6 同郷人
そしてまた、数日が経った頃。雪もちらつくようになってきた。そろそろ本格的に冬になりそうだ。
「今帰った、メイ?」
「あ、はい!お帰りなさい」
手元に熱中しすぎて、アスドラが帰ったことに気づかなかった。明は慌てて作業を止めてアスドラに駆け寄った。
「またそれか」
「だって、何度やってもうまくいかないから」
言っているのは、明が七日くらい前から挑戦している洋服の縫い物だった。
刺繍や繕い物などはなんとか固定して出来るようになったが、縫い物はどうも片手ではうまくいかない。上着を作ろうとしても穴だらけになったり、今まで失敗した数は十や二十ではない。
「無理をすることはない」
「これだけは、絶対出来るようになりたいんです」
言いながら、明はアスドラの上着を取って部屋の隅に掛け、爐へ寄って火を強めにして鍋を温めた。今日はまた新作の料理である。一族の女達に休みなく料理を教わり、今では明の得意料理は両手の指の数を超えた。
器用に片手で料理をして盛りつける姿は、とても不自由を感じさせない。火を熾すだけで四苦八苦していた頃が嘘のようだ。
「何をそんなにこだわっているんだ。別に服が縫えなくても方法はあるだろう」
「気持ちの問題です」
食事をしながら、アスドラは分からない、と首を振った。
「針で余す所ないほどに指を刺しておきながら、よく諦めないものだな」
失礼な、そこまで刺してはない。確かに日に何度も出血はしているが。
もうやめておけと言われそうで、明は渋々といった感じで言った。
「――目標なんです」
「目標?」
「違いますね。夢です」
「服作りがか?かわった夢だな」
笑われて、むっとなって明はアスドラを見た。
「おかしいですか?そうでしょうとも。アスドラには分かりませんよね」
「そりゃあ、言わねば分からん」
「ここに来て、裁縫を教わってからの夢なんです」
「だから何がだ」
「――子供が出来たら、私の刺繍で、私が服を作ってやりたいって」
照れくさくて、食器を片付けるふりをして背を向ける。
「そりゃあ、ここの人たちは皆そうなんでしょうけど、趙では違います。服や布は呉服屋から購入して、ここまで一からは作らない。――だから、いいなと思ったんです。自分で育てた家畜から、機を織って、刺繍して、縫って。暖かいじゃないですか。うらやましくって」
背後に気配を感じ、振り返ろうとした瞬間、強く後ろから抱きすくめられた。左手を取られ、指にそっと口づけされる。
「アスド……」
「生まれる前からそれほど思われていれば、なんと幸せだろうな」
そのまま、くるりと体を回されあっという間に床に押し倒される形になる。
何という早業だ。
「ちょっ、アスドラ!?」
「だが、服を作る前に子を作らねば。メイ、夢が妄想になる前に実行するぞ」
「妄っ……」
なんて失礼だ。抗議する間もなく、まとめていた髪留めをほどかれ、髪に唇を落とされる。そのまま、頬をそっと包まれる。アスドラの顔が近づき、その黒い髪がぱらりと頬にかかった。それが心地いい、と思った時には、もう唇が重なっていた。
熱いアスドラの唇は、いつも力強く明の力を抜いていく。ひどく安心できる瞬間だった。
「アスドラ……片付けをしてからじゃないと」
「明日すればいい」
「そんな事言って……乾いたら取れないんですよ」
「一眠りしたら俺がやる。すぐやる」
「アスドラ……この前もそう言って、朝まで寝て……」
結局自分がやったのだと言おうとして、また唇をふさがれる。
見つめる茶色の瞳が、余裕なく吸い込まれそうに見つめてくる。そこまでされると、明に拒むことなど出来なかった。
火の側とは言え寒い冬の夜に、お互いの体温だけが、とても熱かった。
「明日の夜なんだが……」
ひとしきり終わってから、夢うつつに明はアスドラの声を聞いた。
「宴会がある」
「んー」
眠くて、それでもアスドラの声は心地よかった。寝台の上でアスドラの腕に頭を預けながら、身を寄せ合って眠る。筋肉質の腕がとても好きだった。アスドラも明の肌に触れて感触を楽しんでいるようだった。この時間がとても幸せだ。暖かくて気持ちいい。
「晩――いらないんですか」
「いや、うちでする。よく一緒に狩りに行く仲間三人とだ」
「宴会って、何したらいいのか……」
「軽いつまみと酒があればそれでいい。獲物は狩ってくる」
「分かりました。明日、おばさんたちにきいてみます……」
眠くてあまり考えられなかった。
そんな明をくすりと笑って、アスドラはまた頭に唇を寄せた。
ああ、このまま朝までやっぱり寝てしまうんだろうな、とうとうとしながら思い、明は眠りに落ちていった。
