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8 帰還

「明。よく戻った」

 領地に着き、館に戻ると明はすぐに、直接領主のいる執務室に通された。

 身を清めもせず着替えもせず、皆が早急に明を領主に合わせようとしているのが分かった。領主もまた、何かに急いでいる。

 最後に見たのはずいぶん前になるだろうか。何か苦労があったかのように、白髪は増え急に老けたように思った。

仔細(しさい)は彩月と乳母より聞いた。よくぞ娘を守ってくれた」

「いいえ」

 久しぶりに聞く、少しかすれた、低音の声音。この声を聞くと、身が引き締まる思いがする。主人の温かいねぎらいの言葉に、明はひざまずいたまま、顔も上げずに答えた。

「私はお役目を全うしただけです」

「明。立ちなさい」

 領主が明の手を引いて立たせた。明は驚いてされるままになる。今まで、特にこの領主から触れられることなどまずなかった。

「ご主人様……」

「救い出すのが遅くなって済まなかった。――確実にお前を助けるには、準備にどうしても時間が必要だったのだ」

「そんな……何故わたくしなどのために、あれほどの軍勢をお遣わしになられたのですか」

 ただの奴隷一人、失ったところで放置するのが普通である。

 領主は複雑な笑みを浮かべた。

「明。これからも彩月に尽くしてやってくれるか」

「ご主人様……」

 明はつい目を泳がせ、伏せてしまう。彩月への忠誠は今も変わらずあった。しかし、明にはもうアスドラがいる。自分はやはり、アスドラの元へ帰りたい。

「どうした。何を迷う。――明、かつて私に誓った娘への思いは偽りか」

「いいえ……ですが……」

 明は唇を噛んだ。

 あれから、あまりに時間が経ちすぎている。

「私は、あのとき右腕を無くしました。もうお嬢様お守りすることは出来ません。――それに、私はもう……」

 アスドラの妻になったのだと、言おうとした。しかし、なかなか言い出せない。

 領主にとって、匈奴は忌み嫌う奴隷に均しい存在。たびたび侵略し略奪を繰り替える古来からの敵。その者の元へ帰りたいと言って、許されるとは思えない。

 先を続けられなくなった明の言葉を、領主は言わなくていい、と遮った。再び明の両肩を掴もうとして、右肩に触れるのを躊躇(ためら)い、そして片方の肩にだけ手を置いた。

「蛮族が捕虜をどう扱うのかは想像が付く。そんなことで、自分を卑下することはない」

「い、いいえ!私は――」

「何も言うな」

 違うのだ、そう言いたかったが、領主の強い口調に逆らうことが出来なかった。領主は、何処か追いつめられたような目をしていた。

「とにかく、彩月に会ってやってくれ。あれはもうずっと、あの日から時が止まっているのだ」

「――――え?」

「お前をずっと待っている。もう、お前しかいないのだ。彩月に心を取り戻してやってくれ」

「それは……どういう……」

 言葉の意味を尋ねようとしたが、領主はただ首を振るばかりだった。

 背を押され、部屋を出る。領主はただ硬い顔をして、明の背を押すばかりである。

 懐かしいはずのお屋敷だったが、辺りは火が消えたように静かで暗かった。以前までの華やかな賑わいがどこにもない。庭も心なしか寂しげだった。

 彩月の部屋の前に来て、領主は先に扉を開けて入った。

「彩月、入るよ」

 扉は開けたままにされているので、中の様子は聞こえる。だが明はまだ許しをもらっていないので扉の外でじっと待っていた。

「お父様……?」

 懐かしい、彩月の声だった。久しぶりに聞いて胸が温まる気がする。しかし、次の瞬間その声は低く冷たく変わった。

「何をしに来たのです」

「今日は気分はどうだい」

「相変わらず最悪だわ。それもこれも、みんなお父様のせいよ!どうして明にあんなことを言ったの?明に命を犠牲にしろなんて。死ねと言っているようなものじゃない!」

