7 出奔
厳しい冬を身を寄せ合うようにして過ごし、明はますますアスドラの妻として仕事をこなせるようになっていた。
細やかかつ厳しい創意工夫の女達の指導のたまものである。まだ相変わらず出来ないことも多いが、とりあえず春になっても独り立ちできるほどには仕事を覚えた。
明の成長ぶりは集落の中でもちょっとした驚きのようで、誰もが明をほめてくれた。今まであまりほめられることのなかった明にとって、それはこそばゆいようでとても幸せな瞬間だった。
しかし襲撃は、突然やってくる。
その日は朝から少しおかしな一日だった。いつもいる鳥の鳴き声がしない。
日が中天にさしかかった頃、地平線の向こうに黒い影が見えた。
「襲撃だー!」
誰かが叫ぶ。辺りが一瞬にして悲鳴に包まれた。
明は遠くに目をこらした。よく見えないが、遠くに土煙が上がっているのは分かる。十や二十じゃない。優に百は超える騎馬がこちらへむかっているのだ。
「襲撃……?」
匈奴討伐の、趙の軍団だろうか。だが、今の趙にこんな辺境の地まで軍隊を派遣する力はないと、以前明の主人が言っていたはずである。趙は隣接する韓や魏などの諸侯へ兵力を割く為、北方の対策がおろそかになっている、と。確かに今は農閑期で秋の収穫の余裕はあるが、あれほどの人員をここまで派遣する余裕があったのだろうか。
背筋が凍った。今まで幸せだった生活が、一瞬にして崩されるのかという恐怖。
「メイ!」
突如名を呼ばれ、明は振り返った。
そこには馬に乗ったアスドラが、帯剣し弓矢を抱えて今にも駆け出そうとしていた。
「アスドラ!」
明は急いで駆け寄った。
「メイ、家畜をまとめていろ。すぐに戻る」
見れば周囲の男達も素早く準備して馬上に上がっていた。怒濤のように緊張が走り抜ける。
「ア、アスドラ……」
なんと言っていいか分からず、明は名を呼ぶことしかできない。そんな明にアスドラはいつもの笑顔を向けた。
「案ずるな、すぐ戻る」
「アスドラっ、気をつけて……!」
明の声は聞こえたのかどうか。アスドラの馬は主人を乗せ、瞬く間に多くの仲間と駆けていってしまった。
その後ろ姿を見送って、明は呆然と立ちすくむしかなかった。
狩りに出かけるというアスドラを見送るのでさえ、怪我をしないかと不安だった。まさか、こんな形で突然戦が始まるとは思ってもいなかったのである。
「メイ、ぼさっとしてちゃいけないよ、家畜を囲うんだ。それが済んだら怪我人を迎える用意をするよ!――この様子じゃ、家はたたんだ方がいいだろうね」
それは、負けるかもしれないという意味である。
遊牧の民に完全な敗北はない。形勢が不利になれば、家畜共々どこまでも後退すればいいだけの話だ。土地を持たない分、奪われるものも少ない。
明は慌てて出発の準備をするため、自分の家へ戻った。
片腕では出来ることも少ないけれど、出来ることだけでもしなくては。
家畜が取り乱して逃げ出す前に、柵で囲う。荷物も整理しにかかった。
「――明」
そっと、背後から呼ばれる。物静かな、消えるような声である。明はきょろきょろとして、その声の主を捜した。
「誰?」
天幕の影から、そっと人影が現れる。
「――鈴!」
バヤルの奴隷である。青ざめた顔で、それでも辺りを窺いながら明に近づいてきた。がっしりと両肩をつかまれたかと思うと、痛みに悲鳴を上げる間もなく鈴は言った。
「逃げるわよ」
「え?」
一瞬、後退の準備のことかと思った。だが、鈴が言った逃げる方向というのは、それとは逆方向のことだった。
「ようやく解放されるのよ。さあ……行きましょう」
「え?ちょっ、鈴……っ?」
無理矢理引っ張って行かれそうになって、明は慌てて踏みとどまった。
やせ細った腕にどうしてそんな力があるのか、鈴の手が明の腕に食い込む。明は必死でその手に自分の手を重ねた。
「どういう事ですか?鈴、一体どうしたの?」
「これまでの、蛮族との苦難の日々も今日で終わりよ」
鈴は引きつった笑いを浮かべていた。病んだ者のようなその暗い表情に、少しどきりとしてしまう。
「――何を言っているの」
「貴方も趙人でしょう?趙へ帰るのよ」
「帰るって……」
「ずっと待っていたのよ、この時を。あの軍団へ助けを求めるのよ。きっと保護してくれるわ。さあ!」
「待って……待ってください、鈴!私は」
帰るつもりはない、と言おうとして、明は鈴の腕を見てぎょっとする。白く細い腕に、無数の赤い筋。何かで強く殴られた後である。しかも昨日今日に付けられた傷ではない。はっとして、明は鈴を見つめた。
「鈴……バヤルは?」
「あの野蛮人なら戦に行ったわ。死んでしまえばいいけれど、そううまくいくとは限らないもの。だから逃げるのよ。――さあ、行きましょう」