翌日は朝から大忙しである。
おばさんに宴会の準備を聞きに行った途端、することを山ほど聞かされた。目を回す明に皆が何品も手伝って作ってくれた。
本当にこの集落の人たちは温かかった。明は外を歩くだけで何かと声を掛けられるようになっていた。何か困っていないか、どこへ行こうとしているのかと。
明が必死で妻としての仕事を覚えようとしているのを見て、自然と周囲の人間も明を受け入れたのである。
少し前に、義兄のドゥルジが突然尋ねてきたことがあった。
手みやげに毛皮の上着を持ってきてくれた。これから寒くなるから、身体をこわさないように、と。アスドラが居なかったのでどうもてなして良いのか分からず慌てる明に、ドゥルジは笑って、良いから座るように、と言った。
「アスドラは私と違って、本当に自由奔放に甘やかされて育てられた。あれの妻は気苦労が絶えないだろう」
とんでもない、と明は首を振った。ドゥルジはアスドラとは対照的に、穏やかでゆっくりと喋る。
「何か困ったことがあれば、すぐに言いなさい。アスドラに不満がある時も。私がよくよく言い聞かせてあげよう」
そっと触れる手は、非常に温かかった。匈奴の人々は触れあうことで挨拶を交わすことが多いが、ドゥルジのそれは中でも特に心地よい。
「いえ、そんな」
恐縮して固くなる明に、ドゥルジはまた人を暖かくする笑顔を向けた。
「家族が増えて、本当に喜んでいるんだ。また私たちの家にも来てくれ。妻に美味しい物を作らせよう」
そう言って去っていたドゥルジは、約束通り自分の家に呼んでくれた。ドゥルジにはすでに十になる娘と五つの息子がいて、明にとっては姪と甥になる。人懐っこくてすぐに膝に乗ってきた。明はすっかり家族に打ちとける事が出来た。
見れば集落の中でアスドラは若者の頭角のようだった。アスドラより年上の者はいるが、概ねアスドラには丁寧な態度を取る。年齢の序列は非常に大切だが、アスドラの弓や剣の腕が一族で最も秀でているからだ、と誰かが言っていた。
匈奴では若く、力のある物が重んじられるという。やはり力の強さが生存に直結するからだろうか。土地をめぐり草を食べさせることができなければ家畜は飢え、人も飢える。大地を得る力が重要で、趙のように序列や血筋はそれほど重要ではないようだった。
宴会の用意が何とか終わって酒も集まった頃、アスドラがぞろぞろと若い仲間を連れてきた。三人連れてくると聞いていたが、実際には六人いた。皆が夫婦で訪ねてきているようだった。中にはバヤルという男もいた。バヤルだけが荷物を女に持たせている。
「メイ、支度は間に合ったか」
「はい。お帰りなさい」
少し誇らしく迎えるのへ、アスドラは笑って背中に手を回した。
「皆、これが俺の妻のメイだ。よくしてやってくれ。――メイ、いつも共に狩りに向かう者達。俺に最も近しい者達だ」
「バヤルだ。以前会ったな」
真っ先に自己紹介をしたのはバヤルだった。明は軽く頭を下げた。相変わらず嫌な目をしている男だった。明の右腕をじろじろと見てくる。
「傷はもう良いのか?」
「――はい」
複雑な気分である。バヤルは決して悪かったとは言わない。別に謝って欲しくはないが。
「私はカラ。これは私の妻で、ツェツェグと言う」
「私はバートル。こっちが妻のギルチェだ」
皆妻を紹介するのに、バヤルはしない。明は自然とその女性へ視線をやった。
線の細い女だった。暗い表情で、じっと下を見ている。無表情であるのが、却って気になった。そんな明にバヤルが笑って言った。
「これのことは気にするな。構うこともない。俺の奴隷だ。名はリンと呼んでいるが、養ってやっているというのに、ろくに役に立たない」
顔を見れば分かった。彼女は王国人である。では、子を産むための奴隷とされていると言われているのは彼女なのか。
胸が締め付けられるような気持ちで明はその女性を見た。鈴はすっと明を見上げた。
あなたになら分かるでしょう、この苦しみが。
そう訴えているようだった。
「では、中へ入るか」
アスドラの一言で、一同はぞろぞろとゲルの中へ入った。
すぐに酒宴は始まり、明は忙しくあれこれと動き回ることとなった。ツェツェグとギルチェの二人には以前から知り合っていたので、手伝ってもらって色々と料理や酒を注いで回る。鈴だけはじっとバヤルの側を離れず正座して暗い顔でうつむいていた。
「それにしても……」
誰かがそう言って、明を見た。自然一同の視線が明に集中する。
「よく働く夫人だ。片腕でも不足を感じぬ。――アスドラ、よい妻を得たな」
