5 遊牧の生活
冬が来た。
一族が集まると聞いて、明は日に日に緊張を募らせた。趙人が匈奴を蔑視しているのと同じく、遊牧の民も趙人を軽蔑している。
アスドラの一族に、家族に。受け入れてもらえるだろうか。
そんな明を知ってか知らずか、アスドラは着々と移動の用意を始めた。
明にとって初めての移動である。
荷物をまとめるのもゲルをたたむのも、明はほとんど役に立てなかった。片腕では全くと言っていいほど力仕事では役立たずで、特にアスドラも何をしろとは言わなかったからだ。
汗をかきながら、一人でゲルをたたみ荷造りするアスドラは野性的で、魅力的だった。簡易式の住居とはいえ、夜明け前から準備して昼過ぎまでかかって小さな荷物にまとめていく。それを小分けにして馬に括り付けていく。明は家畜の世話をする振りをして、じっとアスドラの背中を見ていた。
隆起する筋肉の引き締まった腕を見ては、その腕の中で眠る自分を想像して、勝手に赤くなっている。
これでは変態である。
明は心を落ち着かせようと家畜の世話に専念した。といっても、こちらも餌を配るくらいしか出来ない。
荷物を馬の背に乗せ、アスドラは移動を開始した。荷物を持つ馬は十頭にもなった。馬は昨日のうちに合流する親族に借りに行っていた。明は一人で馬に乗れると言ったが、やはり片腕では思うように動かせなかった。アスドラはそんな明を笑って自分の馬の背に乗せ、その後ろに乗った。
家畜を追いながらの移動はそれを追う犬もいないので細かい操作が必要だ。下手をしたら置いて行かれる。
アスドラの馬は太い足をしていて、二人乗りしても全く重そうにしていなかった。明は背中にアスドラがいる暖かさに、二人乗りの良さを実感した。もちろん、力強い腕に支えられて胸は高鳴るばかりだったが。
明はアスドラに触れているときが一番幸せだった。アスドラもそうだと良いのだが。
数刻で集落に到着した。冬の集落はもう整っていて、アスドラが一番最後の到着だったようだ。
「まあ、アスドラ!」
「あんたが一番最後だよ。――おや?」
恰幅のいい女達に取り囲まれる。アスドラが明をつれていることで、余計に人が集まってきていた。
「何だい?アスドラ、その子は」
「まさか……」
「ああ、俺の妻だ」
馬上からそっと降ろされながら紹介されて、明は緊張しながら深々と頭を下げた。
「明です。よろしくお願いします」
一瞬、場が静まる。異様な空気だった。しかしすぐにまた質問の嵐になった。
「王国人かい?」
「アスドラ、バヤルの射た子というのがこの子かい?」
「趙人を嫁にしたのか?奴隷じゃなくて?酔狂だねえ」
どちらかというと友好的ではない。品定めするような視線だ。
「アスドラは次男だけど、いくらでも嫁の来てはあるだろうに」
「何も王国人の、しかも後ろ盾のない娘をもらわなくてもねえ」
歓迎とはほど遠い、聞こえるような話し声。アスドラは意に介さず話を進めた。
「妻だ。見ての通り趙人で、仕事が分からん。この冬で教えてやってくれ」
「仕事を教える?」
「ああ、メイがそう望んでる」
「この子が!?」
驚きの反応が返ってくる。
「よ、よろしくお願いします。必死で勉強します」
一応挨拶をしてみるが、女達は微妙な顔つきになった。
「この子は本当に趙人かい?」
「趙人だ」
アスドラは早くも荷物を下ろして住居の用意を始めている。家畜は手慣れた少年たちが連れて行った。周囲のゲルに比べると自分たちのゲルはとても小さく簡易的なものだったが、それでも建てるのには時間がかかる。自然と男が集まって作業を始めていた。
明は居場所がなくてただ好奇の視線に晒されるだけだった。
「趙人にしちゃあ、態度が変わってるね」
「趙人は漢人の中でも気位が高い。普通、私らのことをそりゃもう塵か何かのように見るもんだけどね!」
「どっちが汚いんだってんだよ、まったく!」
一同は散々笑い合った後、落ち着いたと思ったらまた口々に話しを始めた。
「それに、嫁にするってアスドラも変わってるねえ。バヤルは言ってたよ。あれは嫁じゃない、ただの道具だ、って。仕事も最低限しか覚えさせやしない。逃げられちゃ困るってさ。身の回りだけだから、ありゃ使用人に毛が生えたもんだ――まあ同じ女としてちょっと同情はするけどね」
「あたしゃしないよ。趙人はもっとひどいことしてんだからさ」