一人で行ってくれ、と言いたかった。だが、一人で軍勢までたどり着けるだろうか。
「鈴、馬には乗れますか?」
「騎馬なんて、そんな野蛮なこと出来るわけないでしょう」
鈴はすぐに嫌な顔をした。明は思わず溜め息をもらす。
「でも、しなくては逃げられない。走ってあそこまで行けますか?ここには馬車なんてないんですから」
「……………」
鈴は心から悔しそうに唇を噛んだ。
だめだ。この人は、自分が付いていなければ逃げることなど出来ない。
明の脳裏に先日の一件がよぎった。ここを抜け出さなければ、鈴はずっとああやって虐げられる。
明は集落を一回り見渡した。
どうしたらいい。鈴を送って、また戻って来れるだろうか。
「嫌よ、いや!」
鈴は両手で頭を抱えて、叫びながら座り込んでしまった。半狂乱になって、涙目になって叫んでいる。苦難の日々からやっと逃れられると思っていたところを、また絶望の淵に落とされたのだ。無理もない。
「またあの男の元に戻るの?それだけは嫌。今まで、きっと戻れると思って生きてきたのに……もう死んだ方がましだわ!」
「鈴……」
やっぱりだめだ。放ってはおけない。
明はぎゅっと目を閉じ、大きく深呼吸をすると、息を飲み込んだ。頭を抱える鈴の両手を取り、力強い瞳で見つめ返す。
「鈴。私が馬に乗せる。一緒に行きましょう」
まだ最速でとまではいかないが、片手でも何とか落馬せず駆けることは出来るようになった。鈴を乗せても多分大丈夫だろう。
「馬に……貴方が?」
明は力強く頷いた。
明はもう一度辺りを見渡した。せめて家をたたんでしまいたかったが、それも出来ない。気を利かせてくれた誰かが手伝いに来てくれることを祈るしかない。
明は鈴に気づかれないほど微かに頭を下げた。
――アスドラ、ごめん。きっと戻るから。
上着を取って、片方に袖を通す。
「こっちです。行きましょう」
鈴は何度も頷いて明に従った。
形勢は完全に不利だった。圧倒的な数の差で、奇襲の軍団にかなうはずがない。次第に押され始めるアスドラの軍は、それでも時間を稼ごうと敵を攪乱しながら戦っていた。
「アスドラ!」
敵味方の区別が付きにくくなるほど激しい砂煙の中、アスドラは刀を振り回していた。味方の声がして、その手を止める。隙を見て突き出される敵の剣を躱し、次の瞬間には力強い一降りで相手の手を切り落としていた。
匈奴の兵は基本的には弓を使った騎兵の戦闘だが、強固な堅守の陣営を敷きながらじりじりと近づいてくる大軍に、遠方からの射撃だけでは攪乱することも難しい。
「何だ!」
近づいてきたのは、いつもの狩り仲間。臨機応変に戦闘を繰り広げる匈奴の兵だが、その場での指示は自然とアスドラが出すことが多い。
「奴ら、本気でかかってきてないぞ!」
「そんなことは分かっている。くそっ、馬鹿にしているのか!」
「そうじゃない!」
また別の方からの声。バヤルの声だった。バヤルは族長との連絡を取っていた。何か指示が出たのかと、皆が耳を傾ける。
「族長に使者が届いたそうだ。アスドラ!これは趙兵じゃない、ただの貴族の私兵だ!」
「何……?」
戦線から少し離れて呼吸を整える。アスドラはまだ無傷だったが、バヤルの肩に血が付いているのが見える。
「お前、手傷を」
「大事ない。――それより、族長からの伝言だ。使者の要求はメイだと」
「――何?」
アスドラの眉間に深いしわが寄る。
「どういう事だ?」
「メイを渡すなら軍を引く。渡さないなら集落全てを殺し尽くす、と。族長はお前に判断を任せると言っている」
「馬鹿な!メイだと?」
混乱するアスドラの腕を、正気に戻すようにがしりとバヤルが掴んだ。
「よく考えろ。アスドラ、一族の命がかかっている」
「渡せるものか。メイはもう一族の一人だ。俺の妻だぞ!」
「だが、メイがあちらへ行かぬ限り、この軍はどこまでも追ってくるぞ。目的が我々だからだ」
「何が何でも、メイはやれぬ。そもそも趙人の要求など、のめるものか!」
「アスドラ!」
アスドラは勢いよくバヤルの腕を振り払った。あまりに激しく振り払い、大きく息が乱れる。いや、息が乱れたのは底知れぬ怒りのせいだったのかも知れない。
アスドラはバヤルを睨み付けた。
「それ以上言うなよ。如何にお前であろうとも、メイを売るなどと言ってみろ。俺はお前を許さぬ」
「アスドラ……」
バヤルは黙った。黙ったが、非難のまなざしは隠そうともしなかった。首を振って、考え直せとアスドラに訴える。
それを振り切るように、アスドラは思い切り馬の腹を蹴った。馬が駆け出す。アスドラは剣を振り上げ、戦線に向かっていった。
たった十数人の兵で、百人近くの大軍を相手にするつもりか。