「ああ」
「あの時の女だろう?あの時は泥にまみれて、まさか磨けばこれほど見栄えのする女になるとは思わなかったな」
「知っていれば、譲らなかったものを」
言ったのはバヤルだった。その台詞に明はぞっとする。思わず目が合うが、背筋が寒くなってすぐ視線を外した。居心地が悪く、アスドラの隣にくっついて座る。
「――ほう。アスドラ、好かれておるな。アスドラの側以外は嫌か」
アスドラは明の肩に手を回した。
「悪いが、譲る気はないぞ」
「アスドラ……」
皆の前でそんなことをされては、恥ずかしい。離れようとするが、アスドラは離してくれなかった。みんなそんな明とアスドラを見て笑っているだけだった。ツェツェグとギルチェも夫の隣に座る。
「どうだ、バヤル。俺たちが羨ましくなったか」
「お前も早く妻を得て親父殿を安心させてやれ」
「またその話か」
バヤルはうんざりした様子で酒をあおった。
「近頃どこへ行ってもその話を聞かされる。俺はまだ身を落ち着ける気はないぞ。――今まではアスドラもいたものを、お前がさっさと妻など持つから俺に火の粉がかかるようになるのだ」
「俺のせいか」
アスドラが苦笑するのへ、バヤルは続けて横の鈴を睨み付けた。
「加えて、お前がさっさと子をなさぬからだ。まったく。――最近気づいたんだがな。趙人は働かぬ事を美徳とする生き物のようだ。俺たちからすれば、働かぬ事こそ恥ずべき事だがな」
「……………」
棘が刺さるようで、居心地が悪かった。そんな明を察して、周囲の人たちが庇ってくれる。
「バヤル、ここにはメイがいるのだ。趙人を侮辱してやるな」
「勘違いしてもらっては困る。俺は趙人を侮辱しているのではない。働かぬ者を忌んでいるのだ」
そう言って鈴を睨み付けた。だが、鈴も少しも動じる気配はない。むしろ、蛮族の戯言よとどこ吹く風のようである。
鈴はもしかしたら良家の子女であるのかも知れない。匈奴に囲われることが、たまらぬ屈辱なのだろう。その目には明らかに周囲の人間への侮蔑の念がこもっている。
「リン。俺の杯が空であるのが見えないのか」
バヤルが鈴に杯を差し出す。鈴は不満そうに側の酒を取った。
明が慌ててそれに代わって注ごうと立ち上がった。
鈴は物憂げに片手で酒瓶を取ると、無造作に、いかにも嫌々といった風でバヤルの杯を満たした。あまりに適当だったため、杯から酒がこぼれ落ちる。
「リン。この粗忽者がっ!」
「きゃっ」
バヤルは急に激怒して杯を鈴に投げつけた。明はぎょっとして立ったまま固まる。
「酒もろくに注げぬのか、役立たずが!」
「酒など……」
濡らされた着物を払いながら、少し乱れた髪を片手で整える。その姿は気品があったが、バヤルを更に逆上させるだけだった。
「ご自分でお注ぎになればよろしいでしょう」
「何っ!」
バヤルが拳を振り上げる。一同がはっとする中、明は思わず二人の間に滑り込んでいた。鈴を後ろに庇い、きっ、とバヤルを睨み上げる。拳は止まらず、そのまま降りかかってくるかに見えた。思わず目を閉じて身を固くするが、拳が振り下ろされることはなかった。
恐る恐る目を開けると、バヤルの腕はアスドラによって捕まれていた。アスドラが素早くバヤルの側まで来て、明を庇ったのである。
「――離せ」
ふっと笑って、バヤルは唇の端を上げて笑った。
「安心しろアスドラ。お前の妻は傷つけぬ」
「すまんな。――メイ」
呼ばれて、アスドラを見る。来い、と目が言っている。だが明はそこを離れたくなかった。離れればバヤルがまた鈴を傷つけるように思ったからだ。
左手で触れる鈴の腕は、驚くほど頼りなく細い。彼女はバヤルに、毎日どんな目に遭わされているのか。
「メイ、来い」
「アスドラ……」
「バヤルの家の事に口を出すな。来い」
強い口調で言われては、逆らえない。明はしぶしぶと鈴の側を離れ、アスドラに近寄った。アスドラは明の体を抱えるようにして元の座っている場所へ腰掛け、明を自分の横に座らせた。
「メイは従順で羨ましいことだな」
バヤルがまた卑屈そうな笑いを浮かべ、鈴を見やる。鈴は少し青い顔をしていたが、そっぽを向いていた。
複雑な心境の明を察してか、アスドラは明の頭に手を置いてバヤルを見た。
「すまんな。メイは知っての通り秋に来たばかりだ。同郷の者を懐かしく思うあまり手を出してしまったのだろう。バヤル、察してくれ」
「構わんさ。俺も逆の立場で同族を庇わぬ奴の方が、薄情者と思う」
そうしてまた飲み直すこととなったが、明はその後ずっと、心ここにあらずだった。鈴のことが気になって、それどころではなかった。
