほど冷たい声だった。今まで明は瑛峻のそんな声を聞いたことはなかった。黄家の嫡子としての瑛峻だった。

 その顔を見ることも出来ず、明はぎゅっと拳を握りしめた。

「本来なら、子を堕ろすどころかお前を黄家より出すところだが……彩月があれではな」

 深いため息一つ吐いて、瑛峻は明に近づいてきた。俯いていても瑛峻の足下が見え、明は引かれるように瑛峻を見上げた。

「北方より戻った侍女が蛮人の子を孕んでいたと噂が立ったとしても、お前を失った彩月がまた狂ったと噂が立つよりは――家名の傷は浅い」

 意外にも、瑛峻の顔は冷たい顔ではなかった。むしろ、悲しげに明を見ていた。そういう表情をしていると、彩月と兄妹なのだと実感する。

「許せ、明。黄家の財産などといっておきながら、ろくにお前を守れていやしない。子を堕ろしてやれぬこと、済まなく思う」

「若様、そんな……」

「明。お前は彩月を生涯かけて守ると誓ってくれた。だが私は、私たちはお前一人より黄家の名誉を守らねばならない」

「分かっています」

 明は意思のある瞳で瑛峻を見返していた。

「若様、たかが(はしため)一人のこと、お気になさらないでください。私は……若様に気に掛けていただけるような人間ではないんです。私は……」

 瑛峻になら、言ってもいいだろうか。

 明はいたたまれなくなって、瑛峻を見つめ返した。ゆっくりと、恐る恐る口を開く。

「公子。お時間が……」

 急に割って入ったのは、陶専だった。明をじろりと見下ろして、瑛峻に退室を促す。

「ああ、そうだな。――明。私は行かねばならないが……しばらくゆっくり休養しなさい」

 それだけ言うと、瑛峻は足早に部屋を出て行ってしまった。

 残った陶専が、ちらりと目線だけを明に向ける。

「先は言わぬ方がいい」

「え……?」

 陶専も部屋を出るように後ろを向きながら、口早に言った。

「そなたが子を産みたいと言うからには、あちらでの生活はそう悪いものでもなかったのだろう」

「……………」

「そのことについて私はとやかく言うつもりはない。だが世間ではそうはいかない。貴族ならなおさらだ。巨大な黄家がお前を庇護しているから面だって何も言われないだろうが、一般的に蛮族の妻とされたものがここでどういう扱いを受けるか。共に帰った女の例を見るまでもないだろう。それを思うなら、無駄に口は開かぬ事だ」

 やはり言うなと言うことか。明は気落ちして、しばらくしてはっとした。

「共に……今、共に帰ったと言いましたか?鈴のことですか、彼女は……!」

「鈴とは、(りゅう)家の鈴香(りんこう)のことだろう?知らなかったのか。あの娘ならとうに死んでいる」

「死んで……どうして」

「長い間蛮族に捕らわれ、汚らわしいと蔑まれ、家族からも見放された。婚約者には絶縁され、誰にも見放され、耐えきれず自害した」

「そんな……」

「もう十数日は前のことだ」

 愕然としている明をおいて、陶専は退室していった。

 鈴が死んだ。

 それは、明にとって本当に衝撃の事実だった。

 あの大地で、それほど親しくはしていないものの、共に過ごし帰ってきた鈴。それだけで、明にとって朋友のように感じていた。あの大地を共に知っている仲間と思っていた。

 鈴は一体この国でどんな扱いを受けたのだろうか。死ななければならないほどつらい目にあったというのだろうか。たった一人で、寂しく死んでいったのだろうか。

 だが、確かに普通に考えれば、北方に捕らえられながらも帰ってきた者は、同情と同時に蔑視の視線にさらされる。身を穢されたならば、自ら命を絶って当然という考え方なのだ。それこそが高潔と言われる。高貴な身であれば血を守れと、幼い頃より教えられる。

 彩月も、匈奴を犲狼(さいろう)と言っていた。こちらの国の人にとっては、まさしく獣なのだ。馬に乗り、土地を持たず、文明も文字も持たず。たびたび自分たちから略奪を繰り返す。育てることをせず、奪うことしかしない荒々しく無法者の国。そう思われているのだ。

 明は奴隷として育ち、一般人とは少し違う。だからこそ、周りも穢されたなどとはそれほど言わないのだろう。黄家の庇護はもちろんあるが。

 本当は違うのに。

 みんな、あの大地に行けば感じるのではないだろうか。遮るもののない、果てしなく広がる壮大な大地。夜空に光る星空は見ていると吸い込まれそうである。この国よりずっと冷たく、澄んだ風が心地よく首筋を撫でる。その大地と草の香りに、すっと解放された感覚に襲われる。

 すべてのものが大きい。そして誰もが、活気にあふれ忙しく働く。

 それを説明しても、きっとわかってはもらえないのだろう。

「鈴……」

 明は喪失感に襲われて、ゆっくりと目を閉じた。えぐられたような胸が痛い。

 あの大地でずっと思い詰めた顔をしていた鈴。長く切望していた故郷のはずが、そこはもはや彼女の優しい故郷ではなくなっていたのだ。故郷は彼女を受け入れなかった。それどころか、牙をむき北の大地よりひどい仕打ちをしたのかもしれない。

 鈴と共に帰ってきたことに、もう後悔はない。自分はここで彩月に仕えて生涯を終えるのだ。だが、どうしても胸に開いた穴だけは埋めることができなかった。

 膝を抱え、冷たい絹の掛け布にそのまま顔を埋めた。そっとお腹に触れてみる。

「アスドラ……」

 小さくその名をつぶやいてみて、もうずいぶん長い間、その愛しい名を呼んでいなかったのだと気づく。

 離れてみて、本当に実感する。

 アスドラの声を聞き、あの勇ましい姿をみて、そしてその肌に触れることができたら。

 たくさん話したいことがある。別れすら言えなかったアスドラ。何より、愛していると伝えたい。恥ずかしくてろくに言ったことはなかったが、今ならはっきりと言える。

 けれどきっと、もし今その姿を見たら、駆け寄ってしがみついて、子供のように泣き叫んでしまうのだろう。

 明は長い間、そのままじっと動かなかった。


どうか、この下の


⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎をちょん、としていただきましたら


大変励みになります。


よろしくお願いします。

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