趙人、というところでじろりと睨まれ、明は身を固くする。かなり歓迎されていないようだ。
「あんた、わかってんのかい?あんたの国じゃあ、ご夫人と言やあ座ってお茶飲んでるだけかも知れないけどね。こっちじゃ、妻と言えば旦那を支える為に仕事は山ほどあるんだ」
「は、はい」
「刺繍はしたことあるかい?趙人は不器用だからねえ」
「そういえば、式は挙げないのかい?」
アスドラは聞こえないふりをしているのか、荷ほどきに専念している。返事がないのに諦めて女達は続けた。
「妻はね、家事をするのは当たり前だよ。私らはもっと大事な仕事がある」
「家畜を守るのは妻の仕事だ。狼は来る、狐は来る。夜中でも、家畜が一声でも鳴いたらすぐ起きて見に行くんだ」
アスドラがしていたことだ。あれは明がすることだったのか。
「家畜から採れたものを加工するのも妻の仕事だ。毛から布を、乳から酪を」
「ま、捌くのは旦那にやってもらうけどね」
「あら、私はやるわよ。うちの旦那は頼りないからねえ」
ここでまた一同はひとしきり笑う。明はもうついて行けなかった。
「その心配はない。俺は捌くのは得意だ。狼を狩るのもな。――あと一つ、皆に頼みたいことがある」
支度を終えたアスドラが横に立った。
「メイは右腕が動かん。そこの所、工夫して教えてやってくれ」
「右腕が?どうしたんだい?」
「右肩を射られたんだ。バヤルは毒矢を使うからな」
じっと、右手に視線が集中する。
明は慌てて言った。
「あの、一生懸命がんばります。出来るだけお手数はおかけしないように。といっても、本当に迷惑だとは思いますけど。でも、何かできることを探したいんです。今のままでは、あまりにアスドラに迷惑だから……」
ぽん、と頭に手が置かれる。アスドラの手だ。
「そんなわけで、頼む。よくしてやってくれ。メイはまだここに来て一月経ってない。が、俺たちに溶け込もうと努めている」
女達の顔から険しさがとれた。
「そうかい……」
「アスドラがそこまで言うんだ、面倒見ようじゃないか」
「春まで長いんだ。娘に教えたことと同じ事を教えてあげるよ」
「小さいのに、大変だったね。あんたがそういうつもりなら、あんたはうちらの仲間だ。遠慮はいらないよ」
「あ、ありがとうございます……」
「それじゃ、俺達は親父に挨拶するから」
「ああ、いっといで」
「いつでも私らの作業場においで。色々と教えてあげるよ」
とりあえず友好的に収まった皆の輪を通り抜けて、明はほっと胸をなで下ろしたのだった。
アスドラの親との対面は非常にあっさり終わった。
アスドラに母はもう亡く、白髪の父だけがいた。父親はなかなか腰を落ち着けず諦めかけていたアスドラにやっと嫁が来たと、手を打って喜んでくれた。たまたまその場にいたアスドラの兄という人も、穏やかに歓迎してくれた。アスドラの兄はドゥルジというらしく、アスドラとは似てもにつかない穏やかで物静かな人だった。最後まで名を上手く発音できない明を笑って許してくれた。
次の日から、早速明は女達の集まりに出かけていった。
女達は親切に様々なことを教えてくれた。家事全般についてはほとんど彩月の下働きとして経験していたことなので、右腕のことを工夫さえすれば何とかなった。困ったのが、機織りや刺繍、家畜から得られる産物の加工といった、遊牧民独特の仕事である。
それらはたいてい力仕事や繊細な技術のいるもので、片手の明には悪戦苦闘の日々だった。中でも刺繍は、それぞれの一族に伝わる柄があるらしく、覚えるのだけでも一苦労。それを実際にやるのは並大抵のことではなかった。遊牧民の女にとって、刺繍は生活の一部。物心着いたときから、母に習って始める。暇さえあれば刺繍をして、将来はその刺繍の布一式と身につけた技術を持って嫁に行くのだ。女達は会話に集中しているように見えてぶすぶすと針を刺し、瞬く間に手元に図柄ができあがっていく。花、鷹、太陽、木々……柄の種類はそれこそ無限にあり、趙にはない鮮やかさと派手さに明はただただ目を奪われるばかりだった。それを自分ができる日が来るとは到底思えない。
決して投げ出さず泣き言を言わないで努力を続ければ、明は次第に一族にとけ込んでいった。若い女性の少ないこの集落ではどちらかというとちやほやされるほどだ。
明は、一族の人が「流石アスドラはいい嫁を見つけた」という度、誇らしくて嬉しくなるのだった。ただ必死で日々の仕事をこなしていった。