皆も覚悟を決めなくてはならなかった。族長がアスドラに判断を任せると言っている以上、アスドラが渡さないと言ったら戦うしかない。しかし……。
「おい、あれ……」
「どういう事だ――」
アスドラが集団に追いつく前に、波が退いていくように戦況が一変した。一同には動揺が走る。
趙人の軍から、鬨の声が上がったのである。同時に、退却を知らせる銅鑼の音。
瞬く間に、一糸乱れぬ統率で整列されていく、退却の列。後軍には幾重にも盾を張り巡らされ、おいそれと襲うことも出来ない。何より、襲ってこないものをあえて攻撃する必要もない。
「何故退く……」
独り言のつもりだったが、いつの間にか隣に来ていたバヤルも解せぬ声で呟いた。
「あちらの要求はたった一つ。まさか……」
「まさか、まさか何だ!」
アスドラはバヤルに怒鳴ってから、あり得ない、と何度も呟いた。
「メイは後方の集落にいるのだぞ。どうしてあちらへ行くことができる」
「アスドラ!」
呆然とするアスドラに、激しく蹄を鳴り響かせてドゥルジが駆け寄ってくる。傷は負っていないが、弓を使い果たしたらしく丸腰だった。いつもの余裕は、流石にない。
視線は退却する軍から逸らさないまま、アスドラの横に馬を寄せる。
「仲間が見たと言っている。メイが、メイとリンが、馬に乗って敵陣へ単騎駆けてゆくのを」
「リン?――くそっ、あの女っ」
バヤルが苦々しげに膝を打つのとは対照的に、アスドラは放心してゆっくりと首を振った。
「馬鹿な。メイが自から敵陣へ駆けたとでも言うのか?あり得ぬ。それは見間違いだ」
「だが、軍が退いた。アスドラ、二人はここを去ったんだ」
「嘘だ!」
駆け出しそうなアスドラを、バヤルは慌てて押しとどめた。無理に手綱を奪い、馬が暴れ出しそうになるのを何とか止める。
「馬鹿野郎、敵は退却しているんだ、手を出すな!」
「放せ、メイを連れ戻す!放せ!」
「気が狂ったかアスドラ!たかが女一人のために、一族全てを殺すつもりか!」
「放せバヤル、放さぬとただでは済まぬぞ。バヤル……っ」
「メイも趙人だ。奪ってきた女だ。結局は彼女も帰りたかったのだ!」
「そんなことはない。放せっ!」
周囲の人間全てによってアスドラは押さえられていた。ドゥルジがバヤルに視線を送った。バヤルが舌打ち一つと共に、アスドラの首筋を刀の柄で殴りつけた。
アスドラはその場で意識を失った。
一方その頃明は、一軍の中にあって落ち着きなく辺りを見渡していた。
馬車の中である。中には大将であると名乗った見知らぬ男と、共に逃れてきた鈴が乗っている。
鈴は心底安心したように、揺れる馬車の上で上着を借り水を飲んでいた。
「あの……」
恐る恐る、明は男に声を掛けた。
なんと言ったらいいのか分からない。降ろしてくれと言って降ろしてくれそうな雰囲気でもなかった。アスドラの元に帰りたいなどと言ったら、殺されてしまうのだろうか。
男は視線を明に向けると、生真面目な表情を崩さないまま何か、と尋ねた。
「あ、あっさりと退却するんですね」
聞きたいこととは違う事を聞いてしまう。
実直そうないかにも武人といった雰囲気の大将は丁寧な態度を崩さなかった。
「目的は達しました。――これは国の軍ではありません。黄家の私軍です」
「黄家……彩月様の!?」
意外な名前に、明は思わず腰を浮かした。将軍は軽く頷く。
「元より、匈奴に軍を向けるは無意味。奴らはどこまでも後退してゆき、決して殲滅することなど出来ない。此度の目的は貴方だ」
「――私……?」
「我が主直々の下命により、私兵百五十を率いて目的の集落を襲った。貴方を救うために。まさか貴方の方からやってくるとは思わなかったが」
明もまさか軍の隅に到着しただけで、こうも素早く馬車に乗せられてしまうとは思わなかった。話をする間もなく抱きかかえられるようにして二人は馬車に乗せられ、瞬く間に退却を始めてしまったのである。
「どうして……ご主人様が、わざわざ」
「彩月様がお待ちです。詳しいことは私の口からは」
彩月の名をきいて、明ははっと身を起こした。
「彩月様は……彩月様はお元気なのでしょうか」
「お元気といえば、お元気」
引っかかるものの言い方に、明は怪訝な表情を隠さなかった。その表情を見ても、大将は何と言っていいのか迷っている様子だ。
「お体の方は……問題ござらぬ。後は自分の目で確かめよ。儂の口からは言えぬ」
何度も言い淀んで、それだけ言っただけだった。
どうしよう。
すぐに戻るはずが、戻れなくなってしまった。
彩月のことは気になるが、このままではアスドラにひどく心配を掛けてしまう。
明はどうすることも出来ず、馬車が領地へ着くまで落ち着きなく過ごした。