「彩月……お、落ち着きなさい」

 部屋の中から、何かの壊れる音が聞こえる。彩月が何かを投げているようだ。

 明は驚いてその場に固まった。彩月のこんな声は初めて聞く。恨みに染まった激しい声。

「いつ約束を守るおつもり?明を帰して!!」

「今……いま、守る!明!」

 呼ばれる声とほぼ同時に、明は部屋の中へ駆け言った。

「お嬢様!!」

 叫んで入って、部屋の惨状に呆気にとられる。

 敷物も壁も、調度品の何から何までめちゃくちゃな有様である。壁紙は破れ削れ、敷物は破れその上に様々な物が散乱している。虎でも暴れたのかと思うくらい酷い惨状だった。

 中でもその中心にいた彩月は、髪も結わずぼさぼさで着物も着崩れ、顔は蒼くやせ細っていた。

「お嬢様……」

 何という姿だ。呆然とする明に対し、彩月は驚愕に目を見開き、次いでみるみる顔色を取り戻していった。

「明……まさか、本当に明なの?」

「お嬢様……一体――」

 かろうじてその場に膝をついたのは、長年の習慣だったのかも知れない。そんな明に、彩月は頓着無く力一杯抱きついてきた。

「明!――ああ、なんてこと!無事だったのね。夢みたいだわ!本当に、明なの!?」

「お、お嬢様……」

 彩月は明の顔、頭、体を確かめるように触れていった。

「無事?怪我はない?酷い目に遭わされなかった?」

「お嬢様……く、苦しいです」

 力一杯抱きつかれ、なんとか声を絞り出す。やっと彩月が離れてくれたと思ったら、彩月はぽろぽろと涙を流していた。

「明、許してちょうだい。こんなに汚れて……さぞつらかったでしょう。でも、もう大丈夫。もうどこにもやらないわ」

「お嬢様」

「今度は私が明を守るから。だからもう、何も心配しなくて良いのよ。ああ、明……!」

 なんということだ。

 明は胸をえぐられるような気がした。

 自分がアスドラに愛され、幸せに暮らしていた間も、彩月はずっと苦しんでいたのだ。自分を責め、明の身を案じてくれていたのだ。

「お嬢様……お嬢様、申し訳ありません」

「いやだ、どうして明が謝るの」

「お側を離れて、申し訳ありませんでした」

 明は、知らず涙を流していた。

 自分はなんと身勝手だったのだろうか。彩月の時間は、文字通りあの瞬間からずっと止まっていたのだ。

 彩月は明の涙を拭い、次いで汚れた明の身体を確かめるように触れた。

「明、どうしたの?けがをしているの?どうして私の手を握ってくれないの?私のこと、怒っているの?」

 明は必死で首を振った。

「申し訳ありませんお嬢様。――明は不調法で、利き腕をなくしてしまったのです」

 彩月はまた顔を青くした。しかしすぐに怒りに身体を震わせる。

「おのれ、忌まわしき蛮族……!私の明になんたる仕打ちを」

「お嬢様」

 一族への罵りを聞くに堪えず、明は残った手で彩月の手を握り返した。

「もう、二度とお側を離れないとお約束します。どうかもう一度、明を仕えさせてください」

 彩月はかつてのように柔らかで無邪気な笑みを浮かべた。

 そしてはっきりと、父親に向かって告げたのだった。

「お父様、明は私の侍女にします。これほど私に仕えてくれる物を、奴隷になんてしておけないわ」

「――ああ、初めからそのつもりだよ」

 ずっとそばで二人を見ていた父親は、ほっと胸をなで下ろしたような声音で言った。

「明、もうあなたを離さないわ」

 彩月に抱きつかれ、明はゆっくりとその細い背に手を回した。

 ゆっくりと目を閉じる。

心温まる安らぎと、身が焼けるほどの愛を感じたあの大地に別れを告げるために。

ごめんなさい、アスドラ。私はもう、帰れない……。


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