宴会が終わり皆が帰ってから、明は黙って後片付けをしていた。
気持ちよく酔っぱらって横になっているアスドラを尻目に、黙々と片付ける。
「メイ、片付けは明日にしてもう寝たらどうだ」
「……………」
答えない明に、アスドラはまた声を掛ける。
「メイ。俺の声が聞こえなかったか?」
「片付けないと、眠れませんから」
少し棘のある言い方である。アスドラは酒のせいか特に気にする風もなく続けた。
「片付けなど明日すればいい。俺も手伝ってやる。――来い」
「そう言って、今日も私一人で片付けたんです。やってしまいますから先に寝ていてください」
素っ気ない言い方に、アスドラは上体を起こして明を見た。相変わらず目を合わせようとせず、黙って片付けを続けている。
「何を不機嫌になっている」
「不機嫌になど……」
「なっているではないか。――あのリンという女のことか」
明は手を止めた。どうしようもないわだかまりが、苛立ちに変わっていくのを感じた。
「分かっていてどうして……」
「俺たちは、独立した者の家庭には口を出さない。それがたとえ親族であってもだ」
明は珍しく声を荒げた。
「理解できません!どうしてああもつらく当たることが出来るのですか?彼女はバヤルの妻ではないのですか」
「妻ではない」
アスドラは寝台から起きあがると、明の側に寄ってきた。
「あれはバヤルの妻ではない。奴隷だ。いや、奴隷ですらない。彼女は仕事を持たぬ、ただのバヤルの所有物だ。養われ者だ」
「養われている者は、何をされても文句は言えないのですか。――そんなの、あまりに不憫です」
「メイ」
「彼女は望んでここにいる訳じゃないのに」
「俺にどうしろと言う」
宥めるような声は、かえって明を逆上させた。伸ばされた手をぱしりと振り払う。
「私がアスドラの妻にならなければ、私もああなっていたんですね」
「俺を見くびるな!」
語調を強め、アスドラは険しい表情をした。
「妻たるお前が俺を侮辱するか。俺はお前を愛しているから妻に望んだのだ。愛する者を傷つけるものか」
「けれど……アスドラは少しも違和感を覚えない。鈴がバヤルにぶたれるところを見ても、涼しい顔で見過ごす。もしあの場で私が間に入らなければ、黙って鈴が打たれるところを見ていた。その感覚にはついて行けません」
「メイ……」
明は再び片付けを開始した。これ以上、アスドラと会話を続けていたくはなかった。続ければ、お互いの溝をただ深めてしまいそうな気がした。
初めから相容れない部分はあったのだ。アスドラも、この集落の誰もが、趙人に対する深い憎しみを覚えている。決して、その思いをぬぐうことは出来ない。
「メイ」
呼びかけに答えなくなった明にアスドラが優しい声を掛ける。
「バヤルがリンを連れることでお前が故郷を懐かしむことが出来ればと思ったのだが……逆効果だったようだな」
「……………」
それでも黙って食器を片付ける明の、首から肩にかけ、アスドラはゆっくりと宥めるようになでた。明の肌は冷たく、思い詰めている様子が伝わってくるようだ。
「そうだな。同郷の者が打たれて心安らかではおれまい。つらい思いをさせた」
「アスドラ……」
アスドラの手の平から暖かさが伝わってくる。
そうだ。アスドラは確かに厳しく非情なところがあるが、人の気持ちを察することの出来る人なのだ。明が苦しんでいるのを、同じようにつらいと思ってくれている。たとえ憎むべき趙人であっても、明の仲間だからと気遣ってくれる。
そう思い直した途端、いつの間にかアスドラを責めていた自分を明は申し訳なく思った。
非道であるのはバヤルである。嫌悪するべきはバヤルであるのに、いつの間にアスドラをバヤルに重ねていたのだ。
「ごめんなさい……」
明は小さくうつむいて呟いた。
「気遣ってくれて、ありがとうございました」
その言葉が心からのものと感じ、アスドラはすぐに明るい顔になった。力強い顔がにっと笑む。
「機嫌が直ったのなら、さあ、寝るぞ」
「アスドラ、だから片付けを……」
「お前が片付けるのを待っていたら寝てしまう。そら、寝るぞ」
強引に引っ張られ、明は手にしていた食器を諦めるしかなかった。
どうしてアスドラは夜になるとこうも元気になるのだろうか。ちょっとついていけない。
またずるずるといつものように流される明だった。
どうか、この下の
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎をちょん、としていただきましたら
大変励みになります。
よろしくお願いします。