牧民の朝は早い。早朝、日の出より少し早く起き出す。
ますます凍るように冷えてくる外の空気は、靄がかかってとても澄んでいる。明は朝の空気を胸一杯に吸うのがとても好きだった。ひんやりと胸が冷たくなる。
露に濡れた草を踏みしめ、羊を飼っている幕屋を見に行く。獣に荒らされていないのを確認して、数を数えながら外に出す。牝だけを出して乳を搾るのだ。片手でも器用に乳が搾れるようになったのは、最近になってようやくだった。
牝の乳を搾り終えてから、牝とその子供を引き合わせる。子供が必死で母親の乳を飲むのを見て、明も朝ご飯の支度に取りかかる。
アスドラが起き出す前に、火を熾して部屋を暖めておく。お湯を作って目覚めの一杯の用意をし、朝食ができた頃、アスドラはやっともぞもぞと動き出した。
「アスドラ。おはようございます」
側まで行って、顔をのぞき込もうとして。
「きゃっ」
力強い腕に、無理矢理布団の中に抱え込まれる。暖かい布団の中で冷え切った体ごと、ぎゅっと力強く抱きしめられると、愛されているのだと実感して頬が熱くなる。
「アスドラ」
「冷たいな……」
「起きてください、ご飯できましたよ」
「んー、もう少し、こうしていたいが」
そう言って暖かな頬をすり寄せてくる。明の体の冷たさを堪能しているようだ。
「アスドラ。冷めます」
「それは、困る。せっかく働き者の明が作ってくれたからな――」
軽く口付けして、やっとアスドラは動き出す。火の側で暖めておいたアスドラの服を渡す。それを着終わったのを見て、白湯を渡した。
アスドラはそれを受け取って、ゆっくりと飲み干した。
アスドラの、寝起きのこの瞬間の顔が好きだ。ほっとして、無防備で、幸せそうで。
「羊は大丈夫だったか」
「はい。皆居ました。今は子供達が食事中です」
「そうか。昨日は少し雨が降ったから、良い草を食べさせてやれそうだ」
良い草を食べることが、良い乳を取ることにつながる。良い乳がとれる羊は高値で売ることができる。いまはまだ雪で覆われていないので、夏の間に乾燥させておいた牧草をやる手間もなかった。
匈奴の民はたいていの物は自分たちで作り出すことができるが、買わなければ手に入らない布、金属、道具、食料はアスドラが買い出しに行ってきてくれる。買い出しに行く先は遠いが、そうして得られる物は貴重だった。
羊は牡と牝に分けて草を食べさせに行く。明はまだうまく羊を追えないので、アスドラが午前と午後に分けて羊に草を食べさせに出かけていく。一族の他の物とも協力する。良い草の見分け方もまだよく分からなかった。
羊は追えなくても、明には仕事は山ほどあった。
羊を囲う柵や馬具の点検、修理、薪集めなどはアスドラがしてくれる。明は留守を預かる間に、掃除、食事の支度はもちろん、鶏の世話と、忙しい。特に食事の支度は、起きている時間の半分を費やすほどだ。時間の合間をみて、布を使って壁掛けや服から小物まで作るが、片手のせいか不器用なのか、他の女のように見事な刺繍はまだ作れない。だが、多少縫い目の雑な明の服も、アスドラは本当に嬉しそうに着てくれる。それが嬉しくて明はせっせと刺繍を習いに女達の所へ出かけていくのだった。刺繍をしながら話に花を咲かせるのも楽しかった。
「今日の飯はうまいな」
「そうですか?良かった」
「日ごとに腕を上げているな。他の奴らが羨ましがっている」
「それはアスドラがほめるからでしょう。私を良いと思う人なんて、アスドラくらいです」
片手で、なかなか手早く家事をこなせない。ここの生活では、手際よく仕事をこなせる女が最も評価が高いのだと最近思う。
「そんなことはない。メイは細かい所にまで気を遣ってくれる。朝暖かく目覚められる。俺は幸せ者だ」
明は照れたように笑った。
「アスドラの幸せそうな顔が見たくて、やっているんです。他の人相手にはできません」
空いた器に白湯を注ごうとして、アスドラの腕に阻まれる。間髪を入れず、アスドラが力強く抱きついてきた。
「アスドラ?」
「愛している、メイ。俺もお前の幸せそうな顔が見たい」
「私は幸せです、アスドラ」
「それなら良いが。――無理はするなよ」
「はい」
朝早くからそんなやりとりがあるが、それも毎朝のことだった。
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